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  • 『雄々しくありなさい』
    ものみの塔 1983 | 1月1日
    • ました。こたえ応ずる気持ちを持ったこれらの人たちは聖書的に定められた段階を踏み,神であり,わたしたちの主イエス・キリストの父であられる方と和解するようになり,現在では神との平和を得ています。これらの人々は感謝のうちに,「キリストの代理をする大使」の残りの者の仲間として行動し,羊のようなさらにほかの人たちに神と和解するようにとの訴えを差し伸べる点において,『キリストの代理をする公使』ともみなすことができます。これらの人々は,婦人も男子も,男らしい,勇気ある方法で,『証しのために人の住む全地で王国のこの良いたより』を宣べ伝えるため,出掛けてゆきます。(マタイ 24:14。啓示 7:9-17)詩編 68編11節が予告していた通りです。「エホバご自身がみことばを与えてくださる。良いたよりを告げる女は大軍をなしている」。

  • 恐れずにハルマゲドンに立ち向かう雄々しい者でありなさい
    ものみの塔 1983 | 1月1日
    • 恐れずにハルマゲドンに立ち向かう雄々しい者でありなさい

      1 セオドア・ルーズベルトは,ハルマゲドンに言及した際,どのように物事の定め方を間違えましたか。

      セオドア・ルーズベルトは,アメリカの大統領の選挙戦に際して「我々はハルマゲドンに立っており,我々は主のために戦う」と語ったと言われています。ルーズベルトは聖書から,「ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所」において,決戦が行なわれることを知っていたのです。(啓示 16:16)ルーズベルトは1919年1月6日,すなわち第一次世界大戦が終結してから2か月足らずのうちに亡くなったので,その物事の定め方は,実際よりもかなり早かったことになります。その大戦は,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」に突入するものとはなりませんでした。

      2 すべての戦争の中で最大のその戦争に生き残るかどうかは,その時の何に左右されますか。

      2 しかし,1982年という動乱の年には,わたしたちがすべての戦争の中でも最大のその戦争に直面していることを示すあらゆる証拠が見られました。その戦争の際に全能者なる神との関係がどんなものになっているかということは,わたしたちがその戦争,その戦闘に生き残るか否かを大きく左右するものとなるでしょう。

      3,4 その戦争に際してこれらのクリスチャンが取る立場を考えると,彼らは『雄々しくある』ために何を示す必要がありますか。

      3 ハルマゲドンにおける戦争のために,全能者なるエホバ神に敵対して世の支配者たちを集合させるのは,実際には,目に見えない「悪霊の霊感による表現」です。―啓示 16:14-16。

      4 ハルマゲドンというヘブライ語の名称は,「軍隊の集結の山」を意味します。それは戦争を表わします。その「軍隊」はキリスト教世界の政治支配者たちを含め,「人の住む全地の王たち」の軍隊です。献身しバプテスマを受けたエホバの証人たちはその軍隊には加わりません。彼らには,肉的な武器を持って戦う必要はなく,その戦いの傍観者となるにすぎません。エホバの忠節な証人たちは,キリストによるエホバの王国を堅く支持するゆえに攻撃の主要な見える目標となるので,彼らの側には『雄々しくある』ためにキリストのような勇気が求められます。―コリント第一 16:13。歴代第二 20:17と比較してください。

      5,6 第一次世界大戦の終わりに,生き残ったエホバの民の残りの者は,自分たちの前に置かれた戦後の業を見て,生きてエルサレムの滅びに直面したどの預言者と同じように感じましたか。

      5 第一次世界大戦が1918年に終結した後,霊的イスラエル人の残りの者の状況と彼らの前途にあった業は,動乱のさ中にあった中東の一人の若者のそれとよく似ていました。その若者とは,ヒルキヤの子でエレミヤという名のユダヤ人の祭司です。エレミヤはエルサレムの神殿で祭司として奉仕していましたが,そのエルサレムという都市はエレミヤの生きているうちに滅びる定めにありました。神の恵みを受けていた古代イスラエルの霊的対型,また古代イスラエルに代わるものであると主張するキリスト教世界も,同じようにハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」の直前,早い滅びに直面します。西暦前7世紀のエルサレムの滅びを生き残った者としてエレミヤは,霊感のもとにエルサレムの荒廃について哀歌の書を書くことができました。

