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  • 増えつづける犯罪と暴力
    目ざめよ! 1980 | 1月22日
    • 増えつづける犯罪と暴力

      ご自分を,仕事を終えて帰路についたイタリアの男の人の立場に置いてみてください。その人は,不注意にも車の中にキーを残したまま車を降りて,ある品物を取りに近所の店へ入りました。車を離れていたのはほんの数分のことでしたが,戻ってみると,お察しのとおり,車はなくなっていました。

      眠れぬ夜を過ごし,翌朝,自分の車がアパートの前のいつもの場所に駐車してあるのを見て,この人は躍り上がらんばかりに喜びました。ワイパーの所に一枚のメモがはさんであり,そこにはこう書かれていました。「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。場合が場合だったものですから。私のささやかな感謝の気持ちをお受けください。当方の負担で,一晩を楽しくお過ごしください」。そのメモには,その晩上演される劇の切符が二枚,それも特等席の切符が添えられていました。人間に対するその人の信頼感はよみがえりました。

      劇場で実に楽しい一晩を週ごした後,この人は夫婦そろって帰宅しました。家の鍵を捜すのに少し手間取りましたが,ドアを開けて中に入ったところ,部屋は空でした。何から何まで持ち去られていたのです。人間に対する,よみがえったばかりの信頼感はあえなく消え去りました。

      極めてまれな事例とはいえ,この実話は,犯罪の厚かましい手口を示す数多くの事件の一つに過ぎません。もちろん,この犯罪は他の犯罪と比べれば,比較的おとなしい方です。他の犯罪には残忍さやサディズムが色濃く表われているため,とても信じられない,と頭を横に振る人がいるほどです。多くの人が人間不信に陥り,恐れのうちに生活しているのも,不思議なことではありません。

      犯罪の犠牲になっていない人はいません。組織的な犯罪は,すべての人の財布からお金をかすめ取ります。シカゴ市の当局者の推定によると,マフィアの直接のゆすりのため,あるいは余分の盗難保険やマフィアの活動に対処するための保安要員の増加などのために,普通の米国市民は1㌦使うごとに2㌣ずつ余分の支払いをしています。

      従業員の不正や万引などが原因で,企業は損失を埋め合わせるために値上げを余儀なくされます。他の人の不正のつけがあなたに回ってくるのです。例えば,ドイツ連邦共和国では,職員の不正のため,納税者には年間10億マルク(約1,000億円以上)もの負担がかかってきます。犯罪は実に高くつきます。たとえ犯罪者には高くつかないとしても,少なくとも被害者には高くつきます。被害者はいつも支払う側だからです。

      憂慮すべき新たな傾向

      犯罪は今に始まったものではありません。しかし,最近になって,犯罪は新たな様相を呈するようになりました。犯罪と暴力の波がじわじわと高まってきており,一つの国や一部の地域に限られたものではなくなってきたので,警察や一般の人々も一様に,犯罪やそれに首尾よく打ち勝つ対策をより真剣に考えるようになりました。

      “理由なき犯罪”,つまり本当の動機の見当たらない犯罪が増加しています。そうした犯罪が,公共の建物に落書きをするとか,公衆電話の電話帳のページを破ったりするようなものにすぎない場合もあります。

      しかし,そうした犯罪がもっとゆゆしい形を取り,いわれのない残虐行為を特徴とするものになる場合が余りにも多くなっています。一例として,最近,17歳になる二人の少年がドイツのある都市の郊外で33歳の男の人を襲い,その人を代わる代わる刺しました。警察は後ほど,80か所に刺し傷があったことを発表しました。「どうしてそんなことをしたのか」と尋ねられて,二人の若者は,「ただだれかをむしょうに殺したくなっただけさ」と答えました。別の事件では,それより少し年上の若者のグループがフランスのシェルブールで公証人を襲い,残酷な仕方で打ちのめしたため,その人は意識を失い,三日後に息を引き取りました。その少年たちの動機は何だったのでしょうか。「面白いからやっただけ」なのです。

