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    ものみの塔 1959 | 9月1日
    • に就いて,伝道を続ければよいのです。パウロは自活するために天幕を作る仕事をしましたが,必要の大きい場所に行つてその仕事をし,そこにいる間は,良いたよりの伝道を主要関心事としたことを忘れないで下さい。単身であろうと,全家族であろうと,ヱホバの民はこのように働き人を緊急に必要とする場所に進んで出かけて行くことによつて,コリント前書 10章24節に記録されているいましめに心から進んで従うことを示しています。『だれでも,自分の益を求めないで,ほかの人の益を求めるべきである。』そして同時に,彼らのためにはヱホバからのゆたかな祝福が備えられています。というのは,『ゆたかにまく者は,ゆたかに刈り取ることになる』からです。―コリント後 9:6,新口。

      14 円熟へと成長するために,私たち各自は何をすべきですか。

      14 すべてのヱホバの証者は,円熟へと成長すべきです。パウロがテモテに助言した通りにしなさい,『すべての事にあなたの進歩があらわれるため,これらの事を実行し,それを励みなさい。自分のことと教のこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすれば,あなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる。』いつとはなしにこの世に逆戻りして,ハルマゲドンでこの世と共に滅ぼされることはクリスチャンの望みではありません。ですからクリスチャンは,キリスト教の宣教に常に努め,それに熟達しなければなりません。クリスチャンは,奉仕という上衣を常に保つことを望んで,神の御国の良いたよりを伝道し,そうすることによつて自分自身と他の人々を救います。ヱホバがどのくらいの期間私たちにこの良たよりを伝道させられるか,また悪魔の制度に滅びをもたらすまで,どの程度忍耐されるかは,私たちにはわかりません。しかしその時が来るまで,私たちは,私たちの前に現われるすべての特権を見守り機敏にそれをとらえることを望んでいます。私たちはどこにいようとも,また時が良くても,悪くても,御言葉を宣べ伝えることを望んでいます。―テモテ前 4:15,16。テモテ後 4:2,新口。

  • 「御心が地に成るように」(その17)
    ものみの塔 1959 | 9月1日
    • 「御心が地に成るように」(その17)

      イエスがヨルダン河で洗礼者ヨハネにより洗礼を受けた後,ヱホバは天から聖霊によつて彼に洗礼を施しました。かくして彼を正義の新しい世における『最高至上者の御心を実施する王』に任命いたしました。彼は象徴的な『岩』となり,追随者で成り立つ彼の会衆はその岩の上に建てられます。彼は,新しい世を支配する天的な御国で彼と共に『支配する聖なる者』となる弟子たちを集め始めました。西暦33年ニサンの14日,木曜日夜である過越の夜に,彼は11人の忠実な使徒たちと共に先ずユダヤ人の過越を祝いました。それから『主の夕食』と呼ばれるものを紹介しました。彼はパン種の入つていないパンを一片取り,彼らに食べるようすすめました。そして,それは罪人である人間のために犠牲にささげる彼の完全な人間の体を表わすと語つたのです。それから,ぶどう酒の杯を取つて,飲むようにと彼らにすすめ,それは彼の血を表わすと告げました。彼は次のように述べています。『これは罪のゆるしを得させようと,多くの人のために注がれる私の「契約の血」を意味する。』― マタイ 26:27,28,新口。

      8 彼の人間としての体には,何がなされるべきでしたか。どんな目的のために?

      8 この体については何がなされますか。ルカ伝 22章19節によると,イエスはこう言われました,『これはあなた方のために与えられる私の体を意味する。私の記念として,これを行いつづけなさい。』これは次のことを意味します。すなわち彼らのため,および彼を信じて彼の犠牲を受けいれるすべての人間のために彼の人間としてその体は,二度と繰り返されることのない犠牲,二度と行われることのない犠牲として与えられる,ということでした。その証明としてヘブル書 10章10節(新口)は,次のように述べています,『この(神の)御旨にもとづき,ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによつて,私たちはきよめられたのである。』彼の人間としての体は,完全なもので罪のない体であつたため,神にささげる犠牲として,うけいれられました。彼の体はパン種の入つていないパンで象徴されていました。聖書の中でパン種は,罪を象徴するものです。(コリント前 5:8。ヘブル 7:26-28)イエスは,彼の犠牲の価値と力を信ずる不完全で罪深い人類のために,御自身の体にその罪を負われました。ペテロは,クリスチャンたちに,次のことを思い起させています,『キリストもあなた方のために苦しみを受け,御足の跡を踏み従うようにと,模範を残されたのである。キリストは罪を犯さずその口には偽りがなかつた…私たちが罪に死に,義に生きるために,杙にかかつて私たちの罪をご自分の身に負われた。その傷によつて,あなたがたは,いやされたのである。』― ペテロ前 2:21-24,新世。