      6 若いエレミヤの前に預言的な業が置かれた時,エレミヤはこう言いました。「ああ,主権者なる主エホバよ! わたしは一体どのように話したらよいのか,それさえ分かりません。わたしは少年にすぎないからです」。しかしエレミヤはこのように告げられました。「『わたしは少年にすぎない』と言ってはならない。かえって,あなたはわたしが遣わすすべての者たちのところへ行かなければならない。わたしがあなたに命ずることをみな話すべきである。彼らの顔のために恐れてはならない。『わたしはあなたと共にいて,あなたを救い出す』からである,とエホバはお告げになる」― エレミヤ 1:4-8。

      7 (イ)エレミヤは,どれほど多くの人々に対する預言者として奉仕することになっていましたか。また今日,「預言者」はどれほど多くの人々のために奉仕する必要がありますか。(ロ)この預言者がこの程度まで奉仕するということは,彼が諸国民に関して成功を収めるという意味ですか。それとも,だれのために今なお思いやりが示されていますか。

      7 エレミヤは,十分に成長した男としての分を果たすことになっていました。エレミヤの神がエレミヤに霊感を与えて書かせた事柄は,今日においてさえ全人類にとって重要なことだったからです。エホバは,エレミヤを「諸国民への預言者」とならせたのです。(エレミヤ 1:5)愛国的で片意地な諸国家が,ハルマゲドンにおけるすべてを決する最後的段階に容赦なく集められているため,今の時代にもやはり「諸国民への預言者」のいる必要があるのです。それは,神から与えられた,「諸国民への[現代における]預言者」の音信が,確実な滅びに至る歩みから諸国民を首尾よく引き戻せるからではなく,個々の人々が関係しているからです。警告を与えられているこうした無数の人々は,自分たちが市民となっている諸国民と共に滅んでしまいたいとは思いません。これらの人々がその滅びに関してできることと言えば,人間の自治だけを支持して全能者なる神に敵対して戦っているところを見られるようなことのないよう願うことです。このような義に傾く心を持った人々のために,エホバは思いやりを示し,ご自分の「諸国民への預言者」をお立てになったのです。エホバはこれを,この「終わりの時」,第一次世界大戦の終わった1918年11月11日以降に行なってこられました。―ダニエル 12:4。

      8 エホバが起こされた,またハルマゲドン前にその業を終えなければならない「預言者」はだれ,また何であることが明らかにされていますか。

      8 人間の支配ではなく神の支配を心から求める人々のためにエホバが起こされた「預言者」は,エレミヤの場合のような一個人ではなく,一つの級でした。この級の成員は預言者また祭司であったエレミヤのように,キリストを通してエホバ神に全く献身した人々で,エホバの聖霊によって生み出されたことにより,「選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民」の一部とされました。(ペテロ第一 2:9)終わりの近い今の時代に,この「預言者」級でまだ地上にいるのは残りの者だけです。ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」は,この複合の「預言者」がその業を終えるまでは始まりません。

      9 (イ)エホバの古代の民の首都に対するどの世界強国の勝利を,エレミヤは目撃しましたか。(ロ)どの古代都市がキリスト教世界を表わしていますか。(ハ)キリスト教世界は何の一部となりましたか。(ニ)大いなるバビロンが滅ぼされる時,キリスト教世界はどうなりますか。なぜですか。