      憂慮すべき別の傾向は,女性の犯罪者の増加です。例えば,ドイツのテロリストの事情は他に類のないものです。そのメンバーのうち名の知れた者の大半は女性だからです。1979年の2月を取ってみると,テロリストと目され,警察の緊急指名手配を受けた16人のうち,12人までが女性でした。

      しかし,司法および立法府の首脳部が特に憂慮しているのは,恐らく若い人々による犯罪の著しい増加でしょう。タイム誌は米国の状況についてこう述べています。「人々は,子供が殺人をやりおおせているとして,常々非難してきた。今やまさにその言葉が真実になっている。米国全土に,複雑で,ぞっとするような犯罪の傾向が生じてきている。多くの若者たちは,映画へ行ったり草野球に加わったりするのと同じほど平然と,盗み,強姦,傷害,殺人などに携わっているようだ」。

      若い人々の間に見られるこうした傾向のために,将来には暗雲が垂れ込めています。ハンブルガー・アーベントブラットは,ドイツの情勢について論評し,次のように述べています。「犯罪に関する最新の統計によると,1975年以降に逮捕された14歳から18歳までの容疑者の数は25.1%増加した。14歳未満の子供の場合,その増加率は30.8%であった。……この傾向に終止符が打たれる見込みはない。我々は,非行に走るティーンエージャーや子供がさらに増加することを考慮に入れなければならない」。

      疑問の余地はありません。犯罪は問題,それも真剣に考えてみるべき問題となっています。フランス政府はこれを重視し,事態を調査するための11名から成る委員会を設置する認可を出しました。これらの委員たちは16か月間にわたって審議を重ねた末,問題を緩和するための103か条の提案を載せた700ページの報告を提出しました。

      国際連合組織は事態を重く見て,15人のメンバーから成る犯罪防止・抑制委員会を設立しました。この委員会は,世界的な規模で犯罪に首尾よく対処する方法を検討するための世界会議を五年おきに開催します。1975年の会議の一般テーマは,「犯罪防止と抑制 ― 過去四半世紀の挑戦」というものでした。第六回の会議は,1980年にオーストラリアのシドニーで開かれることになっています。

      今日,犯罪と暴力が絶え間なく増加していることにはどんな意味があるのでしょうか。犯罪は,回復の見込みがなくなるほどに増加してゆくのでしょうか。それともこの問題は誇張されているのですか。事態は本当にそれほど深刻ですか。あなたはどう思われますか。

  • 犯罪 ― 事態は本当にそれほど深刻ですか
    目ざめよ! 1980 | 1月22日
    • 犯罪 ― 事態は本当にそれほど深刻ですか

      生まれながらの楽天家はいるものです。そうした人は,事態がどれほど悪化しているように見えても努めてほほえみを浮かべ,今はまだいい方だ,と論じます。楽天主義を擁護する言葉には事欠きませんが,だからといって楽天主義に目をくらまされ,物事を現実的に見られなくなるようなことがあってよいはずはありません。問題を無視したからといって,決してそれを解決することにはなりません。問題を認めようとしないなら,自分がその犠牲者になる可能性を高めることになります。

      では,犯罪と暴力に関して,事態は本当にそれほど深刻なのでしょうか。

      「そんなことはない」と言う人がすかさず指摘するのは,犯罪や暴力は何も今に始まったものではない,ということでしょう。実際のところ,現存する最古の歴史書,聖書は,人類の最初の家族が最も悲惨な暴力事件を経験したことを告げ,「カイン(は)自分の弟アベルに襲いかかってこれを殺してしまった」と述べています。また,今から4,000年以上も昔のノアの時代に見られた状態を描写するに当たって,聖書は,「地は暴虐で満ちるようになった」と述べているではありませんか。―創世 4:8; 6:11,新。

