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わたしの偉大な創造者を知りたいとの願いをいだいてものみの塔 1970 | 9月1日
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た。最後にバックミラーで男の様子を見た時には,彼は石像のようにその場につっ立ったままでした。
この経験は忘れられません。それは,自分が創造者と親密な関係を持っているということをしみじみと考えさせるものになりました。神はご自分のしもべたちを保護し,あらゆる悪に耐える力を与えてくださる,ということをわたしは知りました。
エホバを知ることに費やした長い年月を振り返るとき,数多くの楽しい特権にあずかれたことを思い起こします。首都ワシントンをはじめ,11の州で開拓奉仕をしました。また,エホバの崇拝者たちの家族が増大するのを目のあたりに見てきました。現在の邪悪な世界に臨むハルマゲドンを生き残って,この美しい地上のすみかで永遠に生きるという希望を今や幾十万もの人々がいだいているのです。
しかし,愛ある創造者について学ぶべきことは今なお数多くあります。わたしは今でも,自分が,かつて星空を仰いで,偉大な創造者について思いめぐらした幼い少女のような気がします。創造者がお造りになったものは,すべてあまりにもすぐれた美しいものであり,地上のそのむすこや娘たちの目にたいへん喜ばしいものです。わたしの創造者に仕える,この貴重な宝をわたしは決して手離したいとは思いません。わたしの心からの願いは,詩篇作者の次のことばに,あますところなく言い表わされています。「われ一つ事をエホバにこへり 我これをもとむ われエホバの美しきを仰ぎ その宮をみんがためにわが世にあらんかぎりは エホバの家にすまんとこそ願ふなれ」― 詩 27:4。
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読者からの質問ものみの塔 1970 | 9月1日
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読者からの質問
● エホバ神はみずからモーセと話されたのですか。それとも天使を代理として用いて,話されたのですか。
エホバはモーセと一度ならず交信されました。ホレブ山の近くで義理の父の羊の群れを見張っていた時,モーセはしばが燃えているのを目撃しました。しかし,そのしばは燃えつきなかったのです。出エジプト記 3章4-6節には次のようにしるされています。「エホバ 彼がきたりみんとするを見たまふ すなはち神しばの中よりモーセよモーセよと彼を呼び……またいひたまひけるは 我はなんぢの父の神アブラハムの神イサクの神ヤコブの神なりと モーセ神を見ることをおそれてその面をかくせり」。この時モーセに実際に語っていたのはだれですか。2節には,「エホバの使者しばのなかのほのほの中にて彼にあらはる」と書かれています。したがって,そこでモーセに現われ,彼に語ったのはエホバご自身ではなく,神の代理としての,エホバの天使が神のお名前によって語ったのです。
エホバの命令で,モーセはエジプトに行きました。パロの前に出て,イスラエル人をその地から導き出すためでした。エホバはそこでもモーセに語り,パロに伝えるべき特定の音信や,その国にもたらされる災いを事前に知らされました。この時にも,ホレブにおけると同じく,エホバは直接ではなく,代理の天使を通してモーセと語られた,と結論するのが合理的です。
その後,モーセは解放されたイスラエルの子孫を伴って,エホバが,彼に最初指示を与えられた場所の近辺に帰ってきました。その時,ホレブ山のふもとの近くに集まっていたイスラエル国民すべてに向かって,エホバは皆が聞こえるような仕方で十戒を伝えられました。(出エジプト 20:1-18,22。申命 9:10)各部族のかしらと民の中の長老たちとは恐れをいだき,エホバがこのような畏怖の念を起こさせる仕方で語られることがないように,むしろモーセを通して交信していただきたいと懇願しました。その結果,民は自分のテントに退き,エホバはその国民に対するご自分の数々の決定をモーセに知らせました。―申命 5:4,23-31。
その後,モーセとアロン,ナダブとアビウさらにイスラエルの70人の長老たちは,律法契約の発足の際,「まことの神のまぼろし」を見ることを許されました。(出エジプト 24:11)しかし,モーセ個人の経験にかんしてはこうしるされています。「エホバの栄光シナイ山の上にとどまりて 雲山をおほふこと六日なりしが 七日にいたりてエホバ雲の中よりモーセを呼たまふ エホバの栄光 山のいたゞきに燃る火のごとくにイスラエルの子孫の目に見えたり モーセ雲の中に入り山に登れり モーセ四十日四十夜山に居るエホバ,モーセに告て言たまひけるは……エホバ,シナイ山にてモーセに語ることを終たまひし時律法の板二枚をモーセに賜ふ これは石の板にして神が手をもて書したまひしものなり」。(出エジプト 24:16–31:18)エホバはみずからシナイ山において国民全体に十戒を告げ,その後さらにモーセに御自分の数々の決定と律法の刻まれた板とを与えられたのですか。この記述を読む人々は多くの場合そう結論するかもしれません。
