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    ものみの塔 1956 | 3月15日
    • 奉仕者になる資格

      『私たちの正しい資格は,神から来る。神は私たちに新しい契約のための奉仕者の資格を正しく与えておられる。』― コリント後 3:5,6新世。

      1 正しい資格を持つ奉任者たちによつて,望み通りのどんな結果が得られますか?

      現在の物質主義と,拡大を図る共産主義の時代にあつて,人類は今までになく正しい資格を持つ奉仕者を必要としています。正しい資格を持つということは,宣教をするのに正しく適しており,また宣教に必要なものを持つているということです。そして,宣教のための条件にかなうということです。それは,宣教を立派になし遂げて,望み通りの結果つまり,真実のクリスチャンを得るということです。これらのクリスチャンは今日の試錬にも対抗し,かつ信仰を亡ぼそうとする影響や,道徳腐敗を図る影響にも打ち克ち,そしてキリストに倣うことによつて神の御旨にかない,ついには新しい世における永遠の生命を受けることができましよう。

      2,3 (イ)人が正しい資格を持つ奉仕者になるための二つの大切な事柄とは,何ですか?(ロ)タルソのサウロは,どんな学識をもちながらも,奉仕者の資格がありませんでしたか? なぜ?

      2 もし神からの任命をうけず,それに宣教の奉仕をするために神より遣わされないならば,その人は正しい資格を持つ奉仕者ではありません。例えば,使徒パウロの例を考えてごらんなさい。最初,彼は小アジアのタルソの町にいてサウロと呼ばれていました。彼はヘブル人の両親を持つヘブル人で,またヱホバ神が御自身の特別の民に選ばれたイスラエルの国民に属すユダヤ人でした。パウロはベンジャミンの支族の者であり,またパリサイ派の一員でした。そして,モーセを通して与えられた神の律法による正義の基準に達しようと熱心に努め,そのためには,つくられてから間もないクリスチャン会衆を迫害せねばならない,と考えました。ユダヤ教の見地から見るとき,サウロには何一つとして非難する点がなかつたのです。彼はモーセの律法を学び,エルサレムの学校に通い,著名な法律家ガマリエルに師事しました。タルソのサウロは,モーセの律法により自分を義しい者にしようと努めたため,ヱホバ神がアラビアのシナイ山でイスラエル人とのあいだにつくられた古い契約下に生活しようとしました。(ピリピ 3:3-6。使行 22:1-5)当時のサウロが神の奉仕者,つまりイスラエルと結ばれていた神の古い律法契約に属す奉仕者になろうと欲していたことには,疑いありません。しかし,このことをことごとく行つたサウロは,正しい資格を持ちましたか? そして,神の宣教をするのにふさわしい者になりましたか? 答えは『否!』であります。なぜ?

      3 なぜなら,ヱホバ神はモーセの律法を持つ古い契約を廃止して,選民のために新しい契約を始められていたからです。古い律法契約の仲保はモーセでした。古い律法契約の祭司職は,アロンの家の者たちでなされ,その宮に仕える者たちは,レビ族の者たちでした。そして,手でつくつた宮がエルサレムに建てられ,動物の犠牲が捧げられていました。古い契約には律法がありました。そして,その律法の十のいましめは,『神の指』により二つの石碑の上に書かれたものです。その律法契約により,ヱホバ神はイスラエルの12支族と契約関係を持たれるようになりました。そして,このイスラエル人には,多くの非イスラエル人の寄留者すなわち一時的な住民たちが交つていました。しかし,この律法は,神のつくられる将来の大きな取り極めを説明するものであり,来るべき良い事柄を予表したものです。この律法が1545年間行われてから,それは古くなりました。キリストが死んで復活し,そして人間としての犠牲の価値をたずさえて天に昇り,神の御前に現われたとき,昔の律法は取り除かれました。それで,西暦33年の五旬節の日に,ヱホバ神はイエス・キリストを仲保とする新しい契約を始められました。イエスは,サレムの王であるメルキゼデクのごとき祭司になると,ヱホバは昔に御自身の御名を指して誓われておられましたが,いまやメルキゼデクの如き祭司イエス・キリストを,新しい契約の大祭司にいたしました。

      4 どんな条件に基いて,ヱホバの新しい契約の奉仕者たちは,自分のその立場を得ましたか? なぜ?

