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  • 神があなたの心に書かれんことを?
    ものみの塔 1957 | 5月1日
    • 神があなたの心に書かれんことを?

      『われ我が律法を彼らのうちにおき,その心の上に録さん。我は彼らの神となり,彼らは我が民となるべしとヱホバ言いたもう。』― エレミヤ 31:33。

      1 ヱホバは,どんな種類の心の上に書きますか。

      ヱホバが行おうと選ぶ事柄で,ヱホバに不可能なものはひとつもありません。幾千年ものむかし,シナイ山でイスラエルの国民と律法契約を結んだときに,ヱホバは2枚の石碑の上に御自分の律法を書かれました。いまでは,ヱホバは心の上だけに御自分のいましめを書かれます。その心とは,ヱホバを受け入れてヱホバに答え応ずるもの,謙遜と謙譲の中にヱホバに開かれているもの,そしてヱホバの言葉の力を受けて,素直に従い,よろこんで変化するものです。それですから,問題は,神があなたの心に書くことができるか,どうかということではありません。問題は,神に書いて頂けますか? あなたは,自らすすんで書いて頂きますか,ということです。神は,御自分の真理が偽善な卑穢な人々の耳に達することに興味を有して居られません。まして,それらの者の心に達することに興味を有して居られません。それで,あなたの心は,ヱホバの原則といましめを書いて頂くものとして,ふさわしいものでしようか。―マタイ 7:6。

      2 心の上に書く,というヱホバの目的は,何処に示されていますか。誰の心は,答え応じなければなりませんか。

      2 石碑に判まれた基礎的ないましめを有する律法契約が,まだ効力を持つている時でも,ヱホバは新しい契約によつて御自分の律法を人間の心に移される,という目的を告げられました,『視よ,我がイスラエルの家とユダの家とに新しき契約を立る日きたらん。されど,かの日の後に我がイスラエルの家に立てんところの契約はこれなり。すなわち,我わが律法を彼らの中におき,その心の上に録さん。我は彼らの神となり,彼らは我が民となるべしとヱホバ言い給う。』キリスト・イエスが死んで昇天してから間もない後の五旬節<ペンテコスト>のとき,古い律法契約は新しい契約と入れ変りました。そして,それと共に,内奥の心から感ずる正義への愛と,ヱホバの増し加わつた知識がともなつたのです。(エレミヤ 31:31,33。ガラテヤ 3:24,25。コロサイ 2:14。ヘブル 8:6-13)ヱホバの御霊によつて,天的な級になるよう油注がれた者だけが,この新しい契約に入れられました。しかし,地上で永遠の生命を得る人は,みなそれからの祝福にあずかります。それから,彼らの心はヱホバのいましめに答え応じなければなりません。丁度,新しい契約の存在する前に,忠実な人々が次のように書き得たことと同様です,『なんじの法は,わが心の中にあり。』そして『なんじの言葉をわが心のうちに貯えり。』― 詩 40:8; 119:11。

      なぜ心の上?

      3 ヱホバは,人間を測(はか)るとき,何処を見ますか。

      3 ヱホバは,人間を測られるとき,外面に従つて測られません。ヱホバは深く探り,事態の一番の心を探ります,『人は外の貌を見,ヱホバは心を見るなり。』外面の貌で,ヱホバが欺かれることは,ありません。『なんじの父の神を知り,全き心をもて喜び勇んでこれに事えよ。ヱホバはすべての心を探り,すべての思を悟りたもうなり。』ヱホバの裁きが,美しい顔とか,優美な体とか,特別に素晴らしい衣服などで左右されることはありません。ヱホバの裁きは,表の下に隠れている内なる人によつて決定されます,『あなたがたは,髪を編み,金の飾りをつけ,服装をととのえるような外面の飾りではなく,かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につけるべきである。これこそ,神の御前に,きわめて尊いものである。』― サムエル前 16:7。歴代志略上 28:9。ペテロ前 3:3,4,新口。

      4 心によつて何が象徴されますか。

      4 心によつて,何が象徴されますか。『心』と訳されているヘブル語は,しばしば愛情と動機,良心と道徳的な行為の中心を示すために,象徴的に用いられています。船は海の心にいると言われ又,ヨナは海の中心に投げこまれました。つまり,海の中に投げこまれた,という意味です。それで,この意味から,心という言葉は私たちの中なるもの,自分自身内の実際の私たち,内なる人,ということを指します。それは真実な人です,『その心に思うごとく,その人となりも亦しかればなり。』― シンゲン 23:7,34; 30:19。ヨナ 2:3。

      5 或る人々はどのように欺きを行いますか。しかし,遂には何が表明されますか。そして,なぜ?

      5 外面の貌は,或る偽善的な宗教家の場合のごとく,言葉を目論んで言うか,見せかけのための行などをする故に,人を欺くものです。イエスは,パリサイ人に対して,イザヤを通して述べられたヱホバの言葉を告げられました,『この民は,口さきでは私を敬うが,その心は私から遠く離れている。』またイエスは彼らについて次のように言われています,『そのすることは,すべての人に見せるためである。』(マタイ 15:8; 23:5,新口)しかし,真実の心の状態は,どんなに言葉や行に注意したにしても,永遠に隠すことはできません。なぜなら,心に溢れることが,遂には言葉になつて述べられ,行うようになるからです,『木が良ければ,その実も良いとし,木が悪ければ,その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。まむしの子らよ。あなた方は悪い者であるのに,どうして良いことを語ることができようか。おおよそ,心からあふれることを,口が語るものである。善人は良い倉から良いものを取り出し,悪人は悪い倉から悪いものを取り出す。』もし,心が悪いなら,それはその心の所有者に働きかけて,悪しき事を行わせます,『悪い思い,すなわち,殺人,姦淫,不品行,盗み,偽証,誹りは,心の中から出てくる。』― マタイ 12:33-35; 15:19,新口。

      6 ヱホバはどのように心の状態を顕わにいたしますか。

      6 心の奥にある考えや,感情はかくされていて,つらい試練を受けると初めて明るみに出てくることがあります。ヱホバは,イスラエルを試して,その心を顕わにせしめられました。『汝の神ヱホバ,この40年のあいだ,汝をして荒野の路に歩ましめたまえり。これ,汝を苦しめて,汝を試み,汝の心の如何なるか,なんじがそのいましめを守るや否やを知らんためなりき。』それから,幾百年か経つて後,ヱホバは御自分の民に,次の言葉を述べられました,『われ,汝を………患難の炉をもて試みたり。』神の御旨にかなうクリスチャンたちも,同様な試練を受けています,『さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが,あなた方は大いに喜んでいる。こうして,あなた方の信仰はためされて,火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ,イエス・キリストの現れるとき,さんびと栄光とほまれとに変るであろう。』(申命 8:2。イザヤ 48:10。ペテロ前 1:6,7,新口)このような試錬をうけるものは,心です。そして,ヱホバに仕える動機が清いかどうかを見るため,また献身と愛の深さを知るため,そして各人の忠実には破れる箇所があるか,どうかを顕わすためです,『銀を試むるものは坩堝,金を試むるものは炉,人の心をこころむるものは,ヱホバなり。』― シンゲン 17:3。

