ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • どのような証拠があるはずか
    目ざめよ! 1974 | 4月22日
    • どのような証拠があるはずか

      進化論者は,人間は海洋中の無生の化学物質を出発点とする長い過程の最終的な産物である,と唱えます。そうした信念をごく普通に言い表わしたものとして,「サイエンス・ワールド」誌に載った次の一文があります。

      「ある科学者たちは,人間はおよそ二百万年から一千万年前に類人猿のような生物から進化した,と信じている。そして,その類人猿的な生物はそれより幾百万年か前にサルの一種から進化したものであろう。そのサルは,今日のトリーシュルー(リスに似た小獣)のような原始的な霊長類から進化したと考えられる。他のすべての哺乳類と同じように,そのトリーシュルーも両生類の一種から進化し,その両生類は魚類の一種から進化した。……生命の最初の形態 ― 単細胞の生物 ― は海の中で生じた」。

      聖書はなんと述べていますか。創世記の第一章をお読みになれば,神が地上のいろいろな種類の生物を,一定の期間をかけて個別的に創造した,と記されていることに気づかれるでしょう。最初に植物,次に魚類と鳥類,ついで陸生動物,最後に人間が創造されました。

      しかし,聖書は,個々の動植物すべてが神によって直接に創造された,と述べているのですか。そうではありません。直接に創造されたのは,基本的な種類です。そして,それぞれの種類の範囲内では,幾千年という歳月をかけて多彩な変種を生み出すことができました。例えば,ネコ科の範囲内でいろいろと異なった形態のネコ類が発展することができ,イヌ科の中でいろいろなイヌ類,同じ人間の家族の中でさまざまな人種が生じることができました。

      しかしながら,創世記第一章は,個々の基本的な種類はただ『その種類にしたがって』子孫を生み出すことができた,と述べています。それで,同一種類内の変種どうしは交合して子孫を生み出すことができましたが,その種類の範囲の外に出てこれを行なうことはできませんでした。一つの種類の動植物が別の種類の動植物と交配してその子孫を生み出すことはできませんでした。また,一つの種類の生物が変化して別の種類の生物になることもできませんでした。このことはどれだけの時間が経過しても変わりませんでした。つまり,魚は永久に魚であり,鳥は永久に鳥であり,陸上動物は永久に陸上動物であり,人間は永久に人間です。

      どのような証拠があるはずか

      もし進化論が真実であるとするなら,実際の証拠は,一つの種類の生物が別の種類の生物へと徐々に変わってゆく過程を裏づけているはずです。そのことを示すなんらかの証拠が,今生きている生物,化石,あるいは研究室や野外での実験を通して見いだされなければなりません。

      一方,もし聖書が真実であるなら,創世記の述べる一つの種類から別の種類への移行ということは見いだされないはずです。基本的な種類内では多彩な変種があるはずですが,基本的な種類相互の間にはつなぐことのできない隔たりがあるはずです。このことは今生きている生物についても化石についても言えるはずです。また,基本的な種類相互の間の隔たりは実験的にも埋めることができないはずです。

      進化論が真実であるとするなら,今生きている生物の中に,新しい器官の始まってゆく証拠があるはずです。発達過程にある腕,足,翼,目などの器官や骨が数かぎりなく存在するはずです。そのことが,化石の記録や今日生きている何かの生物にさえ見られるはずです。せめて,部分的に発達したなんらかの器官がどこかに存在するはずです。

      さらに,もし進化論が真実であるとするなら,生命がひとりでに,自動的に,外からの助けなしに存在できるようになるという証拠があるはずです。事実,理知のある人間が入り組んだ装備を用いて行なう実験の場合など,外部からの助けがあるときには,ずっと容易にそれが起きるはずです。しかし,もし聖書が真実であるなら,創造もしくは神の設けた生殖の過程によらないでは,たとえ偶然的な作用や人間の働きかけがある場合でも,生命,すなわち生殖能力を備えた生物が生まれ出ることは不可能でしょう。聖書は,ただ神のみが生命の源であることを述べています。―詩 36:9。