      9 今,一つのことは確かです。「預言者」級つまりエレミヤ級がハルマゲドンに直面しているのであれば,この級は大いなるバビロンの倒壊にも直面しているということです。なるほど,古代のエレミヤは古代バビロンの倒壊を目撃しませんでしたが,聖書歴史上の第三世界強国が覆されることについては大規模に預言しました。「エホバに敵対する力ある狩人」ニムロデによって設立された当初のバベルあるいはバビロンに源を発するこの世界帝国は,古代の人類世界に偽りの宗教を吹き込みました。(創世記 10:8-12)エレミヤは西暦前607年のエルサレムに対する古代バビロンの勝利を確かに目撃しました。こうしてエレミヤは,エホバの神殿が存在していた首都,それでいてエホバからゆだねられた清い宗教を腐敗させた首都に対し,偽りの宗教の古代の首都が収めた勝利を目撃したのです。この理由で,古代エルサレムは現代のキリスト教世界を表わしています。キリスト教世界は,真のキリスト教の領域であるという自らの主張に背いてバビロン的な宗教のえじきとなり,実のところ,偽りの宗教の世界帝国である現代の大いなるバビロンの顕著な部分となっています。啓示 17章と18章に予告されているように,愛想を尽かしたこの世の政治分子によって大いなるバビロンが滅ぼされる時,キリスト教世界はそれと共に滅びに至ります。

      10 エレミヤがエルサレムの倒壊に生き残ったことは何を予表しましたか。その予表されていたことが生じたすぐあとに,諸国家が払うどんな努力は失敗しますか。

      10 エレミヤは西暦前607年のエルサレムおよびその領域の倒壊に生き残りましたが,このことはエレミヤがエホバの真の代弁者であったことを確証しました。そしてその預言的な描写にたがわず,今日のエレミヤ級は近づきつつあるキリスト教世界の激しい倒壊に生き残ります。その後間もなく,この事物の体制の非宗教的な分子は,エレミヤ級の存在をまっ殺しようと猛烈に力を傾けますが,そのような彼らの努力はハルマゲドンにおいて水のあわとなってしまいます。―啓示 16:16; 19:19-21。

      11 エレミヤがエルサレムで困難な状況にあった時,その味方となって助けを与えた非ユダヤ人はだれを予表していましたか。それらの人々は,マタイ 25章31-46節のイエスのたとえ話のだれに相当しますか。

      11 西暦前607年のエルサレムの滅びに生き残った一人の非ユダヤ人は,エチオピア人のエベド・メレクです。この人物に関する記述は,エレミヤ書 38章と39章に見られます。エベド・メレクは,極めて困難な状況にあったエレミヤの救助に赴いたので,エレミヤの口をふさごうとエレミヤの死を求めていた影響力の強いそれらのユダヤ人たちを恐れたとしても当然でした。ところが,エベド・メレクが勇敢な行動を取って命を救おうとしたその預言者を通して語られた特別な預言により,エホバはエベド・メレクが自分の魂を分捕り物として得,ユダの地とその首都エルサレムに臨む来たるべき滅びに生き残るという保証をお与えになりました。これらの点において,エチオピア人エベド・メレクは,マタイ 25章31節から46節に記されている,羊とやぎに関するイエスのたとえ話の中の象徴的な羊を予表していました。この「終わりの時」にイエス・キリストの霊的「兄弟たち」の残りの者の味方となり,彼らに直接的な善を行なうため,これらの象徴的な羊は,ハルマゲドンにおいて「やぎ」級と共に切り断たれることはありません。統治する王イエス・キリストによるエホバの保護のもとで,彼らは地上で死ぬことなく,新しい事物の体制に入ります。彼らには,前途に置かれた地上の楽園での永遠の命を得る見込みがあるのです。

      神に属する人々が今必要としているもの

      12 わたしたちの時代の恐ろしさは,「終わりの時」に関するイエス・キリストのどんな預言と符合しますか。

      12 現在わたしたちが生きている時代は,ますます恐れをかきたてるものになっています。これは,わたしたちが「終わりの時」に生きていることの証拠になるとイエス・キリストご自身が予告された事柄の確かな成就です。その「終わりの時」は,西暦70年のエルサレムの滅びの現代的な対型が生ずる時です。(ルカ 21:5-7)西暦1世紀の使徒や弟子たちというより,今日のわたしたちに益を与えるため,イエスはさらに次のように言われました。「また,太陽と月と星にしるしがあり,地上では,海のとどろきとその動揺のゆえに逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう。同時に人々[ギリシャ語,アンスローポイ]は,人の住む地に臨もうとする事柄への恐れと予想から気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。そのとき彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,雲のうちにあって来るのを見るでしょう」― ルカ 21:25-27。

