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神のことばから勇気を得るものみの塔 1963 | 12月15日
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もあろう。また,わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう」。(ルカ 21:12-17,新口)しかしそういう予想も,神を信頼する者を落胆させることはできません。なぜですか。
15 役人から迫害される時,聖書はどのようにクリスチャンが勇気を保つ助けになりますか。
15 彼らは聖書から勇気を得るのです。聖書は彼らが物事を正しい関係において見ることを助け,次のことを保証しています。「エホバは地球のはるか上にすわり地にすむものを蝗のごとく視たまふ,おほそらを薄絹のごとく布き,これを住まふべき幕屋のごとくはりままふ。またもろもろの君をなくならしめ地の審士をむなしくせしむ」。(イザヤ 40:22,23)ですから,ある支配者は真の崇拝を禁止するかも知れず,真の崇拝を他の宗教の者に伝道することは法律に反する,と言うかも知れません。また,クリスチャンの両親が神の律法を破らないので,彼らの子供たちに強制的に輸血をするかも知れず,両親が公正な扱いを懇請してもそれに耳をかさないかも知れません。しかしエホバ神は違った見方をされます。エホバは,行なわれていることを見のがされることがありません。ですから,権威を乱用する人々の正しくない決定をくつがえして,この世から不適任者と断定された人々を,神は選んで新しい世で永遠に住む者とされるでしょう。それは彼らが神に望みをおいたからです。
神のことばを聞く
16 神のことばを研究するとき,勇気をもつ理由を見出すのはどんな人ですか。
16 そうなると,神のことばに耳を傾けることがすべての人の義務であることはいうまでもありません。もし私たちが神の戒めを聞かないなら,神が私たちの行いを是認してくださるのを期待することはできません。神はまた,口では神への愛をとなえながら,心は遠く神から離れている人を喜ばれません。そういう種類の人々が勇気を得られる理由を聖書は示していません。神のことばを読んで勇気を出す理由を見出す人とは,次のように書いた詩篇記者と同じ態度をもつ人です。「エホバよ願くはなんぢの律法のみちを我にをしへ給へ,われ終にいたるまでこれをまもらん。われに智慧をあたへたまへ,さらば我なんぢの法をまもり心をつくしてこれにしたがはん。われに汝のいましめの道をふましめたまへ,われその道をたのしめばなり」。(詩 119:33-35)このように,神への愛,神の義への愛に心を動かされる人々こそ,勇気を出す確かな理由をもつ人々です。彼らは反対に直面して勇敢なばかりでなく,神の定められた高い道徳の標準に合うように,自分の生活を改めることにおいても勇気があります。
17 道徳上の清さを保つにはどんな面で勇気がいりますか。
17 そのことをするには勇気がいります。というのは,悪い交りを避けるように注意しても,やはり不道徳な人々と接触することがあるからです。それは自分が勤めているところの雇主かも知れず,隣人かも知れず,学校のクラスメートかも知れません。みんなと同じ行動をとらないということは,やさしいことではありません。しかしイエスは,わたしの弟子はこの世のものではない,と言われました。(ヨハネ 17:11-14)ですから彼らは警戒を怠ってはならないのです。セックス狂のこの世が提供する悪い本やみだらな娯楽で心を養って,かりそめにもその警戒を解くようなことがあってはなりません。彼らは悪への憎しみと,正しい事への愛を勇敢に示さねばならないのです。エホバの戒めを喜び,それらをいつも熟考して,この世の不道徳に陥らないように自分自身を強くしましょう。そして,「すべてのものは,神の目には裸であり,あらわにされているのである。この神に対して,わたしたちは言い開きをしなくてはならない」という事実が,正しいことをしようという決意をいっそう強くすることを,いつも心に留めていましょう。―ヘブル 4:13,新口。
18 不正直な商業行為に対してクリスチャンはどんな方針をとるべきですか。
18 悪いことをしてはいけないという観念をある程度もちながら,自分が神に申し開きをせねばならない,ということをさほど鋭く意識していない人々も,もちろんいます。そういう人たちは,自分が道徳的に正しいと考える生活をします。けれども,高い道徳の標準に従えば不利な立場に置かれる,と思われる時は,往々にして,正しい事を行なう勇気がありません。たとえば,利益ばかり追う同業者の不正なやりかたで自分の経済の安定がおびやかされると,その事態に対処する方法は,いやでも彼らと同じ手を使う以外にない,と考えるかもしれません。あるいは,雇主がお客と不正直な取引をすることを要求するのなら仕方がない,と思うかも知れません。しかし真のクリスチャンの場合は違います。真のクリスチャンは,世間の悪い行いに負けません。また,不正なことをしている人をうらやましくも思いません。そして神を恐れたダビデと同じことを信じています。「義人のもてる物のすくなきは多くの悪しきものの豊なるにまされり。そは悪しきものの臂はをらるれどエホバは義しきものを扶け持へたまへばなり。エホバは完全者のもろもろの日をしりたまふ,かれらの嗣業はかぎりなく久しからん」。(詩 37:16-18; 119:36)神に強い信仰をもっているので,彼らには勇気があります。食べる物,飲む物,着る物のことを心配しておくびょうになることはありません。神の国と神の義を求めつづけるなら,他のものもエホバ神が与えてくださることを知っているのです。彼らは神のことばから勇気を得るのです。―詩 37:1-4,27,34。マタイ 6:31-33。
19,20 神のことばに関する知識は,死の危険に直面した時でさえ,どのようにクリスチャンをして妥協せずに信仰を保たせますか。