      7 実際の心臓についてのどんな心理は,シンゲン 4章23節に明らかにされていますか。

      7 心のなす大切な役割は,シンゲン 4:23に,強く述べられています。『すべての守るべきものよりまさりて,汝の心を守れ。そは,生命の流これよりいずればなり。』生命は,血の中にあります。脈搏する心臓から,血は青い泉のように迸り出て体内をくまなく流れます。そして,細胞に酸素と滋養物を運ぶと共に,細胞から廃物を取りのぞきます。それで生命の泉を流れつづけさせる為に,実際の心臓は,できるだけ健康な状態を保たねばなりません。身体の状態だけでなく,また精神的な状態や,感情的な状態をも十分に注意して守らねばならないのです。なぜなら,それは心臓の働きに影響を及ぼすからです。血の循環に関してのハーベイ博士の公表の時まで,医学は,血の循環については明白に知つていませんでした。それから,幾年か経つて後の西暦1628年にハーベイ博士の本は出版されたのです。しかし,聖書のシンゲンを書いた人は,キリストの生まれる時よりも千年も昔に,そのことを知つており,そして十分の注意を払つて心を守るようにと警告しました。それは生命を内に有する血が循環しつづけるためなのです。

      8 シンゲン 4章23節に教えられているごとく,なぜ象徴的な心臓を守らねばなりませんか。

      8 しかし,この聖書の筆記者は,実際の心臓を説明として用いることによつて,私たちに正しい事柄をなさしむる象徴的な心を十分注意して守る必要性を強調しました。もし,私たちの思をヱホバの律法で充たし,またヱホバのいましめを記憶するなら,そして又私たちの欲望と愛情をヱホバおよびヱホバの約束した祝福に固く置き,かくして私たちの言葉と行が清い動機によつて生ずるようにするなら,私たちの象徴的な心臓は霊的な健康を持ち,そして私たちに永遠の生命をもたらす働きをするでしよう。それは,霊的な滋養物を私たちに与え,また私たちをしてヱホバの御意と一致する話と行をなさしめます。かくして,それは私たちをヱホバの新しい世に永遠に住まわせる生命の泉のようなものとなります。私たちは,決して偽善の気持からでなく,心から考えて話します。またヱホバの是認せられる道に従つて語り,働き,そして生活します。それですから,ヱホバの律法を受け入れる状態に心を保つように注意を払わねばなりません。かくして,私たちに生命を意味する道に沿つて,私たちは行うことができます。

      心の上の律法は石碑の上の律法に優る

      9 現代の諸国家は石碑上のヱホバの律法の良さについて,どのように認めており,またそのことを表明していますか。

      9 石碑の上に書かれたヱホバの律法は良いものでした。非常に良いものであつたため,その律法は現代諸国家の法律の基礎になつている程です。クラークの書いた『聖書の法典<ビブリカル・ロウ>』(英文)の22頁には,こう述べられています,『モーセの律法は,特定の国民に述べられたものだが,その多くは人類全体の法律になつた。』同じ本の411節では,ムーレ・対・ストリックランド(1899年)の法廷裁決文を引用しています,『我々の法律の道徳は,十のいましめをモーセ流に解釈したものだ。ただ人に課する罰の程度と種類を若干変更しただけである。』しかし,昔のイスラエルが石碑に書かれた律法に従わなかつたと同じく,今日の諸国民は法律典に記されている律法の全部に従いません。人々が,その法律を知らないなら,その法律を記憶しないなら,同意しないなら,またその法律に従おうという強い内部からの欲望が無いなら,そしてその法律を破つても罰せられないなら,その法律を破るでしよう。別の言葉で言えば,もし心の内にその法律を持たないなら,人々は自分の欲する時にその法律を破り,そしてその刑罰を避け得る,と考えます。

      10 どんな神のいましめは,クーレイの『憲法制限』(英文)に示されているごとく,施行できないものと考えられていますか。

      10 『己のごとく汝の隣を愛すべし。』というようなヱホバの律法のいましめは,施行することのできないもの,と考えられています。(レビ 19:18)神の昔の律法内のこの事柄とか,他の事柄は,キリスト教の中でも再び述べられました。実際のところ,敷衍されたものです。それで,キリスト教の中には行為についての多くの原則が含まれているのです。それらの原則は,書かれた規則によつては施行することができず,また法律の規定する刑罰では罰することができない,と人々は言つています。そのわけで,クーレイの書いた『憲法制限』(英文)という本の975,976頁は,次のように述べているのです,『キリスト教は,国家の法律の一部である,としばしば言われている。或る意味において,又特定な目的から見る,とこれは真実である。そのいましめの幾らかは,連続的に広く一般の責任を持つと我々は認める。だが,人間の法律によつては施行することができない,ということをも認めねばならない。自分のごとく隣人を愛せ,という道徳の水準は,あまりにも高い故,人間の法廷では,市民の行為を裁く正しい試験として受け容れることができない。それであるから,心が善良であつて,慈悲心が自然のものであるなら,たとえ良きサマリヤ人に及ばないにしても,その人を犯罪法にかけることはできない。ところが,キリスト教のいましめは,心に影響を及ぼす。故に,良心に訴えるものである。一方,国家の法律は表面の行だけを見る。』

      11 規則の本の上に律法を書くよりも,あなたの心の上に律法を書く方が,ずつとすぐれている,と何が示していますか。

      11 このことから,多くの大切な原則や,高い道徳標準は,人々に守つてもらうためには,法典の本に書かれるべきでなく,人間の心に書かれるべきであるということが悟れます。さもなければ,そのようなものを施行することは不可能です。隣人を愛しなさい,と人に告げることはできます。しかし,その人をして隣人を愛せしめることができますか。隣人に対する特定な行を無理強いさせることはできます。しかし,隣人を愛させることはできません。その感情は,その人の心から来なければなりません。そして,愛の心から思い遣りのある行を為し,かつ隣人に対して無私の振舞をするでしよう。さらに,隣人愛の律法が,心の中にあるなら,特定な行為を要求したり,禁じたりする書かれた律法は,余計なものでありましよう。いわゆる,施行することのできないものに対する従順は,心から来なければなりません。それは,道徳の真の試練です。1955年7月3日のニューヨーク・タイムス紙は,『試練,施行できないものへの従順』という記事を出版し,そしてその中で次のように述べていました,『我々アメリカ人は,悪に直面すると,すぐ「法律が無ければならぬ」と言いたがる。しかし,世の悪の多くは,法律の及ばないものである。法律は噂話を阻止することができない。法律は貪欲や大食を人間に禁ぜず,また友人の裏切りを阻止することはできない。暖い人間関係は,……礼儀と良い行儀を詳細に述べる法律からは生じない。それは,施行できないものへの従順をつくることによつて来る。』