しかし,クリスチャンの弟子でユダヤ人のステパノは,ユダヤの最高法廷の前で神の霊に動かされて語ったとき,こう説明しました。「モーセ……はシナイ山にて語りし御使および我らの先祖たちとともに荒野なる集会に在りて 汝らに与へんために生ける御言を授かりし人なり」。続いてステパノは,自分の面前にいる人に向かって,「なんぢら,御使たちの伝へし律法を受け(し)」者と語りました。(使行 7:37,38,53)このこととまったく一致するものとして,使徒パウロはモーセの律法を,「御使によりて語り給ひし言」と呼びました。(ヘブル 2:2)さらに,ガラテヤの会衆に手紙を書き送った際,彼はこうしるしました。「律法は……御使たちを経て中保の手によりて立てられ(たり)」。(ガラテヤ 3:19)したがって,エホバが国民にみずから語り,再度みずからモーセに語られて,2枚の律法の板を与えられたのではなく,ご自分の御名によって語る権限を与えた代理の天使を通して,エホバはそれらのことを行なわれたのです。
それからしばらく後のことですが,モーセは「願くは汝の栄光を我に示したまへ」,とエホバに特別に願い求めました。エホバの答えは次のとおりです。「我わが諸の善を汝の前に通らしめエホバの名を汝の前に宣ん 我は恵んとする者を恵み 憐まんとする者を憐むなり」。そして,「汝はわが面を見ることあたはず 我を見て生る人あらざればなり」と付け加えられ,さらに次のように言われました。「我が傍に一のところあり 汝いはの上に立べし わが栄光そこを過る時に我なんぢをいはの穴にいれ我が過る時にわが手をもて汝をおほはん しかして我が手を除る時に汝わが背後を見るべし わが面は見るべきにあらず」― 出エジプト 33:18-23。
朝早くモーセはシナイ山に登りました。「エホバ雲の中にありて降り 彼とともにそこに立ちてエホバの名を言たまふ エホバすなはち彼の前を過て宣たまはく エホバ,エホバ憐憫あり恩恵あり怒ることの遅く恩恵と真実の大なる神 恩恵を千代までも施し悪と過と罪とをゆるす者 また罰すべき者をば必ずゆるすことをせず 父の罪を子に報い子の子に報いて三,四代におよぼす者 モーセ急ぎ地にみをかがめて拝(せり)」。(出エジプト 34:4-8)その朝,エホバはシナイ山にみずからおられたのでしょうか。そして,モーセは神ご自身の「背後」を見たのですか。
「我を見て生る人あらざればなり」とエホバがモーセに告げられたことを忘れないでください。(出エジプト 33:20)後日,使徒ヨハネは次のことを事実として述べました。「未だ神を見し者なし」。(ヨハネ 1:18)しかし興味深いことに,神を恐れる羊飼いにイエスの誕生を天使が告げ知らせた時のことに関して,ルカ伝 2章9節(新)はこうしるしています。「すると突然エホバのみ使いが彼らのかたわらに立ち,エホバの栄光が彼らのまわりにきらめいた」。したがって,エホバの栄光は天使たちに関連して現わし示されうることがわかります。エホバがご自分の栄光をモーセに現わされた時にも,明らかに同じことが起こったと思われます。しかし,エホバの栄光と言っても,その全勢力ではなく,残光,いわば神の「背後」でしかなかったためにモーセは死を免れました。これは,モーセが,「シナイ山にて語りし御使」とともにいたというステパノの説明と符合します。その後,モーセの携えてきた二組の新しい板に,神の力によって十戒がしるされました。―出エジプト 34:28。
後日,アロンとミリアムが自分の弟モーセを非難したのをしっ責されたエホバは,アロンとミリアムにこう語られました。「汝らわが言をきけ 汝らの中にもし預言者あらば我エホバ異象において我をこれに知しめ また夢においてこれと語らん わがしもべモーセにおいては然らず 彼はわが家にて忠義なる者なり 彼とは我口をもて相語り明かに言ひて隠語を用ひず 彼はまたエホバの形〔姿,リーサー訳。ユダヤ教出版協会〕を見るなり」。(民数 12:6-8)これはアロンとミリアムにとって適切なしっ責でした。なぜなら,このふたりは,自分たちによってエホバが語っておられ,それゆえ自分たちはモーセに劣らない預言者である,と豪語していたからです。
これまでに学んだことから考えて,モーセと「口をもて相語」ったと述べたエホバは,その時アロンとミリアムに何を理解させようとしておられたのか,という点をここで問うことができるでしょう。エホバがモーセと交信された方法は,天使を用いてなされた,他の預言者との交信と,どのように異なっていましたか。
