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よく働く人を多数必要とする国際大会ものみの塔 1978 | 7月1日
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も,エホバがわたしたちについて予告しておられる事柄を成し遂げるべきではありませんか。
来たるべき国際大会は大きな霊の宴となるはずです。統治体は,出席するすべてのエホバのしもべにすばらしい霊の宴を準備すべく,本部の兄弟たち共々,熱心に働いています。同じことが,大会の開かれる土地の支部事務所の兄弟たちについても言えます。しかし,こうした霊的な食物を準備するだけでは不十分です。滋養に富む霊の糧を大会の出席者全員に配分するための良い備えや出席者の他の必要をまかなう取り決めが必要とされます。それは,そのような大会で自発的に手助けをすることを意味します。確かに,だれにでも向く仕事があります。特に,様々な部門の働きを指示し,監督する,専門的な経験や能力を有する『賢い人々』が必要とされています。他の人は,『必要の大きな』部門ならどこででも,自発的に助けを差し伸べることができます。例えば,会場整理,清掃および衛生,食堂,そして喫茶などの部門があります。
そうです,1978年の国際大会に出席する兄弟たちが,「忠実で思慮深い奴隷」の準備したプログラムに耳を傾け,大会を快適に楽しむためには,すすんで働く大勢の人々が必要とされます。演壇で奉仕する兄弟には,霊的な食物を分け与える特権があります。また,物質上の必要物を備えたり,出席者の便宜を図ったりすることも重要です。霊的な必要物と物質上の必要物が正しく備えられて初めて,大会にやって来る人々は霊的に真に築き上げられるのです。こうした備えがなされるなら,大会出席者は,エルサレムのエホバの神殿の献堂の祝いに出席した昔のイスラエルの人々と同じ精神態度を抱いて家路につくことができるはずです。当時の人々は,エホバが『その民イスラエルに施された恵みのために喜び,かつ楽しんで』帰路につきました。―歴代下 7:10。
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山上の垂訓 ―「破棄するためではなく,成就するために来たのです」ものみの塔 1978 | 7月1日
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山上の垂訓 ―「破棄するためではなく,成就するために来たのです」
山上の垂訓の中で,イエスは書き記された神のみ言葉に対して深い愛と敬意を示され,次のように言われました。「わたしが律法や預言者たち[つまり,ヘブライ語聖書全体]を破棄するために来たと考えてはなりません。破棄するためではなく,成就するために来たのです」― マタイ 5:17。
イエスは言葉と行ないの両方において,当時の宗教上のユダヤ人教師たちとは異なっていることを示されました。イエスは人々がもはやエルサレムの神殿で神を崇拝しなくなる時について語られました。(ヨハネ 4:21)また,ご自分の教えを,「古い皮袋」には入れられない「新しいぶどう酒」に例えられました。(ルカ 5:37)イエスはまた,「収税人や罪人」と一緒に食事をしたり,週ごとの安息日にいやしの奇跡を行なったりされました。(マルコ 2:13-17; 3:1-5)そうした行為は神の律法のどれかを破るものではありませんでした。しかし,それはヘブライ語聖書よりも重要視されていたユダヤ教の伝統に反するものでした。a パリサイ人やヘロデ家の支持者たちは,イエスを神の律法の違反者とみなしていましたから,イエスが有名な山上の垂訓を話される前ですら,イエスを殺そうとたくらみました。―マルコ 3:6。
しかし神のみ子は,律法を「破棄するために」来たのではないと断言されました。イエスは,その戒めにそむいたことも,またそのある部分がイスラエル人に拘束力を持っていないなどと言われたこともありません。それどころか,イエスはその神の律法を「成就するために」来られたのです。イエスは罪のない人間として,「死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで」その律法を完全に守られました。(フィリピ 2:8。ヘブライ 4:15。ペテロ第一 2:22)その犠牲の死はまた,動物の犠牲に関する律法の制度により備えられていた預言的な型を成就するものとなりました。―ダニエル 9:26,27。ヘブライ 10:1-9。
イエスは律法の文面だけでなく,律法の背後にある精神をも成就されました。律法が罪深い行為を禁じていたのに対し,イエスはそうした行為の動機となる態度を非難されました。例えば,殺人や姦淫は神の律法に反することでしたが,イエスは,だれかに向かって怒り続けることや,情欲を抱いて女を見続けることが,そうした違反に通ずる精神的傾向であることを示されました。(マタイ 5:21,22,27,28。ヤコブ 1:13-15)さらに,イエスが人類の益のために人間としてのご自分の命を進んで犠牲にされたことは,愛の最高の表現であったと言えます。聖書はそれを「律法を全うするもの」と呼んでいます。―ローマ 13:8-10。ヨハネ 15:13と比べてください。
山上の垂訓の中で,イエスは次いでこう言われました。「あなたがたに真実に言いますが,律法からいちばん小さな文字一つまた文字の一片が消え去って,記されたすべてのことがなされないよりは,むしろ天地の消え去るほうが先なのです」― マタイ 5:18。
王国行間逐語訳に示されているように,イエスはここで,「真実に」「そうなりますように」という意味の「アーメン」という語を用いられました。油そそがれた神のみ子,約束のメシアとして,イエスはご自分の言われた事柄の真実性を確かに保証することができました。―コリント第二 1:20。啓示 3:14と比べてください。
神の律法を成就することは,「いちばん小さな文字一つまた文字の一片」にまで及ぶでしょう。当時用いられていたヘブライ語のアルファベットの中でいちばん小さな文字はヨード(י)でした。ヘブライ語のある文字は,わずかな字画,字の角もしくは“点画”を特徴としていました。書士やパリサイ人は,神の律法の言葉や文字だけでなく,そうした字画の語や『いちばん小さな一片』をも非常に重要なものとみなしました。律法学者の伝説は神が次のように述べている様子を描写しています。「ソロモンや彼のような者千人が消え去ろうとも,我は汝(トーラー[モーセ五書])の一点すらぬぐい去られることを許さない」。
神の律法の最もわずかな部分でさえ成就されないという可能性は非常に薄いため,「むしろ天地の消え去るほうが先」であると言われています。それは「決してそのようなことはない」と言うのと同じことでした。聖書は,文字通りの天地が永遠にとどまると示しているからです。―詩 78:69; 119:90。
イエスは神の律法に対する深い尊敬の念をさらに強調してこう言われました。「それで,これらいちばん小さなおきての一つを破りかつ人にそのように教えるのがだれであっても,その者は天の王国に関連して『いちばん小さい者』と呼ばれるでしょう。だれでもそれを行ないかつ教える者,その者は天の王国に関連して『大いなる者』と呼ばれるでしょう」― マタイ 5:19。
おきての一つに故意にそむき,それを『破っ
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