      12 なぜ,律法と理知の同意以上のものが必要ですか。正しい道への進歩のために,何が必要ですか。

      12 知性によつて,何が正しいかを知ることができます。そして,そうしようとする正しい気持を抱きます。しかし,もし私たちの心が別のことをしたい,と欲するなら,恐らく私たちはそうするでしよう。私たちは正しいことをするのに自分自身を強制し得ます。そして,時経つ中に心はそれに一致するようになります。しかし,もし心がそうならないなら心と知性の間のつらい戦争のとき,心は終に勝を得るでしよう。そして,知性は心の命ずるままに従つて,心の指示した行をなしたことを正当化する言訳を考えるでしよう。感情に引き廻わされている時でも私たちは論理に従つていると考えたく思います。理性は事実を整理します。しかし,たいていの場合,感情が決定をします。私たちの心が事実によつて正しく刺激されるなら,理性と感情はたがいに正しい方向にむかつて,一緒となります。それで,書かれた諸規則によつては施行できない原則に,永続する従順を保つためには,私たちは何が正しいかを知ると共に,正しいことを行いたい,と欲しなければなりません。それでも,時折り私たちは失敗します。堕落した肉は,時折り私たちの欲せぬものをなさせるのです。しかし,そのような時折りの失敗は,常日頃に行われる,というものよりも例外なものです。そして,善がますます身について習慣のものとなるにつれ,それの回数は,だんだんすくなくなつて行くでしよう。しかし,この正しい方向に進歩するための唯一の道は,神の律法を私たちの心の深いところに書き記すことです。

      13,14 (イ)私たちの心にあるヱホバの律法は,私たちを,どのように偽善や,罪や,しりさがることから守りますか。(ロ)良い心は,立派な頭脳よりも,なぜもつと大切ですか。

      13 イエスは,ヱホバの律法を次のように要約しました,『あなた方は,すべての心をこめ,すべての魂をこめ,すべての思をこめ,そしてすべての力をこめて,あなた方の神なるヱホバを愛さねばならない。』そして『あなた方は自分自身のように隣人を愛さねばならない。』(マルコ 12:30,31,新世)動機と愛情の中心である心の中に,ヱホバへの愛と隣人への愛を得るなら,私たちは心からヱホバをよろこばすことを言い,かつ行うでしよう。しかし,私たちの心の中に愛がないなら,正しい言葉や業は神の御旨に適うものでなく,それは偽善のもの二心のものでしよう。(詩 12:2。ロマ 13:8-10。コリント前 13:1-3。コリント後 9:7)しかし,ヱホバの愛の律法が私たちの心の中に書かれるなら,それは私たちの一部,私たちの個性の一部,そして私たちの動機の中心から切り離すことのできない部分になります。それですから,それは私たちの動機や,私たちをして常に正しい行をさせる事柄の源になりましよう。

      14 『彼が神の法は,その心にあり。その歩みは一歩だにすべることあらじ。』ヱホバの律法が記されている心の指示を受ける足取りは,しつかりした足場の上に注意深く,たしかに,かたく置かれています。それですから,すべることとか,しりさがるということもなく,また忠実の道から踏み落ちるということもありません。この世は,神の言葉を本の中だけに持つていて,その心の中に持つていないため,罪で充ち充ちています,『われ汝にむかいて罪を犯すまじき為に,なんじの言葉をわが心のうちに貯えたり。』(詩 37:31; 119:11)それで,ヱホバの律法で充ちる心は,罪を犯すことと,しりさがることに対して阻止するものです。この世は,知能のすばらしさを強調します。しかし,ヱホバは心を見ます。この世の智恵はいつたい何の役に立つのでしようか。この世は悪しき心から,その智恵を悪く用いて,ヱホバの目から見るときに愚かなものにしています。並の知能を良い心によつて,正しく使用する方が,すばらしい知能を悪い心によつて,有害な事に用いるよりも,ずつと良いではありませんか。是非改良して行かねばならぬものは,この世の頭脳よりもこの世の道徳である,と今日の世界の指導者も認めているではありませんか。しかし,この悪しき組織制度は,ヱホバのハルマゲドンの戦争を生き残るのに必要な心の変化を拒絶します。だが,多くの人々は,生き残るのに必要な心の変化をするために悪しき組織制度を棄てています,すなわち象徴的な心の悪い教えを消し去り,その代りにヱホバの律法を書き入れているのです。これは,どのようになされるのですか。その答を得る為,次の記事をどうぞ読んで下さい。

  • あなたの心の上に神の律法を得る
    ものみの塔 1957 | 5月1日
    • あなたの心の上に神の律法を得る

      『ヱホバの恵み深きを味い知れ』― 詩 34:8

      1 特定な砂漠の種子についてのどんな事実から,どんな質問が生じますか。

      特定な砂漠の植物の種子は,独自の叡智を持つているように見えます。すくなくとも,半インチか,または,好ましくは,それ以上の降雨があるまでは,その種子は発芽しません。10分の1インチの雨が降つた後では,2インチの雨が降つた場合と同じ程に,種子や種子のまわりの地は湿つています。しかし,降雨量がすくないなら,種子は発芽しません。発芽をしていない種子はどのように降雨量を測ることができるのですか。ごく僅かな水であつても,池の中に投げこまれたと同じ程に,種子は水につけられているのです。少量の降雨で,すつかり水浸しになつても,なぜ種子は発芽しませんか。種子は,水量をどのように測るのですか。もう少し待つ,ということを,どのように知るのですか。また,これらの種子は,水の来る方向を知つているように見えます。十分の量の雨が降つて土を濡らすと,種子は発芽します。しかし,水が下から濡れて行くと,種子は発芽しません。どのように,その方向を知ることができるのですか。それに,なぜ分け隔てする必要があるのですか。これらの質問に対する答は,神の律法をあなたの心の上に得る,という課程を説明するのです。誠実な気持から,私たちの心の上にヱホバの律法を欲するなら,それはそこに書かれ得ます。どのように?