      「犯罪は統計が明らかにするところよりも悪化している」

      犯罪が今に始まったことでないのは認めるとしても,統計の示すところによれば犯罪は現在悪化しつつあります。統計ですか? 統計と聞いて,19世紀後半の著名なアイルランドの劇作家,オスカー・ワイルドがかつて語った次の言葉を引き合いに出す人がいるかもしれません。「うそには三つの種類がある。普通のうそ,悪意のないうそ,そして統計である」。ワイルドの趣旨は,統計に信頼を寄せすぎるなら,欺かれることがある,という点にありました。統計の解釈には様々な方法があり,時にはその解釈が相反するような場合もあります。しかし,しばしば誤用されるとはいっても,統計を全く否定することはできません。

      わたしたち自身の益のために,「事態は実際のところそれほど深刻ではない」と主張する人々の論議の幾つかを簡単に考慮してみましょう。そうすれば,自分でどちらが正しいか確かめることができます。

      「犯罪の増加の原因は,人口の増加にある」

      ここ数十年の間に,わたしたちが人口爆発を目撃してきたことに異議を唱える人はほとんどいません。世界人口が10億の大台に達するまでに,ノアの日の洪水のときから(1830年まで)4,200年かかったのに対し,世界人口が20億に達するまでには1930年までの100年しかかかりませんでした。30億に達するまでには30年(1960年),そして40億に達するまでには15年(1975年)しかかかりませんでした。地球に40億以上の人が住んでいる現在,1985年には人口がほぼ50億になると推定され,今世紀末には60億をはるかに超えているであろうとされています。

      人口の増加が犯罪の増加の一因となっていることは確かですが,それは根本的な原因でも,唯一の原因でもありません。もし人口の増加だけが犯罪の増加の原因であれば,論理的に言って,人口の増減は犯罪の数の増減と比例するはずです。ところが,必ずしもそうではないのです。

      ドイツ連邦共和国の場合を考えてみるとよいでしょう。同国は近年人口の減少を示した数少ない国の一つで,1975年から1977年までの間に人口は60万人以上減少しました。前述の論議に従えば,犯罪件数もそれに応じて減少して然るべきです。ところが,政府筋の発表によると,1975年には291万9,390件の犯罪が発生したのに対して,1977年には328万7,642件の犯罪が発生しました。これは12%以上の増加に相当します。このことは,人口が減少している所でも,犯罪が増加することを示しています。

      犯罪の増加は人口爆発の生んだ当然の結果であるという人々には,安心感を抱く根拠など全くないばかりか,将来に暗い見込みしかありません。その人たち自身の論議に従えば,今日の犯罪の波は,世界人口の増加と共に高まってゆくことになります。一体どれほど悪化すれば,そうした人々は,「本当に深刻な事態だ」と進んで認めるようになるのでしょうか。

      「今では犯罪に関してより正確な統計が保たれている」

      今日のほうが百年前よりも犯罪の記録が一層充実している,ということに疑問の余地はありません。ですから,百年前にあった犯罪と今日の犯罪を,正確に比較することは不可能です。しかし,1977年の記録を1975年,あるいは1970年の記録と比べる場合には,そのような論議は成り立たないのではありませんか。また,論じられているように,現在,記録がよりよく保たれているのであれば,それはなぜなのだろうか,と自問してみるべきです。より正確で,徹底的な記録を保つ必要が生じたということはそれだけ,事態が悪化していることを示唆しているのではありませんか。

      警察はどのようにしてその種の記録をまとめ上げるのでしょうか。警察職員自身が発見し,通報する犯罪の件数はごくわずかにすぎません。ドイツのマックス-ブランク研究所の行なった世論調査は,警察の犯罪統計の九割までが犯罪の被害者か目撃者によってなされた通報に基づくものであることを明らかにしています。ですから,正確な記録を保てるかどうかは,警察よりもむしろ,自分たちの目撃した犯罪を通報する一般の人たちの意志と目ざとさにかかっています。