      4 イエスを仲保と認め,かつ大祭司と認めて受け入れた地上のクリスチャンたちは,新しい契約に入りました。そして,新しい契約の条件にしたがい,彼らの罪はゆるされ,かつ彼らは契約の民,すなわち『神の霊的なイスラエル』になりました。彼らはヱホバの民となり,『小より大に至るまで』皆ヱホバを知り,ヱホバの御名を負いました。いまや肉に割礼を施すよりもイエス・キリストに信仰を持つことが,正義のしるしになりました。(エレミヤ 31:31-34。ガラテヤ 6:15,16)仲保であるイエス・キリストは大祭司であり,彼らはヱホバの従属の祭司たちになりました。彼らは大祭司を通して,讃美の犠牲を神にささげ,また良き業を行いました。そのわけで,神は古い律法契約の奉仕者たちに,もはや資格を与えておりません。それで,古い律法契約の奉仕者になろうとタルソのサウロが努めても,それは時勢遅れのものでした。ヱホバ神は新しい契約の奉仕者たちに資格を与えられました。神の新しい契約の奉仕者になることは,大祭司であるイエス・キリストの従属の祭司の一員になることであり,ヱホバ神の『王なる祭司』の一員になることです。(ヘブル 3:1。ペテロ前 2:9。黙示 5:9,10)サウロは肉の業に頼り,肉である自分自身に依存しましたが,それはいまや無意味なことでした。肉の業にいくら頼つてみたところで,サウロは神の奉仕者になる正しい資格は得られません。他の人も自分自身や別の人に正しい資格を与えることはできません。しかし,人間にできないことも,神には為し得ることができます。

      5 ヱホバの民をそしつて,迫害したタルソのサウロは,ヱホバの為し得るどんな良い結果を示していますか?

      5 さて,タルソのサウロの例に示されているごとく,神はどのように正しい資格を人に与え,そしてクリスチャン宣教に従事させますか? サウロの例の示すごとく,現在ヱホバの民を責めている迫害者たちでも,もし正直な心を持ち,そしてよろこんで矯正をうける気持があるなら,彼らにもまだ救の希望があることが分ります。なぜなら,サウロ自身も,クリスチャンである『神のイスラエル』を烈しく責めた迫害者だつたからです。サウロは神の憐れみを必要としました。憐れみの御心を持つ神は,サウロの行を止めさせ,新しい契約の宣教に従事させました。使徒パウロは,次のように語つています『私は自分を強くして下さつた私たちの主キリスト・イエスに感謝する。主は私を忠実な者と見て,この務に任じて下さつたのである。私は以前には,神をそしる者,迫害する者,不遜な者であつた。しかし,私はこれらの事を,信仰がなかつたとき,無知なためにしたのだから,あわれみをこうむつたのである。その上,私たちの主の恵みが,キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い,ますます増し加わつてきた。「キリスト・イエスは,罪人を救うためにこの世にきて下さつた」という言葉は,確実で,そのまま受けいれるに足るものである。私は,その罪人のかしらなのである。しかし,私があわれみをこうむつたのは,キリスト・イエスが,まず私に対して限りない寛容を示し,そして,私が今後,彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。』(テモテ前 1:12-16,新口)今までヱホバの民を責めた迫害者も,自分の間ちがいと大きな罪を悟るとき,気落ちしてはなりません。サウロの例を見てごらんなさい。そして,あなたにも,あわれみが頂けることを信じなさい。

      6,7 (イ)迫害の行を止めさせられたサウロは,どのように自分に対するヱホバの御意を知りましたか?(ロ)サウロは,どんな要求に適つたため,資格を持つ神の奉仕者になりましたか?

      6 仲保であるイエス・キリストの完全な人間としての犠牲により,新しい契約が実施されました。このことを忘れてはなりません。神は新しい契約内に述べられている明白な約束にしたがい,罪と悪を許すことができます。新しい契約の栄光に輝く仲保イエスは,ダマスコにむかつて歩いていた迫害者サウロの目をくらまされて,それから,ダマスコへサウロを連れて行かせ,サウロがかつては迫害しようと思つていた一人の忠実なクリスチャン,ダマスコのアナニヤの来るまで,そこで待たせました。サウロが視力を失つてから3日目に,アナニヤはサウロのところに来ました。そのとき,アナニヤはヱホバ神がサウロに正しい資格を与え,新しい契約の宣教のためにサウロをお用いになることを説明しました。『彼は言った「私たちの祖先の神は,あなたが彼の御意を知り,あの義しい方を見,その口から声を聞くように,とあなたを予め選ばれたのである。なぜならば,あなたは見聞きしたことについて,すべての人に対し,彼の証人となるであろうから。今となつて,何の躊躇することがあろうか。立つてバプテスマをうけ,み名を呼んで,あなたの罪を洗い去りなさい。」』(使行 22:14-16,新世)『するとたちどころに,サウロの目から,うろこのようなものが落ちて,元どおり見えるようになつた。そこで彼は立つてバプテスマをうけ,聖霊に満たされた。』(使行 9:17,18,新口)サウロは,新しい契約の大創始者ヱホバ神の御名を呼ぶことにより,新しい契約の仲保の持つ清めの血で自分の罪を洗い去りました。ヱホバ神の定められた新しい契約は,悪をゆるして,もはや罪を憶えません。―ヘブル 9:14-26。

