エホバに喜ばれる者となる
19世紀前,使徒パウロはコロサイにいる仲間のクリスチャンに関して熱心に祈りました。そしてこう述べています。「それは,あなたがたがあらゆる良い業において実を結び,また神に関する正確な知識を増し加えつつ,神にじゅうぶん喜ばれる者となる……ためで(す)」― コロサイ 1:9,10。
今日,聖書を通してエホバ神のご意志や目的を学んだ人たちは,どんな問題や試練があろうともエホバに十分喜ばれる者になりたいと願うはずです。
東北地方の一人のエホバの証人は,「日々の聖句」の討議が,エホバとの親しい関係を保ち,神に喜ばれる者となるのにどれほど役立ったかについて次のように語りました。「エホバを最良の友としている人は,自分の職場で,エホバに対し,親しい友としての離れることのない愛を示す機会があります。私も冬の間,牛乳配達をした際に清い良心を保つ面でそうした機会がありました。
「夏の季節に比べ冬の季節は牛乳の消費が落ち込み,納品した牛乳が売れ残ってしまうことがあります。牛乳には製造年月日が明示してあるため,日付の遅れた牛乳は日ごとに売れる見込みがなくなります。ある時,納品する牛乳の中に,自分の雇い主が製造年月日を自分で変え,偽って表示した商品を見つけました。私はこうした不正な商品を納めることはできないし,これからもこのようなことが行なわれるのなら仕事をやめると言いました。雇い主は自分が悪かったことを認め,今後はそのようなことはやらないと言ってくれました。しかし残念なことに再び不正が行なわれたので私は仕事をやめることにしました。私は雇い主の経営する旅館の離れの一室を間借りしていたので,仕事をやめれば住む所も失うことになると分かっていましたが,エホバと仲間の兄弟たちを信頼して仕事をやめることにしました。
「1977年1月10日の日々の聖句は,エホバを自分の友とするように励ましていました。エホバとの関係の価値を認識する人は,エホバに対し,親しい友として離れることのない愛を示す必要があることを教えていました。翌日の聖句は,よく機能を果す良心を保つために聖書がどれほど助けになるか,また人間に対する神の行動とご意志を深く学んで認識すればするほど,私たちは敬虔な良心の影響を強めることができるかを教えていました。
「こうした日々の聖句を注意深く考慮してゆくことが,エホバに対して離れることのない愛を示す面で,そして清い良心を保つ面で助けとなったのは確かです。仕事をやめた時には蓄えがなかったにもかかわらず,ふさわしい仕事が与えられるまで思い煩いなく生活できましたし,住む所も,会衆の仲間のクリスチャンたちが一緒に探してくださり,すぐに移る所を見つけることができました。こうしてみると,日々の聖句を討議する際にも魂を込めて行なうなら,よい認識を培ったり,原則を当てはめたりする面で大いに助けられることに気付きました」。
エホバはご自分の崇拝者が聖書に示されている高い道徳規準に調和した清い生活を送ることを要求されます。今年の春,秋田市で行なわれた巡回大会でバプテスマを受けた一女性は,聖書を学び始めた時に同せい生活をしていましたが,エホバに喜ばれる者となるため生活を清いものとしました。「私は幼稚園に通っていたころから母親の宗教に恐れを持っていました。母親が宗教のために悪い方へと変わっていったからでした。そのうちに,宗教に対して偏見を持つようになりました。中学,高校のころも,世の中がだんだん悪くなってゆくのを不思議に思っていました。ある日,テレビ番組の中である科学者が世の終わりについて語っていました。それは,今が世の終わりであるという自分の考えと一致していました。私はどこかに救いがないものかと考えました。
「丁度そのころ,私はある男性と同せいするようになりました。まだ年が若かったので職場ではそのことを秘密にしていました。しかし,うそをついている自分に自己嫌悪を感ずるようになり,彼に別れ話をしましたが,同意してくれませんでした。そのようなことを何回も繰り返していましたが本当に別れる動機と勇気はありませんでした。しかしそんな時に,私は職場で,エホバの証人と聖書を学んでいた一婦人と友だちになりました。その方は優しいお姉さんのような方で,王国政府について,またエホバが神であることについて教えてくださいました。私も聖書を読んでいましたが,エホバという名が出ていなかったのでその名について疑問を抱いていました。その婦人は自分の研究司会者を紹介したいと言ってくださいました。余り乗り気ではありませんでしたが仕方なく会うことにしました。
「話をしているうちに少しずつ疑問が解けていきました。自分の聖書は口語体だったので,『主』としか出てこなかったことに気付きました。しかし,『エホバの名を隠しているのはサタンです』と言われてみると複雑な気持ちになりました。そこで『見よ! わたしはすべてのものを新しくする』の小冊子から研究を始めることにしました。その後,集会に出席した際,『不道徳を避けるように』という主題の公開講演を聴き,同せい生活は善くないことに気付きました。早速,彼に夢中で話しましたが全然通じませんでした。それでも私は別れると一方的に話しました。そのころ彼は急の用事で出かけ,私は2週間一人きりになりました。その期間,私は同じ職場の,研究生の婦人のお宅にお世話になりました。彼が帰って来てから,私は夏に青森で開かれた地域大会に無理を言って連れて行きました。ところが彼の方が一層真理に目覚め,熱心になったのです。私は別居後3か月ごろにホームシックにかかり,大変寂しく思いましたが一生懸命に祈りました。その結果,彼も熱心になり,別居1年後のこの大会で二人そろって水のバプテスマを受け,2週間後には,会衆の仲間の祝福を受けながら結婚式を行なうことができました」。エホバに喜ばれる者となるためにこの婦人が払った努力は確かに報われました。
