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  • ヨブ記 神が悪を許している理由を知る手掛かり
    ものみの塔 1976 | 7月15日
    • 命じます。その後ヨブは,七人の息子と三人の美しい娘,そして以前所有していたより二倍も多い家畜をもって祝福されました。さらに140年間生き長らえたヨブは,「年老い,日満ちて」死にます。―ヨブ 42:1-17,口。

      確かにヨブ記は,なぜ神は悪を許し,義人が苦しむのを許しておられるかを明らかにしています。エホバがそうされたのは,全人類を神に背かせることができると豪語したサタンの言葉が偽りであることを証明するためでした。同時にそれは,神と義を愛するすべての人々にとって,自分たちの心からの崇拝を実証し,忠誠を保つ者であることを証明する機会となります。あなたはこうした人々の一人に数えられるでしょうか。もしそうであれば,エホバ神がご自分の忠実なしもべたちすべてに差し伸べておられる永遠の命という報いを受けられるでしょう。こうした事柄は,忠誠を保った人々の中で最も偉大な方であるイエス・キリストの犠牲によって可能となりました。―ヨハネ 3:16。

  • イエスの宣教期間はどれほどでしたか
    ものみの塔 1976 | 7月15日
    • イエスの宣教期間はどれほどでしたか

      イエスの宣教期間に関するこの質問に対して,聖書学者は様々な答えを提出しています。一年に過ぎなかったと主張する人もいれば,二年,あるいは三年,いや三年半であったと主張する人もいます。聖書の預言と聖書に記されている歴史はともに,イエスがバプテスマを受け,かつ,はとのような形をとって下った神の聖霊を注がれてメシアとなられてから,刑柱の上で死を遂げられるまでの期間が,実際には三年半であったことを示しています。―ルカ 3:21,22; 23:46。

      イエスの宣教の時期に関して決定的な根拠となるのは,ダニエル 9章24-27節の預言です。この預言は,メシアであるイエス・キリストが到来する年とイエスの宣教の期間を正確に指摘しており,『70週』の預言として知られています。この「週」は,一般には「週年」と解されています。アメリカ訳はこの部分を次のように訳出しています。「あなたの民のために70週年が定め置かれている」。(ユダヤ百科事典,第5巻,1,281段も参照)預言はさらにこう告げています。『エルサレムを建てなおせという命令の出ずるよりメシアたる君の起こるまでに七週と六十二週あり』。言い換えるなら,メシアは69「週」の終わりに到来することになっていました。

      年代の上で「週年」の位置を定める

      この一連の「週年」はいつから数え始められるのでしょうか。総督ネヘミヤにエルサレムの城壁を再建する権限が与えられた年,正確には西暦前455年からです。(ネヘミヤ 2:3-9)69週年というのは483年間のことですから,その期間は西暦前455年から西暦29年までになります。イエスが西暦29年にメシアとなられたことは,ルカ 3章1,2および23節の記録と,そこに名が挙げられているティベリウス・カエサルの治世の時期とを比べてみれば分かります。

      ダニエルの預言はさらにこう言葉を続けています。『メシア絶たれん ただしこれは自己のためにあらざるなり』。それでは,メシアは,いつ絶たれる,つまり死に渡されることになっていましたか。その答えは,次の27節にこう書かれています。『彼その週の半ばに犠牲と供え物を廃せん』。この二つが廃されることは何を意味しますか。モーセの律法によって求められていた犠牲や供え物が,もはやエホバ神にとって何の価値も功績もなくなることを意味しています。こうした犠牲や供え物がそれらの物を捧げる人々の罪を清めるという予表的な働きをすることはもはやありません。それはなぜですか。なぜなら,メシアであるイエス・キリストは,ご「自分の肉によって」,つまり人間としてのご自身の犠牲によって『律法を廃棄された』からです。(エフェソス 2:15)動物の犠牲や供え物を捧げることを規定したモーセの律法は,「きたるべき良い事がらの影」にすぎませんでしたから,実質,すなわち神の子羊イエスの犠牲が捧げられることにより,無効となりました。―ヘブライ 10:1-10。ヨハネ 1:29。