      7 いまやバプテスマをうけ,かつその罪がゆるされて聖霊に充ちたサウロは,自分が正しい資格を持つていて,神により遣わされたことを悟りました。資格を備えたサウロはその宣教をすぐ始めました。サウロは,たしかに宣教の資格を備えていました『サウロは,ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから,ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え,このイエスこそ神の子であると説きはじめた。……しかし,サウロはますます力が加わり,このイエスがキリストであることを論証して,ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。』サウロを殺そうとする陰謀があつたため,『彼の弟子たちが,夜のあいだに彼をかごに乗せて,町の城壁づたいにつりおろした。』サウロはエルサレムに到り,使途ペテロやイエスの(父が違う)実の兄弟ヤコブに会いました。『彼は使徒たちの仲間に加わり,エルサレムに出入りし,主の名によつて大胆に語りギリシャ語を使うユダヤ人たちとしばしば語り会い,また論じ合つた。しかし,彼らは彼を殺そうとねらつていた。』それで,サウロのクリスチャン兄弟たちは,彼を故郷のタルソへ送り返しました。―使行 9:19-30,新口。

      資格を得るための行動

      8,9 『不信仰の被い』を取り除く前に,奉仕者の資格を得るためのどんな行動が必要ですか?

      8 人は,サウロのように,キリストを通して輝く神からの光をうけ,自分の罪の道を悔い改め,神のあわれみをうけいれ,イエスの犠牲の血によつてその罪を洗い去るために,罪を許す御方である神の御名を呼び,そして水に没するバプテスマをうけて,その信仰を公やけに示さねばなりません。もし,そうしないならば,誰一人として新しい契約を結ばれている神の奉仕者になる正しい資格を頂くことができません。使徒パウロは,自分自身の宣教の資格を論じたときに,それらの事柄を明白に示しました。彼はひとたび自分の目をくらました不信仰の被いについて,述べてから,次のように語つています。

      9 『ヱホバに向く時には,その被いは取り除かれる。ヱホバは霊である。そして,ヱホバの霊のあるところには,自由がある。私たちはみな,顔おおいなしに,ヱホバの栄光を鏡に映すように見つつ,栄光から栄光へと,ヱホバと同じ姿に変えられていく。これは霊なるヱホバの働きによるのである。このように私たちは,あわれみをうけてこの宣教についているのだから,正しい振舞をなし,恥ずべき隠れたことを捨て去り,悪巧みによつて歩かず,神の言葉を曲げず,真理を明らかにし,神のみまえに,すべての人の良心に自分を推薦するのである。……私たちは自分自分を宣べ伝えるのではなく,主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。私たち自身は,ただイエスのために働くあなた方の奴隷にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになつた神は,キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために,私たちの心を照して下さつたのである。しかし,私たちは,この(宣教の)宝を土の中に持つている。その測り知れない力は神のものであつて,私たちから出たものでないことがあらわれるためである。……「私は信仰を働かした。それゆえに語つた」と(詩 116:10)にしるしてあるとおり,それと同じ信仰の霊を持つているので,私たちも信仰を働かしている。それゆえに語るのである。それは,主イエスをよみがえらせたかたが,私たちをもイエスと共によみがえらせることを知つているからである。……だから,私たちは落胆しない。』― コリント後 3:16から4:16,新世。

      10 ヱホバの栄光は,新旧二つの契約の仲保たちに,どんな影響をもたらしましたか? パウロにどんな影響をもたらしましたか?

      10 パウロは,古い律法契約の仲保であるモーセを引合に出しています。モーセは,シナイ山でヱホバの御使と話を交したときに,栄光の光でつつまれました。それで,山から降りて来たとき『顔の皮が光を放つていた。』そのため,恐れおののいたユダヤ人たちに話をするとき,モーセには顔の覆いが必要であつて,ヱホバの御使と話をするために山に帰る時まで,彼はその覆いを顔にかけていました。(出エジプト 34:29-35)ヱホバの栄光は,新しい契約の仲保であるイエス・キリストの顔に光り輝きましたが,いまや使徒パウロ自身も,鏡のようになつてヱホバの栄光を反映しました。パウロは,霊的な栄光から栄光へと,同じ像に変えられて行きました。それは,彼がますます知るようになった霊なるヱホバの働きによつたのです。

      11 パウロは,どのように「自分の宣教を光栄あるものとし」ましたか?

      11 このように,パウロは,栄光の光を反映してその姿が変えられていたためにその宣教において正しい振舞をいたしました。彼は悪巧みによつて歩かず,神の言葉を曲げませんでした。彼は恥ずべき隠れたことを捨て去りました。清い真理を明らかにすることにより,彼は神の御前に,すべての人の良心に自分を推薦しました。彼は新しい契約の奉仕者となつて伝道しましたが,彼の伝道をうけた人々に何かを覆つて隠したというものは一つもないのです。それで,パウロの宣べ伝えた良いたよりが覆われたなら,それはパウロの罪ではありません。この世の組織制度の神である悪魔サタンが,不信者の心をくらまして,それに覆いをかけたのです。悪魔は,『神のかたちであるキスリトの栄光の福音の輝きを,見えなくしているのである。』(コリント後 4:3,4)覆いをかけなかつたパウロは,給料をもらつているキリスト教国の牧師たちとは全く違うものです。牧師たちは,神の言葉を売物にしていますが,パウロは一度もそのようなことをしたことがありません。パウロは真心をこめて,神の与え給うた音信を語りました。彼は『神のみまえで,キリストにあつた』と知つていたため,『自分の宣教を光栄あるものとし』,瀆すことをしなかつたのです。―コリント後 2:17とロマ 11:13,新世。

      12 新しい契約のすべての奉仕者たちはパウロのように,誰を知らねばなりませんか? そして,なぜ?

