-
激しさを増す宗教的偏狭目ざめよ! 1978 | 9月22日
-
-
提出した訴訟事件覚書は次のように主張していました。「この宗派は,専ら宗教上の崇拝行為を行ない,そのような崇拝行為が我々の道徳や良俗に従ったものである……という点は証明されていない」。
もちろん,事実はそれとはまさに正反対です。今世紀を通じて,エホバの証人は熱心にその宗教上の崇拝行為に専念することがはっきりと示されてきました。そのような崇拝は,最高度の道徳性を備えています。それはまた,他の人々の選ぶ崇拝の方式を妨げることも,その人々が実践したいと思う習慣を妨害することもありません。米国の最高裁判所を含む,世界中の当局者たちは,以上の事柄が真実であることをずっと昔に確証しています。
この訴訟事件覚書には,次のような驚くべき陳述が含まれていました。「人肉嗜食,儀礼的殺害,あるいは一夫多妻を認めるような宗教の場合に,それに自由を与えることなど考えられない。その上,この場合に問題になっているような宗教は,いかなる形を取ろうと,認めることはできない」。
この陳述の言葉遣いからすれば,事情を知らない人々はエホバの証人が何らかの仕方で人肉嗜食や儀礼的殺害や一夫多妻と関係していると思うかもしれません。しかし,それは全く根も葉もない虚偽の言葉です。それでも,このような当てこすりは,確かに害をもたらします。エホバの証人のことをよく知らない,大勢の人々は,こうした当てつけにはある程度の根拠があると考えるかもしれないからです。
法廷闘争は続く
エホバの証人の起こした訴訟は幾つかの法廷を経て,審理されてゆきました。1977年3月10日,連邦判事,ホルヘ・E・セルメソニ博士が判決を下しました。同博士は,禁令の第一条を違法と宣し,この政令を発行するに当たって,行政権がその権限を越えたことを示しました。しかしながら,判事は,「宗教団体登録部に登録されていないことの結果として……同派はすでにその活動を禁じられている」とも宣告しました。
内務省はその判決を不服として控訴し,エホバの証人も同様の立場を取りました。内務省は,行政権には憲法で保障されている権利を制限する権限があると主張しました。エホバの証人がその決定を不服として控訴したのは,それがエホバの証人に対する禁令を除くものとならなかったからです。
この問題は控訴裁判所へ持ち込まれました。6月23日,アルベルト・アズコナ,フアン・カルロス・ベカール・バレラ,そしてバレリオ・R・ピコの三人の連邦判事は,下級裁判所の判決を部分修正し,大統領令を無効と宣したのです。
その理由として判事たちの挙げた事柄は,6月24日付のラ・ナシオン紙に報じられました。それは次のようなものです。「信教の自由は最も重要な人権の一つであり……結果として,エホバの証人の場合,……その実践が道徳や公共の秩序に悪影響を及ぼさないかぎり,その宗派の活動を正当な根拠のもとに制限することはできない」。判事たちは,「[エホバの証人]の規則によると,その団体の目的が『至高の神とキリスト・イエスに対する,クリスチャンとしての公の崇拝』である」という点に注意を引いています。
こうして,アルゼンチン憲法に表明されている,高潔な理想は尊重され,適用されたのです。しかし,法律はさらに上級の裁判所へ控訴するために,10日の猶予期間を置いています。問題は,国は控訴するか,ということでした。
最高裁判所へ
猶予期間の終わる間際になって,政府は最高裁判所へ控訴の申し立てを提出しました。この訴訟は,アルゼンチン内外の,自由と人権を気遣う人々の間に多大の関心を引き起こしました。そのような人々は,同国の最高法廷は憲法で保障されている自由を擁護するものと確信していました。
1978年2月8日,最高裁判所の五人の判事はその判決を下しました。彼らは禁令を無効にすることを拒んだのです。
その判決は,一般の人々にとっては矛盾そのものと映るような法律用語でぼかされていました。判事たちは,『政令1867号は,専横なところも,明らかに不法なところも示していない』と主張しました。それでもその政令は,憲法と全く相反するので,専横で不法なものだったのです。
判事たちは,『エホバの証人には自分たちの権利を守るための行政上,および司法上の手段が別にあった。それはすなわち,宗教登録部に登録することである』と述べました。しかし,エホバの証人はそれまでに九回もこの宗教登録部に含めてもらえるよう政府に請願し,その度に却下されてきたのです。