      人々は昔と比べて,より正確かつ良心的に犯罪を通報するようになったと言える証拠が何かあるでしょうか。この世論調査の結果を信ずるとすれば,そのような証拠はありません。調査の対照となった人々が被害を受けた犯罪のうち,通報されていたのは46%に過ぎませんでした。被害者が,損害額はごくわずかなので通報するまでもないと考えたり,その犯罪が解決される見込みはほとんどないと考えたりしたため,あるいはほかの個人的な理由があったために,半数以上は通報されずに終わってしまったのです。

      この数字は,スイス,米国,カナダ,オーストラリア,フィンランドなどにおける同様の調査結果とほとんど変わりありませんが,犯罪の実情は統計の明らかにするところよりもさらに深刻なことを示しています。ドイツのシュピーゲル誌もこの結論を支持して次のように述べています。「実際のところ,その[一年間の窃盗の]数は,[通報された数の]10ないし12倍に上る」。同誌は,ノルトライン・ウェストファーレン州刑事捜査局のウェルナー・ハマヒャー局長の言葉を引き合いに出しました。同局長によれば,通報される犯罪の件数は,犯罪総数という体を覆う点で,「露出度の一番あらわなビキニとほとんど変わらない」とのことです。

      では,論理的に言ってどんな結論に達しますか。統計,つまり犯罪に関する記録はまだまだ不完全で,統計はせいぜい一定の傾向を示しているにすぎないということです。それで統計は,事実を誇張するどころか,実際には真相のごく一部を語っているにすぎません。では,あなたはどう思われますか。事態は本当にそれほど深刻なのでしょうか。それとも,さらに悪化しているのでしょうか。

      「犯罪の深刻な所もあるかもしれないが,私の住んでいる所ではそんなことはない」

      もしそうであれば,それは喜ぶべきことです。大抵の場合,都会よりも地方のほうが犯罪の発生率が低いものです。また,都市の中でも,ほかの地区より犯罪の起きやすい地区があります。ある国の犯罪発生率は,他の国々の犯罪発生率よりも低いことが認められています。しかし,当然のことながら,問題となるのは,どこかほかの場所と同じほどの犯罪が自分の住んでいる所で発生しているかどうかということではなく,自分の住んでいる所で犯罪が増大しているかどうかということです。

      ご自分の住まれる地域社会で,どのようなことを経験しておられますか。年長の人々,つまり長期にわたって事態の進展を目にしてきた人々は何と言っていますか。犯罪は五年前よりも増えていますか。十年前と比べるとどうですか。そうした犯罪はより残忍な色を帯びてきていますか。

      問題の重大さを考慮に入れると,次いで以下のような質問が生じてきます。自分や愛する者たちを守るにはどうしたらよいのだろうか。どんな実際的な処置を講じることができるのだろうか。

  • 賢明な助言 ― 犯罪からの身の守り
    目ざめよ! 1980 | 1月22日
    • 賢明な助言 ― 犯罪からの身の守り

      犯罪に対処するための最善の方法なるものを提案した書籍や記事を世に出した人は大勢います。その実際的な提案の多くには確かに価値がありますが,現時点では,完全な安全や保護を間違いなくもたらしてくれるものはありません。それでも,打つべき手が全くないというわけではありません。打つべき手はあります。そして今日,犯罪と暴力の波が高まりつつあることを考えれば,何らかの手を打って然るべきです。

      幾つかの極めて実際的な提案を得るため,神が「非常に豊かな知恵と理解力」をもって祝福された一人の人に目を向けることにしましょう。その知恵によって,この人は当時の『ほかのだれよりも賢い』者とされ,「三千の格言を語る」ことができるようになりました。(列王上 4:29,31,32,新)お気づきになったかもしれませんが,その人物とはソロモン王です。

