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  • あなたは神の存在を確信していますか
    目ざめよ! 1979 | 4月8日
    • あなたは神の存在を確信していますか

      神への信仰は意志の弱い人のするものですか

      ご自分の信念を裏づける証拠を提出できますか

      「さあて,お祈りをしたほうがよいかもしれないわね。何が欲しいってお祈りしようか」。ある共産国の小学校の教室で一人の先生が尋ねました。そして,この女の先生は,「ではキャンデーを下さいってお祈りしましょう」と言葉を続けます。子供たちはうれしそうに目を閉じて,心を込めてキャンデーを下さいと祈ります。少したってから皆が目を開けると,先生はがっかりしたように,「キャンデーが見当たらないわ」と言います。

      「きっと間違った名前を使ったからだわ。“神様”と言うかわりに,“わたしたちの指導者”と言ってみましょう。わたしたちの指導者にキャンデーを下さいってお祈りしましょう。一生懸命お祈りするんですよ。そして,わたしがいいです,と言うまで目を開けてはいけません」。

      子供たちが目を閉じている間に,先生は子供たち一人一人のつくえの上にキャンデーを一つずつ静かに置いてゆき,それから教卓へ戻りました。子供たちは目を開けると,キャンデーをまじまじと見つめて,大喜びしました。「ぼく,これからはいつも“わたしたちの指導者”にお祈りするんだ」と一人の子が興奮して言うと,別の子が「わたしもよ」と言います。

      子供たちが大はしゃぎしているのを制して,先生はこう言いました。「みんないいこと,みんなのつくえの上にキャンデーを置いたのは先生なの。だから,神様だろうと人間だろうと,だれに“お祈り”するかは関係ないことが分かるでしょう。みんなに何かをくれるのは,ほかの人間だけなの。何かが欲しいと言って神様にお祈りするのは時間の浪費というものよ」。子供たちは,信頼し切ったまなざしで,そのキャンデーを口に入れ,神はいないと得心していました。―リーダーズ・ダイジェスト誌(英語版),1964年6月号,103-107ページ参照。

      これは,無神論の共産国での出来事として伝えられており,神はいないことの証拠として受け取られています。しかし,この点に関してあなたはどう思われますか。

      神は,キャンデーを求める利己的な願いに関心を示されるでしょうか。確かに,キャンデーのようなたわいないものを祈り求める人はまずいないでしょう。それよりも心の平静さを神に祈り求めることでしょう。そうです,わたしたちは,ちまたを徘徊する恐れや不安からの自由を切望してやみません。しかし,今日,わたしたちにはそうした自由はないのです。ですから,自分たちの祈りが答えられないように見えるので,神の存在を示す証拠はないと考える人は少なくありません。

      中には,哲学者や科学者が無神論者であることを指摘する向きもあります。しかし,高度な教育を受けた人たちが神を否認したという理由で,わたしたちも神の存在について疑いを抱くべきでしょうか。

      そのような人々は研究に幾年間も費やし,多くの事実に精通しているかもしれません。しかし,そうした人々はこの現代の世界にあって,すべての解決策を本当に持っているでしょうか。それらの人々の影響がありながら,世界の現状はどうでしょうか。

      人間の現代の科学技術は優れた事柄を約束しているように見えます。しかし,1976年11月28日付のニューヨーク・タイムズ紙は,一つの見出しの中で,「世界は1984年まで存続できるか」という質問を提起しました。それに続く記事は,「悪化するエネルギー危機」に関連して,先進工業諸国の側の危険なほどむとんちゃくな“狂気”に言及しています。

      最近の別の記事はこう警告しています。「正しく導かれていない,それゆえ無謀ともいえる科学技術の発展は,米国のみならず,全世界を災難の瀬戸際にまで追いやっている。その災難は途方もなく大きく,想像を絶するほどである」。

      「災難の瀬戸際」に立たされた世界。これが,人間,それもその多くが神を信じていない人間によって作り出された世界です。確かに,安全で平和な世界を実現させようと努める点で,人間は余り成功してきたとは言えません。もし神が存在するなら,人間はそのかたの助けを活用できるに違いありません。

      もちろん,中には,『神の存在することは分かっています。わたしにはその存在が感じ取れるのです』と言う人もいるでしょう。しかし,そのような“感じ”は,神の存在を納得させる証拠ではありません。そう思われませんか。ご自分では,神の存在を信じているかもしれません。しかし,だれかに,『神が存在すると,どうして分かるのですか』と尋ねられたらどうですか。ご自分の信念を裏付ける,納得のゆく証拠を提出できるでしょうか。神の実在をあなた自身納得していないなら,そのような信仰は激しい圧力に直面した場合に持ちこたえられないでしょう。また,お子さんについてはどうですか。お子さんが神の存在について一点の疑いも抱いていないと言い切れますか。お子さんの信念は,学校での進化論の教えという猛襲にも耐えるほど強固なものですか。前述の無神論者の教師の論議が浅くて子供っぽいものであることが分かりましたか。