      進化は無生の化学物質が単細胞生物に変わることから始まった,と言われていますから,証拠をまずこの面から調べるのが妥当でしょう。

  • 細胞がわたしたちに告げること
    目ざめよ! 1974 | 4月22日
    • 細胞がわたしたちに告げること

      進化が起きたとすれば,無生の化学物質が寄り集まって生きた細胞が形成されねばなりません。科学者アイザック・アシモフは,「生命の源泉」という本の中で,それがこのようにして起きたと述べています。

      「非常に遠い昔,おそらくは今から25億年ほど前,強烈な太陽のもと,アンモニア分を含んだ大洋の中,それに,むかつくような大気も加わって,有機分子を多く含んだスープの中に,なんらかのしくみで自らと同様のものを生み出すことのできる核酸分子が偶然に発生した ― その後に他のすべてのことが続いたのである!」

      しかし,そのようなことの「偶然に」起きた例がかつて観察されたことがありますか。さらに,最も有能な科学者たちによってそのようなことの起こされたことがかつてありますか。

      実際の証拠が示すもの

      「地質学入門」という本はこう述べています。「自然発生の現実に起きた例が観察されたことはいまだない」。これはきわめて簡明な事実です。歴史上だれも,生きた細胞が無生の化学物質から「偶然に」形成されるのを観察した人はいません。

      科学者たちさえ,そのきわめて複雑な実験施設を用いても,これを起こさせることができません。なるほど,科学者たちは,炭素を含んだ化合物をいくつか作り出しました。しかし,それらは繁殖能力を持つ生きた細胞には全く及びもつかない物質です。「細胞」と題する書物は,そうした実験が「無生の物質から生命が実際どのように発生したかを説明するものではない」ことを認めています。

      こうした事実を前にして,化学者M・S・ケリングサンは,トロントのグローブ・アンド・メイル紙にこう書きました。

      「わたしの推計で言えば,一個のアメーバ[単細胞生物の一種]は,1,000兆を100倍した数の原子かできている。それはおもに,炭素・水素・酸素・窒素,それに微量のりん・カルシウム・いおうなどである。しかも,これらすべては容易には分解しえない化合物のかたちで存在しているはずである。

      「ところが,進化論者は事実上,これだけの数の原子が偶然に正しい比率で配合した,つまり,すでに存在した化合物から分離したのち再び互いに結合して生きたアメーバになった,と論じている。……

      「わたしたちは,アメーバがこのようにして生じるのを見ているだろうか。化学物質を試験管の中に入れてアメーバを生み出すことができるだろうか。答えは否である。したがって,それが過去には起きた,というのは正当ではない。……進化の仮説は,生命の起源という点で崩れ去ってしまう。生命の創成に関しては,何かほかの説明が必要である」。

      また,生物の細胞がいかに複雑なものであるかということがわかるにつれ,科学者はその驚嘆を大きくしています。ユタ州立大学の進化論者F・サリスベリーはこう述べています。「今われわれは,細胞が,以前に想像していたよりはるかに複雑なものであることを知るようになった」。彼の推定によると,人間の体の一個の細胞の核の中には「十億片もの遺伝的な情報が含まれており,これを普通の活字で組めば,普通の大きさの本1,000冊にも」なります。

      細胞に関する知識が進むにつれ,細胞の中の数多くの部分すべてが複雑な相互作用を営んでいることが明らかになりました。そうした相互作用すべてが同時に起きなければ,その細胞が生きつづけてゆくことは不可能です。そのため,サリスベリーはこう述べます。「すべての事が同時に起きなければならないように思える。つまり,その体系全体が一つの単位として出現しなければならず,そうでなければ,それはなんの価値も持たない」。そうしたことが偶然に起こらないことは明らかであり,人間によってもなしえないのですから,彼は次のような嘆きのことばを語っています。「このジレンマを脱け出る道が存在するかもしれないが,今のところはそれを見いだせない」。

