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  • 第1部 ― アメリカ合衆国
    1976 エホバの証人の年鑑
    • アプトン隊に送られました。その部隊を指揮していたジェイムズ・フランクリン・ベル大将は,J・F・ラザフォードをその事務所に訪ね,国の内外を問わずどこでもベルから割り当てられた仕事をするよう,それらの若者に教えることをラザフォードに勧めました。ラザフォードはそれを断りました。しかし,陸軍大将はしつこく迫ったため,ついに彼は次のような要旨の手紙を書きました。「あなたがた各人は,積極的に兵役につくかどうかを自分自身で決定しなければなりません。自分の義務であると信じ,全能の神の目に正しいと見なすことを行ないなさい」。ベルはこの手紙に満足しませんでした。

      2,3日後,J・F・ラザフォードとW・E・バン・アンバーグはアプトン隊にベル大将を訪れました。ベルは,幕僚やバン・アンバーグを前にして,ラザフォードに僧職者たちのフィラデルフィア会議について話しました。そして,問題を上院へ提出するためにジョン・ロード・オブライアンが選ばれ,スパイ法に対する違犯はすべて軍事法廷で裁かれて死刑が課されるという法案が上程されたということを語りました。ラザフォードによればベル陸軍大将は「少なからざる憤りを示し」ました。彼はさらにこう伝えています。「彼の前の机の上には書類の包みが置いてありました。彼はそれを人差し指でたたきながら,わたしに向かってすごみを効かせてこう言いました。『その法案は通過しなかった。ウィルソンが拒否したからだ。しかし,我々はおまえたちをどのようにやっつけるかわかっておる。それをしてやるぞ!』。それに対して,わたしは,『陸軍大将,わたしは逃げ隠れなどいたしません』と答えました」。

      「ふたりの証人」に対する致命的な打撃

      1914年10月の初旬が過ぎると,キリストの油そそがれた追随者は,異邦人の時が終わって,諸国民はハルマゲドンにおける滅びに近づきつつあることを宣布しました。(ルカ 21:24。啓示 16:14-16)それら象徴的な「ふたりの証人」は,1,260日,すなわち3年半の間(1914年10月4-5日から1918年3月26-27日),諸国民に対するその陰うつな音信を宣明したのです。それから,悪魔の野獣的な政治体制は神の「ふたりの証人」に対して戦いを挑み,ついには,「粗布を着て」預言をすることによって責め苦を与えるわざに関する限り,彼らを殺し,宗教上,政治上,軍事上および司法上の敵たちに大きな慰めをもたらしました。(啓示 11:3-7; 13:1)これは預言されていたことですが,その預言は成就しました。しかし,どのようにしてですか。

      1918年5月7日,ニューヨーク州東部地方のアメリカ合衆国地方裁判所は,ものみの塔協会の主要なしもべたち数名に対して逮捕状を出しました。そのしもべたちとは,J・F・ラザフォード会長,W・E・バン・アンバーグ会計秘書,クレイトン・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャー(このふたりは「終了した秘義」の共同編集者だった),F・H・ロビンソン(「ものみの塔」誌の編集委員のひとり),A・H・マクミラン,R・J・マーチンおよびジヨバンニ・デチェッカでした。

      翌日の1918年5月8日,ブルックリン・ベテルにいたそれらの人々は逮捕され,結局全員が勾留されました。その後間もなく,彼らはガービン判事により連邦裁判所で審問され,大陪審員によってすでに答申されていた起訴状をつきつけられたのです。すなわち次のように告発されました。

      「(1,3)戦時中のアメリカにおいて,アメリカ合衆国の陸海軍の兵役に対して,不法かつ故意に,反抗,不忠実,拒否の態度をおこさしめた。個人的な懇請,手紙,公開講演により,また,『聖書研究,第七巻,終了した秘義』と呼ばれる本をアメリカ合衆国中に配布し,公に流布することにより,さらにアメリカ合衆国中に『聖書研究者月刊』,『ものみの塔』,『王国ニュース』と呼ばれるパンフレットに印刷された記事,あるいはその他のパンフレットを配布し,公に流布することによりこれを行なった」。