      12 パウロの仕えていた新しい契約は,次のように述べていました『少より大にいたるまでことごとく我をしるべければなりとヱホバいい給う。』そして,使徒パウロはヘブル書 8章11節でこの言葉を引用しました。(エレミヤ 31:34)パウロはヱホバ神を知つており,ヱホバの証者でした。新しい契約のすべての奉仕者たちは,ヱホバを知らねばなりません。もし知らないならば,新しい契約の宣教をする正しい資格を持つことができません。彼らは自分の知つているものの証者になる,すなわち,ヱホバの証者にならねばなりません。パウロは,そのことを考えつつ,友なる奉仕者たちにむかい『あなたがたに勧める。私にならう者となりなさい。』と言いました。(コリント前 4:16)新しい契約に属しているすべての奉仕者たちは,パウロに倣つて,その契約の神,すなわち罪をゆるされる御方であるヱホバの証者にならねばなりません。神御自身も,律法契約に属していた模型的な民にむかい,次のように言われました。『ヱホバ宣給わく,なんぢらはわが証人,わがえらびし僕なり。さればなんぢら知りて我を信じ,わが主なるを悟りうべし。』証者にたいするこの任命の言葉は,新しい契約に従う現在の神の僕級の者に,昔以上に良く適用する言葉です。神はそれらの者にたいする予言的な言葉を次のように述べておられます『この民はわが頌美をのべしめんとて,我おのれのために造れるなり。』(イザヤ 43:21)新しい契約に従う今日の奉仕者たちは,かつて人類にその姿を現わされたイエス・キリストの御顔に反映するヱホバの栄光を受けます。そして,今度は鏡のように,神の栄光に輝く知識の光を他の人々に反映します。それは,神を讃美するためであり,かつ人々に啓発を与えるためです。現在の暗黒の時代にあって,それを為す必要性は極めて大きいものです。

  • 資格を持つ奉仕者の任命
    ものみの塔 1956 | 3月15日
    • 資格を持つ奉仕者の任命

      1 資格を持つヱホバの奉仕者の任命は,エレミヤの場合に,どのように例示されましたか?

      パウロは『私たちの正しい資格は,神から来る。神は私たちに新しい契約のための奉仕者の資格を正しく与えておられる。』と言つています。(コリント後 3:5,6,新世)つまり,御自分の奉仕者を任命される御方は神であるということです。この事実は,イスラエルの古い律法契約の奉仕者エレミヤの場合に,例示されました。彼はアロンの祭司の家に生まれたため,当然エルサレムの宮に仕える祭司になるはずでした。しかし,祭司以上のもの,すなわち地の全国民に予言の言葉を告げる予言者になるためには,祭司ヒルキヤの子として生れただけでは不充分でした。人間でエレミヤを予言者にならし得る人はひとりもいません。予言の言葉を霊感し得る神だけが,エレミヤを予言者に任命して,彼に正しい資格を与えることができました。エレミヤは,次の言葉を述べて,自分が神より任命されたことを示しています『ヱホバの言葉我にのぞみて言う。われ汝を腹につくらざりし先に汝を知り,汝が胎をいでざりし先に,汝を聖め汝をたてて万国の予言者となせりと。……すべて,我汝を遣すところにゆき,我汝に命ずるすべてのことを語るべし,……ヱホバ遂にその手をのべて我が口につけ,ヱホバ我にいい給いけるは,視よわれ我言葉を汝の口に入れたり。みよ,我今日汝を万民のうえと万国の上にたてん。』― エレミヤ 1:4-10。

      2 なぜイエスは,エレミヤと同じ種類の任命を必要としましたか?

      2 ナザレで大工の仕事をしていたイエスも,ヱホバ神からの任命を必要としました。人間イエスは,イスラエルの祭司族に生まれたのではありません。彼はユダの王統に生まれたためダビデの地的な王位を相続し得ます。しかし,天的な王位を相続することはできません。王なる祭司であるメルキゼデクのような大祭司になるために,イエスはヱホバからの任命を必要としました。ヱホバ御自身も,イエスがそのような王なる祭司になることを予言的に誓われました。ヱホバの右にあるヱホバの御座に坐つて,天的な王になるためには,イエスには,人間の予言者や祭司の振り注ぐ任命の油以上のものを必要としました。イエスは,ヱホバ神から,聖霊を注がれることにより,任命をうけました。そのことにつき,パウロはこう書いています。『キリストもまた,大祭司の栄誉を自分で得たのではなく,「あなたこそ,私の子。きよう私はあなたを生んだ。」と言われたかたから,お受けになつたのである。また,ほかの箇所でこう言われている。「あなたこそは,永遠に,メルキゼデクに等しい祭司である。」』― ヘブル 5:5,6,新世。

      3 イエスは,自分の任命が洗礼者ヨハネからのものではなく,ヱホバからのものであると,どのように示しましたか?