      自然研究家ジョセフ・ウッド・クラッチはこの問題について次の興味深いことばを述べました。

      「[類人猿]と[人間]とをつなぐ“欠けた鎖の環”の部分にはたくさんのインクが流されているが,アメーバとかろうじて生物質と称されるあの最初の粒子との間に欠けているすべての鎖環 ― そうしたものが現実に存在したのであればの話であるが ― に比べれば,これも無に等しい……

      「生物と無生の物質との差,生きている物と生きていない物との隔たりが,依然絶対的なものとして残る」。

      「細胞」と題する本もこう述べています。「原始の細胞が恐竜や霊長類に発達することよりも,その細胞そのものが不毛で生物学的に敵対する世界に出現することのほうが,多くの点で可能性がはるかに少ない。……生命がどのようにして始まったかという科学上の基本的な疑問は,依然未解決のままである」。

      このように,無生の化学物質が,生きた,繁殖力を持つ細胞を「偶然に」生み出すことはありません。理知を持つ人間がやってみてもそれはできないのです。わたしたちが今日観察できることですが,単細胞動物であるアメーバは,すでに存在していたアメーバからのみ,そうです,ただ『その種類にしたがって』のみ生じます。これ以外のことが観察されたことはありません。

      それで,生きた細胞の出現に関して「推測」をいっさい排除して考える場合,証拠は実際にはどちらを支持していると考えますか。聖書ですか,それとも進化論ですか。

      さらに上の段階を見る

      進化論者は,次の段階は,アメーバなどの“単純な”単細胞生物が多細胞生物に発達することである,と言います。しかし,そうした形態の生物がしだいにその複雑さを増してゆくというような証拠がありますか。「地球の最も挑戦的ななぞ」と題する本はこう述べています。

      「原生動物[単細胞動物]から後生動物[多細胞動物]への移行を示すような,二細胞や三細胞の生物は存在しない。しかし,この隔たりを埋める重要な鎖環が存在しないなら,進化論の観念構成全体が崩れてしまうのである」。

      この隔たりは埋められていません。単細胞の動物が二細胞や三細胞の動物に変わったという記録は存在しません。それどころか,単細胞の原生動物から,多細胞後生動物の最も単純なものまでは,非常に大きな飛躍となっています。原生動物が後生動物に変わるという証拠は全くありません。

      もう一つ興味深いのは,そうした形態の生物が今日そのままの状態にとどまっていることです。そうした“単純な”形態の生物で,自分の状態を“進歩向上”させようというような意図を示すものは一つも存在しません。さらに複雑な形態を取ろうとして奮闘することもありません。それで,過去にそうしたことが起きたと唱えることには,どんな正当な根拠があるでしょうか。

      信頼される科学雑誌「サイエンス」は,単細胞生物から多細胞生物への初期の進化に関する理論を提出した一冊の本について注解し,その本の説明は一種の「空想科学小説」である,と述べました。「サイエンス」誌を一部引用すれば次のとおりです。「多細胞動物がどのように発生したか,そのことが一度だけ起きたのかそれとも何度も起きたのか,その過程は一通りなのか幾通りもあるのかという点は,依然論議を呼ぶ難問のままであり,それはジョン・コーリスも述べるとおり,『結局のところ全く答ええない問題』なのであろう」。

      確かに,進化論の観点からすれば,それは「全く答ええない」問題であり,「空想科学小説」のかたちを取らざるをえないでしょう。しかし,あるがままの証拠を,全く「推測」から離れて検討するとどうなりますか。事実は,聖書の記述に基づいてわたしたちが当然に期待する事がらと全く一致します。つまり,事実は,単細胞の生物と多細胞の生物がそれぞれ別個に創造され,それ以後『その種類にしたがって』繁殖してきたことを裏付けています。

      増し加わる複雑さが示すべきこと

      さらに,進化論に従う場合,こうして形態上の複雑さが増し加わってゆくことは,別の面,つまり細胞の構成そのものにも示されるはずです。細胞が進歩の段階を徐々に進んでゆくにつれ,そのことを反映する一定の型が何かあるはずです。

      生物の細胞の核の中には,遺伝的な特性の媒体となるものがあります。それは染色体と呼ばれます。進化が真実であるとすれば,より複雑な生物へと進むにつれ,染色体の数もしだいに増えてゆくと考えるのが自然です。

