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  • 1世紀の出来事の年代は20世紀の今日どのように定められるか
    ものみの塔 1968 | 11月15日
    • たのち,この精力的な宣教者は再び旅立ちますが,驚くにはあたりません。アンテオケに「しばらくとどまりてのち」,おそらく52年の秋ごろ,彼は3回目の旅行を始めました。このたびは陸路,「ガラテヤ,フルギヤの地を次々にへてすべての弟子を堅う(し)」,エペソに着き,そこにその後2年半とどまりました。(使行 18:23; 19:1-10)次に,彼はそのことばどおり,五旬節の祝い(55年)ののち,マケドニヤを経て,コリントに下り,その地で冬を過ごし,今度は同じ道筋を戻って翌年春の過ぎ起しの時にはピリピにたどり着きました。こうしてパウロは西暦56年の五旬節までにはエルサレムに戻ることができたのです。―コリント前 16:5-8。使行 20:1-3,6,15,16; 21:8,15-17。

      29 エルサレムで捕えられてから,ローマで死ぬ時までにパウロが経験した事柄の年代は,どのように定められますか。

      29 しかしエルサレムに着くやいなやパウロは宗教上の敵対者から直ちに襲われ,不本意にもローマ軍の手でひそかにカイザリアに向けて護送されました。そして,わいろをこととする狡猾な総督ヘリクスに代わってフェストが任官するまで2年間,拘禁されました。(使行 21:27-33; 23:23-35; 24:27)フェストが総督となった年にかんして大英百科事典は,55年あるいは60-61年として互いに争い合う批評家二派についてこう述べています。「真実はそれら両極端の中間にあると確言できよう。それは,いずれの側の論議も相手側の誤まりを証明できるほどに一方の極端を証明してはいないと思えるからである」。d ゆえに,前述のすべての事実に照らして考えるとき,パウロが皇帝に上訴して,聞き届けられ,ローマに向けて出帆した時としては,58年が妥当であると言えるでしょう。歴史に残る最も有名な難船にあって命拾いをしたのち,マルタ島で一冬を過ごし,翌59年の春,ローマに着いたパウロは,囚人として2年その地にとどまり,61年まで伝道し,また教えました。(使行 27:1; 28:1,11,16,30,31)パウロはローマでの2度目の投獄の際に殉教の死を遂げましたが,その期間はおそらく西暦64-65年のころでしょう。―テモテ後 1:16; 4:6,7。

      30 1世紀の出来事をこうして調べることにはどんな益がありますか。

      30 以上,1世紀の出来事を回顧してみましたが,それはいずれも興味深く,かつ信仰を強めるものでした。聖書の筆者は現代の暦法については何も知りませんでしたが,出来事の日付を記録するに際して用いた方法,その慎重さおよび正確さは,古代のさまざまな事件を時間の流れの中で正確に位置づけるのにいかに貢献しているかがわかります。聖書の年代表が詳細な点でも調和しており,真実が正しく取り扱われていることを知り,聖書に対するわたしたちの確信と信頼の念はさらに深められ,聖書はまさしく真理をしるしたエホバのみことばであるとの信仰はますます深められます。

  • 『すべての国の民への証言』
    ものみの塔 1968 | 11月15日
    • 『すべての国の民への証言』

      エホバの証人の1968年度年鑑より

      ザンビア共和国

      人口: 3,780,000人

      伝道者最高数: 35,525人

      比率: 106人に1人

      何千人もの生徒が放校され,わざを禁止するという政府官憲の脅迫は後を絶ちません。ラジオや新聞には間違って報道され,仕事ははく奪され,暴徒に襲われることさえあります。こうした中でザンビアの兄弟たちはひるむことなく,停滞することなくかえって全分野にわたって奉仕を拡大しました。

      北西領域にある孤立した地方,カボンポという所に,女や子供も含めて400人ばかりの兄弟が特別な集会のために集まっていました。プログラムの始まる

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