      13 世の人々の心や思いの状態と,啓発を受けたイエスの弟子たちのそれとの間に相違があるべきことを,イエスはどのように示されましたか。

      13 ここでイエスは,この世あるいは事物の体制に属する「人々」(アンスローポイ),すなわち民と,ご自分の啓発された弟子たちとを区別されました。イエスの預言は,その後者の特別の益を図って,非常に描写的な表現を用いて書かれています。情報に通じており,理解力のある,イエスの追随者たちは,「諸国民の苦もん」に捕らえられることもなく,「人の住む地に臨もうとする事柄への恐れと予想から気を失(う)」ようになることもありません。落胆し,絶望的になって自分たちの頭を垂れさげるべきではありません。では彼らの態度,彼らの思いと心の状態はどのようなものであるべきでしたか。イエスがさらに述べたことによれば,それは次のようなものです。「しかし,これらの事が起こり始めたら,あなた方は身をまっすぐに起こし,頭を上げなさい。あなた方の救出が近づいているからです」― ルカ 21:28。

      14 近づきつつある「救出」は,残りの者が天で栄光を受けることに言及しているのですか。また地上のだれが,「救出」のあとに置かれているすばらしい見込みを得ますか。

      14 ですから,苦難が増し加わっていることは,この世に属する人々にとって滅びが迫っていることの証拠です。そのような苦難はハルマゲドンの戦争において最高点に達するでしょう。(フィリピ 1:28)そのため,今日の真のクリスチャンは,全能者なる神と,忠実な者たちに対する神の約束とに強い信仰を抱く必要があります。このような信仰を抱く人々のための,今や間近に迫った「救出」とは,霊によって生み出されたキリストの弟子たちの残りの者が最初の段階として天的な栄光を受け,患難に満ちる地上の舞台から取り去られることではありません。もっともそうしたことは,最終的には彼らのために蓄え置かれています。しかしこの「救出」とはむしろ,戦争・ききん・疫病・地震・統治する王イエス・キリストの真の追随者たちに対する猛烈な迫害などを終わらせることであり,これは,ハルマゲドンと呼ばれるところで生じる「全能者なる神の大いなる日の戦争」で,キリストによるエホバの王国の敵のすべてを滅ぼすことによって行なわれるのです。その時,天の王国の相続者の残りの者たちと,預言者エレミヤの勇気ある助け手であったエベド・メレクが予表していた,彼らの忠節な仲間たちの前途には,何とすばらしい見込みがあるのでしょう!

      15 聖書によれば,『雄々しくある』と共に業に対して整えられた者となるため,彼らは何を行なう必要がありますか。

      15 今,これらの人々が「雄々しくあり」,男らしく振る舞うためには,クリスチャンとしての円熟に達して,メシアの王国に関する最後の世界的な証しの業のために整えられなければなりません。(コリント第一 16:13,新世界訳,欽定訳,改訂標準訳。マタイ 24:14)この理由で,わたしたちには,聖なる書物を収めた聖書が与えられたのです。使徒パウロが年の若いテモテに書き送った通りです。「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです」。(テモテ第二 3:16,17)新英訳聖書によれば,この17節は次のようになっています。「神に属する人が,有能で,あらゆる種類の良い業に対して整えられた者となるためです」。エルサレム聖書は次の通りです。「このようにして,神に献身した人が,どんな良い業に対しても十分に整えられ,備えのできた者となるのです」。これは,「神の人」が,霊感による聖書を定期的に研究し,聖書に従って生活し,そうした研究によって効果的に行なうよう自分が整えられたその業を行なう必要があることを示しています。