      この点について,ミシガン州立大学のムーア教授はこう語っています。

      「教壇に立って,自主的に物事を考えるそう明な学生たちに進化の概念を講ずるわたしは,さまざまな教科書の中で,染色体の数を示すいろいろな表に接してきた。……

      「自主的に物事を考えようとするわたしの学生たちは,次のような疑問もしくは問題を提出した。すなわち,もし動物が,一般に言われるように,単細胞の形態から複雑な多細胞の形態に変わったのであれば(学生たちは植物についても同様の疑問を提出した),染色体数の増加という面で何か一定の型があるのではなかろうか,という点である」。

      そのようなものがありますか。人間の場合,その体細胞の染色体数は46です。では,人間ほど複雑でない植物や動物の場合,その染色体の数はそれより少ないであろうと考えられます。ところが,実際はそうではありません。幾つのか例を挙げると,ハツカネズミは48,シマスカンクは50,オナガザルは54,牛は60,そしてロバは62の染色体を有しています。じゃがいもでさえ48,綿は52の染色体を持っています。そして,オーラカンサと呼ばれる単細胞の原生動物には1,600もの染色体があります。

      このように,進化論を真実と見る場合に当然期待されるような,染色体数の定型的な増加は見いだされません。むしろ,見いだされるのは,それぞれのグループの生物が固有の染色体構成を持ち,常にその状態にとどまっていることです。それこそ,それぞれの種類が固有の特性を持つものとして個別的に創造され,他の種類と関連を持たないものであれば,当然に期待されることです。

      [10ページの図版]

      一個のアメーバは,1,000兆を100倍した数の原子からできていると考えられる。これだけの数の原子が偶然に正しい比率で配合し,それらが整然と結合して生きたアメーバとなることが考えられるだろうか

  • それはどのように起きるか
    目ざめよ! 1974 | 4月22日
    • それはどのように起きるか

      もう一つ直面しなければならない問題があります。つまり,進化が事実であるとすれば,それはどのようにして起きるのか,という点です。単細胞の動植物を変様させ,より高等な形態の生物へと変化させてゆくものがあるとすれば,それはなんですか。

      進化論者は,細胞の核の中に起きる変化がこれと関係を持っている,と言います。そして,遺伝子が進化の主要なしくみを支配している,と信じています。遺伝子とは染色体の主要構成分であり,遺伝の担い手です。

      そうした遺伝子に起きる変化は突然変異と呼ばれます。そして,この突然変異が,新しい特性の出現や,単細胞の生物が人間にまでも進化した理由を説明するものである,と言われています。英国の遺伝学者P・カーラーはこう述べます。「突然変異が生物変異の道を与える。それゆえ,突然変異は進化の過程に欠くことのできない要因である」。

      突然変異によって新しいものが作られるか

      しかし,そうした変化,つまり突然変異によって,新しい特性がほんとうに作り出されるのですか。いいえ,そうではありません。ムーア教授はこう指摘します。「遺伝子に起きる突然変異はすべて,すでに存在し,あるいは知られている形質を変化させたかたちで現われるにすぎない」。したがって,遺伝子に起きる突然変異はすべて,すでにそこにある形質の変異にすぎません。それによって生物の変種は作られますが,全く新しいものが作り出されることはありません。

      例えば,遺伝子に起きる突然変異によって,人の髪の毛の色・堅さ・長さなどの変わることがあるかもしれません。しかし,髪の毛は常に髪の毛です。それが羽に変わるようなことはありません。また,突然変異によってある人の手に何か変化の起きることがあるかもしれません。しかし,それは常に手であり,鳥の翼になるようなことはありません。さらに,そうした変化は,平均的な状態を中心として,その周辺の一定の範囲内で起きているにすぎません。例を挙げれば,身長が2㍍に達する民族(アフリカの一種族)と,120㌢ほどの民族(ピグミー族)とがあり,2㍍を超える人(聖書は2㍍80㌢を超えたゴリアテのことを述べ

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする