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人格性をもつ神目ざめよ! 1979 | 7月8日
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また力に満ち満ちておられるので,それらの一つとして欠けてはいない」― イザヤ 40:26,新。
ですから,天体を調べることによって,わたしたちは聖書の中で神について述べられている別の言葉の真実さを認識するようになります。「神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言いわけができません」― ローマ 1:20。
「とこしえの力」を持たれる神
壮大な宇宙を調べると,だれでも驚くべき力を認めるようになります。太陽はばく大な量のエネルギーを生み出します。ところが,美しい夜空に浮かぶ星の一つであるアークトゥルスの直径は太陽の24倍あり,その体積は何と太陽の2万5,600倍もあるのです。さらに別の星の直径は太陽の560倍もあります。その内に秘められた力がどれほどのものか考えてみてください。そして,そうした星を創造されたかたは,途方もない力を有しておられるに違いありません!
一点の光でも,単独の星ではなく,一群の星である場合もあります。この宇宙は余りにも広大であるために,何光年(秒速30万㌔で伝わる光が一年間に進む距離。すなわち,約10兆㌔)という単位が用いられます。中には,実に何十億光年も離れたところにまたたく星もあるのです。こうした驚くべき事実を考えると,聖書の詩篇 8篇3節と4節(新)で神について述べられている次のような見解をよく認識できるでしょう。
「わたしが,あなたの天を,あなたの指の業である,あなたの備えられた月や星を見ますのに,死にゆく人間はいかなるものなので,あなたはこれを思いに留められるのですか。また,地に住む人の子はいかなるものなので,これを顧みられるのですか」。
そうです,わたしたちは実にちっぽけな,相対的に取るに足りない存在になってしまいます。まさに,神の「とこしえの力」は,「世界の創造以来明らかに見える」のです。しかし,わたしたちは必ずしも偉大な力という特質によってある方に引き寄せられるのではありません。神のご性質に対するわたしたちの認識はこの点だけにとどまるわけではないからです。
幸福で寛大な創造者
子ネコがじゃれておどけたしぐさをするのを見たり,カワウソが泥の上を勢いよくすべって池の中へ飛び込むのをながめたりすると,その造り主について何か思い当たることがありませんか。その造り主は幸福な方に違いありません。確かに,サルを創造された神は,自らもユーモアを解されるはずです。また,子供が小さなひよこを見つめて,思わず上げる歓声について考えてみてください。確かに,わたしたちの観察するところは,創造者を「幸福な神」と呼んでいる聖書の記述と一致します。―テモテ第一 1:11。
また,地が栄養豊富で美味な食物を幾千種類も産出し,その各々にわたしたちの食欲をそそる独特の味わいがあるという事実から,どんなことが分かりますか。そうした豊かな備えは,創造者が寛大な方であることの証拠ではありませんか。人間の必要をかろうじて満たす程度に食物を備えるのではなく,神はバラエティーに富んだ食物を作るのを喜びとされ,それを豊かに産出させました。
「でも,人々が飢えているような所はどうなのだろうか。そのような場所で,神の寛大さはどこに見られるのか」と尋ねる人もいることでしょう。心の広い父親がおいしい食事を自分の子供たちすべての前に置き,全員に十分行き渡るだけ備えたのに,子供たちの幾人かが食べ物の大半をせしめ,ほかの子供たちにはほとんど何も残さなかったとしましょう。その場合,食べ物を得られなかった子供たちの惨めな事態を,父親の側の寛大さの欠如のせいにしますか。ところで,今日の研究者たちの伝えるところによると,地球の人口の三分の一に相当する人々が,世界の食糧生産の三分の二を平らげているのです。
もし食糧が均等に分配されるなら,すべての人に十分な食糧が行き渡るでしょうか。この問題に関する一報告はこう述べています。
「深刻さの度合いを増す,世界の栄養問題の原因は,国家間,国内,そして異なった所得層の家族の間に見られる,食糧の分配の不均衡にある。一人当たりの食糧総生産に基づく,世界的な規模の統計調査の示唆するところによると,現在のところ,量(カロリー)あるいは質(たんぱく質)の点での世界的な食糧不足は存在しない」― 米大統領科学諮問委員会の報告,「世界の食糧問題」。
適切な水利と農法を用いて,きちんと地を耕すとき,人々は地球の産出力に驚かされます。そうです,ありとあらゆる種類の花や開花植物の息をのむような美しさに加えて,海洋を含むこの地球は実にさまざまな変化に富んだ食糧で満ちています。
このすべては,それらの物の創造者についてどんなことを証ししているでしょうか。その方は実に寛大な神であられ,聖書の述べるとおり,「もはや不足がないまでにあなた方に祝福を注ぎ出す」ことのできる方です。神は,『御手を開き,すべての生ける物の願いを満たす』ことができます。そして,神は何か有形のものをお返しに求めるためではなく,ただご自分のあふれるばかりの寛大さからそうしておられることを忘れてはなりません。―マラキ 3:10; 詩 145:16,新; 50:9-13。