19 この記録されたことばは,人々を束縛している迷信的で無知な恐怖をはぎ取ることができます。人はその頁から生命の起源と,死というものの意味を学ぶことができます。しかしなんと多くの人が,神のことばに耳を傾けず,死と将来の生命について神が言われていることを知らないために,悪魔が言ったような人になっているのでしょう。悪魔は神にこう言いました。「皮をもて皮に換ふるなれば人はその一切の所有物をもて己の生命に換ふべし。されど今汝の手を伸べて彼の骨と肉とを撃ち給へ,さらば必ず汝の面にむかひて汝をのろはん」。(ヨブ 2:4,5)ヨブはそのような人ではありませんでした。多くの人はそうです。命のためなら何でも与えます。死をまぬがれるためなら,善行も,正直も,明らかな良心も放棄します。権力者をなだめるためには,自分の嫌いなイデオロギーを支持すると言ったり,自分の意志に反して悪いことを行なったりして,偽りの生活をすることをいといません。彼らは死を恐れるために,一生を通じてどれいの状態にいます。―ヘブル 2:15。
20 けれども,神の御言葉の正確な知識をもつ人たちは,そのような恐怖の生活をしません。彼らが仕える神は命の源であられます。彼らはその神の言葉を聞きました。彼らは神が墓から救い出す準備を設けられたことを知っています。また,死から復活させるという神の御約束を信頼しています。ですから,たとえ死ぬことがあっても神に対する忠実を証明します。(コリント後 4:13,14。黙示 2:10)神のことばの知識が彼らを勇敢にするのです。その,知識は恥ずべき死に直面して忠実を保つ力をイエスに与えました。また彼を死罪に定めようとしていた法廷で,妥協することなく真理を語る勇気をステパノに与えました。その知識はこの20世紀においても同じく,真の崇拝をしっかり支持するように,多数のクリスチャンのエホバの証者に勇気を与えました。―ヘブル 12:2。使徒行伝 7章。
21 すべての人に危険がのぞんでいるこの時代にあって,クリスチャンに勇気をもたせるものは何ですか。
21 戦争,食糧不足,恐ろしい地震,野蛮な犯罪などの脅威に直面する時,人をして勇敢に行動させるのも,その同じ神のことばです。こうしたことはみな,今日世界中にはびこっています。そして,他の人々の生活に影響をおよぼすと同じく,クリスチャンの生活にも影響してきます。戦時にはクリスチャンもまた侵略者によって家から追い出されるかも知れません。地震で持物を失うかも知れません。食糧は配給制になり,犯罪がはびこるためにいっそうの注意が必要になるかも知れません。それでもクリスチャンの見方は,周囲の人々のそれと違います。彼らは聖書の知識によって強くされているので,イエスのことばのとおりにすることができます。「これらの事が起りはじめたら,身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから」。(ルカ 21:28,新口)クリスチャンは,これらの事の中に,悪い古い世の終りが近づいている証拠,また神の正義の新しい世が近づいている証拠を認めるのです。この知識は,すべてのクリスチャンが同様に受ける苦難に立ち向う勇気を彼らに与えるばかりでなく,神の御国の勇敢な支持者として発言する勇気を与えます。
22 エホバの民は,彼らと神との関係についてどんな確信をもつことができますか。またどのようにすればこの確信を保てますか。
22 神のことばを守ったためにクリスチャンは神が自分たちを保護してくださることを知っています。また,祈りによって神に願い求めることができ,神もそれを聞いてくださることを知っています。(詩 145:18)神は,羊飼が自分の群れの世話をするように,愛をもって彼らを見守られます。どんな事態に直面しようとも,神のことばに耳を傾けてその愛ある助言に応える限り,『キリスト・イエスにおける神の愛から私たちを引き離せる』ものは何もないことを彼らは確信しています。(ロマ 8:31-39)ですからクリスチャンは賢明にも,毎日神のことばを研究し,その教訓を熟考することにより,神のことばで心を養いつづけます。彼らは信仰をもってそのことを行なうので「勇気をもってこういう」ことができます。「『エホバは私の助け主,私は恐れない。人は私に何をすることができるか』」。―ヘブル 13:6,新口。
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勇気をもって耐え忍び神に奉仕するものみの塔 1963 | 12月15日
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勇気をもって耐え忍び神に奉仕する
1,2 聖書にしるされた信仰の人々の生涯の記録からどのように益を得ることができますか。
神の偉大さを知らせ,神のみこころを熟知させて,私たちに勇気を与えるほかに,聖書はもう一つの方法で,神のみこころを行なうための勇気を私たちに与えます。それはどんな方法ですか。信仰の人々の生活の記録によってです。したがって聖書は,神がそのしもべたちに要求される事柄を示すだけでなく,神を恐れた人々がどのようにして神に嘉せられたか,その実際の例をあげています。そのため,彼らが私たちと同じような問題にぶつかった時どうしたか,エホバがどのように彼らを祝福されたかを知ることができます。この方法で私たちは,神への奉仕にたじろぐことなく,勇敢に行動するように勇気づけられるでしょう。
2 使徒パウロは,この励ましの源に言及して次のように書いています。「わたしたちは,このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから,いっさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか」。(ヘブル 12:1,2,新口)ですから私たちは,キリスト教時代以前のこの雲のごとき多くの証人や,イエス・キリストおよび初期クリスチャンたちの生活を聖書で読み,彼らの模範から個人的に益を得,励まされて,私たちの参加すべき競争を勇敢に続行しようではありませんか。
3 エホバがしもべとしてお用いになる人はどんな人ですか。
3 ところが,多くの人は,神に奉仕する責仕があるのを知ると,その競争に参加するのをためらいます。たぶんその人たちは,私はふさわしくない,と思うのかも知れ
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