      神の存在を得心しているかどうかにかかわらず,神の存在について,入手できるかぎりの証拠を検討してみるのは賢明なことではありませんか。

  • 確かな推理から得られる納得のゆく証拠
    目ざめよ! 1979 | 4月8日
    • 確かな推理から得られる納得のゆく証拠

      ある事柄を納得するには,確証,つまり筋道だった証拠が提出されねばなりません。「それ,信仰は望んでいる事柄の実質であり,見ていない物事の証拠である」と霊感を受けた聖書筆者は書きました。―ヘブライ 11:1,欽定訳。

      ギリシャ語の原語で,「証拠」に相当する語は,「確証,それによって物事が証明または検査されるもの」を意味しています。同時代の聖書筆者でない人々でも,訴訟での証拠を指すのにこの語を用いました。それには感情以上のものが関係してくるに違いありません。それには,事実の提示が求められます。一体だれが,裁判所へ行って,被告は何々をした「ように思えます」などと言うでしょうか。そのような場合,確証,つまり納得のゆく証拠を提出しなければならないでしょう。

      ですから,事実を相手にしなければなりません。そうです,神は存在するに違いないということを示すどんな確証または証拠があるでしょうか。

      確かな科学的論理

      「無から有は生じない」というのは,科学的,また論理的な公理です。数字では,ゼロに1,000を掛けてもその積は依然としてゼロなのです。子供でもこのことは知っています。もし自分のブタの貯金箱にお金を入れずに隠しておき,何日も,何か月もだれ一人それに触れないなら,それを取り出したときに何を見いだすでしょうか。相変わらず一銭も入っていない貯金箱です。物質が自動的に現われたり,単に“ひょっこり”と存在するようになったりすることはありません。

      ところが,星のきらめく天には,無数の有形物が見られます。そのすべてはどこから来たのでしょう。論理からすれば,それらが無から生ずることはあり得ません。ですから,これらの物体すべてが存在するようになった,源となる何かが常に存在していたに違いありません。その“何か”は永続的なものであるはずです。

      ごく最近,1977年になっても,宇宙論者,ジェイアント・ナーリカールは,「我々の周囲に見られる物体はそもそもどこに源を有するか」ということが,宇宙論(宇宙の起源と発展に関する学問)における最も基本的な問題である,と語りました。また,その発生時の宇宙を非常に密度の高い“宇宙卵<コスミック・エッグ>”になぞらえ,それが爆発したとしながら,生化学者,アイザック・アシモフはこう述べています。「天文学者はこう尋ねざるを得ない。宇宙卵の前には何が起きたのか。それはどこから来たのか」。

      星の起源を濃密な塵雲から説明しようとした,天文学者のフレッド・ホイルは別の点で行き詰まりました。ホイルはこう語っています。「[塵を構成する]これらの要素はいずれも星の中で生成される。……しかし,この塵が存在するようになるまで星も存在しないのであれば,どうしてそんなことが起き得るだろうか。卵が先なのか,それともニワトリが先なのか」。

      今日の科学者の大多数は,「宇宙」誌の中で,「素粒子の大半,そして多分すべては,エネルギーの物質化によって造り出されたのであろう」と述べた,チェコの天体物理学者,ヨシップ・クレチェクと同意見です。この学者は次いで,E=mc2(エネルギーは質量と光速の二乗の積に等しい)というアインシュタインの有名な公式に言及しました。この公式は,巨大なエネルギーの源から物質を造り出せることを示しています。ですから,科学的には,“大きなエネルギー”の源から物質が造り出されることは可能です。「しかし,そのエネルギーがどこから来たのか分からない」と一人の著名な物理学者は嘆いています。

      では,どんな論理的な結論に到達しますか。簡潔に言って次の点です。その“大きなエネルギー”の源は,この物質宇宙の発生の起源となったあの永遠の“何か”に違いない,ということです。この結論は,十分に実証された,質量-エネルギー保存の法則によって支持されています。それは,質量-エネルギーは創造されることも破壊されることもなく,ただ一方から他方へ変換されるだけである,という法則です。このように,科学は,永遠のエネルギーの源から物質宇宙が出来上がることを認めています。

      第一原因 ― 命のあるもの,それとも命のないもの?

      では,次に挙げる,幾つかの鍵となる質問を考慮してみてください。この最初の,永遠なるエネルギーの源は,生きた,理知ある存在者ですか。それとも,生命のない,無生物ですか。宇宙は,意図的で理知のある導きとは無関係に,純粋に自動的で物理的な運動の結果として発生したに過ぎないのでしょうか。

      科学者たちは,注意深く宇宙を調査した結果,機械のような正確さの証拠を認めました。天体は諸法則に寸分たがわず従って動くので,科学者たちは天体の様々な現象を幾年も前から予告できるのです。その上,極めて正確な時計のあるものは,星の動きに合わせるぐらいです。

      物質の極めて組織立った集まりも観察されています。生物を構成する複雑な体系の場合特にそうです。生物の“建築用ブロック”とも言うべきタンパク質分子でさえ,驚くほど複雑な原子の配列を示しています。

      この正確さと複雑さはどのようにして生じたのでしょうか。それは幾百億年にわたって作用してきた“盲目的な偶然”の所産でしょうか。

      ある著名な科学者たちの示唆するところによると,サルが代々,十分の時間タイプライターをたたくことを許されれば,時たつうちに ― きっと幾十億年ものうちに ― 単なる偶然によって,トルストイの「戦争と平和」のような本を作り出せるというのです。ですから,十分な時間を与えられれば,この複雑な世界も成行きまかせの偶然の結果として,徐々に生み出される,と科学者たちは論じます。