      9 イエスの血については何が為されるべきでしたか。なぜこのことは必要でしたか。

      9 パン種の入つていないパンというこの簡明な意味は,イエスが『ぶどうの実』であるぶどう酒の杯に課せられた意味からも支持されています。イエスは,それを彼らに渡して飲むようにと告げました,『これは罪のゆるしを得させようと,多くの人のために注がれる私の『契約の血』を意味する。』それで,そのぶどう酒は彼の血の象徴でした。血が彼の人間としての体の血管内にあるあいだ,それは,彼にとつて地的な人間の生命が完全であるという意味でした。イエスの体をつくらた創造主は,ずつと以前に次のように言われました,『肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,私はこれをあなた方に与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである。』(レビ 17:11,新口)イエスの血が注がれたことは,人間として彼が死ぬことを意味しました。ここで関係を持つものは人間の罪でした。そして,完全な人間の犠牲の血が神の祭壇上でそそがれることは必要だつたのです,『なぜなら,雌牛ややぎなどの血は,罪を除き去ることができないからである。』(ヘブル 10:4,新口)イエスは,自分の血について何を行うべきであるかを知つていました。彼は神の次の規則を知つていたのです,『血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない。』― ヘブル 9:22,新口。

      10 イエスが御自身の血に関連して述べられた契約は何でしたか。そして,何がすぐ間近にあると彼は示しましたか。

      10 ここでイエスが使徒たちの注意をひいた契約は,この血を必要としました。しかし,これはどちらの契約でしたか。神と結ばれた古い律法契約ではありません。その古い律法契約は,シナイ山で預言者モーセが仲立ちとなつてつくられたものです。主の夕食の時までには,律法契約は1500年以上のあいだ行われており,それは動物の犠牲の血を流すことにより実施されるようになりました。このことについて,使徒パウロは次のように述べています,『だから,初めの契約も,血を流すことなしに成立したのではない。すなわち,モーセが律法に従つてすべての戒めを民全体に宣言したとき,水と赤色の羊毛とヒソプとの外に,子牛とやぎとの血を取つて,契約書と民全体とにふりかけ,そして,「これは神があなた方に対して立てられた契約の血である」と言つた。彼はまた,幕屋と儀式用の器具いつさいにも,同様に血をふりかけた。こうして,ほとんどすべての物が,律法に従い,血によつてきよめられたのである。血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル 9:18-22,新口)それで,自分の生命の血を『契約の血』と言われたイエスは,彼の完全な人間としての生命の血に依存する新しい契約,そしてより大きな契約が間近いということを意味したのです。ルカ伝 22章20節(新世)によると,イエスは次のように言われました,『この杯はあなた方のために流す私の血によつて立てられる新しい契約を意味する。』

      11 イエスが新しい契約ということを述べられたとき,彼の使徒たちは誰の預言をおもい出しましたか。そして,罪をゆるすためには,この契約はどんな基礎の上に依存しなければなりませんか。

      11 この『新しい契約』を紹介するに際して,イエスは,古い律法契約を生来のイスラエルに成立せしめたモーセの言葉と同じ形式の言葉を用いました。すなわち『契約の血』という言葉を用いたのです。イエスが新しい契約という言葉を述べられたとき,使徒たちはエレミヤ記 31章31-34節に書かれてあるヱホバの約束を思い出したにちがいありません,『ヱホバいい給う,「視よ,我がイスラエルの家とユダの家とに新しき契約を立る日きたらん。……われ我が律法を彼らの中におき,その心の上に記さん。我は彼らの神となり,彼らは我民となるべし」とヱホバ言い給う。「人おのおの隣りとその兄弟に教えて,なんじヱホバを知れと又言わじ,そは少より大にいたるまで,ことごとく我を知るべければなり「とヱホバ言い給う。「我かれらの不義をゆるし,その罪をまた思わざるべし。」』この新しい契約は,エデンの聖所にいた完全な人間アダムに等しい完全な人間の犠牲の注がれた血に依存しないなら,ヱホバ神が人間の罪とあやまちをゆるし,その罪をもはや思い出されることがないということはあり得ません。完全な人間イエスは,死んで,御自分の罪のない血を注ぐことにより,神と人間のあいだの新しい契約の中立としての行いをしていたのです。

