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  • 闘牛 ― スペインの国技
    目ざめよ! 1975 | 12月22日
    • において闘牛に対する財政的な援助は観光ブームのおかげでここ十五年間に著しく増大しました。いまスペインを訪れる観光客は年間三千万人に上っています。たいていの観光客はせっかくスペインに来たのだからと闘牛を見物します。しかし闘牛をスペインと結びつけるのは,それほど根拠のあることではありません。闘牛はスペインのフイエスタ・ナシオナル(国技)とされていますが,たいていのスペイン人は闘牛を見に出かけず,また闘牛にほとんど関心を持っていません。しかし金を払ってでも闘牛を見たい人が大ぜいいるかぎり,トレロスは闘技をし,飼育家はますます牛を生産することでしょう。しかし闘牛はそれを見物する人にどんな影響を与えますか。

      人々に及ぼす影響

      闘牛に対する反応はさまざまです。それを嫌悪する人がある一方で,たまらない魅力を感ずる人もいます。たとえばアフィシオナード(ファン)は牛を殺すことを別になんとも感じていません。彼が関心を持っているのは,ケープとムレタを使うトレロの演技,優雅さ,技術です。しかしトレロの演技と優雅さについて多くが言われている一方,闘牛を擁護する現代人でさえ,それが動物に対して残酷であることを認めています。たとえば,ある百科事典は闘牛が長い年月の間に次第に変化し,「そのひどいところはおおかた失われた」としているものの,それが「ある細部の点においてなお残酷である」ことを認めています。―傍線は筆者。

      観衆を喜ばせるためにトレロが自分の命をあえて危険にさらすという事も,考えてみなければならない別の点です。大英百科事典に次のような説明が出ています。

      「観衆は闘牛士が殺されるのを見たいと実際に願っているわけではない。しかし死ぬかもしれない危険,それを意に介しない闘牛士の態度そして危険を巧みにかわすことが観衆を熱狂させるのである。闘牛士が闘牛場に入り,安全な方法で牛を殺し,かすり傷ひとつ負わないで引きあげても観衆は何もおもしろくないのであって,彼らは技巧,優雅,勇敢さを見ることを望む。ゆえにコリダは実際には人間と牛との闘技ではなく,むしろ人間が自分自身とするたたかい,つまりどれほど近くまであえて角に接近するか,観衆を喜ばせるためにどこまで危険を冒すかということである」。

      興味深いことにポルトガルの(牛を殺さない)闘牛は,入場料を払う観衆にそれほど人気がありません。

      たぶんおわかりのように,すべての闘技がトレロにとって上首尾に終わるわけではありません。大英百科事典は次のように述べています「事実上すべての闘牛士が,負傷の程度に差こそあれ,シーズン中に少なくとも一回は角にかけられる。ベルモンテ(1920年代における最も有名な闘牛士のひとり)は50回以上,角にかけられた。(1700年以降の)主要な闘牛士およそ125人のうち,42人が闘牛場で死亡した。この中には初歩の闘牛士つまりバンデリリュロスあるいはピカドールの中の死者は含まれていない」。それにもかかわらず今シーズン中にスペインの闘牛場で血祭にあげられる牛は3,000頭以上にのぼり,数十人の闘牛士が週に数回,生命を危険にさらすことになるのです。

      カトリック教会と闘牛

      何年もの間カトリック教会は闘牛を禁じていました。法王ピオ五世(1566-1572年)の出した教皇書簡によって,闘牛士は破門され,キリスト教による埋葬を拒否されることになりました。この立場は他の法王に受け継がれましたが,クレメント八世(1592-1605年)に至って以前の破門は取り消され,かわってスペインにおける闘牛は祭日に行なってはならないことが定められました。それにもかかわらず闘牛は宗教的な行事や祝祭につきものの慣習となりました。エンサイクロペディア・ユニバーサル・イラストラダに出ている論評はそのことを物語っています。

      「最も聖なる秘跡(サンティシモ・サクラメント)をひとつの祭壇から別の祭壇に移すとき,闘牛によってそれを祝った。聖遺物や聖徒の像の移動,都市や町の守護聖人の記念祭,教会の建設,聖者の列に加えられることや他の宗教的な祝祭に関しても同様である。テレサ・デ・ヘスースが聖人の列に加えられたことを記念しておよそ30の闘牛で200頭以上の牛が陽気に殺された。バレンシア・カセドラルの内部で闘牛が行なわれた。聖人を祭って殺した牛の肉は聖遺物として,またいやしの力を持つものとして保存された。僧会[僧職者の団体]が闘牛を組織し,資金を出した。……チュデラにおいては闘牛の行なわれる日の朝,カプチン会の僧侶が牛に呪文をかけてどう猛にするために出むいて行った」。

      トレロスはがいして信心深い人々です。しかしその中のある人々が認めるようにそれは迷信深いということなのです。闘牛場にはそれぞれ専用の礼拝堂があって,トレロは牛とたたかう前にそこで祈ることができるようになっていると,あるトレロは説明しました。事実,トレロの多くは一種の携帯用祭壇を旅行に携行し,ホテルの部屋にそれを飾って闘牛場に出かける前にその前で祈ります。

      闘牛はクリスチャンのためのものですか

      今日のクリスチャンは闘牛をどう見るべきですか。このことに関しては多くの疑問がおのずと湧いてきます。たとえば,人間が神のかたちにつくられており,神が愛であるならば,人は動物を残酷に扱いながら神の愛を反映していると言えますか。(創世 1:26。ヨハネ第一 4:8)クリスチャンが神に献身した者であるなら,猛牛をわざと怒らせて自分の命を危険にさらすのは理にかなっていますか。人間も動物も「そこなうことなく,やぶることがない」神の新秩序において,このような慣行がつづけられるでしょうか。―イザヤ 11:9,口語訳。

      したがって闘牛や闘牛士の絵を集めたり,家に飾ったりすることについてはどうですか。生命という賜物を軽視し,動物を残酷な目にあわせて見せ物にすることから収入を得ている人を偶像視するのは,釣合いのとれた見方,健全な精神,良い判断を示すことと言えますか。もうひとつの考えるべき事があります。このような絵を自分の家に飾ることは仲間のクリスチャンにどんな影響を与えるでしょうか。それとも仲間のクリスチャンが闘牛を見物しているのをだれかが見るならばどうですか。それらは考え深いクリスチャンにとって重大な質問です。なぜなら使徒パウロは次のように書きました。「おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい」― コリント第一 10:24。

  • 地球は冷えつつあるか
    目ざめよ! 1975 | 12月22日
    • 地球は冷えつつあるか

      ● 1940年以来地球は“冷える傾向”にあるということが,最近多くの論議を呼んでいる。新たな“氷河時代”が襲って来るのではないかと推測する人もいる。ところが,ニュージーランドの二人の科学者は,この問題に関する大半の科学的推論が見過ごしていると思われる次のような質問を提出している。南半球はどうであろうか。この二人の科学者は,南半球の気温の傾向が北半球のそれと正反対であることに注目している。例えば,ニュージーランドの人々は,記録破りの暖かい日々を楽しんでいる。同国の非常に広大な氷河は,ここ40年の間に山の奥の方へ数㌔も後退した。

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