      16 一人前の人間へと成長しつつある人々に伴いがちな欲望から逃れることが,洪水前のノアの時代以上に勧められるのはなぜですか。

      16 わたしたちは人類史全体を通じて,最も深刻な時代に生きています。ノアの時代のものより規模においてははるかに大きな一つの世が過ぎ去ろうとしているのです。その結果わたしたちは,現在に至るまで,人類にとって最も壮大で重要な業に携わっています。今は,だれであれ献身しバプテスマを受けたエホバ神の証人が,若さゆえのみだらで気を散らす欲望を満足させる時では決してありません。パウロが若いテモテに書き送った通りです。『若さに伴いがちな欲望から逃れなさい』。「しかし,神の人[ギリシャ語,アンスローポス]よ,あなたはこうしたことから逃げ去りなさい」。(テモテ第二 2:22。テモテ第一 6:11)これは,霊感を受けた使徒ヨハネが次の言葉を書き記したときよりも今日,なお一層当てはまります。「世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」― ヨハネ第一 2:17。

      17 古い時代の神の人であるどんな人々を過小評価すべきではありませんか。しかしそうした人々のうちの完全な模範として,だれに目を向けるべきですか。

      17 クリスチャンとしての雄々しさを示すことが求められるこの時代にあって,わたしたちは,総督のポンテオ・ピラトが騒然としたユダヤ人の群衆の前で,「見よ,この人だ!」,「見なさい。あなた方の王だ!」と述べた人の完全な模範に注目する必要があります。(ヨハネ 19:5,14)キリストの時代よりはるか前にも,「まことの神の人モーセ」,エリヤとその仲間のエリシャなどのような神の人がいました。(申命記 33:1。列王第一 17:18,24; 20:28。列王第二 1:9-12; 4:7,9,16)しかし,これらのキリスト教時代以前の神の人を無視したり過小評価したりしてはなりませんが,かつて地上に存在した「神の人」の中で最も際立った方イエス・キリストに,わたしたちは目を向けなければなりません。そのイエス・キリストは,異邦人の時が終わった1914年以来,今,天で王として統治しておられるのです。(ヘブライ 11:1-12:3。ルカ 21:24)イエスのように男らしく振る舞うならわたしたちは,ハルマゲドンにおけるこの事物の体制の滅びに,恐れることなく立ち向かうことができます。

      18 わたしたちは,エホバ神の宇宙主権の正しさを立証することにあずかるという大きな責任を,どのように果たすことができますか。

      18 わたしたちは,古い世が沈もうとしているこの裁きの時に,自らのための消し去ることのできない不滅の記録を作り上げているのです。その記録はわたしたちにとって名誉,また誉れとなるでしょうか。それとも,残念なことに,世と共に受ける永遠の有罪宣告でしょうか。欠点のない模範イエス・キリストに倣いつつ雄々しくあることにより,わたしたちは,「この世の神」悪魔サタンがわたしたちの霊的な支配者ではないことを証明します。(コリント第二 4:4)それとは逆に,エホバ神の宇宙主権を擁護し,そのようにしてすべての生ける被造物の前でその主権を立証することにあずかるのです。この点に関するわたしたちの責任は実に大きなものであり,わたしたちの前に開けている機会は輝かしいものです。

      19 目覚めていることと信仰にしっかり立つことのほかに,わたしたちは「人」としてどんな面で成長する必要がありますか。その源となるのはどなたですか。

      19 自分の特権と機会に目覚め,『信仰のうちにしっかりと立つ』のはわたしたちの責任です。エホバはわたしたちが,神に属し神に献身した人として弱くなってはならないと戒めておられます。この価値ある目的のために,わたしたちは使徒パウロが述べた「力強い者となりなさい」という時宜にかなった訓戒に留意する必要があります。(コリント第一 16:13)脇道にそれることなく,わたしたちの王イエス・キリストを通してエホバに頼り,またエホバに祈ることにより,わたしたちはそうすることができ,またそのようにします。イザヤ書 40章29節にはこう記されています。「神は疲れた者に力を与えておられる。活動力のない者にみなぎる偉力を豊かに与えてくださる」。ハルマゲドンにおける神の勝利を目撃したあと,わたしたちは,紅海でファラオの軍勢が覆されてから歌われたモーセの次の歌に和する特権にあずかれますように。「エホバは雄々しい戦人[人に相当するヘブライ語は,イーシュ]。……わたしの力,わたしの偉力はヤハ。わたしの救いとなってくださるからだ」― 出エジプト記 15:3,2。