      有名なスペインの作家,セルバンテスは,適切にも,箴言(格言)を,「長い経験から引き出した短い言葉」と定義したことがありました。人間の創造者ご自身以上に,人間とその諸問題について長い経験を有する方はいません。聖書の箴言と伝道之書に見られる「短い言葉」を作り出すのに必要とされる知恵をソロモンに与えたのは,ほかならぬ,創造者ご自身でした。ソロモンの助言は,神に由来するものですから,まさに最善の助言といえます。自分を守るためにその助言をどのように当てはめられるか見てみることにしましょう。

      災難を見越す

      「明敏な者は災難を見て,自分を覆い隠す。しかし経験の足りない者はそばを通って,必ず刑罰を受ける」― 箴 22:3,新。

      この言葉の根本にあるのは,危険な事態の生ずる可能性を見越し,災難が臨む前に身を隠すべきである,という原則です。言い換えれば,予防措置を講ずるようにということです。これは身を守る最善の方法です。例えばどのように? たくさんの例があります。

      家を空ける場合は戸口や窓に鍵をかけておきましょう。土地によっては,四六時中鍵をかけておいたほうが安全な場合さえあるかもしれません。ガレージが隣接している家に住んでいるなら,ガレージと母屋の間のドアも見過ごしてはなりません。遅刻しそうになって出勤する人はガレージのドアを開けっ放しにして行ってしまうので,見知らぬ人がガレージから難なく家の中に入って来てしまう,ということが知られています。

      家に当てはまることは,車にも当てはまります。車はロックしておかねばなりません。だれも乗っていない車を,ロックせずに止めておくと,法に触れることになる国もありますが,それはもっともなことです。車を運転している時でも,ドアをロックしておくほうが賢明であることにお気づきかもしれません。さもないと,信号待ちをしている時に,望みもしない人が車の中へ入って来ることがあります。夜間にどうしても路上駐車しなければならない場合には,できるだけ明るい場所を探して駐車するよう努めます。

      泥棒は邪魔の入らないときに,こっそり盗みを働くことを好みますから,大抵,人の居ない時にやって来ます。盗難予防用自動警報器(家や車に付ける)があったり,よくほえる犬がいたりするだけでも,泥棒は盗みを働くには条件が悪いと思い込むかもしれません。長期間家を空ける場合には,庭先や郵便受けに新聞や郵便物がうずたかく重なり,いかにもここは留守ですといわんばかりにすることがないようにします。そのような新聞や郵便物は,自分が帰るまで保管しておいてもらうよう依頼するか,友人に頼んで定期的に運び込んでもらうよう取り決めます。

      家に明かりをつけたままにしておくと,人がいるように見えるものです。もちろん,幾日もの間,昼夜の別なく明かりをつけっ放しにしておくなら,盗みを働こうとする油断のならない連中にとっては,明かりが全くついていないのと変わりがありません。不在期間が長引く場合には,定められた時間になると,電灯や場合によってはテレビやラジオさえも,自動的につけたり消したりする器具を購入するのは,賢明な投資と言えます。

      貴重品は安全な場所,泥棒の思いもつかないような所へ保管するようにします。さらに良い方法は,貴重品を数か所に分散しておくことです。そうすれば,泥棒がそのうちの幾つかをまんまと奪って逃げたとしても,全財産を持ち去られることはないでしょう。災難を見越すことには報いがあります。

      人を信用し過ぎない

      「経験の足りない者はすべての言葉に信仰を置く。しかし明敏な者は自分の歩みを考え量る」― 箴 14:15,新。

      会う人すべてを信用できるならそれに越したことはありません。世界のある地方では,いまだにそれが可能です。しかし,大都市の多くを含め,悪行があふれている所がありますから,現実的な見方が必要です。そのような所では,不審な人物や状況に警戒するのは賢明でしょう。

      例えば,見知らぬ人を家へ上げるのは賢明なことではありません。たとえ訪問するもっともな理由があるように思えても,相手がきちんとした身分証明書を提示しない限り,家へ上げないほうが賢明です。実際,土地柄によってはドアを開けるだけでも危険な所がありますから,のぞき穴やドア・チェーンを必要とするような環境に住んでいる場合,そうしたものを取り付けておきたいと思われることでしょう。