      しかし,別の科学者はこう論じています。「彼ら[サルたち]がその仕事を成し遂げたとき,それを認めてやる者が必要である。……そして,サルが一体どれほどの時間を使うと予想されるかは,まさにその選択がどのように行なわれるかにかかっている」。そうです,その本の内容を知っている理知ある者がいて,サルの作り出したものを選択し,それを配列して名作にまで仕上げなければならないのです。“選択者”がいなければ,実際のところサルが本を作り出すことはあり得ません。サルの努力は,いいところ,アルファベットの寄せ集めか,つながりのない,部分的な語の単なるら列に終わるでしょう。

      「生命のなぞ」と題する本はこう述べます。「盲目的な偶然には創造する力がある。……しかし,それは極めて限定されている。それは,下等な組織をごく容易に造り出せるが……その組織の数量が増えるにつれて,著しい速さで無力になってゆく。そして,長時間待ったり,膨大な物質資源を用いたりしても,これまで見てきたとおり,余り役に立たない」。

      おもちゃの“積み木”をただ空中にほうり投げて,それが偶然に“家”の形になることを希望したところで,その積み木から“家”を作れないこと位は子供でも知っています。確かに,時には,投げ上げた際に,二つか三つの積み木が重なり合うこともあるかもしれません。しかし,組織だった“家”の出来上がるどんな可能性があるでしょうか。事実,偶然に重なり合った幾つかの積み木を子供が守らなければ,次に積み木を投げ上げたときにせっかく重なり合っていたものもくずれてしまうでしょう。組織だった,複雑な“家”を完成させるには,だれかが積み木を上手に組立てなければなりません。

      ですから,科学者たちは自らの観察を通して,地球と宇宙に認められる高度の組織を造り出した要素としては,“盲目の偶然”を除外せざるを得なくなっています。

      1859年にチャールズ・ダーウィンの提唱したところによれば,盲目の偶然によって生み出された結果を組織化し,混乱の中から秩序をもたらすことのできる指導的な“選択者”は“自然選択”です。自然選択とは,各々の環境に特に適した,“適正な”(有益な)造りまたは有機体(動植物)のみが生存し,子孫に“適正な”造りを伝え,徐々により複雑な形態の生命へと“進化”してゆく過程であると信じられています。

      しかし,地球上に生命の存在を許す数多くの特異な諸条件を記述した後,英国のケンブリッジ大学の元動物学教授で,進化論者であるC・F・A・パンティンは,次の点を認めました。「自然選択の働きは,自然界の特色すべてを説明するものとなってはいない」。

      どんな「特色」ですか。動物学者のW・H・ソープは,ある特色を,「進化論が近年になって受けた,最も驚くべき,また憂慮すべき打撃の一つ」と呼んでいます。それは,信じ難いほど複雑な遺伝子の構造です。遺伝子とは,生きた細胞の中にあってその特定の動植物がどんなものになるかを決定する,極微の個体です。遺伝子は全く複雑きわまりありません。超小型コンピューターのように,遺伝子は情報を蓄え,細胞に指示を送ります。その情報すべてを標準活字で書き記すと,それは約1,000巻から成る百科事典を満たすものになるのです。

      複雑な遺伝子一つが,幾十億年にもわたる“成行き任せの突然変異”を通して行なわれる自然選択によって発生する可能性はどれほどあるでしょうか。「それでもなお,その期間に一個のまともなDNA分子が生産される可能性は想像を絶するほど少ない(10−415)」と,生物学者,フランク・B・ソールズベリーは,科学誌「ネーチャー」の中に書いています。「想像を絶するほど少ない」のです。1の後に415のゼロを付けた回数に一度の可能性です。

      ソールズベリーは自然選択による進化論を信じてはいますが,そのような事柄の起きる可能性がないために,次のような結論を出しています。「遺伝子の複雑さという問題を解決するのは,特殊創造説か指導進化論である」。

      何らかの理知的な力が,そのような複雑な分子の構築を「指導した」に違いありません。それは単なる偶然によっても,さらには「自然選択」によってさえ発達することはありません。原子や分子のような無生物が自らを秩序正しく配置することはないのです。

      「我々はまた次のことを知っている。生物の最も基本的な特徴は,それがエントロビー[高度に組織された体系が組織されていないものになろうとする傾向]を逆行させることのできる点にある。すなわち,秩序を減少させる(または,エントロビーを増加させる。つまり,石には坂を登るのではなく,転がり落ちる傾向がある)無生物の傾向とは対照的に,生物には秩序を回復させる力がある」と「反応する宇宙」と題する本は伝えています。

      このすべてはわたしたちにどんなことを教えていますか。太初のエネルギーの源が生きて存在していて,わたしたちの周囲にある自然界を創造するためにその自由になるエネルギーを用いた際に導きを与えたに違いないということです。