      「(2,4)アメリカ合衆国の戦争時に,アメリカ合衆国の徴兵応召事業を,不法かつ故意に妨害した」。

      起訴状は主として「終了した秘義」のひとつの節に基づいていました。そこにはこう書かれています。「新約聖書のどこにおいても,愛国主義(偏狭にも他の民族を憎むこと)は勧められていません。あらゆる箇所で常にいかなる形式の殺人も禁じられています。しかしながら,地上の諸政府は愛国主義を口実にして,平和を愛する人々に自分自身や愛する人々を犠牲にしたり,仲間の人間を殺すことを求め,それを天の律法により命じられた義務であるとして称揚します」。

      ラザフォード兄弟,バン・アンバーグ兄弟,マクミラン兄弟,およびマーチン兄弟は,チューリッヒにある協会のスイス支部の監督に500㌦(約15万円)送金したことに基づき,敵国と取引きをしたかどで再度起訴されました。罪を問われた各の兄弟は,それぞれの起訴状につき2,500㌦ずつの保釈金で勾留されました。兄弟たちは保釈出所し,1918年5月15日に出廷しました。審理は1918年6月3日にニューヨーク州東部地方のアメリカ合衆国地方裁判所で行なわれ,兄弟たちはふたつの起訴状に対して「無罪」を訴え,すべての告訴に対して全く無実であると考えていました。

      予備審問であらわに示された感情のために,被告人たちは,ガービン判事が自分たちに偏見を持っていると感じる理由を示した宣誓供述書を提出しました。やがて,裁判を主宰する人として,アメリカ合衆国の地方判事,ハーランド・B・ハウが連れて来られました。A・H・マクミランによれば,被告人たちはハウの考え方を知りませんでしたが,政府側は,彼が「特に同法に関する訴追に好意的であり,同法違反を問われた被告人に対して反感をもっている」ことを知っていました。マクミランは次のようにも語りました。「しかし,わたしたちは長い間それを知らずにいたわけではありませんでした。裁判に先立ち,判事事務室で開かれた最初の弁護士会議から,ハウ判事は敵意をはっきりと表わし,『わたしはこれら被告人たちにできるだけ刑を与えるつもりだ』ということを示しました。しかし,その時はすでにわたしたちの弁護士が判事側の偏見に対する供述書を提出するのに遅すぎました。

      マクミランによれば,最初に答申された起訴状では被告人は,アメリカが宣戦を布告した1917年4月6日から1918年5月6日の間のどこかの時点で陰謀を企てたことになっていました。命令申請の段になって政府は,告発された罪が犯されたのは1917年6月15日から1918年5月6日の間であると明確に述べました。

      法廷での模様

      アメリカ合衆国は戦争中でしたから,扇動のかどで告発された聖書研究者の裁判は非常に注目を集めました。一般の人々の感情はどうであったかといえば,戦争努力の推進に対して好意的でした。法廷の外では,兵隊たちがバンドを鳴らしてブルックリンのバラ・ホール近くを行進したりしていました。法廷内では審理も15日を経て,おびただしい証言が山と積まれました。法廷内に入って審理の模様を見てみましょう。

      被告のひとりであった,A・H・マクミランは,その場のふん囲気を知る手がかりとして,後日次のように書きました。「裁判の時政府は,もしある人が町角に立って,人々を軍隊にはいらせないことを目的として主の祈りをくりかえし唱えるならば,その者は刑務所へ入れられる,と言いました。このことからもわかるように,政府は,まったく勝手な解釈をしました。彼らは人が何を考えているかわかると思いました。ですからわたしたちが,徴兵に影響することに荷担したことは一度もなく,兵役を拒否するようすすめたことも一度もないことをいくら証言しても,彼らは自分たちの尺度で物事をおしはかり,わたしたちに反対しました。証言はなんの効果もありませんでした。キリスト教世界の一部の宗教指導者とその政治上の同盟者たちは,どうあってもわたしたちに罪を着せることを決意していたのです。検察当局は,ハウ判事の同意を得て,有罪を証明しようとし,わたしたちの動機が尋常でないこと,そしてわたしたちの行動からその目的を推測すべきことをがん強に主張しました。わたしは,ある小切手 ― それが何の目的のための小切手かは彼らにはわからなかった ― に連署し,またラザフォード兄弟が理事会で読んだステートメントに署名したというだけの理由で有罪とされたのです。それでさえ,はたしてわたしの著名であったかどうか彼らは証明することができませんでした。この不正はあとで控訴する助けになりました」。