      3 イエスは必要な任命を神から受けました。祭司ゼカリヤの子であるヨハネがヨルダン河でイエスに洗礼を施したとき,彼がイエスを任命して祭司または王にならせたわけではありません。ヨハネには,そうすることができません。ヨハネには,なぜイエスに洗礼を施すのか,自分でも分らなかつたのです。その洗礼は,神の御意を為そうと決意したイエスの献身を象徴するものです。しかし,ヨハネにはそれを悟り得ませんでした。イエスが世に来られたのも,実は神の御意を為すためであつたのです。水の洗礼は,イエスの献身を象徴するものであり,イエスの生活に変化が行われたことを示します。イエスが洗礼をうけて,水から出られた後に,彼の天的な父であるヱホバ神は,献身したイエスを霊的な子と耳で聞えるようにはつきり認められ,かつ聖霊を注がれることにより,イエスを任命いたしました。(マタイ 3:13-17)それから間もなくして,イエスはナザレの会堂に行つて人々にイザヤの予言を読み聞かせ,その任命を与えた方は,洗礼者である祭司職の系統のヨハネではなく,ヱホバであることを示しました。『ヱホバの霊は私にのぞんでいる。ヱホバは私を任命して貧しき者に良いたよりを宣べ伝えさせ,そして伝道させるために私を遣した。』それから,イエスは会衆にむかつて『あなた方のいま聞いたこの聖句は,今日成就された。』― ルカ 4:16-21,新世; 3:21-23。

      4 パウロがヱホバによって任命をうけたということは,どんな聖句に示されていますか?

      4 パウロも又,これと同じ任命を神からうけましたか? パウロはこう言いました『このために私は,伝道者として,また使徒として,……異邦人らの教師として任命され,信仰と真理とを伝えるのである。』(テモテ前 2:7,新世)誰から任命されましたか? ガラテヤ人に述べた言葉の中で,パウロは次のように答えています。『人々から任命されたのでもなく,人によつて任命されたのでもなく,イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせ給うた父なる神とによつて任命された使徒パウロ……私が母の胎にある時に私を選び,御恵みにより私を召された方が,御子を私に啓示して,私をして異邦人らの中に彼を伝えさせることを善しとされた時,直ちに,私は血縁の者に相談もせず,エルサレムに行つて,私より先に使徒になつている人たちに会いもせず。』(ガラテヤ 1:1,15-17,新世)パウロは洗礼を施されました。洗礼を施した者は,多分,洗礼を命じたアナニヤのようです。洗礼をうけた後,パウロは『聖霊に充され』ましたが,それはヱホバがキリストを通して彼を任命したことを示します。キリストはパウロを選んで御名を担う器にならせました。―使行 9:15-18。

      5,6 コルネリオとその親戚,友人たちを任命したときに,ペテロはどのような役割を果しましたか?

      5 割礼をうけなかつた最初の異邦人改宗者たちも,神からの任命をうけて,新しい契約の奉仕者になりました。彼らの任命が神からのものでないなら,ユダヤ人のクリスチャンたちは,彼らを任命されたクリスチャン奉仕者とは,とうてい認めなかつたことでしよう。使徒ペテロがイタリヤ人のコルネリオやその多くの親戚,友人たちに伝道し終らない中に,割礼をうけなかつたこれら非ユダヤ人たちはキリストを通して示された神の恵みを信じて受け入れました。神は彼らを任命して宣教を行う御自分の証者に任命しました。聖書の歴史は,次のように述べています。『ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに,それを聞いていたみんなの人たちに,聖霊がくだつた。割礼を受けている信者で,ペテロについてきた人たちは,異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て,驚いた。それは彼らが異言を語つて神をさんびしているのを聞いたからである。そこで,ペテロが言い出した。「この人たちが私たちと同じように聖霊を受けたからには,彼らに水でバプテスマを授けるのを,誰がこばみ得ようか。」こう言つて,ペテロはその人々に命じて,イエス・キリストの名によつてバプテスマを受けさせた。』後日,ペテロはエルサレムにいる仲間のユダヤ人クリスチャンたちに,こう説明しました。『そこで,私が語り出したところ,聖霊が,ちょうど最初私たちの上にくだつたと同じように,彼らの上にくだつた。……このように,私たちが主イエス・キリストを信じた時に下さつたのと同じ賜物を,神が彼らにもお与えになつたとすれば,私のような者が,どうして神を妨げることができようか。』― 使行 10:44-48; 11:15-17,新口。

      6 それで,ペテロは彼らに洗礼を施しました。しかし,彼らを任命したのではありません(神はすでに彼らを任命しました)。その洗礼は,彼らの信仰と献身を象徴するものでした。神は,彼らが洗礼をうける以前に,奇蹟的な証拠を示し,その献身をうけ入れていたのです。

      7,8 今日地上にいる油注がれた証者たちの残れる者が,神より任命されたというどんな証拠がありますか?