      わたしたちは確かな科学的論理を通して,聖書が2,700年以上の昔に前もって述べていたと同じ結論に到達します。それは,次のような,科学的に正確な陳述です。「目を高くあげて,だれが,これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし……その勢い[動的エネルギー]の大いなるにより,またその力の強きがゆえに,一つも欠けることはない」― イザヤ 40:26,口,[新]。

      [5ページの図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      コンピューター

      遺伝子

      遺伝子 ― 生きた細胞の中にある極微の個体 ― は,その特定の動植物がどんなものになるかを決定する。遺伝子は超小型コンピューターのようなもので,情報を蓄え,細胞に指示を送る。

      細胞

  • 設計された証拠
    目ざめよ! 1979 | 4月8日
    • 設計された証拠

      設計されたものが存在しているからには当然技術と能力を備えた設計者がいるはずです。手道具で精巧に仕上げられた腕時計が偶然に形造られるなどとたとえ一瞬でも考える人がいるでしょうか。その動きの正確さは,熟練した設計者がいることの証拠です。

      それでは,偉大な設計者の存在する証拠を見るために,人体をつぶさに調べてみることにしましょう。生気にあふれる,玉のような新生児は,それだけでも胸を躍らせるような奇跡です。その上,この小さな“生命のかたまり”の中には,高等教育を受けた技師や科学者をも感銘させずにはおかない,複雑な設計の証拠があるのです。それで,子供が成長してゆく過程で,すばらしい設計を示すいくつかの例に注目してください。

      わたしたちの骨: 「構造と設計の顕著な業績」

      進化論を強力に支持している「人体」と題する本は,骨についてなぜ上記のような描写をしているのですか。その理由は次のとおりです。骨は,「鋼鉄製の骨組が超高層ビルを支えているように人体を支え,また,コンクリート製の屋根が建物の居住者を保護するように体の大切な諸器官を保護する。こうした構造上の任務を果たすに際し,人体は,建築家や技師たちによく知られている,設計や建築上の諸問題を解決する」。

      もし自分が建築請負人で,ある家を増築し,高さと幅を三倍にするよう頼まれ,なおかつその家に住んでいる人の日常の仕事や夜の休息を一時間たりとも妨げないようにと言われたら,どう思われますか。そんなことは不可能だ,と言われるでしょう。ところが,骨にはまさにそのようなことが求められているのです。わたしたちの骨格は,幼児期から成人するまでに三倍の大きさにならねばなりません。

      骨はどのようにしてこの務めを果たすのでしょうか。部屋の壁や天井の内側から少しずつ材料をこそげ,その材料を壁や天井の外側に塗り付けてゆく人のことを考えてみてください。毎週,その部屋は数ミリずつ“大きく”なってゆき,やがて20年後に,わたしたちの家は以前の三倍の大きさになるのです。わたしたちの骨の中にある特別な細胞は,それと同じ“石工”の仕事をします。その細胞は,破骨細胞(骨を破壊する細胞)と骨芽細胞(骨を造る細胞)です。

      そして,わたしたちの骨には実に大きな力と柔軟性が組み込まれています。その構造は鉄筋コンクリート(現代の建造物に広く用いられている,驚くべき力を備えた材料で,柔軟性に豊む鋼鉄の棒の周囲にコンクリートを流し込んで固めたもの)に似ています。骨の中のコンクリートのようなカルシウムの間を,交差するように膠原質の線維が走り,強化材になっています。ところが,骨は鉄筋コンクリートの八倍も強力です。その張力は鋳鉄をもしのぎます。人間の脛骨は,常に2㌧近くの重さを支えることができ,一平方㌢当たり1,400㌔の圧力に耐えることができます。にもかかわらず,骨は柔軟性に富み,驚くほど軽くできています。もし骨の代わりに鋼鉄を使うと,73㌔の人は,ほぼ360㌔の体重になってしまいます。この次,水に浮かんでいるときに,そのことについて考えてみてください。ですから,わたしたちの骨には,強さと柔軟性と軽さを兼ね備えた,完ぺきな調合物が用いられているのです。

      それだけではありません。骨の内側は,あたかも“造幣局”のようになっています。そこでは,体にとって命を意味する,新しい血液細胞が,いわば“鋳造され,発行されている”のです。「人間の構造と機能」と題する本が次のように述べているとおりです。

      「銀行はその建物の基礎の中に金庫室を作り,その奥深い安全で,防護の固められた所に銀行の正貨準備を蓄えておく。それと同様に,体も人間の体の中で最も保護された場所である骨の内部を用いて,細胞の形になった硬貨や金,すなわち血液を蓄える」。

      「今日の健康」誌が,「人間の骨格は,工学上の設計の傑作である」と述べているのももっともなことです。

      「耳: 工学の傑作」

      「音と聴力」という本は,わたしたちの聴覚器官を上記のように描写しました。その本はさらにこう述べています。「ところが,[外耳]の背後に見られる構造は,最も腕の立つ職人をも恥じ入らせるような精巧さを備え,最も創意工夫に富む技師にも畏敬の念を抱かせるほど信頼の置けるオートマチック機能を備えている」。

      ちょっと考えてみてください。ハイファイの送信および受信装置全体が縮小されて,わずか6平方㌢のスペースに収められているのです。(音波を集める)外耳から,(音波を機械的な動きに変換する)中耳を通り,(機械的な動作を電気衝撃に変える)内耳にかけて,わたしたちは本当に複雑な設計の証拠を目撃します。