      ある時,協会のかつての役員が呼ばれました。提示されたふたつの署名を見た彼は,ひとつはW・E・バン・アンバーグの署名であると言いました。記録の写しにはこう記されています。

      「問. わたしはあなたに確認のための参照物件31号をお渡ししますから,マクミランとバン・アンバーグのふたつの署名もしくは署名と称されるものを見ていただきたい。そして,まず,バン・アンバーグについてお尋ねしますが,あなたの意見では,それは彼の署名を謄写版で印刷したものですか。答. そう思います。そうであることを認めます。

      「問. マクミラン氏のものについてはどうですか。答. マクミラン氏のものであるとはっきり認められるわけではありませんが,わたしはそうだと思います。

      被告側の答弁について,マクミラン兄弟は後日次のように書きました。

      「政府の申し立てが終了した後,わたしたちの答弁になりました。要するに,わたしたちが示したのは次のことでした。協会が純粋に宗教的な組織であること,成員は,チャールズ・T・ラッセルによって解説された聖書を信仰の原理として受け入れていること。C・T・ラッセルは生涯中に『聖書研究』の6巻を執筆出版し,早くも1896年には,エゼキエル書と啓示を扱った第七巻の出版を約束していたこと。ラッセルは臨終の際だれか他の人が第七巻を書くであろうと述べたこと。彼の死後まもなく,協会の管理委員会は,C・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャーに原稿を書いてそれを検討のために提出する権限を与えたが,出版することは何も約束しなかったこと。啓示を扱った原稿はアメリカ合衆国が戦争に入る前に書き終えられており,全部の原稿(神殿に関する章を除く)は,スパイ法の制定以前に印刷業者の手に渡されていたこと。したがって,起訴されているような陰謀を行なって同法に違犯することはあり得なかったこと。

      「わたしたちは次のことを証言しました。すなわち,いついかなる時にも,団結し,お互いに同意し,陰謀を企てて,徴兵に何らかの影響を及ぼす事がらや戦争遂行に当たる政府に干渉する事がらなど行なわなかったこと。いかなる形であれ,戦争に干渉する意図はないこと。わたしたちのわざは純粋に宗教的であり,政治的なものでは全くないこと。徴兵を拒否するよう会員に懇請したことはなく,だれかに助言もしくは励ましを与えることも一度もなかったこと。手紙類は,法律的に言って当然に相談できる既知の献身したクリスチャンである人々にあてられていたこと。わたしたちは国が戦争することに反対するのではなく,献身したクリスチャンとして,人命を奪う戦いに参加できないこと」。

      しかし,その審理中に話されたり行なわれたりしたことすべてが公に隠しだてなくされたわけではありません。後にマクミランはこう報告しました。「審理を傍聴していたわたしたちの仲間のある人が,後日わたしに話してくれたのですが,政府側の代理人のひとりは廊下に出て,協会内で反対を引き起こしたことのある者たち数人と低い声で話をしました。彼らはこう言ったのです。『あいつ(マクミラン)を逃さないでくれ。一味のうちで一番悪いのだ。他の者たちといっしょに捕えなければ,あいつが仕事を続けさせるだろう』」。その時,野心的な者たちがものみの塔協会を支配しようとしていたことを思い出してください。後ほどラザフォードがベテルの責任を委ねた兄弟たちにこう警告したのも当然でした。「以前,協会とその仕事に反対した7人の者が裁判に出席し,わたしたちの告発者を援助したということを知らされました。それで愛するみなさん,彼らの中のある者が協会をのっとろうとしてあなたがたのきげんをとるというような巧妙な手口を弄してもそれにのらないように注意してください」。

      長い裁判の末,ついに,待たれた判決の下される日が来ました。1918年6月20日午後5時,訴訟は陪審員へ回されました。J・F・ラザフォードは後に次のように回顧しています。「陪審員は評決を下すのに長い間手間取りました。後から陪審員のひとりがわたしたちに話してくれたのですが,結局,ハウ判事が,有罪と評決するよう指図しました。4時間半ほど審議した後,午後9時40分に陪審員は評決をもって戻り,「有罪」と言い渡しました。