      12 古い律法契約の中にいる者と対照して,新しい契約に入れられる者は誰ですか。そして,彼らの一致と特権の同様なことは,どのように示されますか。

      12 モーセを通して古い律法契約に入れられた人々は,イスラエル人でした。すなわち肉による生来のユダヤ人でした。新しい契約に入れられる人々は,霊的なイスラエル人,内なるユダヤ人でなければなりません,すなわち肉の陽皮に割礼を受けたものでなく,心に割礼を受けた者たちです。それで,彼らは霊的なイスラエルの家の者,霊的なユダの家の者です。(ロマ 2:28,29)御霊にしたがうそのようなイスラエル人であるユダヤ人は,イエス・キリストが『岩』なるペトラとして御自身の上に建てる会衆をつくります。そのような霊的なイスラエル人であるユダヤ人は,新しい契約内のひとつの会衆である故,同じ特別なものを食べまた飲むことにより,その一致の状態および特権の同様なることを示します。モーセのみちびきを受けていたヱホバの民は『みな同じ霊の食物を食べ,みな同じ霊の飲み物を飲んだ。』― コリント前 10:3,4,新口。

      13 主の夕食を祝う際,数多い成員で構成されている会衆は,使徒パウロの述べるごとく,その一致を示しますか。

      13 パウロは,霊的なイスラエル人がたがいに一致していること,およびその神ヱホバと一致していることを論ずるため,この事実を用いています。そして,主の夕食を祝うことについて,次のように述べています。『私たちが祝福する祝福の杯,それはキリストの血にあずかることではないか。私たちがさくパン,それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから,私たちは多くいても,一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。』(コリント前 10:16,17,新口)霊的なイスラエルの会衆は,遂には14万4000人という多くの成員によつて構成されていますが,彼らは一致結合したひとつの体です。彼らがひとつの体として一致していることは,毎年1度だけ祝う主の夕食の際に,彼らがパン種の入つていないパンにあずかる,すなわち食べることにより表明されます。その一片のパンは,イエス・キリストの犠牲のからだを象徴します。彼らは1年中の毎日,その犠牲のからだに積極的な信仰,実を多く結ぶ信仰を働かすことにより,共通に食します。彼らが神を祝福するその象徴的な杯は,同じく彼らが共通に参加するものを表わし示します。それはイエス・キリストの貴重な生命の血です。彼らは彼の血に信仰を持つことにより,罪のゆるしを受け,義とされます。すなわち,ヱホバ神との正しい立場に立ちます。『しかし,まだ罪人であつた時,私たちのためにキリストが死んで下さつた……私たちは,キリストの血によつて今は義とされているのだから,なおさら彼によつて神の怒りから救われるであろう。』(ロマ 5:8,9,新口)人種,皮膚の色,地上の国籍,言葉,社会的な地位は,このひとつの会衆を分裂させません。―ガラテヤ 3:28,29。

      14 一片のパンと杯は,実際には何に注意を引いていますか。それにあずかる人々は,実際には誰と交わりをしますか。それで,なぜ彼らは偶像崇拝をしてはなりませんか。

      14 主の夕食は,イエス・キリストの犠牲に注意を力づよくひきます。特に,霊的なイスラエル人たちでなり立つイエスの会衆のためです。この完全な人間の犠牲は,ヱホバ神にささげられ,彼らは信仰によりその犠牲にあずかります。それで,彼らは偶像崇拝をすることができず,神に専心の献身をささげねばなりません。ぶどう酒の杯のある主の夕食の食卓は,象徴的には『ヱホバの杯』がある『ヱホバの食卓』です。その杯はイエスの契約の血を表わし示しました。彼の血は,ずつと以前のむかしモーセが古い律法契約を始めた際の動物の犠牲の血によつて予表されていたのです。出エジプト記 24章3-8節の記録によると,その古い契約を実施させるために用いられた血には,平和の捧げもの,すなわち『ヱホバに捧げる酬恩祭の捧げもの』の血がふくまれていました。酬恩祭の捧げものがさし出されたとき,犠牲の血,脂肪,そして大切な器官はヱホバにささげられました。祭司は指定されている部分を取り,犠牲をささげた人,およびその人といつしよにいた人々は,残りの部分を食べました。(レビ 3:1-17; 7:11-15,28-34)このようにその酬恩祭の犠牲により,昔のイスラエル人はヱホバ神の祭壇の食卓で,ヱホバ神と交わりの食事をしました。同じく,霊的なイスラエル人は,主の夕食を祝うとき,たがいに交わりを持つだけでなく,最も大切なことは神との交わりを持ちます。同時に偶像崇拝を行つて,悪鬼共と交わることはできません。パウロは,次のように言つています。

      15 主の夕食を祝う者たちに,パウロはこのことをどのように指摘していますか。

      15 『肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは,祭壇にあずかるのではないか。すると,なんと言つたらよいか。偶像にささげる供え物は,何か意味があるのか。また,偶像は何かほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は,悪霊ども,すなわち,神ならぬ者に供えるのである。私は,あなた方が悪霊の仲間になることを望まない。ヱホバの杯と悪霊どもの杯とを同時に飲むことはできない。ヱホバの食卓と悪霊どもの食卓とに,同時にあずかることはできない。』― コリント前 10:18-21,新世。マラキ 1:6-8,12。

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