エホバはご自分の崇拝者に「専心の献身」を要求される神です。(出エジプト 20:5,新)第1世紀のクリスチャンたちはローマ皇帝の像に一つまみの香をささげることさえ拒絶しましたが,現代でも同じような状況に直面する場合があります。神奈川県のある会衆に交わる一クリスチャンは次のような経験を語りました。「私は熱心な学会員の家庭で育ちました。ある日,年老いたクリスチャン婦人から『真理』が伝えられて,愛の神エホバが存在しておられることや,その神が間もなく地上の一切の悪と汚染を一掃してくださることが分かり,これこそ私が求めてきた宗教だと思いました。
「主人の実家では,正月に親せき中が集まって新年の挨拶をし,お墓参りをするのが習わしです。しかし,コリント第一 10章21節にある『エホバの杯と悪霊の杯を共に飲むことはできない』という聖句が心にしっかりと刻み込まれ,そのような儀式には二度と出たくないと思い,主人に少しずつ話し始めました。主人はびっくりしてすぐに聖書の研究をやめるように言いました。でも私は,やめる意志がないこと,さらにこの信仰が私にとって最も大切なものであることを話すと,主人は逆上して,言うことを聞かないなら離婚すると言いました。主人は,このままで行くなら宗教が家庭を破壊し,自分に対する愛情も冷めるのではないか,と思ったらしく,冷たい態度を取り,口もきかなくなりました。私は主人が理解してくれるようエホバ神に祈り続けました。
「私は,主人に,エホバの証人がどんな人たちか知ってもらいたいので,集会での出来事や,仲間のクリスチャンたちの素晴らしい特質や,また親切にしてもらったこと,励ましを受けたことなどを必ず話すようにしました。さらに長老や兄弟たちと食事ができるような機会を設けたりして積極的に気を配りました。
「ある日,主人の父が,ガンであと4か月の命と聞かされました。私は死んでから拝むよりも,生きている間に愛を示したいと主人に話し,了解を得て,精一杯看病することができました。義父は,自分の葬式に来てくれるのかと厳しい口調で尋ねました。私は義父のショックを心配しながらも,『どんなお世話でもさせていただきますが,崇拝行為だけはできない』ことを話しました。
「4か月が過ぎた時,義父は亡くなりました。その日,主人は,私が葬儀の席で拝まないなら『家の敷居はまたがせないように』という義父の遺言があることを電話で伝えてきました。私はここで妥協してはならないと思い,『拝むことはできないので,行かないことにします』と,きっぱり言いました。主人は,『仕方がない,では,手伝いだけでも来るように』と言い,私は二人の子供と証言の練習をして,エホバに祈って出かけました。
「主人の母は,私がお線香一本上げないことに腹を立て,皆の前で詰問しました。私が少し話しても逆上するばかりで,聞いてもらえず泣きたい気持ちでいると,主人は,『ぼくが変わって話します』,と名乗り出て,私の口をふさぎました。私はびっくりしました。てっきり母と一緒になって私を非難するものと思っていたところ,主人は,私の宗教がとても純粋であることや,お線香一本上げるより看病して世話することがどんなに大切かを皆の前で話してくれました。それでも,母は聞き入れず,『嫁をこのままにしておくなら,遺言もあるので親子の縁を切る』と,脅しました。私の心は動揺しました。そして,主人が何と言うか,祈る気持ちで耳を澄ましていました。すると,主人は『憲法で保証されている宗教を,いくら夫婦でもやめさせる訳にはいかない』と述べ,さらに『ぼくたちには子供がいるし,夫婦別れはできないので,お母さんが親子の縁を切ると言うなら切ってもらってもいい!』と言ってくれました。
「この言葉に主人の兄弟たちも感心して,私たちを弁護してくれました。私は涙が出ました。以前,宗教を捨てないなら『別れる!』とまで脅した主人が,これほどの事を言ってくれるとは思ってもみませんでした。
「現在,主人は,開拓者としての私の奉仕活動を許してくれています。また家を書籍研究の集会場所として提供してくれました。主人の心の中にもエホバの愛が徐々に植え付けられているようです。どんな苦しい立場に立たされた時でも,エホバのみ言葉に忠実でありたいと願い,偶像礼拝に陥らないよう努力したことを,エホバ神はこんな素晴らしい方法で祝福してくださり,保護してくださったことを深く感謝しています」。
これらの経験から分かるように,エホバ神に喜ばれる者となるため,「りっぱなことを行なう点であきらめないように(するなら),しかるべき時節に刈り取ることになる」でしょう。―ガラテア 6:9。