      ドア・マットの下やその他一般によく知られている隠し場所に,決して鍵を置いてはなりません。隠しておいてあげる相手の人のことは信用できても,その鍵を見付けるかもしれない人のことを信用できますか。キーホルダーに自分の住所氏名を付けておき,こうすれば紛失しても見つけた人が正直に返してくれる,と考えるのも賢明なことではありません。

      路上で人が近づいてきた場合,特に夜間などは用心するほうが賢明です。相手の意図は誠実なものと思えるかもしれませんが,それは危害を加える目的で,もっと近寄るための芝居かもしれません。追いはぎの犠牲になるよりは,用心するほうがよいでしょう。可能な限り,独り歩きはしないようにすることも身の守りとなります。二人連れの方が独りでいるよりも襲われることは少ないようです。伝道之書 4章12節(新)はこう述べています。「だれかが独りの者を打ち負かすことができたとしても,二人なら一緒にその人に立ち向かうことができる」。

      衆人環視の中では,自分の外見に注意を払うようにします。どんな装いをしているかは重要です。服装によっては,他の人を刺激して,望みもしない危害を被ることになりかねません。

      また,公の集まりに出席する際にも用心が必要です。手洗いに立ったり,軽食を取ったりするために席を離れる場合,貴重品を席に残しておくのは賢明ではありません。正直な人々の中にただ一人の不正直な部外者が入り込むだけで,自らの不注意を後悔するようなことが生じるのです。

      “金持ちのような装い”をしようとしてはなりません。人前で札びらを切る男性や宝石で飾り立てた女性は,自ら災いを招いているようなものです。最近のタイム誌の一記事は,「イタリアの富裕層をねらった誘かい事件やその他の暴力事件のまん延が主な理由となって,はなやかでこれ見よがしの裕福な生活様式はほとんど見られなくなった」と論評しています。ある裕福な人は,「今イタリアで人々が願っているのは,裕福な気分を味わいながら,貧しい外見を装うことである」,と語ったと言われています。

      慎重に仲間を選ぶ

      「暴虐の者は自分の仲間をたぶらかし,必ず良くない道に入り込ませる」― 箴 16:29,新。

      暴力は伝染病のようなもので,人から人へと移ります。用心しないと,同僚や友人や親族とのたわいのない議論が,見る見るうちに暴力沙汰へと発展してゆきます。例えば,米国で起きる殺人の四分一以上は家庭内の事件で,大抵の場合,家庭内のけんかが引き金になって生じる,と言われています。酒が過ぎるような宴会に出たり,抗議運動に首を突っ込んだり,感情の高じるような行進に加わったりすれば,暴力による危険は増します。それでは,暴力に走る人や暴力の発生しやすい状況を避けるのは本当に賢明なことではありませんか。

      自分の行動には気を使うべきですが,他の人の不行跡を必要以上に気にかけてはなりません。公衆の面前で粗野にあるいは不作法に振る舞う人を見ても,生命に別状のない場合には自制心を働かせて何も言わないほうが勝っています。箴言 26章17節(新)は,「通り掛かりの,自分のものでもない,いさかいにいきりたつ者は,犬の耳をつかむもののようだ」と述べています。不適当な言葉や“さげすむような”顔つきだけでも,容易に人を刺激して暴力行為に走らせることがあります。

      自分が作り出したのでもないいさかいに,不注意から巻き込まれてしまったような場合,どうしたらよいでしょうか。

      できれば,その場を立ち去る

      「いさかいが突如始まってしまう前に,去れ」― 箴 17:14,新。

      言い争って,火に油を注ぐようなことをしてはなりません。箴言 26章20節(新)は,「木がなければ火は消える」と述べています。言い争いは,当事者が争いの場に留まっている間しか続きません。立ち去ることによって暴力を避けるのは,おくびょう者の証拠ではなく,むしろ賢い者であることの証拠です。イエス・キリストと使徒パウロの例は,そのことを示しています。―ルカ 4:28-30; 使徒 9:23-25; 14:5,6をご覧ください。

      しかし,相手が体を使って逃げ道をふさぐような場合にどうすればよいでしょうか。そのような場合には,相手の人に穏やかに話しかけます。「答えは,柔和であれば,激怒を遠ざける」ということを忘れてはなりません。(箴 15:1,新)自制が必要とされますが,それも長い目で見れば報いがあります。強姦されそうになった場合,冷静を失わず,道徳に関する自分たちの聖書的な立場を説明して,難を逃れた婦人たちもいます。

      もちろん,逃げることもできず,穏やかな言葉も通じない場合があるでしょう。そのような場合にどうしたらよいかは相手が何を求めているかによって異なります。持ち物,金銭を欲しがっているのでしょうか。そうであれば,相手の求めに応じることです。物質は後で補うことができますが,けがをしたり,命を失ってしまっては取り返しがつきません。物質だけのために,命や体を危険にさらしてはなりません。命に比べて物質は比較的重要ではないと認めるだけの知恵と然るべき識別力を持つということは,箴言 3章14節(新)にあるとおり,『銀を利得として所有することに勝り』ます。

      しかし,襲撃者が貞操や命を求めている場合には事態は異なります。そのような場合には,いかなる手段に訴えてでも,自分の身を守ることを聖書は支持しています。ドイツ北部の新聞に最近掲載された一記事は,どのようにしてそれができるかを説明していました。その記事は,性犯罪の危険に直面した場合,「冷静さを失わず」,できれば「抵抗し」,「同時に助けを求めて叫ぶ」よう,婦人や若い女性に勧めていました。(申命 22:23,24と比較してください。)体を使って抵抗できない人は,悪行者の裏をかくか,「声を出して祈ることによって相手の注意をそらす」よう告げられています。これは聖書的であるので,賢明な助言といえます。このことは,賢明な支配者の語った別の提案と関連があります。

      エホバにより頼む

      「『悪を返してやる』といってはならない。エホバに望みを置きなさい。そうすればあなたを救ってくださるであろう」― 箴 20:22,新。

      これを自己防衛を非とする言葉と理解すべきではありません。この言葉は自己防衛をするに際して,識別力を働かせ,平静を保つ必要のあることを示しています。

      基本的に言って,犯罪には二つの型があります。一つは人の財産に対するもので,窃盗やゆすりがこれに当たります。もう一つは人の身体に対するもので,暴行,強姦,殺人などがこれに当たります。生命には財産よりもはるかに大きな価値がありますから,身体に対する犯罪を撃退することに,財産に対する犯罪を撃退する場合よりも広い行動の自由が与えられているのはもっともなことです。

      「[フランスでは]警察力よりも,自衛力に頼る傾向が強くなっている」。ドイツの一日刊紙は最近このように報じました。その記事は,会員に,「武装して,相手よりも先に撃つ」よう勧めている自己防衛を推進するグループについて述べています。他の国々でも同様の傾向が見られます。一ニュース雑誌はこう伝えています。「西ドイツでは,250万丁の回転式連発拳銃やピストル,散弾銃やライフルが登録されている。しかし,不法に所持されているものはその10倍に上ると考えられている」。その記事はさらに,武器はますます容易に入手できるようになっており,「犯罪者だけでなく,立派な市民によっても,より手軽に,より残虐な仕方で使われるようになっている」と述べています。