それに加えて,判事たちは,『エホバの証人の具体的に示した要求の正当性についても,その業を禁ずる政令の中で採用された措置の正当性についても判断を下したのではない。裁判所は,エホバの証人の用いた法的な経路を認容できないと宣言しているにすぎない』と言明したのです。しかしながら,法廷はエホバの証人が適切なやり方で用いた法的な経路だったのです。
最高裁判所はどうしてそのような論法を採用するという挙に出たのでしょうか。司法長官を含む同国の法律専門家,および事件の審理に当たった連邦判事たちは,15か月間にわたってこの問題を注意深く研究していました。ところが,エホバの証人の求めた法的な援助は,ただの一度も問題にされることも,議論の対象になることもなかったのです。
最高裁判所は,ポンテオ・ピラトがイエスの場合に行なったように『手を洗って』いたにすぎないのですか。最高裁判所は,憲法上の問題をはっきりと定めるという責任を回避しようとしていたのでしょうか。
アルゼンチンの有名な教育者で,政治家でもあった,ドミンゴ・F・サルミエントが一世紀前に言い表わした態度は何と異なっていたのでしょう。サルミエントはこう語りました。「少数派がいて,たとえそれが一人だけであっても,その人が正直に,また誠実な気持ちで多数派の感情に同意しないのであれば,その人が法を犯そうとしない限り,法はその人を保護するのである」。サルミエントはさらに,「そのような人の考えを守るために……憲法が作成されているのである」と言明しています。
このようにして,自らの責務を回避した最高裁判所は,自由に対して,またエホバの証人に対して容易ならぬ一撃を加えました。最高裁判所のしたことと言えば,1976年9月に最初に禁令が課されたときすでに見られ,またの判決の後に起ころうとしていた偏狭に満ちた行為の数々に,その是認の印を与えることだけでした。では,そのような偏狭に満ちた行為にはどんなものがありますか。
-
-
禁令後に起きた出来事目ざめよ! 1978 | 9月22日
-
-
禁令後に起きた出来事
エホバの証人に対する禁令は,1976年9月上旬に実施されました。9月7日の明け方,連邦警察は内務省の命令に従って行動し,ブエノスアイレスにある,エホバの証人のアルゼンチン支部へやって来ました。
警察は,印刷工場,事務所,発送部門,そして倉庫を封鎖しました。警察の見張りも立てられました。また,その同じ日に,アルゼンチン全国で,約600か所のエホバの証人の王国会館が次々に閉鎖されました。
自由がなくなる
禁令が敷かれて以来,北の果てのミシオネス,フォルモサ,そしてサルタの各州から,リオネグロ,チュブト,サンタクルスの南部諸州に至る,38の都市や町々で,宗教的な偏狭の火の手があがりました。今日までに,320人余りが逮捕されていますが,その多くは年老いた男女や幼い子供たちです。他の人々は,単にエホバの証人の親族や友人であるというだけの理由で拘留されました。
こうした処置は,自由を擁護すると唱える国にふさわしいものでしょうか。ブエノスアイレス・ヘラルド紙は,「宗教上の迫害」と題する社説の中で,勇気ある答えを提出しました。同紙はこう述べています。「[エホバの証人の逮捕に関する]こうした報道は,アルゼンチンが今や独立国としてのその歴史上最大の宗教的迫害のさなかにあることを示している。これは,それ自体遺憾なことであり,外部の世界に対してアルゼンチンの評判を高めるのに何の役にも立たない」。
同紙の社説はさらに,政府の取った措置は,「武装警官が祈祷集会を解散させるという醜態を世界にさらすことになった。こうした行為はソ連では日常茶飯事として受け入れられるかもしれないが,多元論のアルゼンチンには占めるべき場所が全くないはずである」と述べています。
しかし,この「醜態」は実際に起きたのです。次に掲げるのは,アルゼンチンにおける宗教上の迫害と偏狭の現実を読者がご自分で見定めるのに役立つ事例のごく一部にすぎません。
事実は語る
「エホバの証人30人捕らわる」。これはアンダルガラ市(カタマルカ州)から寄せられた,1978年3月29日付の新聞記事です。レーモン・アルバレズとその家族,そして招かれた客たちは,年ごとのクリスチャンの祝祭である主の夕食の閉会の祈りの直後に逮捕されたのです。彼らは6日間拘留されました。最初の夜は,男女共に警察署の中庭で夜を明かしました。そして,逮捕された人々の個人用の聖書と聖書文書は没収されました。
海辺の保養地マール・デル・プラタ市では,大人
-