      刑の宣告は6月21日に行なわれました。法廷は満員でした。被告人たちは,何か言うことがないか聞かれた時,答えませんでした。続いて,ハウ判事による刑の宣告が行なわれ,彼は腹立たしげにこう言いました。「これらの者たちが携わっている宗教的宣伝活動はドイツ兵の一個師団よりも有害である。彼らは政府の法務官に異議を唱えたばかりか,あらゆる教会の牧師すべてを公然と非難した。その刑は厳しいものでなければならない」。

      確かにそのとおりになりました。被告人中7人は80年の懲役を言い渡されたのです。(それぞれ4つの異なる訴因で20年づつの判決を受けた。)ジヨバンニ・デチェッカの刑の宣告は遅れましたが,最終時に,40年,すなわち同じ4つの訴因でそれぞれ10年の刑を言い渡されました。彼らは,ジョージア州アトランタの連邦刑務所で服役することになりました。

      裁判は15日間続きました。おびただしい量の証言が記録され,訴訟手続きはしばしば不公正でした。事実,その裁判には125を上回る誤りが含まれていたことが後に明らかにされたのです。上告裁判所が全部の訴訟手続きを公正でないと最終的に宣告するには,そうした不正の2,3を挙げるだけで十分でした。

      その時傍聴席にいたジェイムズ・グウィン・ジーは,「わたしは行って兄弟たちがこの不公正で筋の通らない裁判に服させられていた間中ずっと兄弟たちと共に苦しみました」と述べ,さらにこう続けています。「今だに忘れられないのは,裁判官がラザフォード兄弟に弁論の機会を与えようとしなかったことです。『この法廷で聖書は通用しません』と裁判官は言いました。その夜,わたしはM・A・ハウレット兄弟とベテルに留まりましたが,10時ごろ,兄弟たちが有罪となったという知らせを受けました。刑が宣告されたのは翌日でした」。

      不正な有罪判決を受け,厳しい刑を言い渡されたにもかかわらず,ラザフォード兄弟とその仲間は恐れませんでした。興味深いことに,1918年6月22日のニューヨーク・トリビューン紙は次のように報じました。「ジョセフ・F・ラザフォードと『ラッセル派』の他の6人は,スパイ法違反で昨日ハウ裁判官により有罪と宣告され,アトランタの刑務所で20年間の服役を言い渡された。『これはわたしの生涯で,もっとも幸福な日です。自分の宗教上の信念のために,地上で罰を受けることは,人間の最大の特権のひとつです』,とラザフォード氏は法廷から刑務所へ向かう途中語った。有罪の宣告を受けた者たちが大陪審室につれて行かれてからすぐ,ブルックリンの連邦裁判所の事務所では,今までにない非常に珍しいデモンストレーションが彼らの家族や親しい友人たちによって行なわれた。全員が古い建物を『結ばれるきずなに幸いあれ』という歌で鳴り響かせたのである。彼らは,ほとんど輝かしいといった顔つきで,『これはすべて神のご意志だ。いつか世界は,このすべての意味を悟るようになるであろう。さしあたり,わたしたちは試練の時にわたしたちを支えてくださった神の恵みに感謝し,来たらんとする「大いなる日」を待ち望もうではないか』と語り合っていた」。

      兄弟たちは上告している間に,二度にわたり保釈されるよう努力しましたが,最初はハウ判事により,二度目にはマーチン・T・マントン判事により差し止められました。そうしている間に,兄弟たちは,まず,ブルックリンのレイモンド・ストリート刑務所に入れられました。A・H・マクミランによれば,そこは,「今まで入った中で一番汚い穴倉」でした。クレイトン・J・ウッドワースはそこを「ホテル・ド・レイモンディ」とおどけて呼びました。その不快な刑務所で一週間過ごした後に,ロング・アイランド・シティー刑務所でもう一週間過ごしました。そして,ついに,アメリカ合衆国の独立記念日に当たる7月4日,不正にも有罪とされたそれらの人々は,ジョージア州アトランタ刑務所へ汽車で送られたのです。

  • 第2部 ― アメリカ合衆国
    1976 エホバの証人の年鑑
    • 第2部 ― アメリカ合衆国

      敵は大いに喜ぶ

      それらエホバのクリスチャン証人たちの投獄は,象徴的に言って致命的

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