近づきやすい神
もちろん,ある人々にとって,そのような偉大さを備えた天の神は遠く離れた存在に思え,そのような方と個人的な関係を持つのが難しく思えるかもしれません。しかし,聖書は神について,「実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」と述べています。―使徒 17:27。
近づきにくい神であるどころか,エホバ神はこう言われます。「わたしは,わたしを尋ね求めたことのない者たちに捜し求められるようにした。わたしは,わたしを捜したことのない者たちに見いだされるようにした。わたしは,わたしの名を呼ばなかった国民に,『わたしはここにいる,わたしはここにいる!』と言った」。これは神の請い求める態度を何とよく表わしていることでしょう。神はわたしたちをご自分に近づかせ,ご自分と親密な関係を持たせたいと願っておられるのです。―イザヤ 65:1,新。
聖書の書き記されつつあった時代,神の忠実な崇拝者たちは,神について他の人々に話したり,証言したりして,人々がエホバという神のお名前とその性質に親しむようにしました。(イザヤ 43:12)神はそうした忠実な人々を用い,その助けによって他の人々をご自分に近づけるようにされたのです。神はご自分のみ子をさえ派遣されたのです。み子は地上に来て,『神について説明』しました。このみ子の追随者たちは,神について他の人々に話し,神に関して聖書の述べるところを説明することにより,「キリストの代理」としての役割を果たしました。ですから,今日,エホバはご自分の証人を有しておられます。それらの証人たちは神について話すために,人々の家を訪れます。そして,自分の哲学を教えるのではなく,聖書が全能者をどのように描き出しているかを示します。そうした助けを得て,誠実な人々は神について本当に知ることができるようになります。―ヨハネ 1:18。コリント第二 5:20。
それら誠実な人々は,宇宙を支配する不変の法則は神が厳密な法則制定者であることを示している,という点を認識するよう助けられます。そうした法則は秩序をもたらします。聖書は,エホバ神が道徳律を持っておられることを明らかにしています。(コリント第一 6:9,10)神はそれが人間にとって有益であることを知っておられ,それに従って生活するよう強いることもおできになりました。しかし,それとは反対に,神は人間を倫理的に自由な行為者として造られました。
神の言葉は,神の支配を押し付けるのではなく,次のように述べています。「あなた方の仕える者を今日,自分で選びなさい」。「わたしはあなたの前に命と死,祝福と呪いを置きました。あなたは命を選ばなければなりません。あなたが,つまりあなたもあなたの子孫も生きてゆくためです。あなたの神エホバを愛し,その声に聴き従って,この方に堅く付くのです」。―ヨシュア 24:15; 申命 30:19,20,新。
「選ぶ」という動詞に注目してください。ある人々が信じているように,人の運命が前もって定められているとしたら,どうして人は命を選ぶことができるでしょうか。また,人々をとこしえの責め苦に遭わせる神を想像しているとすれば,その神に近づいてどうして楽な気持ちになどなれるでしょうか。しかも,その選択は,命ととこしえの責め苦のいずれかではなく,「命と死」のいずれかであることに注目してください。そのような慕わしい神が,残虐にも人をとこしえの責め苦に遭わせるようなことは決してありません。しかし,ご自分の忠節な臣民に対する関心に動かされて,神はご自分の義の原則に従って生きようとしない人々を滅ぼされます。神はわたしたちがそれらの原則を学び,それに従って生活できるよう,愛をもって助けを備えてくださいました。そうです,創造者は本当に近づきやすい方です。わたしたちは神に近づけることが分かると,本当に気分がさわやかになります。しかしそうせざるを得ないと感じるからではなく,そうしたいと思うので神に近づくのです。―詩 145:20。
愛すべき神
あなたはどんな人を愛するようになりますか。気立ての優しい人で,あなたを愛し,その愛を様々な利他的な方法で示し,あなたのために大きな犠牲をさえ払うような人ではありませんか。聖書は,神がまさにそのような方であると述べています。神が『痛みを覚え』また「痛みを与え」られている,と述べられている事実は,神が気立ての優しいかたで,他の人々に深い関心を抱いておられることを物語っています。―詩 78:38-41,新。
ほぼ6,000年前,わたしたちすべてに累を及ぼす悲劇が人類に臨みました。神の支配に反逆した霊の被造物であるサタンの勧めに従って,わたしたちの最初の親たちは,神の語られた律法にそむき,死の刑罰を身に受けました。―創世 3:1-19。
まだ生まれていなかったその子孫であるわたしたちは,不完全さと死を受け継ぎました。天の父は,ただ全人類がそうした状態の下にとどまるに任せ,やがて次々に死んでゆき,永遠に存在しなくなるようにすることもできました。神は何に動かされて別の措置を取られたのですか。利他的な愛です! しかも,神はそのために実に高い代価を支払われたのです!