      もちろんそれを使うような事は決して起きないでほしいと念じながらも,『万一に備えて』家に武器を置いておいても害はないだろうと考える人もいます。しかし,実際のところ,自分が決して武器を使わないと本当に言い切る唯一の方法は,最初からそれを持たないことです。恐れや神経の緊張に負けて武器を使い,結局,後悔することになったという例は実に多くあります。パリの南に住む,あるガソリンスタンドの経営者の場合は同情を禁じ得ません。その人は真夜中に怪しい物音を聞きつけ,階下へ降りて行きました。すると突然人影がよぎりました。泥棒に違いないと思って,その人は銃を発射しました。ところが,その人が撃ったのは水を飲むために起きてきた8歳の息子だったのです。何と痛ましい事件でしょう。

      故意にではなくとも,人間の血を流すのは,重大な問題です。もちろん,襲って来る者を撃退するために使うことのできる,ガス銃のような別のタイプの武器もあります。人を傷付けたり殺したりする意図はなくても,そのような“無害な”武器でさえ,攻撃する側にさらに大きな暴力をふるわせるきっかけとなりかねません。ですから,そのような性質の武器の使用の適否も,注意深く比較考量しなければならないでしょう。

      身を守る方法として人気の高まっている別の手段は,柔道や空手など,いわゆる武道と呼ばれるものです。武道によって,人は敵を傷つけたり殺したりするために自分の手や体を使うように訓練されます。ですから,武道も,実際には武器と変わりがありません。それが異教的な背景を持ち,軍隊で用いられていることを考えると,やはりクリスチャンにとってふさわしいかどうかという疑念が生じます。使徒ヨハネが空手チョップで身を守ったり,イエス・キリストが拳法を使って敵を撃退する様を想像できますか。(この問題に関するさらに詳しい論議については,「目ざめよ!」誌1976年3月22日号の28ページをご覧ください。)

      自分や愛する者を守るためにどの程度まで実力を行使するか,またどんな手段に訴えてそうするかは,よく訓練された良心の上に立って自分で決定しなければならない個人的な問題です。とはいえ,どうすべきかを決めるに当たって,幾つかの事柄を自問してみると有益でしょう。私は命を守るために戦っているのだろうか。それとも,単に財産を守るためだろうか。私の動機は,自分と愛する者を守ることにあるだろうか。それとも,悪行者に報復することにあるだろうか。自分の行動が悪行者を含む他の人々に及ぼす影響を考えに入れただろうか。相手に重傷を負わせたり,相手を殺したいと思っているのだろうか。相手は惨めな境遇の犠牲者で,非難するよりも,哀れみをかけてやらねばならない人かもしれない,ということに気づいているだろうか。適切な訓練と思いやりと愛をもってすれば,その人は自分の隠れた良い特質を進んで培い,自分の悪行を悔い改めるようになるとはいえないだろうか。機会があれば,そのために私は進んで助けを差し伸べるだろうか。

      かいつまんで言えば,クリスチャンは何が何でも自己防衛に反対するものではありませんが,自己防衛が必要となるような事態を極力避けるようにしなければならない,ということになります。クリスチャンは,健全な思いの霊を働かせ,災難を見越し,必要な予防策を講じ,交わりに注意し,舌と行動を抑制し,人を信用し過ぎないようにする一方,エホバに全き信頼を寄せるなら,知恵の道を追い求めることになるのを認識しています。これは,武器や武道を使って行なう自己防衛よりも,はるかにすぐれた形の自己防衛です。

      伝道の書 9章18節(新)はこのことを一言で言い表わしています。

      「知恵は戦いの道具に勝(る)」。

      どんな小さな犯罪といえども,宇宙で最高の存在者であられるエホバ神に知られずに行なわれることはありません。ですから,エホバ神は,悪行者を裁く根拠となる,正確無比な犯罪統計を作成する能力を持っておられます。しかし,神は本当にそうされるでしょうか。増加の一途をたどる今日の犯罪と暴力の波は,いつまでも大きくなり続けるのでしょうか。それとも,神は人類に,必要とされる救済をもたらされますか。その答えを知るために,26,27ページの,「犯罪と暴力の撲滅は可能ですか」という記事をお読みください。

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