      2 ヱホバの律法が心の上に書かれる前に,どんな清めのことや,消すことが為されねばなりませんか。

      2 書くためには,清い表面が必要です。そして,前に書かれてあるものをなくすために,消すものが必要でしよう。古いものの上に新しいものを書き加えるなら,ごちやごちやになつてしまいます。ヱホバから遠ざかつている心は,悪い書きもので走り書きされているのです。大洪水前の人間について,ヱホバは次のように言われました,『その心の思のすべて図る所のつねにただ悪しきのみなる。』大洪水の後でも,堕落した人間の心は清めを必要としました,『心は万の物よりも偽るものにして,はなはだ悪し。』しかし,記録の示すところによると,癒しを欲している人々の心はヱホバによつて癒されます。多くの人々は,その心を全くかたくして,罪にふけり,あわれみの心を感ぜず,恵み深さに無感覚で,訴え事には,全く感じません。そのような心の上に書かれているものは,ユダの心の上に書かれたものと同じようです,『ユダの罪は,鉄の筆,金剛石の尖をもてしるされその心の碑……えりつけらるるなり。』また,『その心を固くなにする者は,災に陥るべし。』『汝らなんぞエジプト人とパロのその心を,頑にせしごとく,己の心をかたくなにするや』むしろ,『ああ神よ,わがために清き心をつくり,わが中に直き霊をあらたに起し給え。』と祈るべきではないでしようか。そのような心は,清い表面を有していますから,ヱホバの律法を書くことができます。―創世 6:5。エレミヤ 17:9,14,1。シンゲン 28:14。サムエル前 6:6。詩 51:10。

      3 どんな聖句は,神の律法をあなたの心に得させる仕方を示していますか。

      3 ヱホバは,正道から離れて散り散りになつた御自分の民に向つて,次の言葉を言われ,真の崇拝に回復することを予告されました,『清き水を汝らにそそぎて,なんじらを清くならしめ,なんじらのもろもろの汚れともろもろの偶像を除きて汝らを清むべし。われ新しき心を汝らに賜い,新しき霊を汝らの中に授け,汝らの肉より石の心を除きて,肉の心を汝らに与え』清めをなす真理の水は,きちんと間ちがいなく適用されるなら,私たちの心に変化を生ぜしめます。両親は,真理をしばしば語つて論ずることによつて,子供たちの心に真理を得させることができるのです,『今日,わが汝に命ずる是らの言葉は,汝これをその心にあらしめ,つとめて汝の子供に教え,家に坐する時も,路を歩む時も,寝る時も起る時も,これを語るべし。』使徒パウロは,伝道することによつて,ヱホバの律法を,石碑の上にではなく,人間の心の上に書き録して行つたのです,『あなたがたは自分自身が,私たちから送られたキリストの手紙であつて,墨によらず生ける神の霊によつて書かれ,石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを,はつきりとあらわしている。』ヱホバの祝福を受けた者については,次のように書かれています,『かかる人は,ヱホバの法をよろこびて日も夜もこれを思う。』ヱホバの教えと,いましめおよび高い原則を学んで,記憶することによつて,あなたは『これを汝の心の碑にしるす』ことができるのです。それは,私たちの一部になります。―エゼキエル 36:25,26。申命 6:6,7。コリント後 3:3,新口。詩 1:2。シンゲン 3:1-3。

      こらしめは,どのように助けるか

      4 ヱホバは律法で心を充すことに加えて,ヱホバの律法を心に得るためには,更にどんな行為が必要ですか。

      4 ヱホバの真理で心を充すことは,清めの業をします。そして,以前の悪い考えを追い出して,心を入れ変えさせます。しかし,古い仕方が深く心に刻みつけられているため,神の律法を聞いたり読んだりしても,それらの古い仕方が無くならないでしよう。研究して良く考えることにより,自分の為すべきことを知り,そうしたいと思います。しかし,心からそうしよう,という強い気持が欠けているのです。新しく書かれたものは,まだ表面に近いところです。古いもののある所に達するほど深くないため,古い仕方は消えさらないのです。それは,内なる人,すなわち欲求と動機の中心である象徴的な心に達していないのです。しかし,一番最奥の考えや感情にいたるまで,あなたは前に書かれたものが消されて,その代りヱホバの律法の書かれることを欲します。それでは,あなたは何をしなければなりませんか。あなた御自身をこらしめなさい。正しいと知つている事柄を,あなた御自身に強制していたしなさい。この道を行いつづけなさい。もし,あなたが誠実であるなら,あなたの心は必らずや正義の側につくでしよう。聖書は,この仕方を支持しています。

      5 法律を施行すればどんな有益な事柄をだんだんとなさしめますか。

      5 たしかに,道徳を法律化することはできません。1955年5月13日の『アメリカニュースと世界報告』(英文)の社説の述べる通りです,『寛容と無私は ― 道徳と寛大と同じように ― うまく法律化することはできない。』しかし,法律を実施するなら,だんだんと遂には道徳をつくり出すようになるでしよう。法律があるということだけで,人々はその事柄に注意を向けるようになり,そしてその事柄について賛成の意見を持つようになるでしよう。それから,法律が施行されて人々がその刑罰を避けるために法律に従うなら,良い結果の生ずるのを知り,そして人々の態度は変るでしよう。それからは,人々は,刑罰を恐れるためでなく,良い結果の故に従います。

      6 こらしめと法律の施行は心の態度を変え得る,ということについて,どんな例が示していますか。

      6 このことは,1955年5月22日のニューヨーク・タイムス紙の記事『道徳は法律化せられるか』に示されていました。その記事は,人種差別を撤廃したアメリカ合衆国最高法廷の判決について論じているもので,次のことを示しました。すなわち,仕事とか,一般公共の住居とか,軍隊のような特定な場合には,他の人種と交わることを好まない人々も,いつかは人種差別がなくなり,その結果,偏見が無くなる,ということです,『人種差別のない公共住居に住む白人の主婦は,黒人に対して好感のある態度を示すようになる。しかし,人種的に差別されている住宅地に住む大多数の人々の人種的な見方は以前と変らない。軍隊内における人種差別撤廃についての研究も,類似の結論に達した。』偏見を持つている人々も,密接な関係を持つことによつて,以前に抱いていた考えが,多くの場合に偽りなること,そして恐れていた悪が決して起らないことを知りました。調査と分析は,次のような結論に達しました,『国民の共同良心と,社会状態の治癒力によつて支持される法律の尊厳は,遂には道徳を施行させるだけでなく,道徳を創造するであろう。』