      蝸牛(カタツムリの殻を思わせる,内耳の一部分[前頁の絵を参照])で,まさに奇跡が起きるのです。ここで機械的な動きは電気衝撃に変換され,脳に送られ,脳はその電気衝撃を音として理解するのです。この機能を果たすため,この器官の中にある2万4,000本の微細な毛がピアノの弦のような役割を果たします。音波は蝸牛の内側に動きを引き起こし,その動きからこれらの“弦”が様々な音を再生するのです。これらの毛に接続している神経を通して,電気衝撃は脳に送られます。一参考文献はこう述べています。「ピアニストの耳の中にある蝸牛の大きさはその人の演奏するピアノの約百万分の一であるから,耳の中にある聴覚“ピアノ”の大きさに到達するには,コンサート用ピアノの鍵盤と弦を約一億分の一に縮小したものを想像しなければならない」。わたしたちの“ピアノ”は,ほんのかすかなささやきから,一大オーケストラの演奏するクレッシェンドの部分まで,あらゆる音を完全に再生します。しかもそのすべてを,豆粒大の部分でやってのけるのです! 設計,それとも偶然,そのどちらですか。グランドピアノでさえ,それが偶然に存在するようになった,などということを聞いたことがありますか。

      人間の手: 「道具の中の道具」

      これは,人間の業績の多くを可能にした器官について古代の医学者の語った言葉です。生化学者アイザック・アシモフは,手を次のように呼び,そうした考えを繰り返しています。

      「……最高度に器用な器官で,生物の領域全体を見回しても,この種のものとしては他の追従を許さない。四本のしなやかな指に向かい合うように親指があるので,その全体を,精巧なペンチ,しっかりとつかむ道具,ねじったり,曲げたり,引っ張ったり,押したりする道具,そしてピアノの鍵盤やタイプライターのキーを巧みにあやつる道具として用いることができる」。

      確かに手は力強いだけでなく,著しく敏しょうです。手を用いてハンマーを打つこともできますが,それと同じく小さなピンを拾うこともできるのです。

      わたしたちの指を動かしている,強力な筋肉はどこに位置しているのでしょうか。では,自分が手を設計する立場にいたなら,どこにその筋肉を付けますか。指そのものにでしょうか。それは何と恐ろしいことになるのでしょう。そうすれば指に力が入るかもしれませんが,それは太いソーセージのようになってしまうでしょう。太いソーセージでピンを拾い上げようとしたことがありますか。ところが,指を曲げるための筋肉のほとんどは前腕部に位置しています。指を曲げて,自分の前腕部に触れてごらんなさい。筋肉が動くのを感じますか。それらの筋肉は“すじ”つまり腱によって指先とつながれており,その結果,大きな力が出るだけでなく,本当に柔軟性に豊んでいるのです。実にすばらしい設計ではありませんか。これは,単なる偶然の所産ですか。

      脳: 「世界で最も驚嘆すべき創造物」

      これは,指導的な人類学者で,進化論者のローレン・C・アイズレイが1955年当時,人間の脳について語った言葉です。今日の人間は,その増大した科学技術すべてをもってしても,人間の脳の行なえる事柄にはいまだに太刀打ちできません。脳には,「100億の神経細胞があり,そのいずれも2万5,000の他の神経細胞とつながり合う可能性を秘めている。この相互のつながりの数を合計すると,その数は天文学者をも仰天させる。しかも,天文学者は天文学的な数字を扱うのに慣れっ子になっているのである」と,一参考文献は伝え,さらにこう述べています。「これと同程度の相互のつながりを処理できるほど高度なコンピューターを造るとすれば,それは全地を覆うほどの大きさになるだろう」。

      ところが,そのすべてはわずか1,360㌘の重さの物質に縮小され,両手にすっぽり収まるほどの大きさになっているのです。脳が「宇宙で最も高度に組織化された物質」と呼ばれているのも,もっともなことです。

      わたしたちの脳には,人の造ったコンピューターに行なうことのできなかったある事柄を行なう能力があります。それは,独創的想像です。これは,作曲家ベートーベンの経験から特に明らかです。その作品の中でも名作とうたわれる交響曲第九番が紹介されたとき,聴衆は「熱狂的な喝采」を送りました。聴衆はその演奏を大いに喜んだのです。ベートーベンはそれを耳で聞き取ることはできませんでした。ベートーベンの耳は全く聞こえなくなっていたのです。考えてみてください。ベートーベンはその作品の豊かな音全体をまず自分の想像力で“聞き”,それを楽譜に表わしたのです。しかし,実際には一つの音も聞いてはいないのです。わたしたちの脳にはなんとすばらしい独創的想像力が備わっているのでしょう。

      わたしたちの体には最高度の設計の例があることは明らかではありませんか。わたしたちは,二年間にわたって“電子頭脳”を設計しようと悪戦苦闘した,ある著名な顧問技師の達したのと同じ論理的な結論に達するのではないでしょうか。その技師はこう語りました。「[このコンピューターの]提起した,数々の設計上の問題に直面し,それを解決した後,そのような装置が……理知ある設計者……による以外の方法で存在するようになったと考えるのは,私には全く不合理なことに思える。もし私のコンピューターに設計者が必要であったなら,あの複雑な……機械ともいえる人体にはなおさら設計者が必要であったはずである」。