神の律法は,失われたものに対して同等の犠牲をもって償うよう求めていました。(申命 19:21)(アダムの)完全な命が失われました。その結果,不完全さに染まっていない人の命が犠牲にされねばならなくなりました。霊者であるみ使いたちが大勢存在しているのですから,神はそのうちのだれであろうと遣わすことができたわけですが,実際にはそのようにされませんでした。神はわたしたちを非常に愛しておられたので,ご自分が「特に好意を持つ者」,「ご自分の愛する者」を地に遣わし,人間にならせ,それから,人類を贖うのに必要とされる犠牲としての死を遂げさせました。(箴 8:30,新。エフェソス 1:6)神は実に大きな犠牲を払われ,それはわたしたちにとって多大の益となりました。何と愛すべきご性質をお持ちなのでしょう。
「愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。わたしたちの場合,これによって神の愛が明らかにされました。すなわち,神はご自分の独り子を世に遣わし,彼によってわたしたちが命を得られるようにしてくださったからです。愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,神がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです」― ヨハネ第一 4:8-10。
確かにこの神は,愛の気持ちから崇拝されるにふさわしいかたです。この点は,前の記事の中で触れた,パスカルの「かけ」を思い起こさせます。フランスのこの思想家は,次のような論議で懐疑主義者たちを納得させようとしました。『神を信じなさい。そうしたからといって,何も失うわけではない。もし神が存在すれば,あなたの宿願はすべて成就される。たとえ存在しなくても,何も失うことにはならない』。しかし,それは,神に仕える正しい動機づけではありません。パスカルの「かけ」は利己心に基づいています。神を信じるのは優れた推論である,とパスカルは主張しました。とこしえに至る祝福と比べれば,数年間犠牲を払うことなど何でもないではないかというのです。その意図は誉れあるものだったにせよ,パスカルは知らずして,神の主要な敵対者の論議を裏付けていたのです。
古代の忠誠な人に関して聖書に記録されている事例史(ヨブ 1章と2章)は,神の被造物は愛の気持ちからでなく,利己心に動かされて神に仕えている,とサタンが主張したことを明らかにしています。こうしてサタンは暗黙のうちに,エホバがご自分の支配権または主権に対する支持を買い取っており,それゆえ後者は買収で手を汚していると主張したのです。a しかし,サタンはいずれの論点においても誤っていました。エホバは愛によって支配をしておられますし,その真の崇拝者たちは利己心のない愛に動かされて神に仕えることを選ぶのです。愛の気持ちから神に仕える人々のために,神はすばらしい将来を意図しておられます。―詩 84:10,11; 110:3。ヤコブ 1:12。
神との個人的な関係
以上のような情報を検討して,神に関するご自分の考えを再調整する必要をお感じになりますか。聖書は神を,幸福で,寛大で,愛すべき存在者であるとしています。畏怖の念を起こさせる力を有しておられても神は近づきやすいかたです。実際,神はご自分に近づくようわたしたちを招いておられます。そのような神と親しくなりたいと思われるのではありませんか。聖書にはそのかたに関してさらに多くの事柄が記されており,エホバの証人は喜んでその点を説明します。費用は無料です。
自分が神に近づくに“ふさわしい”かどうか心配する必要は全くありません。神のみ言葉はこう述べています。「エホバはご自分を呼び求めるすべての者の近くにいてくださる,真実に呼び求めるすべての者に」。(詩 145:18,新)祈りを通して誠実な気持ちで神に語りかけ,聖書に関する正確な知識を育んでゆくなら,神のご要求を学び,それに従って生きてゆく喜びを味わえます。あなたは本当に神を知ることができ,その結果,この偉大な存在者の愛ある世話の下で永遠に暮らす見込みを心に抱けるのです。―ヨハネ 17:3。
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私たちに子供が生まれた日目ざめよ! 1979 | 7月8日
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私たちに子供が生まれた日
ドイツの「目ざめよ!」通信員に語られた経験
昨年,私はドイツの雑誌シュテルンに掲載された一記事に目を止めました。その記事には,生まれたばかりの赤ちゃんを,母親と同じ部屋に置くことを許している病院のことが書かれていました。一般に“ルーミング・イン”と呼ばれるこの取決めを絶賛する医師もいますが,一方,その取決めの是非に疑念を差しはさむ医師もいます。
シュテルン誌の記事は次のよう
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