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勇気をもってエホバに仕えるために,ヨシュア記から助けを得てくださいものみの塔 1984 | 9月15日
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勇気をもってエホバに仕えるために,ヨシュア記から助けを得てください
「世にあってあなた方には患難がありますが,勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」。この言葉がイエスという名の人物の語ったものであることはお分かりかもしれません。もっとも,ヘブライ語を話す人であれば,ヨシュアという名前が思い浮かぶことでしょう。なぜなら,ヘブライ語のヨシュアという名前をギリシャ語ではイエスと言うからです。―ヨハネ 16:33。
適切なことに,イエスの先祖である,ヌンの子ヨシュアが記した聖書の書を貫く主要な考えも勇気を出すということです。しかし,どうすればヨシュアの書から個人的に益が得られるだろうかと思われるかもしれません。では,まず,勇気を出すという考えのことから始めましょう。
勇気の人
モーセが生涯の終わりに近づいた時,エホバはその後継者としてヨシュアを選ばれました。明らかにヨシュアは,信者になって間もない人でも,試されていない若者でもありませんでした。エジプトの奴隷として生まれましたが,エジプト脱出後,理由もなく攻めて来たアマレク人を撃退した時に勇ましい指導者として有名になりました。(出エジプト記 17:8-16)ヨシュアは別の時にもその勇敢さと信仰を立証しました。カナンの地の様子を探るために遣わされた12人の男子のうち,エホバの助けがあれば不道徳なカナン人を征服して約束の地を取ることができる,と恐れずに報告したのはヨシュアとカレブだけでした。―民数記 13:1-14:9。
約束の地に入ることを許されなかったので,モーセはヨシュアに次のように言いました。「勇気を出し,強くありなさい。あなたがこの民を,父祖たちに与えることをエホバが誓われたその土地に携え入れるからである。あなたがそれを相続地として彼らに得させるのである」― 申命記 31:7,23。
ヨシュアの書から,ヨシュアがどれほど強い勇気を持っていたか,またどうすればわたしたちも勇気を出せるかということが学べると考えてよい理由がこれでお分かりになったことでしょう。事実,「勇気」および「強い」という言葉が一つの聖句の中に一緒に出てくる箇所の半分あまりはヨシュアの書の中かヨシュアについて言及したくだりの中にあります。例えば,その書を読み始めると,エホバがヨシュアにお与えになった次のような助言が目に留まります。「勇気を出し,大いに強くありなさい。注意して,わたしの僕モーセがあなたに命じたすべての律法のとおりに行なうためである。それから右にも左にもそれてはいけない。どこに行ってもあなたが賢く行動するためである」。(ヨシュア 1:7)ヨシュアが,外面的な行動の点で勇気を持っていただけでなく,内面的な信仰の点でも勇気を持っていたことが示されている幾つかの例に注目しましょう。そうすれば,そのことから個人的にどんな教訓が学べるか分かります。
勇気ある信仰と行動
「勇気を出し,大いに強くありなさい」とエホバから激励されるや,ヨシュアはヨルダンを渡ってカナンの地に入るようイスラエルを導く準備に取りかかります。こう命令しました。「あなた方のために食糧を整えるように。三日後にあなた方はこのヨルダンを渡って行き,あなた方の神エホバが与えて取得させてくださる土地に入ってそれを取得することになるからである」。(ヨシュア 1:11)勇気ある信仰を持っていたヨシュアは,このように,エホバが何もかも行なってくださるのを自分たちは手をこまねいて待っていればよい,と考えるようなことをしませんでした。自ら努力することが必要でした。わたしたちの場合も同様です。ふさわしい衣食を得るのを神が助けてくださるということに信頼を置くようにとのイエスの助言に従うには,信仰と勇気が要ります。しかし,そうした助けが約束されているからといって,自活のために何もせずただ手をこまねいていればよいというわけではありません。―マタイ 6:25-33。
ヨシュアがさっそく直面した問題は,増水して渡るのが非常に危険な春の時期にヨルダン川を歩いて渡るということでした。(ヨシュア 5:10)ヨシュアは,『水かさが減る真夏まで待つほうが良いかもしれない』とは考えませんでした。神は,行動せよと言われましたから,ヨシュアは勇気をもってそのように行ないました。ここにどんな教訓があるかお分かりでしょうか。真の崇拝に関係した事柄を行なう段になったら,事態が一層順調で都合よく思えてくるまで延ばす傾向を示すのではなく,勇気をもって行動することが必要です。そうです,ヨシュアのように行動するのです。―伝道の書 11:4。ヤコブ 4:13,14。
神はご自分がヨシュアと共にいることを示し,祭司に契約の箱を担がせて増水した川のところまで行かせるようヨシュアにお命じになります。祭司たちが川に足を踏み入れた途端,川の水は分かれました。それで,イスラエルの人々は乾いた陸地を行くかのように渡ることができました。ヨシュアは,そのことをいかなる人間の功績にもせず,エホバの指示に従って,川床から取った石で造った記念物を(西岸の安全な)ギルガルに建てました。その記念物は,『エホバをいつも恐れるため,エホバのみ手の強いこと』を強調するための物でした。(ヨシュア 3:5-4:24)わたしたちは石でできたその記念物を直接見ることができないとはいえ,エホバがヨシュアを通して行なわれた事柄から,ご自分の民のために行動する神の能力に対する確信は強まるはずです。カナンの地の要害堅固な都市エリコに立ち向かったイスラエルの人々にとって,その記念物は確かに重要な意味を持つことになっていました。
ヨシュアは,恐れを知らない軍司令官だったので,イスラエル人の指揮を執って,城壁をめぐらしたその都市に対して総攻撃を仕掛けたでしょうか。ご存じかもしれませんが,ヨシュアはそうする代わりに,神の指示に従いました。何を行なうようにという指示でしょうか。武装した兵士たちとそれに続く祭司たちがその都市の周りを毎日声を立てずに行進することが命じられたのです。祭司のうち,ある者は雄羊の角笛を吹き,ある者は契約の箱を担ぐことになっていました。七日目に,その一団は7回行進し,それから『祭司たちが角笛を吹き始め,民が叫び声を上げるや,すぐに[エリコの]城壁は崩れ落ちていきました』。そこで,ヨシュアの兵士たちは突撃してその都市を滅びのためにささげることができました。完全な勝利を得たのです!―ヨシュア 6:20。
勇気をもって断固たる態度を執りながらも,道理をわきまえる
次に起きた二つの出来事では,ヨシュアの勇気の別の面を理解することができます。最初の出来事は近隣のアイという都市に関連したものです。その都市に攻め上ったイスラエル人は,敗走させられてしまいました。なぜだったのでしょうか。神の命令に反して,アカンがエリコの分捕り物を幾らか盗んだからです。アカンが盗んだ品物は有用であり,それを盗んだからといってだれにも害にならないように見えるという理由で,アカンのしたことを大目に見る人もいることでしょう。雇用者の物品をちょっと盗むことや,他の“ささいな”悪行について同じように論じられているのを聞いたことがあるかもしれません。ヨシュアはどのように反応したでしょうか。
ヨシュアは神の助けを得てその悪行者をえり分け,盗んだ品を探し出して悪事が確かになされたことを証明しました。きっとそれらの物品は全く取るに足らない物に思えたことでしょう! しかし,ヨシュアは事件の核心をつかみ,アカンにこう言いました。「どうしてあなたはわたしたちをのけ者にならせたのですか。今日この日にエホバがあなたをのけ者にならせるのです」。(ヨシュア 7:25)ヨシュアは,断固たる態度で義を守り,罪を犯したその者を処刑させ,アイ征服への道を開きました。アカンの事件に対するヨシュアの取り扱い方を思いに留めて,わたしたちは次のように考えることができるでしょう。『職場の同僚,あるいは学校の友達が不法な行為や不道徳な行為を軽く見る時,自分は同じように断固たる態度を執るだろうか』。
次に,二つ目の出来事を取り上げましょう。それは,カナンに住んでいたギベオン人にまつわる出来事でした。ヨシュアがエリコとアイを攻略したことを聞いたギベオン人は一計を案じました。遠い国から来た,イスラエルと和平の契約を結ぶことを願う旅人を装った男たちを派遣して,その契約を結ばせたのです。ところが,その男たちは実は近くのギベオンから来た者であることが明るみに出,多くのイスラエル人は,物事がそのように取り扱われたことに対してつぶやき始めます。ヨシュアはその策略にかっとなり,ギベオンを滅ぼせとの命令を下すでしょうか。
契約は既に結ばれており,ヨシュアはそれを尊重します。そして,今後は神の家のための水をくみ薪を集めるという仕事を割り当てるという指示をギベオン人に与えます。ギベオン人はその取り決めを尊ぶことに同意します。また,その後間もなく起きた出来事から,ヨシュアもその取り決めを尊重する気持ちでいたことが明らかになります。というのは,その地域のカナン人の王5人が同盟を結んで,ギベオンに向かって進撃したのです。ヨシュアはただちに行動を起こし,夜通し行軍して,その同盟軍を攻撃しました。エホバの援助があって,カナン人の軍隊の上に致命的な雹が降り,次いで奇跡的に太陽が一日の間静止したので,イスラエル人は敵を完全に敗走させることができました。神の原則に反することのない事柄に関して契約を結んだり約束をしたりする場合,わたしたちはギベオン人のことを思い起こし,ヨシュアのように断固とした態度で勇気を示すでしょうか。難しいことや不都合なことでも,約束を守るでしょうか。―詩編 15:4。
意味深いことに,上に述べた戦いが終わって,敵の5人の王を処刑することになった時,ヨシュアは民を次のように激励しました。「恐れたり,おびえたりしてはいけない。勇気を持ち,強くあれ。あなた方が戦っているすべての敵に対してエホバはこのように行なわれるからである」。(ヨシュア 10:25)強くあり,勇気を持っていれば,イスラエル人は有利な立場に立つことができるでしょう。イスラエル人は神が命ぜられた征服を成し遂げるべく,まず南に突き進み,次いで北へ攻め上ったのです。そこでもハツォルの王がイスラエルに敵対する恐るべき同盟を結成していました。要害堅固な都市と装備の整った戦車を持つカナン人に比べて技術の面で遅れを取っていましたが,イスラエル人たちは勇気をもってエホバのご意志を遂行しました。
ヨシュア記から得られる他の教訓
これまでのところでは特に,ヨシュアの書に見いだせる,ヨシュアの勇気に関係した教訓に注目してきました。しかし,この書全体を読むと,ほかにも有益な教訓が得られるかもしれません。
例えば,エリコの様子を探りにやって来た二人のイスラエル人をかくまったラハブの態度に深い感銘を受けている婦人は少なくありません。神がイスラエル人のために目ざましいことを数々行なわれたのを聞いて,大抵のカナン人は守勢に回り,恐れつつイスラエルに対抗しました。しかしラハブはそうではありませんでした。ラハブは,自分の民族を敵に回すこと,そしてエホバの愛ある親切を受けるために自らの命を危険にさらすことをいといませんでした。また,命を保護してもらうためにしなければならない事柄を学ぶよう親族を助けるために自分にできる限りのこともしました。自分の隣人,ひいては自分の国との結びつきよりも真の崇拝が大切であることを悟るよう今日の婦人たちを助ける上で,この記録は確かに役立つでしょう。―ヨシュア 2:8-14。
ヨシュア記からは,他の人の動機を誤解しないことについての良い教訓も学べます。カナンをほぼ征服して,ヨシュアが各部族に相続地を割り当てた時のことです。二つ半の部族の人々はヨルダンの東の所有地へ戻ろうとしていました。その人たちは戻って行って,祭壇を築きました。他の部族はその祭壇が意味するものについて,はやまった判断を下しました。部族間に争いが起きそうな気配になりました。ヨシュア 22章の記述を読む時,他の人の行動の動機を悪く解釈しないよう気をつけるという教訓に注目してください。さらに,ほかの人から無視されたとか失敬なことをされたと感じた時,どうするのが良いかということにも注目しましょう。
ヨシュアの書を概観するとき,神の言葉に基づく真の崇拝について学び,それをあくまでも守ることに強調が置かれていることも見落とすわけにはいきません。エホバは,ご自分の言葉を定期的に読んでそれから離れてはならないとヨシュアに助言されました。(ヨシュア 1:8)アイで勝利を収めた後,ヨシュアは,北のシェケムという地域,すなわちエバル山とゲリジム山にはさまれた地域に民全体を導きました。犠牲をささげるための祭壇をそこに築き,『モーセの律法の写しを石の上に記し』ました。(ヨシュア 8:32)さらにヨシュアは,人々に律法を読んで聞かせました。『モーセが命じたすべての事柄のうち,ヨシュアがイスラエルの全会衆,および女や幼い者たち,また彼らのうちを歩む外人居留者たちの前で朗読しなかったものは一言もありませんでした』― ヨシュア 8:35。
その後,自分の相続地として慎みをもって求めた町でしばらく暮らしてから,ヨシュアは人々を再び集めて,次のように言いました。「わたしは年老いました。老齢に達しました。ですがあなた方は,あなた方の神エホバがあなた方のゆえにこれらのすべての国民に対して行なわれたすべての事柄を見ました。あなた方の神エホバがあなた方のために戦っておられたからです」。次いで人々を激励し,「あなた方は大いに勇気を持ち,モーセの律法の書に記されているすべての事柄を守り行なわなければなりません。それから右にも左にもそれてはならず,……ただあなた方の神エホバに固く付くべきです」と言いました。そうするための励ましとして,次のことを人々に思い起こさせました。『あなた方は知っているはずです。すなわち,あなた方の神エホバの話されたすべての良い言葉は,その一言といえ果たされなかったものはありません。それはすべてそのとおりになりました』― ヨシュア 23:2-8,14。
最後に,ヨシュアは再びイスラエルの民を呼び集め,別れの訓戒を述べ,「あなた方が仕える者を今日自分で選びなさい。しかし,わたしとわたしの家の者とはエホバに仕えます」と,民に懇願しました。イスラエルの民が自分たちも間違いなくエホバ神に仕えると言うと,ヨシュアは民と契約を結びました。神が書き記された記録は,「これらの事の後,エホバの僕であるヌンの子ヨシュアは百十歳で死んでいった」と述べています。エホバのこの忠節な崇拝者からは,確かに,「エホバを恐れ,とがなく,真実をもってこの方に仕え(る)」わたしたちも同様に勇気を出し,強くあるための力強い励ましが得られます。―ヨシュア 24:14,15,29。
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読者からの質問ものみの塔 1984 | 9月15日
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読者からの質問
■ ヘブライ 3章1節から6節には,「家」に関連してモーセとイエスとエホバ神のことが述べられていますが,この「家」は何を意味していますか。
基本的に言って,使徒パウロは,神の民,つまり会衆を指して「家」と呼んでいました。
ヘブライ 3章1節から6節にはこう書かれています。「そのようなわけで,聖なる兄弟たち,天の召しにあずかる人たちよ,わたしたちが信仰を告白する使徒また大祭司,イエスを思い見なさい。彼は自分をそのようにした方に対して忠実でした。モーセもまたその方の家全体にあって忠実であったのと同じです。家を造る者がその家よりも誉れを受けるからには,その方はモーセ以上の栄光に値するとみなされるからです。言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です。そして,モーセは従者として,その方の家全体にあって忠実であり,後に語られる事柄の証しとなりましたが,キリストはその方の家の上に立つ子として忠実でした。はばかりのないことばと希望にかかわる誇りとを終わりまでしっかりと堅く保つなら,わたしたちはその方の家となるのです」。
これより前にパウロは,神のみ子であるイエスがみ使いたちよりも優れた名を受け継いだことについて述べていました。この使徒はまた,神がみ使いたちを通してモーセにお伝えになった律法の言葉が注意を受けるに値するのであれば,み子によって語られた言葉はそれ以上の注意を受けるに値するという点をも指摘しました。(ヘブライ 1:1-4; 2:1-4)次いで,ヘブライ 3章の中でも,パウロは引き続きイエスの優越性を強調しています。
背景として思い起こしたいのは,ミリアムとアロンがイスラエルにおけるモーセの主立った役割について不満を述べた後に,神がモーセを,『わたしの全家を託されている(「において忠実である」,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳),わたしの僕』と呼ばれたことです。(民数記 12:7)大祭司であったアロンは幕屋に(それも至聖所まで)出入りすることができたので,モーセが僕となっているご自身の「家」と言われたとき,神はイスラエルの国民,つまり会衆を指しておられたに違いありません。パウロはヘブライ 3章2節の中で,このことに暗に言及していたものと思われます。パウロは,ちょうどモーセが「その方の家全体にあって」忠実であったのと同じように,イエスも神に対して忠実であった,と述べました。しかしパウロは次に,イエス「はモーセ以上の栄光に値するとみなされる」と書きました。なぜでしょうか。
パウロは,「家を造る者がその家よりも誉れを受ける」と論じています。文字通りの家を建てたことのある人なら,だれでもこの点に同意するでしょう。それでパウロは次のようなことを言っていたことになります。すなわち,神のみ子であるイエスがモーセよりも誉れを受けるに値するのは,モーセが家を建てなかったのに対し,イエスは家を建てたからである,と。言うまでもなく,パウロはすべての物事に対する究極的な誉れは神に帰せられることを認めていました。―ヘブライ 3:3,4。
論議の筋道を拡大して,パウロはモーセが『その家にあって[忠実な]従者』であった,と述べています。(ヘブライ 3:5)そうです,モーセ自身,イスラエルの会衆,すなわち「家」にあった,つまりその一部だったのです。では,後に来ることになっていた方,すなわちモーセが予影し,予告していたメシアなる預言者のほうはどうでしょうか。(申命記 18:18,19。ヨハネ 1:21,25。使徒 3:22,23)その預言者はイスラエルの家における忠実な従者以上の者となるでしょう。パウロは,キリストが「その方[つまりエホバ神]の家の上に立つ子」である,と書きました。イスラエルの家の上に立つのでしょうか。いいえ,パウロはもっと大きなものを念頭に置いていました。
モーセが律法契約にしたがって「家」の中で仕えたのに対し,エホバは「新しい契約」のもとでのより良い取り決めについて約束しておられました。(ヘブライ 8:7-13。エレミヤ 31:31-34)新しい契約は,霊的イスラエルの家,つまり国民と結ばれるものです。(ガラテア 6:16)ですからパウロは,「はばかりのないことば……を……堅く保つなら,わたしたちはその方の家となるのです」と述べているわけです。―ヘブライ 3:6。テモテ第一 3:15; ペテロ第一 2:5; マタイ 16:18と比較してください。
ですから,モーセが仕えていた「家」はイスラエルの肉の会衆でしたが,イエスが建て,上に立って奉仕している「家」は,「希望……を終わりまでしっかりと」保つ霊的イスラエルの会衆です。―ヘブライ 3:6。
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