      こうした設計の例すべては,“ただ偶然に起きた”にすぎないと言えるでしょうか。統計家とは,ある特定の対象に関する数字や事実を注意深くまとめるのを仕事にしている人ですが,その道で名の通ったジョージ・ギャラップは次のように語ったことがあります。「私は神の存在を統計学的に証明できる。人体だけを取ってみても,一個人の機能すべてがただ偶然に生じる可能性は,統計学的には奇異なほど少ない」。言い換えれば,このすべてが何らかの導きとなる力なしに「ただ偶然に生じ」得る可能性は,実際のところ皆無に等しい,つまり「統計学的には奇異なほど少ない」のです。

      偉大な物理学者であるケルビン卿は,息を引き取ったときには「議論の余地なく,世界で最も偉大な科学的天才」でしたが,それと同じような結論に達しました。「科学からすれば,我々は全き確信を抱いて“指導的な力”を信ぜざるを得ない。その“指導的な力”とは,物理的,または力学的,あるいは電気的以外の力である。……科学によれば,神を信じざるを得なくなる」。(下線は編者による。)

      わたしたちは,(1)確かな科学的論理,および(2)わたしたちの周りの世界に設計の跡が見られることから,神の存在の納得のゆく証拠を見ることができます。しかし,それでもまだ,わたしたちの脳裏には,この神はどんな方なのだろう,という質問が浮かんできます。満足のゆく答えを見いだすために,どうぞ次の記事をお読みください。

      [9ページの図版]

      人体の驚異は,耳,脳,そして骨の構造に見ることができる

      「蝸牛[耳の一部]……はピアノに似た,複雑な構造を持つ楽器である」

  • 神は実在する! しかし,どのような方か
    目ざめよ! 1979 | 4月8日
    • 神は実在する! しかし,どのような方か

      その性質はどうだろうか。親しく知るようになればわたしたちの愛が深まるような個性の持ち主だろうか。これらは重要な質問であると思われませんか。

      どうすれば,その方の特質をいくらかでも知ることができるでしょうか。聖書はローマ 1章20節でこう述べています。「というのは,神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められる[「そのみ手の業を通して理解される」― 新バークリー訳]ので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言いわけができません」。

      神の行なわれた「そのみ手の業」を詳細に調べることによって,神の特質のいくらかを学べます。では,そこに何を見るでしょうか。

      愛と善良さ

      わたしたちの体の仕組みを考えてみる時,これらの特質が非常にはっきりと認められます。わたしたちの体は単に生きるだけではなくそれ以上の目的を持つものとして造られているのです。実際のところ,生活を楽しむように意図されているのです。わたしたちの目は色彩を感じ取ることができます。中には白黒しか感じ取れない動物もいますが,それでも世界はまばゆいばかりの様々な色彩で満ちているのです。わたしたちには味らいが備わっていますし,においをかぐことができます。ですから,食べることは単なる必要な仕事ではなく楽しみです。そのような感覚は,生きていく上で絶対不可欠なものではありませんが,それでも愛に富む,寛大で思慮深い創造者の実在を示す一つの証拠となっています。

      愛ある気遣いは動物界にも認められます。“ドクター・フィッシュ”という名でも知られる,おびただしい数の小さな“清掃魚”はその一例です。現在,“清掃魚”と呼ばれる魚は40種を超えています。これらの魚は,他の魚のえらを詰まらせて,魚を弱らせてしまう寄生虫やウオジラミを取り除くことに没頭しているようです。

      「それだけでなく」,清掃魚は,「菌類やバクテリアの付着している皮膚の小片を食いちぎる。魚に傷がある場合は,死肉をつついて食べ,傷をきれいにする」と,「動物のパートナーと寄生者」と題する本は述べています。

      これらの魚が小さな“医師<ドクター>”のようだということがお分かりでしょう。これらの魚が“診療所”や“清掃所”を開いていることさえあります。一つの“診療所”に,六時間で300匹以上の魚が治療を受けにやって来るのが観察されたこともあります。その光景を想像してみてください: 魚は列を作って自分の番を待っています。頭で“立ったり”,ひっくり返ったりして,清掃してもらっているものもいます。“医師”によるこうした“専門的”な治療を受けても,“請求書”は回ってきません。

      こうした清掃活動はどれほど重要でしょうか。この分野の第一人者であるコンラッド・リムボーは,これを,「絶えず行なわれる必要のある重要な活動」と呼びました。リムボーは,ある水域から“清掃魚”として知られている魚をみな取り除いてみました。すると,数日のうちに魚の数が大幅に減り,最後にはほとんどいなくなりました。わずかに残った魚には,「けば状の白い発しんやはれもの,かいようが発生していて,ひれがすり切れて」いました。小さな“医師”たちが姿を消したためにこのすべてが生じたのです!