モーセは,エホバがご自分とイスラエル国民との間の仲介者として選んだ者でした。神はその国民に対する指示と律法契約の法典をモーセに与えられました。エホバは『ご自分の家をことごとく』モーセに託し,国民を組織するに当たり,モーセをその親しい代理として用いられました。その後の預言者は,モーセを通して置かれた基礎の上に築くことを続けたにすぎません。それ以前に,神は天使を通して,ノアやアブラハムといった忠実な人々に語り,また,ある時には国民全体に聞こえるような仕方で十戒を伝達されたこともありました。しかし,それにもかかわらず,エホバはモーセと「口をもて相語」り,また『人がその友に言談ごとくに面をあはせて』話をされたのです。(出エジプト 33:9-11)一度や二度に限らず,再三再四エホバはモーセに語られました。一方,モーセも神に話しかけ,問題を述べてエホバの導きを求め,自分の感情を表現し,エホバはご自分の天使によって答えられました。モーセが仲介者,あるいは媒介者の資格において享受したような,神との相互の親しい不断の交信を経験した預言者はほかにいませんでした。―申命 34:10。
エホバはホレブ山で,ご自分の天使を介しモーセにこう語られました。「汝はわが面を見ることあたはず 我を見て生る人あらざればなり」。(出エジプト 33:20)したがって,「モーセはエホバが面を対せて知たまへる者なりき」と述べている申命記 34章10節は,モーセがエホバの御顔やエホバご自身を見たことを意味するのではけっしてありません。また口は顔の一部ですから,エホバは「我口をもて相語り(たり)」と言っておられても,それはモーセが神の顔を見たとか,神とじかに接したとかという意味ではありません。天使を介して神に個人的に聞いていただいたにすぎないのです。天使に関して,イエスはマタイ伝 18章10節でこう述べています。彼らは,「天にいます我が父の御顔を常[必要な時]に見るなり」。
エホバは,深い感銘を与える仕方でモーセに接しられました。そのために神がご自分の預言者と交信される普通の仕方,つまり心中の幻や夢の中で語るのを預言者が聞くのではなく,モーセは自分の目で実際にエホバを見たかのようでした。モーセがエホバを実際に見たのではけっしてありません。また,神がモーセに語られたのは天使を通してではありましたが,エホバは真に迫った仕方でモーセに対処されたので,モーセは「見えざる者を」見ているかのように応じたのです。(ヘブル 11:27)さらに,そうした記述に見られる描写方法からも,モーセがエホバ神ご自身を見,そしてその声を聞いたかのように感じられ,また読み取れます。
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聖書教育のための公開集会ものみの塔 1970 | 9月1日
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聖書教育のための公開集会
● エホバの証人が主催する,聖書教育のための公開集会は,建てられた,神の御国の良いたよりを伝道する上で,大切な役割を果たしています。これまでに何千人もの人々が,こうした公開集会により,地球と人類に対する,神のお目的を理解できるようになりました。次に公開集会の価値を示す経験を掲げます。
「関心を持つ,ある婦人と第1回の家庭聖書研究を終えた後,わたしは,御国会館で行なわれる,聖書に関する,新しい一連の公開講演について話し,数週間にわたる講演の題をしるした招待ビラを差し上げました。二,三週間後,その婦人は,世間で言われているように,エホバの証人は他の宗派に対して批判的かどうかを尋ねました。それに対する答えの中で,わたしは,御国会館に来て,その週に予定されている講演会を聞くよう勧めたところ,婦人はさっそく出席しました。
「婦人は講演を聞いて,深い感銘を受け,自分の属している教会との関係を一切断つつもりでいる,と語りました。わたしは,彼女に次の講演に出席するよう招待し,講演はいずれも興味深く,また,時宜にかなった主題の話であることを説明しました。婦人は,もはや他の教会へ行くつもりはないので,それらの講演に出席しますと述べ,そのとおりに実行しました。
「婦人は数回,日曜日にひとりで来ましたが,その後,ご主人も婦人といっしょに出席しはじめました。そのご主人は,以前,招待されたのですが,エホバの証人との聖書研究はしないことにしていました。彼は講演に2度出席した後,聖書研究をしたいから,わたしの夫に来てもらいたいと婦人を通して申し出ました。今,このふたりは日曜日の集会を決して欠かさず,また,家庭聖書研究の面でも,よく進歩しています」。
あなたは,聖書に関する,こうした教育的な講演に出席したことがありますか。それらの講演は無料で,また寄付が集められることもありません。また,毎週,違った主題の講演が行なわれており,わずか55分間で驚くほど多くを学び,深い喜びを味わえるでしょう。
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