      7 一雑誌内の記事は,訓練や,こらしめや,強制した行儀,そして外部の振舞が,内部の感情に影響を及ぼし,そして心を変える,ということをどのように示しましたか。

      7 1955年9月号の『婦人の家庭雑誌』(英文)には,ドロシイ・トムソンの記事が載せられていました。その記事は,青少年犯罪の対策として,理性よりも感情を教育する必要性を示していました。ドロシイ・トムソンは,次のように語つていました,『子供のときの行と態度は,大人になつてからの行と態度を大きく決定するものである。しかし,その行と態度は,頭脳によつてはげまされるのでなく,感情によつてはげまされるのだ。子供は,愛し,尊敬し,崇拝し,大事にし,犠牲になるようはげまされ,訓練された通りの者となる。』さらに,トムソンは次の言葉を述べました,『このすべての事において,行儀は大切な役割を果す。良い行儀とは,他の人に対する思い遣りを示すものに他ならない。……内部の感情は,外部の行為に反映される。しかし,外部の行為は,また内部の感情育成に貢献するものである。思い遣りのある行をしているときに,悪感情を持つことは難しい。良い行儀は,最初はごく浅いものかも知れぬが,しかし浅いままでいることは先ずない。』また,ドロシイ・トムソンは,次のようにも述べていました。すなわち極く僅かな例外を除いては,善と悪は『頭脳によつて左右されず,感情によつて左右される。』そして『犯罪者は,動脈を固くしたからでなく,心を固くしたからである。』トムソンの強調していることは,理性よりも感情の方が私たちの行をしばしば支配し,そして訓練を受けた道,私たちの行う道というものは,たとえ最初は強制されたものであつても,内部の感情に影響を及ぼし,心を変化せしめます。

      8 どんな聖句は,心を変化せしめるこらしめの力を示していますか。

      8 神の御言葉である聖書は,私たちに正しい行をなさしむる訓練とこらしめは,動機の中心であり,行の源である心に影響を及ぼす,ということをずつと以前から記していました。シンゲン 22章6節と15節は,次のように述べています,『子をその道に従いて教えよ。さらば,その老いたる時もこれを離れじ。痴かなること子の心の中につながる。こらしめの鞭これを追い出す。』こらしめは,子供の心を変え,その心に書かれている痴かなることを消し,その代りに導きの原則を入れます。それですから,子供は,後になつても,その原則から離れないでしよう。子供が大きくなると,こらしめを与えて子供に正しい道を行かせる両親の鞭というものはなくなります。しかし,子供の頃,心にまで達した訓練の故に,子供は自ら選んで正しい道を歩むのです。同じ原則は,ヱホバの子供たちである大人たちにも適用します。ヱホバは,それらの人々を訓練して進歩せしめるために,こらしめを与えるのです,『すべての訓練は,当座は,喜ばしいものとは思われず,むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば,それによつて鍛えられる者に,平安な義の実を結ばせるようになる。』こらしめを受けると,最初は悲しく思います,しかし『面に憂色を帯ぶるなれば,心も善に向えばなり。』― ヘブル 12:11,新口。伝道之書 7:3。

      9 それで,正しいことが何であるかを知るとき,私たちは何を為すべきですか。もし,そうしないなら,私たちの心に何が生じますか。

      9 それで,私たちの為すべき正しい事柄が何であるかを知るなら,たとえ心の欲することが別の事柄であろうと,私たちはそれを為すべきです。私たちは,自分自身をこらしめ,自分を無理強いしても,それを行うべきです。時の経つにつれて,私たちの心は正義に傾き,平和と落着を得るでしよう。さもないと,私たちの心は悪い道に従います。こらしめが無いなら,また正しい行を強制して行わないなら,心は悪しき道に従い,つくり変えるための柔らかさも得られず,またその心に物を書く,つまりヱホバの律法を受け入れることもできません,『悪しき事の報い速かに来らざるが故に,世の人心をもつぱらにして悪を行う。』このことは,次のことをはつきり示しています,つまりこらしめの行為が取られるなら悪を考えている心は,その考えを棄てて,その代りに良い考えを取るようになるでしよう。それで,心に悪を考えないなら,心が悪に従うことはありません。―伝道之書 8:11。

      『味い知れ』

      10 聖書を読むことについてどんなすすめの言葉に注意を払うべきですか。

      10 詩篇 34篇8節は,『ヱホバの恵み深きを味い知れ』とすすめています。あなたは,聖書を持つていますか,あなたは聖書を読みますか。聖書の中に記されている霊的な食物に,思を養いますか。あなたはヱホバの御言葉を味つて,その良さを知つていますか。この事と,正統派牧師のお説教を聞くことや,宗教的な言伝えに従うことや,又は或る宗派信条を信ずることと混同しないで下さい。そのような事柄は,しばしば聖書と矛盾し反対します。イエスが宗教的な指導者に言われた通りです,『あなたがたは,自分たちの言伝えによつて,神の言葉を無にしている。』(マタイ 15:6,新口)以前から抱いていた考えとか偏見を持たずに,自分御自身で聖書を読みなさい。そして,聖書の良さを知りなさい。多くの人々は,聖書を信じない,とはつきり認めます。そのわけは,聖書を読んだからではないのです。それらの人々は進化論を信じているためか,又は聖書の内容についての人々の言葉から判断して聖書に愛想をついているためか,又はクリスチャンと思われる人々の行を見て,聖書を見かぎつているのです。それらの人々は自分自身で味つたのではありません。それらの人々は,丁度,食べて見なければ特定の食物が好きになれない,と言いながら,しかも試食することを決してしようとしないのです。

      11 聖書を読んで研究した後には,その美味を学ぶためにどんな附加された食物を味わわねばなりませんか。

      11 聖書を信じると言つて,聖書を読む多くの人々も,聖書の教えに従つていません。それらの人々は,神のことを語りますが,サタンに仕えます。イエスは,次のように言われました,『私にむかつて「主よ,主よ」と言う者が,みな天国にはいるのではなく,ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけが,はいるのである。』(マタイ 7:21,新口)それらの人々は,ヱホバの御旨を為すことを味い知るべきです。それをすることを好むようになり,それが自分を力づける食物になることを知るでしよう。イエスは,こう言われました,『私の食物というのは,私をつかわされた方の御意を行い,その御業をなし遂げることである。』しかし,多くの人々は,クリスチャンたちのために備えられている業という食物を見ると,直ぐに『私はその食物を好まない。私は人々に伝道して,人からケンツクを食わせられたり,馬鹿にされたり,又はぞんざいに用いられたくない。』と言います。だが,業を味つて見て,それが極めて良い食物である,となぜ知ろうとしないのですか。イエスは,業が良い食物であることを知つていました。こう予言されていた通りです,『わが神よ,我は御意に従うことを楽しむ。』ヨハネ 4:34,新口。詩 40:8。