      “清掃魚”たちは,単に食物を得るためにこれを行なうのでしょうか。

      「どの[清掃]魚も,食物を得るのにこの習性だけにたよっているわけではない」。

      「これら二種類の魚[最も活発な清掃魚のうちの二種類]はいずれも食物を主として清掃活動から得ているわけではない。これらの魚は小さな甲殻類を食べて生きていくことができ,どちらの魚も海草に付着している甲殻類をつついて食べる。セニョリータ[一種の清掃魚]も,海底から,また直接海中から甲殻類を捕食できる」。

      ですから,清掃魚の側から見れば,他の魚の世話をしなければならない理由はないのです。それでも,これらの魚はそれを行ないます。鮮やかな色彩で容易に見分けられる清掃魚は,とがった鼻やピンセットに似た歯を備えています。このような働き者の小さな清掃魚を一体だれが設計し得たのでしょうか。これらの小さな生き物にこのような本能を与えたのははたしてだれなのでしょうか。愛と思いやりに富む創造者以外には考えられません。

      人命を尊ぶ工場主は,従業員を守るために,工場内に多数の安全弁を取り付けることでしょう。圧力が蓄積して爆発するのを防ぐため,ボイラーその他の装置に取り付けられているこれらのバルブは,人々に対する工場主の真の気遣いを表わすものです。

      わたしたちの住む世界には,創造物の設計者が備えた多数のそうした“安全弁”があります。創造者は,『義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださいます』。(マタイ 5:45)雨の降る仕組みは,“安全弁”の使用に関する一つの際立った例です。

      わたしたちの頭上の雲には,幾十億㍑もの水が水蒸気の形で蓄えられています。水は重く,一立方㍍で一㌧にもなります。大きな雲には10万㌧もの水が含まれているものと推定されています。水蒸気が一つの巨大な“雨滴”になって地上に落下して来たら,どれほど大騒ぎになるか想像できますか。大災害が生じることでしょう。しかし,今だに説明のつかない何らかの理由で,微小の水滴がちりの粒子を中心に結合します。一定の大きさになると,それ以上大きくはならず,地上に落下してしまいます。しとしとと降る雨が最もデリケートな花を傷めることはめったにありません。確かに,わたしたちは,この“安全弁”の恩恵にあずかっているのです。

      あるいは,冬に,水が巨大な氷の塊となって降って来る恐怖を考えてみてください。ここでも,それが落下し始める瞬間に“安全弁”が作動して,小さな薄片が作り出されます。これは空中を漂うように降るので害を及ぼすことはありません。この雪は大地を優しく包む毛布となって,地面の熱を逃さないため,植物に益となります。

      気温の変化の激しい土地で育った人の中には,子供のころ,夜中に気温が急に下がると,母親か父親が起きて,毛布をもう一枚掛けてくれたことを覚えている人は少なくないでしょう。翌朝,気持ちの良いベッドの中で,お母さんかお父さんが自分を気遣ってくれたことを知って,“ほのぼのとするもの”を感じたことでしょう。では,植物を守るために,白銀のこの雪の毛布を備えてくださった天の父に対して,わたしたちは心の暖まるのを感ぜずにいられるでしょうか。そうです,その「み手の業」は,その方がわたしたちを気遣う,愛に富む優しい創造者であられることを証ししています。

      公正

      公正という特質についてはどうでしょうか。創造者がこの特質を備えておられることを確証するのは重要です。わたしたちは,公正の神が,今日全地に見られるようなはなはだしい不正や不法や邪悪な風潮をいつまでも黙認されないことを知っています。

      わたしたち自身のうちに備わっているあるものから,こうした特質に関する証拠が得られます。それは何でしょうか。聖書に記されている次の真理の言葉がそれを説明しています。

      「律法を持たない諸国民の者たちが生まれながらに律法中の事がらを行なう場合,その者たちは律法を持っていなくても,自分自身が律法なのです。彼らこそ,律法の内容がその心に書かれていることを証明する者であり,その良心[“善悪の感覚”,アンプリファイド・バイブル。このギリシャ語には,“道徳的に何が正しく,何が悪いかを識別すること……あるものを賞賛し,他のものをとがめること”という意味がある; セアの希英辞典]が当人とともに証しをし,自らの考えの間で,あるいはとがめられ,あるいは釈明されさえしているのです」。(ローマ 2:14,15)

      良心,つまり善悪の感覚をわたしたちに与える「[わたしたちの]心に書かれている」律法の存在することがその証拠です。これは,わたしたちの創造者ご自身が道徳感覚を備えた神で,公正という特質を持っておられるに相違ないことを強力に証明するものです。

      2,300年ほど昔,アリストテレスは,こうした内なる律法の実在することを語り,それを「あらゆる人を拘束している生来備わる公正と不正」と呼びました。それを,「自然の律法」,「至高の律法」,「諸国民[つまり人類]の律法」と呼んだ人もいます。そうです,正邪に関する生来の感覚が「あらゆる人を拘束している」ものと思われます。

      著名な人類学者M・F・アシュリー・モンタギューは多くの科学者が抱く次のような見解を述べました。「どこにおいても,殺人は犯罪とみなされている。殺人者が逮捕され,裁判にかけられるなら,死刑に処されるのが普通である。どこにおいても,近親相姦罪が定められている。……個人の財産は,どこにおいても尊重されている」。殺人や正当防衛,あるいは「個人の財産」の範ちゅうは大きく異なるかもしれませんが,基本的には,こうした行為は一様に非とされています。そのような「自然の律法」の意義についてはさまざまな意見があっても,「大抵の人は正邪に関する最高の規範とされる……そのような法の存在を認めてい」ます。(傍線は当誌)― アメリカーナ百科事典。