      このようにダニエルの預言から,メシアが69週年の終わりに当たる西暦29年に到来し,70週めの半ば,つまりその三年半後に犠牲として絶たれ,それによってモーセの律法による犠牲がもはや必要でないことが理解されます。こうして,神ご自身の預言の言葉から,イエスの宣教の期間を確定することができます。イエスは,メシアとなられてから死を遂げられるまでに,三年半を過ごされました。

      四回に及ぶ過ぎ越し

      イエスの生涯を記した福音書の記録,とりわけ使徒ヨハネの手による福音書の記録は,この預言と正しく調和しています。どうしてそう言えますか。同書は,イエスの宣教期間中に過ぎ越しが四回あったことを指摘しているからです。ヨハネの言及している最初の過ぎ越しは,イエスが初めて奇跡を行なって間もなくありました。こう書かれています。「さて,ユダヤ人の過ぎ越しが近かったので,イエスはエルサレムに上って行かれた」― ヨハネ 2:13。

      そして,ヨハネ 6章4節にも,「さて,ユダヤ人の祭りである過ぎ越しが近かった」と書かれています。モーセの律法の定めに従って,イエスは過ぎ越しの際にエルサレムに上るのが常でした。(申命 16:2)四人の福音書の記述者全員が記しているとおり,イエスは死なれる直前に,12使徒とともに最後の過ぎ越しを祝われました。―マタイ 26:17。マルコ 14:14。ルカ 22:11。ヨハネ 13:1。

      「しかし,ここで述べられている過ぎ越しは三回だけではないか。四番めの過ぎ越しはどうなったのか」と,あなたはお尋ねになるかもしれません。過ぎ越しと明示されてはいませんが,ヨハネ 5章1節で言及されている祭りが第四番めの過ぎ越しであることはほぼ確実です。そこにはこう書かれています。「こうした事ののち,ユダヤ人の祭りがあって,イエスはエルサレムに上って行かれた」。この祭りが過ぎ越しであることを見分ける上で助けとなるのは,ヨハネ 4章35節に記されているイエスの次の言葉です。「あなたがたは,収穫が来るまでにまだ四か月あると言うのではありませんか」。大麦の収穫は過ぎ越しの時期に始まりますし,この四か月の間でイエスがエルサレムに上らなければならないほど重要な祭りは過ぎ越し以外にありません。イエスがエルサレムに上らなければならなかった他の二つの年毎の祭りは,過ぎ越しよりも後に行なわれました。

      イエスは,ティルスやシドン(マタイ 15:21),あるいはヨルダンを越えたペレアの地方(マタイ 19:1)など,比較的遠くの場所で王国の良いたよりを宣べ伝えたこともありましたが,大半の時間は,故郷のガリラヤ州で宣べ伝え,教える業を行なうのに費やされました。このガリラヤで,イエスは,自分の言葉に喜んで耳を傾ける,農夫や漁師などの,正直で謙遜でそぼくな人々を見いだされました。イエスは特別な行事がなければ,エルサレムに上ることはなかったようです。確かに,献納の祭りやプリムの祭りはその四か月の期間中に訪れましたが,これらの祭りは,ユダヤ人が国外に散らされた後に制定されたものであるため,ユダヤ人が住んでいるところならどこででも祝うことができました。

      また,ヨハネ 5章1節に記されている祭りが過ぎ越しの祭りであると結論付ける別の理由もあります。それは何でしょうか。ガリラヤにおけるイエスの宣教を詳述している他の福音書の記録を調べてみると,ヨハネ 2章13節に記されている過ぎ越しから同6章4節で言及されている過ぎ越しまでの間にイエスが行なわれたすべてのことを成し遂げるには,優に一年を超える期間が必要であったと考えられる,という点です。