      12 誠実な人が自分自身を訓練して,神の御言葉を研究すると共に神の御意を行うことを味うとき,その人の心を変化せしめるどんな事が起こりますか。

      12 それらの人々は,自分自分をこらしめるべきです。ヱホバの御言葉を研究して,その真理を学び,そしてその真理を他の人々に伝道すべきです。それを味い見た後では,この食物から来る平和と満足,落着きと清い良心によろこびを感ずるでしよう。最初は,そうしたい,と欲しないかも知れません。ただ頭の中で,そうすべきである,と知つていながらも心では,そうしたいという気持がないかも知れません。だが,その良さを味い知つて見る,と決めるなら,どういうことになりますか。心ではそうする気持がなくても,その人の毎日の生活はクリスチャン生活となり,また神の言葉を他の人々に伝道します。しばらくのあいだ,その行を続けて行きます。すると,良い結果を見はじめ,この行から生ずる善を経験します。かくして,しだいしだいに心に深く感じて認識するようになり,心もそれと一致するようになります。そして,そうしようという欲求は心に芽生えて生長するのです。神の律法は,その人の理性に書かれるだけでなく,その人の心にも書かれるのです。学ぶことにより,良く考えることにより,試みることにより,実際に行うことにより,その良い結果を楽しむことにより,伝道の結果として他人に生ずるよろこびに深く心が打たれます。その心は,深く認識し,それを欲し,そして感じや感情からそうするようになります。それで,その人の心には書くことがなされ,その心は変化します。そして,かつては無理やりにしなければならなかつたものも,今では心から進んでよろこんでいたします。かつ心と戦い合うことも,もやは必要でありません。なぜなら,心は克服され,心の中に以前にあつた欲望は取りのぞかれ,そして今ではその人を励ましてヱホバの律法の述べる道に進ませるからです。それはみな,決して好きになれないと考えていたものを,味い知るようにこらしめられたからです。

      13 或る人々は,ヱホバとヱホバの御意をすこしだけ学ぶとき,どのように反応しますか。これはなぜ早計のもので,軽卒のものですか。

      13 心は愛情の中心です。そして,心からヱホバを愛する人々は,ヱホバの備え給うた業の献立を味い食べて,美味しいと感じ,苦しくてつらいものとは感じません『神を愛するとは,すなわち,その戒めを守ることである。そして,その戒めはむずかしいものではない。』しかし,多くの人にとつては,むずかしいもののように見えます。しばしば,人々はヱホバの証者といつしよに研究します。そして,神の命じている業を学び,またこれらの義務を受けいれるなら自分の生活上に大きな変化をしなければならぬ,と知ります。その意味することは,肉の業を止めるだけでなく,伝道の業を始めることです。それらの人々は,肉の業を止めたいとも欲せず,また伝道の業を始めたいとも欲しません。心を変えるなら,それらの人々は,自分を動かしてそのことを行わせるでしよう。しかし,それらの人々は心の変化を欲しません。しかし,このことを認めることも欲しないのです。それで,心の中にある真実の理由を取りつくろうために,いろいろの言訳を頭で考え出します。とても忙しい,と言つたり,或る教理について,ありもしない欠点がある,と指摘したり,又は証者たちは過激すぎる,と言います。忠実な道を取るときに得られる幸福を知る前に,またそのよろこびを味う前に,それらの人々はその忠実な道に反対しよう,と決定いたします。もし,研究を続けるなら,ヱホバの備え給うすべての祝福 ― 地,地上の植物,動物,景観の驚異,あがないであるイエス,正義の新しい世,その中で永遠に生きる機会 ― を深く悟るようになるでしよう。そして,自分たちにかくも表わし示された神の愛を感じて,今度はそれらの人々は神を愛するようになるでしよう。すると,神に従順を保つことは,よろこびとなります『我らの愛するは,神まず我らを愛し給うによる。』それで,彼らの愛情の中心は変化し,そして神の律法は彼らの心に記されます。―ヨハネ第一書 5:3; 4:19,新口。

      心の土の上にある真理の種子

      14 イエスはそれぞれ異る心の状態を,どのように説明しましたか。

      14 イエスは,譬話を用いることによつて,心の状態の重要性を強調しました。種子を播く人は,種子を播きましたが,その或るものは路のかたわらの固い地に落ち,そして鳥はその種子を食べました。種子の中の或るものは,土がほとんど無い岩地に落ち,芽が出た後には暑い太陽が照つて枯らしてしまいました。種子の或るものは,茨の中に落ちましたが,茨にふさがれてしまいました。しかし,他の種子は良い地に落ちて発育し,実を結びました。大群衆は,この譬話を聞きましたが,極く少数の者だけがイエスの説明を聞いて,その譬話の意味を悟りました。種子は真理である『御国の言葉』で,地は心です。道の傍のかたい地に落ちて,鳥に食べられた種子とは,かたい心の上におかれた真理のようです。それはその心を貫くことができないため,サタンの僕たちによつて取り去られてしまいます。浅い心におかれた真理は,最初は熱狂的に受け入れられます。しかし,迫害が来ると,その根は深くないために枯れてしまいます。丁度,僅かな土しかない岩地に播かれた種子のようです。急速に発芽しますが,熱い太陽が照ると,同じく急速に枯れてしまいます。茨でふさがれた種子とは,この世的な心配,物質主義,野心,快楽を愛する気持で一杯になつている心の上に播かれた真理のようです。神からの真理は,程なくしてふさがつてしまいます。しかし,良い地に播かれて実を結んだ種子とは,正しい心の上の真理のようです。それは,そのような心の上に書かれ,そして,書くことは他の心にも溢れ及ぶのです。―マタイ 13:3-9,18-23。

      15 心は変化し得る,と何が示していますか。

      15 しかし,地を変えることはできます。そのことを忘れないで下さい。かたい地も,鋤で耕し,岩を取りのぞき,茨の根を引き抜くことができます。もし,人は望むなら,かたい心を柔げることは不可能でありません。ヱホバは,石の心を取りのぞいて肉の心をその跡に入れる,と語られました。たしかに,物質主義や益のない心配,そして過度に快楽を追い求めることは,心の地から取りのぞかれて,その代りに御国の真理を入れさせることができるはずです。今でこそ神の律法を持つている心も,以前は悪い書きもので汚されていたのです。それらの心は変化して,今では『もはや人間の欲情によらず,神の御旨に』生きます。それらの人々は,放縦な生活に多くの時間を浪費してきた,と悟つて変化しました。それを見て,以前のこの世の友たちは驚いてしまいます,『今は,あなた方が,そうした度を過ごした乱行に加わらないので,彼らは驚きあやしみ,かつ,ののしつている。』それらの人の心は,真理の水で幾度もくり返し洗われたため,この世的な哲学から清められました。そして,時経つ中に,神の律法は良い地に播かれた種子のように,その心にしつかりと根づきます。かくして,以前の肉の業を結ばず,霊の実を結ぶのです。―ペテロ前 4:1-4。ガラテヤ 5:19-23,新口。