      しかし,人間は本質において攻撃的であり,殺人的ですらあり,正義感を抱いてはいないと論じて,良心の存在を疑う人も少なくないようです。最近になって,こうした反論を否定する証拠が明らかになりました。

      一つの際立った例は,最近発見された,フィリピンの熱帯雨林に住むタサダイと呼ばれる原住民です。ここの住民は,文明の主流とその影響から幾百年も隔離された状態にあったと考えられています。ある期間,彼らと生活を共にした科学者の一人はこう語りました。「彼らは,どん欲でも,利己的でもない。……実に信じ難い人々である。……彼らは,殺害したり,殺人を犯したり,戦ったりすることを知らない! そのような事を聞いたこともないのだ」。また,その科学者は次のようにも語りました。「人間の本性ゆえに,人々は悪を行なう,とだれもが言っている。……ここの人々を見るなら,『いかなる人間も本質的に邪悪ではない』と言わざるをえない」。(「温和なタサダイ」― 1975年版)そうです,不完全で,罪深い傾向を持っていても,人間は,依然,良心という基本的な感覚を働かせています。ある百科事典はこう述べています。「実際,良心を現実のものとして認めていない文化はこれまでに発見されていない」。確かに,正邪に関するこの内的な感覚は存在しており,良い振舞いをするようわたしたちを動かします。

      『しかし,ひとかけらの良心もないような,殺人者や強姦者やサディストが多いのはどういうことなのか。彼らの行動はそうした結論を覆すものではないか』― 中には,こう問う人がいるかもしれません。

      パイロットが空港管制塔の指示に聞き従わないで墜落し,多数の人命が失われ,多くの物的な被害が出たらどうでしょうか。これは,管制塔が「存在しない」ことを証明するものですか。これとは逆に,幾百機もの飛行機が管制塔の指示に従って,空港で安全に離着陸しているのを見てください。ですから,この「公正に関する自然の律法」を無視する,つまり「押しやり」(テモテ第一 1:19),その導きに従おうとしない人がいても,決して,そのような律法が実在しないことを示す正当な証拠となるわけではありません。

      第二次大戦中,ナチスは,無実の人々に対して暴虐の限りを尽くしました。世界を震かんさせたこうした行為のゆえに,ナチスの指導者の多くは戦後裁判にかけられました。これらの指導者の大半は,自分たちは単にナチスの法律と政府の上位者の命令に従ったにすぎないと言って,こうした行為に対する責任を否定しました。

      「政府に対する忠節や軍人としての忠順は望ましいことであるが……自分の良心にも答え応ずるのであれば,上官に答え応ずるのを拒否すべきである」と,英国の主席検事は論じました。

      これらの人々に対して,「有罪」の判決が下されました。なぜですか。ある参考文献によると,彼らは,「公正に関するより高い自然の法」に従うべきであったのです。

      こうした「自然の法」は存在せず,それによって被告人を裁くことは法律上不可能であると言って,この裁判を非難した人もいます。しかし,これらの冷酷な指導者自身の発言の中に,こうした良心の存在していることを裏付けるものがありました。そのような力は彼らのうちに働いていたのですが,それは無視されていたのです。被告ワルター・フンクはこう語りました。「ユダヤ人に対するテロと虐待の計画が示された時,わたしは神経衰弱になりました。……その時,恥ずかしさと罪の意識を感じました。そして,今日,わたしは同じものを感じています。でも,遅すぎました」。ハンス・フランク(死刑の判決を受けた)は,「わたしは自分のうちに恐ろしい罪の意識を感じています」と述べました。(傍線は当誌)

      そうです,わたしたちが自分に正直であるなら,自分のうちに正邪に関する生来の感覚つまり「公正に関する自然の法」の備わっていることがわかるはずです。わたしたちのうちに,こうした現実の律法を置いたのはだれでしょうか。人間自身がこうした律法の制定者でないことは明らかです。人間の創造者であり,設計者である方以外にその源があるとは考えられません。わたしたちは,創造者ご自身が道徳感覚を備えた公正の神であるという結論に導かれるのではないでしょうか。

      このことを知ったわたしたちは感謝せずにはいられないでしょう。なぜなら,これは,今日見られるはなはだしい不正や邪悪な状態を神がいつまでも黙認なさるのではないことを保証するものだからです。神は,正邪,すなわち公正に関するご自分の感覚に動かされて,その義の規準に従って生きたいと望む人々の益のために行動されるでしょう。

      神の特質はわたしたちを引き付けずにはおかない

      こうして少し調べてみた結果,あなたご自身の判断もしくは“判定”はどんなものですか。多くの読者は,畏怖の念を起こさせる力を持ち,愛に富む,公正な神が存在するに違いない,との結論を指し示す有力な証拠があることに同意されるでしょう。

      わたしたちに対する神の気遣いや寛大さを見る時,確かに感動せずにはおられません。より深く

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