      他の証拠

      イエスの宣教の期間が三年半であったことを支持する証拠はほかにもあります。ヨハネ 19章31節から,イエスが金曜日に亡くなられたと結論することができます。というのは,その翌日が「大いなる」安息日であったと述べられているからです。一週間にわたる種入れぬパンの祭りの最初の日は安息日とされていましたが,週毎の安息日とその最初の日が重なったため,結局その日は「大いなる」安息日になったわけです。(レビ 23:6,7)このように,過ぎ越しの日,つまりニサン14日が金曜日と重なったのは,西暦31年でも32年でもなく,33年のことです。ですから,イエスが死んで,三年半に及ぶ宣教を終えたのは,西暦33年のニサンの14日に違いありません。

      このように,ダニエル 9章24-27節の預言,イエスの宣教期間中に過ぎ越しが四回祝われたこと,満月の日であるニサンの14日が金曜日に当たるのは西暦31年でも32年でもなく33年であったことなどの諸点を考慮することによって,イエスの宣教は一年や二年ではなく,三年半に及んだとの結論に達します。

  • 『わたしは血肉に助言を求めなかった』
    ものみの塔 1976 | 7月15日
    • 『わたしは血肉に助言を求めなかった』

      エミール・シュランツの語った経験

      長年にわたるエホバへの奉仕を振り返ってみて,一つの顕著な事実と言えるのは,『わたしは直ちに血肉と協議したりはしなかった』という点です。ガラテア 1章16節にある,クリスチャン使徒パウロのこの言葉は,わたしにも当てはまると思います。なぜでしょうか。クリスチャンとしての歩みを始める際,そしてこれまでに幾度も,『わたしは血肉にではなく』,神と神のみ言葉に助言を求めたからです。

      しかし,若いころのわたしは神についてほとんど知りませんでした。わたしはルクセンブルク大公国の北部,オースリングと呼ばれるところで育ちましたが,そこは迷信的な考えが染み込んだ土地でした。例えば,雌牛を病気から守るために“聖”アルビンに,そして事故や馬の病気を未然に防ぐために“聖”セルシウスに祈りがささげられました。豚を守ってもらうため,“聖人”に祈ったことさえありました。

      父は非常に信心深い人で,司祭になりたいという願いをわたしの心の中に育みました。わたしは既にミサの際に侍祭として仕えていましたが,第一次世界大戦後の出来事のため司祭に対する父の信頼感は揺らぎました。わたし自身についていえば,12歳になって初めて聖体拝領にあずかるときに,神はわたしに近づいてくださり,その日は人生で最良の日となるであろうと告げられていました。ところが十分な準備にもかかわらず,その日はむなしさを後に残したにすぎませんでした。堅振礼の際にも同様の幻滅を味わいました。わたしは,約束されていたこととはうらはらに,聖霊の表われなるものを全く感知しませんでした。司祭になりたいという希望はもはやなくなりました。

      年月の経過とともに,わたしは友人たちに惑わされ,大酒を飲むようになりました。しかし,1930年ごろになって,わたしは毎週日曜日に自分の兄弟の一人を訪ねるようになりました。わたしたちは,よく若いころの思い出話をし,神とそのお目的について無知であることがもたらす失意について語り合ったものです。そして,自分たちがまだ一度も見たことがなく,司祭だけが持っているように思える聖書について話しました。兄は幾度となくこう言いました。「もし神が,司祭の教える以上の事柄をわたしたちに告げようとしておられないのなら,神は存在していないと思う」。そして次のような言葉を付け加えたものでした。「本物の聖書を手にすることさえできたらなあ」。そのときまで,わたしは血肉に助言を求めることしかできませんでした。聖書を入手して,神からもたらされた言葉をじかに読めたら,どんなにかすばらしいでしょう。

      み言葉を通して神に助言を求める

      1933年のある日,そうした事柄を話し合ってから数日後,一人の男の人が兄の家を訪ねて来まし

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