      16 コリント前書 3章5-9節は,何を示していますか。

      16 麦の種子か,又は食用になる他の穀物の粒が播かれた4種類の地について,イエスは譬話を述べられましたが,そのことから,使徒の次の言葉を思い起します,『アポロは,いつたい,何者か。また,パウロは何者か。あなた方を信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ,主から与えられた分に応じて仕えているのである。私は植え,アポロは水をそそいだ。しかし,成長させて下さるのは,神である。だから,植える者も水をそそぐ者も,ともに取るに足りない。大事なのは,成長させて下さる神のみである。……あなたがたは,神の畑である。』(コリント前 3:5-9,新口)ここに,畠に播かれた食用植物の種子に水をそそぐことの重要性が強調されています。それは,神がそれらの種子を祝福して,成長させるためです。このことから,真理の最初の種子が植えられた後でも,興味を持つ人々に,附加的な真理の水をそそぐ重要性が示されています。

      17 (イ)大雨が降らないならば,そして湿気が上から来ないなら,或る砂漠の種子は,なぜ地の故に発芽しませんか。(ロ)或る種子は,特定な条件の下でなければ,なぜ覆われているものの故に,発芽しませんか。

      17 水をそそぐ重要性は,識別力を持つ砂漠の種子にも,見られるのです。その砂漠の種子については,説明の助けとして最初の節に記してあります。雨が十分降らないなら,種子は発芽しない,しかも水が下から滲みこむのでなく,上から来なければならない,ということを記憶して下さい。なぜ,そうですか。或る種子は,地の中に特定な塩分があると,発芽をいたしません。その塩分は水に溶解します。それで,大雨が降ると塩分は水に溶けて,地中の深いところに運ばれてしまいます。このように,塩分は種子の近くからとりのぞかれるために,発芽を妨げることができません。しかし,降雨量が少いと,たとえ上部の地をしつとりと濡らしても,塩分を取りのぞくことはできず,種子は発芽いたしません。また,下からしみ込む水は,濾過作用をしないため,種子から塩分を取り運びません。時には,問題は地でなくして,種子のこともあります。或る砂漠の種子は,発芽を妨げる水溶性の物質で覆われています。それで,小量の雨が降つて種子が水浸しになるかもしれませんが,しかし種子を覆つているすべての妨害物を洗い流すためには,大雨が必要なのです。或る種子は,雨が降つてから二,三日のあいだ発芽をおくらします,そして地がまだ湿つているとき,発芽をします。別の種子の持つている発芽の妨害物は,細菌の働きによつてのみ,取りのぞくことができるのです。細菌が働くためには,湿気が持続されていなければなりません。また,或る種子は,幾度かの降雨で濡れる時まで発芽をしようとしません。

      18 このことは,心の地で真理の種子が発芽することを,どのように説明していますか。

      18 真理の種子が播かれて,水が注がれた一番最初の時から,その真理を全く受け入れるような人は,まずまず居ないものです。ほとんど大抵の場合,真理の種子の即刻の発芽を妨げる信条,または偏見が心の中にあるものです。おそらく,三位一体を信じているため,ヱホバが最高者であつて匹敵者がいない,ということを信ずることができないかもしれません。この妨害を洗い流すためには,真理の水を繰り返し適用することが必要です。或は,魂の不滅を信じているため,復活についての理解と認識が判然としないかもしれません。または,地は火によつて亡ぼされるという見方を持つているため,実際の地は永遠に存続する,という真理を受け入れることができないかもしれません。あるいは又,すべての人は天か地獄に行くのであると考えているため,地が永遠に人の住居になる,ということが悟れないかもしれません。それとも,偽りの宗教指導者にたいする間ちがつた信仰のため,聖書の真理に目が開いていないかもしれません。戸口でする聖書の話や,再訪問や,家庭聖書研究などで,真理の水がたくさん適用されて後,はじめてクリスチャン進歩を妨げるこれらの妨害物は,心の地から取りのぞかれるのです。ほんの少しの水,二,三の聖句,或る宗教が繰り返し用いているようなごく僅かなお気に入りの聖句,などでは十分でありません。すべての妨害物を取り除いて,クリスチャン円熟に進歩しつづけるためには,神の言葉から多くの聖句を用いなければなりません。

      19 或る心理は,覆いによつて発芽を妨げられる種子のようですか。それで,どんな目的が果たされますか。

      19 妨げをなす物質で覆われている種子については,どうですか。或る真理は,そのようです。それは,消化しにくい肉にたとえられており,簡単な真理が数多く消化されて後に,はじめて消化されます。実際のところ,或る真理は,急速な理解を妨げるために,故意に覆われているのです。正しい心の状態を必要とすることについての真理は,その一つの例です。この真理は,種子を播く人と,いろいろの違つた種類の地に落ちる種子についての譬話のうしろに隠されていました。そして,イエスの言葉によると,価値の無い人の理解を妨げる為に,その真理は故意に隠されたのです。その真理は彼らの心の中に止まることもなく,成長して実を結ぶこともないでしよう。それですから,そこで発芽しなかつたのです。不利な条件下では発芽するのを拒絶する砂漠の種子のようです。不利な条件下で発芽するなら,実を結ばぬ以前に,初期の中に枯れてしまいます。しかし,水が十分に降るなら,種子は発芽します。同様に,イエスの話を聞いていた者が十分の興味を示し,そして譬話の覆いを取りのぞくイエスの後の言葉を聞いた人々は,その心に真理が生長したのです。真理の附加的な水は,真理の種子を発芽させると共に生長させました。そして,固執する人々の示す興味と渇望によつて,それらの人々はクリスチャンの実を結ぶまで耐え忍ぶ人であると分ります。

      20 水が上から来る,ということと,湿気が下から上がる,ということから何が説明されますか。

      20 砂漠の種子の場合では,水は上から来なければならず,下から昇るのでは駄目でした。ヱホバは,霊的な水を流す径路を有して居られます。その径路も上から下に来るものです。最高の御方であるヱホバは,人々を霊感して聖書を書かせ,聖書を解釈します。キリストは,地上にいたときにヱホバの代弁者になつて語りそして,地上にいる現在のヱホバの証者はヱホバの音信を宣べ伝えます。この終りの日に,ヱホバは目に見える制度を持つて居られます,『主人が家人の上に任命して,正しい時に食物を与える忠実にして慧い奴隷』を通して,ヱホバは真理の水を人々に伝えます。『水晶のように輝いている生命の水の川』は,ヱホバから来ています,『この川は,神と小羊との御座から』出ているのです。また,ひろく宜べ伝えられている招待の言葉は,こうです,『かわいている者は,ここに来るが良い。生命の水が欲しい者は,価なしにそれを受けるがよい。』(マタイ 24:45。黙示 22:1,17,新口)キリスト教国の正統派宗教の提供している水は,神権的に上から来るのでなく,下から,単なる人間から上にのぼるのです。そして,それは言い伝えとか,哲学,そして人間の個人的な解釈で成り立つているものです。そのような水の供給は,クリスチャンの実を産出いたしません。キリスト教国の腐敗している状態を一目見るなら,そのことが証されます。―マタイ 7:15-20。