      7 献身している今日のヱホバの証者については,いかがですか? 今日のヱホバの証者も,非常に大切な宣教の奉仕者という資格を得るため,神からの任命を必要とします。過去19世紀のあいだ,ヱホバ神はそのような奉仕者たちを選んで来られ,新しい契約の油注がれた奉仕者に任命してきました。しかし,今日では極く少数の残れる者がいます。それらの者は,神の女の制度の裔の『残れる者』です。(黙示 12:17)ヱホバ神は,それらの者にむかい,こう言われます。『なんぢらはわが証人わがえらびし僕なり。』(イザヤ 43:10)一つの群になつているこの残れる者たちは,現在僕の群,すなわち奴隷の群を形づくります。彼らは,イエスの予言の中で言われている者たち,つまり『家人の上に任命して,正しい時に食物を与える忠実にして慧い奴隷』たちです。残れる者たちは,そのような僕になる任命を誰からいただきましたか? 人間からうけたのではなく,その主,すなわち現在統治している王イエス・キリストからその任命をうけました。イエス・キリストが1914年に御国に来て以来,また『神の家』を裁く目的で1918年に宮に来て以来,献身した油注がれたクリスチャンたちの残れる者は,自分たちの任命された仕事を成し遂げています。それで,イエスは約束通りの事を彼らにいたしました。『私はほんとにあなた方に言う。主人は彼を任命して全財産を管理させるであろう。』― マタイ 24:45-47,新世。

      8 彼らが,栄光をうけた目に見えないキリストによつて任命され,かつ正しい資格をうけていることについて,どのような証拠がありますか? その証拠は,彼らが『正しい時に霊的な食物』を与えていることです。ヱホバの次の予言は,彼らに当てはまりません。『主ヱホバ言いたもう。視よ,日至らんとす。その時我飢餓をこの国におくらん。これはパンに乏しきに非ず,水に渇くに非ず。ヱホバの言葉を聴くことの飢饉なり。』(アモス 8:11)この予言は,キリスト教国の牧師や会衆に適用します。彼らは,『奴隷』級の手や口で給せられる食物を拒絶し,霊的な食物の飢饉をうけています。そのわけは,彼らが『忠実にして慧い奴慧』級の正しい任命を認めていないからです。しかし,霊的な必要物を意識している幾十万という他の人々がいます。それらの人々は,何処で霊的な食物を得るかを知つており,ヱホバの証者の油注がれた残れる者の手からその霊的な食物をいただきます。これらの人々は,正直で,謙遜な,羊のような民です。そして,ヱホバの正しい羊飼であるイエス・キリストは,彼らをその檻に導いて『他の羊』にならせ,油注がれた残れる者とともに『一つの群』にいたします。―ヨハネ 10:16。

      新しい契約に属す奉仕者たち

      9,10 『他の羊』は,『新しい契約の奉仕者』ではありませんが,彼らは今日なぜ正しく任命された奉仕者なのですか?

      9 『他の羊』はヱホバの正しい羊飼に従わねばなりません。そのため,彼らはその羊飼と同じように「忠実にして真の証者」になり,また正しい資格を持つヱホバ神の奉仕者になることは是非とも必要です。使徒パウロは,霊的イスラエルの『聖なる国民』の一員として新しい契約に入つていたため,祭司のごとき奉仕者であり,そして天的な召を持つ『王なる祭司』の一員でした。もちろん,『他の羊』は,使徒パウロと同じような意味で『新しい契約の奉仕者』になるのではありません。しかし,霊的なイスラエルは昔のイスラエル人によつて予影されていたことを,私たちは記憶しているべきです。このイスラエル人たちは,選ばれた国民であつたため,その神ヱホバと結ばれていた古い律法契約に従つていました。そのイスラエル人の中には,一時的な住民または外国人の寄留人として多くの非イスラエル人たちがいて,彼らはいろいろな方法で奉仕していました。その中のある者は,宮の奴隷にもなりました。彼らもヱホバを自分たちの神と認めて,ヱホバを崇拝しました。ヱホバの律法は彼らを保護し,また多くの祝福と特権を与えました。彼らは『あなた方の門の中にいる一時的な住民』であつて,イスラエルの安息日には働かなかつたのです。(出エジプト 20:8-10,新世)彼らはヱホバの御名に非難をもたらしてはならず,イスラエル人たちといつしよにヱホバを讃美いたしました。彼らは,アブラハムの直系の裔を通して,ヱホバよりどれ程祝福されているかを示しました。