      次の質問に答えることができますか

      □ わたしたちがハルマゲドンにおける戦争に生き残るか否かを左右するものは何ですか

      □ エホバの油そそがれた現代の僕たちのどんな状況は,古代の僕エレミヤの状況と似ていますか

      □ エベド・メレクが行なった奉仕は,どんな点でマタイ 25章31-46節にあるキリストのたとえ話の「羊」の活動を予表していましたか

      □ ルカ 21章に記されているキリストの預言によると,キリストの追随者の態度は諸国民の態度とどのように異なりますか

      □ ルカ 21章28節で語られている「救出」とはどんなものですか

      □ わたしたちすべてが,「この人だ!」と言われた方の模範に倣うとき,どんな良い結果が生じますか

      [29ページの図版]

      エベド・メレクが神の預言者エレミヤを助けたことは,だれの活動を予表していたか

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1983 | 1月1日
    • 読者からの質問

      ■ ヨハネ 1章21節に述べられているように,バプテスマを施す人ヨハネをエリヤであると考える人がユダヤ人の中にいたのはなぜですか。

      イエスがバプテスマを受ける前に,ヨハネがバプテスマを施していた,ヨルダンの向こうのベタニヤに幾人かの祭司やレビ人がやって来て,ヨハネに向かって彼がキリストなのかどうか尋ねました。ヨハネがそうではないと答えると,彼らはこう尋ねました。「では何ですか。あなたはエリヤですか」― ヨハネ 1:19-28。

      それらのユダヤ人たちはどうしてヨハネが9世紀ほど前に死んだヘブライ人の預言者エリヤかもしれないと考えたのでしょうか。それは,エリヤの時代とヨハネの宣教の始まった時とのほぼ中間の時代に語られた一つの預言のためです。神の預言者マラキは次のように予告しました。「見よ,エホバの大いなる,畏怖の念を抱かせる日の来る前に,わたしはあなた方に預言者エリヤを遣わす」。(マラキ 4:5)ユダヤ人の中には,この預言を神がエリヤを復活させることによりエリヤが肉体で戻って来ることを意味するものと理解していた人がいたようでした。その時ヨハネはエリヤが身に着けていたような毛衣を着,皮帯を締めて登場したのです。(マタイ 3:4。列王第二 1:8)そしてヨハネは,エリヤがそうであったように,悔い改めを呼び掛ける神の音信を宣明する点で率直でした。それで,彼らはヨハネがエリヤであるかどうか尋ねたのです。

      それに対してヨハネは,「そうではありません」と答えました。確かに,ヨハネは依然として死の眠りに就いていたヘブライ人の預言者エリヤその人ではありませんでした。事実,(ヨハネの父親になった)ゼカリヤに対して,一人のみ使いがヨハネはユダヤ人をエホバへ立ち返らせるために「エリヤの霊と力」をもって仕えるであろう,と告げました。(ルカ 1:17)ヨハネがエリヤになるわけではありませんが,ずっと昔に死んだ預言者エリヤが成し遂げたのと同様の業を行なうでしょう。

      このことと調和して,イエスはヨハネを念頭に置いて後日こう語られました。『エリヤはすでに来たのですが,人々はそれを見分けなかったのです』。(マタイ 17:12)イエスはヨハネがマラキ書 4章5節の預言を成就したという意味で,そう言われたのです。ヨハネはメシアの前に道を備えました。しかし,ユダヤ人の大半はその役割を果たした人としてヨハネを受け入れることはありませんでした。さらに,ヨハネ 10章41節には,「確かに,ヨハネはただ一つのしるしも行なわなかった」と書かれていますが,元の預言者エリヤは八つのしるしつまり奇跡を行ないました。

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