      21 サタンは,何をしようと努めていますか。しかし,私たちはヱホバに何をして頂くようお願いしなければなりませんか。また,私たちはどのように,ヱホバにそうして頂きますか。

      21 あなたは,どちらの水を飲みますか。上から来る水ですか。それとも下からの水ですか。誰によつて,あなたの心に書いてもらいますか。ヱホバですか。またはサタンですか。サタンは,あなたの心を盗んで捕えてしまい,悪鬼的な宣伝で一杯につめ込もうとしています。そして,ヱホバの律法を心に書くだけの余地は全くなくならせようとしているのです。サタンをして,あなたの心の上に書かせるなら,それは墓誌となります。しかし,ヱホバにお願いして,ヱホバの律法をあなたの心に書いて頂くなら,それは永遠の生命に達する道を指し示すでしよう。それで,ヱホバによつて私たちの心に書いてもらわねばならぬ,と理性は強くすすめます。ヱホバの言葉に私たちの心を開き,その言葉を研究して深く思い,私たち自身をこらしめてヱホバの律法を実際に行い,この従順から生ずる善を味い,かつ遂にはそうすることを愛することにより,ヱホバが私たちの心に書くようにしなければなりません。それから,ヱホバの証者の一人として忠実に奉仕すると共に,他の人々の心の上に神の律法を得させることに援助しなさい。

      [178ページの囲み記事]

      されば汝ら我らの神ヱホバとともにありて,今日のごとく汝らの心を全うしヱホバの法に歩み,そのいましめを守るべし。―列王紀略上 8:61。

  • 1956年中の多量の証言
    ものみの塔 1957 | 5月1日
    • 1956年中の多量の証言

      昨年中の毎日,ヱホバの証言は平均23万8000時間以上を他の人々への伝道に費し,興味を味つ人のところに7万5000以上の再訪問をなし,平均5万冊以上の書籍や冊子や聖書を配布し,そして15万2000部以上の『ものみの塔』誌や『目ざめよ!』誌を配布しました。これはすばらしい毎日の集計報告であって,証者の奉仕している神なる創造主の御名と尊厳に対しての多くの証言となりました。あなたは1957年中のこのクリスチャン活動の発展に参加していますか。

  • 『日ごとに彼の救の良いたよりを宣べ伝えよ』
    ものみの塔 1957 | 5月1日
    • 『日ごとに彼の救の良いたよりを宣べ伝えよ』

      ブラジル

      丁度10年前のブラジルでは,良いたよりを伝道していた伝道者の数は,僅か二,三百人でした。しかし,今ではその数は9596人にも増加しています。それは,1956年4月の新最高数でした。それで,わずかな10年の中に,幾千人という人々が制度に入つて来ましたが,それらの人々を円熟に進ませる必要があるのです。その中の或る人々は,円熟していますが,しかし伝道者は真理に若い人々です。霊的に言うなら,それらの人々は幼少期にいるのです。大群衆は,極めて急速に制度内に入つて来ました。それで,協会はこの大群衆を教えて,導いて行かねばなりません。ずつと昔の賢人が,シンゲン 18:15で述べた言葉を想い起します,『哲者(さときもの)の心は知識を得,知恵ある者の耳は知識を求む。』真理を知ろうとしている人々は,ブラジル内に沢山いるように見えます。それらの人々は,真理を探し求めているのです。ブラジルは進歩的な国で,人々は進歩的です。ブラジルは,ヱホバの証者が御国を伝道するのに良いところです。しかし,伝道は極めて大切な事柄です。なぜなら,神の言葉は,こう述べているからです,『有能な僕は,王の恵みをこうむり,無能な者は王の怒りを受ける。』(シンゲン 14:35,欽定)それで,年月の経つにつれて,ヱホバの証者は,どの場所にいようとも,更に有能な奉仕者になり,ヱホバ神に讃美をもたらそう,と努力しています。支部の僕は,興味深い経験を送つてきましたが,その幾らかをここに記します。

      記念式の時に,1万7000人以上が出席しましたが,それは前年よりも2300人多い数でした。活動の多くの面で,すばらしい増加が見られました。雑誌の配布は,昨年度中に2倍以上も増加しています。

      成功裡に行われたマナウスの大会直後,巡回の僕はアマゾン流域の上域にいる孤立した伝道者を初めて訪問しました。政府の飛行機に乗つて,二つの場所を訪問することが可能でした。クルゼイロ・ド・スルにいる兄弟が開拓者になつて,その地方で正しい崇拝を拡大したいという願いを申し出ましたが,それを聞いた巡回の僕のよろこびを想像してごらんなさい。

      5年のあいだ五旬節派に属していたひとりの人は,『子供たち』(英文)という本を入手しました。その地の牧師は,本を取り上げましたが,その人は別の本を入手しました。そして,ヱホバの証者のひとりと研究してから,遂に献身を致しました。それから,家族の者や,友人に話をしたので,先ず甥の一人が,次に別の甥が,それから自分の妹,その娘,また別の妹,そしてその3人の娘,そして自分の息子が献身をするに至りました。神の奉仕に活潑に励む,この10人の幸福を想像して下さい!

      旅行をして行く巡回の僕でも,野外の働きで成果を収めます。巡回の僕はひとりの人に会いましたが,その人は聖書の話を良く聞き,読まれる聖句に非常な注意を払つて聞き入りました。それから,4ヵ月たつて後巡回の僕が再びこの会衆を訪問したとき,その善意者は御国会館で巡回の僕にあいさつを為し,『やあ,今日は,御機嫌いかがですか。おかげさまで,私はこの業に良く進歩しています』と言いました。それですから,良く準備した聖書の話を戸口ですることは,極めて効果的なものである,ということが分ります。

      別の経験は,野外奉仕における協力の重要性を示します。10歳位の若い姉妹は,1冊の冊子を配布して,円熟した兄弟のひとりに一緒に再訪問に来て頂きたいと願い出ました。その家族はみなカトリック信徒でした,しかし有能な奉仕者の手を通して,神の目的の真の光が,聖書から照り輝かされたとき,程無くして,その家族の人々は新しい世の希望についてもつと知りたいという願が呼びさまされました。ヱホバに栄光を捧げましよう。その家族のかしらは今ではその地の会衆内の僕になつており,子供たちは皆定期的な伝道者です。その中の一人の娘は,今でこそ熱心な証者ですが,かつては家族中でいちばんこちこちのカトリックだつたのです。

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