      10 それと同じことが,霊的イスラエル人の『門の中にいる現代の一時的な住民』である『他の羊』について言えます。彼らは,新しい契約に属す霊的なイスラエル人ではありません。しかし,彼らはその新しい契約の祝福と規定の下に生活し,さらに新しい契約に一致する生活を行わねばなりません。彼らは,霊的イスラエルの残れる者とともに新しい世の社会にならねばなりません。彼らはヱホバの証者になり,この世の組織制度が全く終る前に,全国民への証として御国のたよりを伝道するという一般的な律法に従わねばなりません。(マタイ 24:14)これをするためには,彼らも又正しい資格を持たねばなりません。しかし,それには,先ず神からの任命が必要です。その任命をうける必要な行として,彼らは御子イエス・キリストを通して愛の心から進んで神に献身しました。そして,彼らは,イエスのなしたごとく,水による洗礼を受けることにより,神への全き従順を示しました。神は彼らの正しい献身を認めて,その正しい羊飼イエス・キリストの『一つの群』に入れられます。しかし,それは彼ら『他の羊』級のものが霊的イスラエルの成員になることではなく,また天的な相続を持つ王なる祭司の一員になることでもありません。ましてや新しい契約の祭司の業をする奉仕者になることではありません。それは,彼らがヱホバの証者になり,そして新しい契約のもとで資格ある正しい奉仕者になることです。神は彼らを地的奉仕者に任命して,霊的イスラエルの油注がれた残れる者とともに御自身に奉仕させます。ヱホバは,新しい契約の仲保であるイエス・キリストを通して為される彼らの献身をうけ入れます。それで,彼らは神からの任命をうけるのです。男であろうと,女であろうと,彼らはみな任命された奉仕者です。

      11 聖書から見るとき,ヱホバの任命する奉任者たちは,この世の諸国家のつくる任命の規則によつて,どのような影響をうけますか?

      11 このことだけからも,クリスチャン奉仕者たちに特別な考慮を払うと主張する国家は,彼らを認めて,聖書的に任命された奉仕者と見なすべきでありましよう。諸国家は,我儘で独裁的であり,自分勝手な規則や要求をつくり上げています。そして,その規則に照らし合わせて,誰が神より認められて任命された真実の奉仕者であるかを決定します。諸国家は,これら献身した人々を神の奉仕者と認める以前に,ある人,人の群,または宗教団体の発行する任命書の提出を要求したり,あるいはなんらかの人間の儀式を行うよう要求しますが,しかし,それは聖書から見て全く間ちがつたものであります。霊感を受けないこの世の立法者たちが聖書を書いたのではありません。神は御霊の活動力によつて聖書を書かせました。神の真の奉仕者たちは,神に献身し,そして神から任命されたことについて,霊感をうけた聖書の証言を持つています。奉仕者が果して神から任命された者であるか否かを調べるには,任命者である神の書かれた言葉を調べるべきであつて,人間のつくつた法律とか,裁判官たちの法的な解釈に依存すべきではありません。

      12,13 奉仕者であるヱホバの証者で成り立つ社会の組織と運営について,いろいろと干渉するこの世の妨害者たちに,どのような答を正しく為すべきですか? そして,なぜ?

      12 宇宙主権者である神は,御自分の民で成り立つ目に見える制度が,どのように組織されて,運営されるか,またその制度内で誰がどのような条件にもとづいて,御自分の奉仕者になるか,を決定する権利を持つておられます。キリスト教国の宗派でさえも,その宗派制度についてのこの権利を認めています。昨年,アメリカ合衆国の長老派教会の総執事は,アメリカ・ニュージャーシイ州のプリンセトンで行われた世界長老派同盟の400人の代表者たちに講演を行い,基礎的な宗教自由の中で「教会団体の内部機構とその状態を決定する自由」を述べています。それから,彼はこう言葉を続けました。『教会が慎重に考慮して祈りの中に決定したにもかかわらず,国家あるいは社会が,この責任を果すための自由を取り除くなら,国家にむかつて「否」と申し立て,社会にむかつて「否」と申し立てるのは,教会の義務である。』(1954年7月29日,ニューヨーク・タイムズ)神権的なヱホバの証者は,新しい契約制度がどのように建てられ,またどのように運営されるかに関するヱホバの規則と任命にかたくつき従います。ヱホバの証者は,この世の妨害者に『否』と言います。

      13 宗教家がヱホバの証者の上に手を置いて任命を授けるなどということは,全く必要でありません。証者の任命は神からのものであり,しかも彼らがキリストを通して神に永遠の献身をなしたために,その任命をうけたのです。献身の象徴である水の洗礼を施す人の手が置かれることによつて任命されるのではありません。しかし,水による洗礼というものが,神からの任命に関係を持つているところから,また記録をつけるという目的からも考えて,彼らは,洗礼をうけた日が,神より任命をうけた適当の日であると言うことができます。かくして,任命の日を問う国家の法律に沿うことができます。ヱホバの証者たちは,資格を与える神の御手が自分たちの上に置かれてもらいたいと欲しています。それは,エレミヤの口に触れて,『視よ,われ我言葉を汝の口に入れたり。』と述べた神の御手です。(エレミヤ 1:9)ヱホバの証者は,祭司エズラを安全にエルサレムに連れ戻した神の御手を欲しています。『その神の良き手これが上にありしに因りてなり。』その同じ御手について,エルサレムの石垣を建てたネヘミヤは次のように述べています。『私の上に臨んだ神の良き手の故に,王は(それらを)私に与えた。』(エズラ 7:6,9,28。ネヘミヤ 2:8,18,新世)詩篇記者は,次のように述べています。『ねがわくは,なんぢの手をその右の手の人のうえにおき,自らのために強くなしたまえる人の子のうえにおきたまえ。』(詩 80:17)ヱホバの御手がまず最初私たちの上に置かれて,私たちを資格ある奉仕者と任命すべきです。もし神の手が私たちの上に置かれないならば,たとえ人間の手が置かれるにしても,それには何の力もなく,ただの形式に過ぎません。

      14 どのような大切な面で,霊的イスラエルとその献身した友たちは,キリスト教国の牧師と異りますか?

      14 霊的イスラエルの油注がれた残れる者,および献身していて彼らにつき従う者たちをこの世から分けているのは,ヱホバの御手であります。エルサレムの宮が落成したとき,王ソロモンは,神にむかつて次の予言的な言葉を述べました。『そはなんぢ彼らを地のすべての民の中より別ちてなんぢの産業となしたまえばなり。神ヱホバなんぢが我らの父祖をエジプトより導き出せし時,モーセによりて言い給いしごとし。』(列王紀略上 8:53)彼らはみな,神の御国の良いたよりを伝道するため,この世から分けられています。使徒パウロは,手紙の書き出しの部分で,そのことを,こう示しています『キリスト・イエスの僕,神の福音のために選び別たれ,召されて使徒となつたパウロから,― この福音は,神が,予言者たちにより,聖書の中であらかじめ約束されたものであつて,御子に関するものである。』(ロマ 1:1,2,新口)彼らは,このように選び別たれている故,汚れない清い崇拝,すなわち清い宗教を行わねばなりません。それには,『世の汚れに染まず』身を清く保つべきです。(ヤコブ 1:27)このことから,彼らは,キリスト教国の『正規奉仕者たち』つまり牧師たちとは,全く違つています。牧師たちは,この世から選び別たれていると主張し,また国家の法律は彼らを選別された者と認めていますが,しかし,実際には彼らは,諸国家の政治や争いに巻きこまれており,この世の汚れに染まつています。

      特別な任命

      15 初期のクリスチャン会衆では,任命の力はどのように行使されましたか?

      15 霊的イスラエルの国民と,彼らに附き従う献身している者たちは,みなこの世から分けられており選別されています。彼らは一人残らず資格を持つ奉仕者であり,新しい世の社会であります。しかし,その中でも,特定な人々はいろいろの責任の仕事に選別され,そのために任命をうけます。例えば,1世紀のアンテオケ(シリア)の会衆には,クリスチャン予言者や教師がいました。そして,それらの者はみな責任のある地位について奉仕をしていました。聖書の記録は,こう述べています。『彼らがヱホバに奉仕して,断食をしているとき聖霊は「私の召した業を行わせるため,バルナバとサウロを選別せよ」と告げた。そこで,一同は断食して,祈りを捧げ,ふたりの上に手を置いた後,出発させた。』(使行 13:1-3,新世)会衆の代表者たちが,ふたりの上に手を置いたことは,特別な奉仕につかせるための一種の任命でありました。後日,パウロとバルナバがこの特別な奉仕活動を行つているとき,彼らは新しくつくられた会衆内の円熟している者たちを任命して,それぞれ責任のある奉仕の地位につけさせました。『会衆にいる彼らのために円熟者たちを任命し,断食をして祈りを捧げ,彼らをその信じているヱホバにゆだねた。』(使行 14:23,新世)使徒パウロは,若いテモテに任命の力を委託したとき,こう語りました。『あなたは,年が若いために人に軽んじられてはならない。……軽々しく人に手をおいてはならない。また,ほかの人の罪に加わつてはいけない。自分をきよく守りなさい。』― テモテ前 4:12; 5:22,新口。

      16 新しい世の社会内で神権的に任命された僕たちは,なぜ牧師階級ではありませか?

      16 それで,新しい世の社会内にいる特別な僕たちは,任命をうけねばなりません。しかし,それは民主的な仕方ではなく,神権的な仕方でなされるべきであつて,しかもその任命は統治体または他の国にある統治体の代表者によつてなされるべきです。しかし,会衆内に特別な宣教の僕,すなわち監督者たちが任命される

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