神の目的とエホバの証者(その42)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第27章 世界的な拡大のために建てることと植えること
ジョン: 陰うつな第二次世界大戦が行なわれていたとき,協会の3番目の会長が仕事を始めると同時に,エホバの証者の現代史上かつてない程の大きぼな教育運動の期間が始まり,クリスチャン奉仕者各人の奉仕活動に多くの強調が置かれるようになりました。それはすでに1938年以来始まっていましたが,いよいよ「全世界的な建ておこすプログラム」が本格的に始まったのです。1942-1945年は,各人の円熟および新世社会の各人の神権的な進歩ということに努力が集中されて,このプログラムの強い基礎が置かれました。
このことは,1942年9月18日-20日,オハイオ州クリーブランド市で開催された新しい世の神権大会のとき明白に示されました。この大会で協会の新しい会長がエホバの証者に紹介されました。同時にアメリカ合衆国内の51の他の大会都市もクリーブランド市の中心大会と連結して,主要な講演を聞くことになっていました。最重要な講演は,「平和 ― それは続くか」と題する公開講演でした。しかし,戦争の最中に開催されたこのすばらしい大会は,アメリカだけに限られたわけではありませんでした。だいたいこれと同じ時期にアメリカ合衆国外の33の国々でもエホバの証者の大会が開かれました。
トム: 新しい会長が大会でエホバの証者全員に「紹介」される前に,会長について教えてくれませんか。彼がいつ,どこで生まれたとか,ベテルでどのくらい奉仕していたとか,その他の背景を話してくれませんか。
ジョン: よろこんで。協会は次のような略歴を発表しました。
ネイサン・ホーマー・ノアは,1905年,ペンシルバニア州ベツレヘムでアメリカ生まれの両親から生まれた。彼は1923年6月,(ペンシルバニア州)アレンタウン高等学校を卒業した。16歳のとき,彼は改革派教会をやめて,エホバの証者のアレンタウン会衆と交わるようになった。1923年,彼は18歳のとき全時間伝道者になり,ブルックリン・ベテルにある協会本部の一員になるように招待された。そこで彼は宣教に関する訓練を受けて,急速に進歩し,後にはブルックリンから200マイル以内の諸会衆で聖書講演をした。時たつ中に彼は協会の工場の印刷部責任者になり,1932年には印刷事務所と工場の責任者になった。1934年,彼は協会のニューヨーク法人の理事の一人に選ばれた。……1940年,彼はものみの塔聖書冊子協会ペンシルバニア法人の理事および副会長に選ばれた。1942年1月,彼はアメリカの協会および英国の法人,万国聖書研究会の会長に選出された。a
それで,このような神権的な経歴を持つ彼が,エホバの証者に今更紹介される必要はありませんでした。しかし,大会に出席していた人はみな,彼がいま重大な新しい責任をになっていることを知り,彼がその仕事を正しく遂行するようにと願いつつ,エホバが彼の努力を祝福されることを祈りました。
トム: たしか,ハイデン・シー・カビントンが副会長に選ばれたと先週おっしゃいましたね。
ジョン: そうです。彼は法律部で奉仕していました。ジャッジ・ルサフォードの死後は,法律部の責任者になり,協会の弁護士として奉仕をつづけました。彼は1911年,テキサス州ホプキンス郡ネルタで誕生し,1933年サンアントニオ法律学校を卒業し,その翌年からエホバの証者のひとりとして伝道を始めました。1939年8月21日,彼は協会本部の法律部で奉仕を始め,1941年11月ニューヨーク弁護士会員のひとりになりました。1945年10月1日まで,彼は協会のペンシルバニア法人の副会長でした。選挙権を持つ会員は,1945年9月24日付の彼の手紙の趣旨を尊重しました。彼はその手紙の中で,理事のひとりおよび副会長として奉仕することを辞退する旨を記したのです。この辞退は,責任の回避ではなく,むしろ理事の全員と役員は油そそがれた残れる者で構成されるという主の御こころに一致するためのものでした。彼は,「他の羊」のひとりで,地上の生命を希望していました。彼は協会の弁護士として奉仕をつづけ,油注がれた残れる者が彼の代わりに副会長に選ばれました。b
新しい管理下にわざは続行
世界の状態は危険で,エホバの証者は逮捕されたり,打たれたりまた全世界で迫害を受けました。しかし,新しい執行機関は未経験でなく,正しいコースを取ることができました。ジャッジ・ルサフォードの死後翌年の協会の年鑑報告の中に,そのことは次のように述べられました。1943年の「年鑑」を読んでみましょう。
1942年は主の民にとってクライマックスのひとつと言える。この年に,主の民は異常な試練を受けた。戦争は全地で行なわれ,宗教家たちはあらゆる場所のエホバの証者を禁じる機会をさがしていた。あの国でもこの島でも,またアメリカ合衆国内の都市でも文書は没収され,兄弟は刑務所に入れられ,暴徒は攻撃を加え,主の民の資産はこわされた。地上のあらゆる場所で,エホバの証者は自分の生命を守るために立ち上がることが必要であった。主の恵みにより彼らは立ち上がった!
1942年の初期,われわれの愛するルサフォード兄弟が地上のコースを終えて,長年の忠実な奉仕に対する報いを受けたとき,敵共はいよいよ「エホバの証者」の制度が消滅すると考えたらしい。そして,これこそエホバの証者を打ちくずす攻口になると彼らは考えた。宗教家たちは法律によって悪をはかり,エホバの証者を圧迫して来た。「彼らの侵略的な指導者」は死亡したから,制度はきっと瓦解するに違いないと宗教家たちは考えたのである。
一新聞記者は,1931年にものみの塔の人々が「エホバの証者」という新しい名前を採用したとき,この新しい名前は長つづきしないと語った。この記者は,その考えが間違いであったと,記事の中で告白していた。なぜなら,エホバの証者という名前は長つづきしたからである。ジャッジ・ルサフォードは,死んで地的な制度と共にいないが,『私はエホバの証者のものみの塔協会について預言をしない』とその記者は述べていた。『多数の人は,この制度が瓦解してしまうと言っている。しかし,私はそのようなことを言いたくない。むしろ,どうなるかを静観したい』。この人は次のような助言を与えた。ガマリエルの助言に従ったようである,『その企てや,しわざが,人間から出たものなら,自滅するだろう。しかし,もし神から出たものなら,あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば,諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない』。新聞が前述の記者のような意見を持ったということは例外的なものであった。c
食物やガソリンは配給制の時で,時勢はものみの塔協会にとって悪いように見えました。しかし,新しい世の神権大会の準備は1942年の3月上旬に始まりました。クリーブランドは中心都市に選ばれ,アメリカ合衆国内の51の他の大会都市とも連絡する取決めが設けられました。さらに,
全地のすべての支部事務所に大会のことが通知され,戦争のため直接の電話連絡ができなくても,各国も大会を組織して参加するようにとの指示を受けた。英国,メキシコ,キューバ,ブラジル,トリニダード,南アフリカと西アフリカ,スウェーデン,スイス,ハワイ,ニューファンドランドでそのような大会が取決められた。主の恵みにより,クリーブランドの中心大会で主から与えられた音信は,多くの場所でも聞けたのである。それは,ほんとうに大神権者と王なるキリスト・イエスの指示の下に行なわれた世界的な大会であった。d
大会の初日,9月18日,金曜日の朝,兄弟たちは国内のいろいろの会場に参集して野外奉仕に関する指示を受けたり,区域を受け取ったり,また「平和 ― それはつづくか」と題する公開講演を宣伝し始めました。大会の各部はみな良く組織され,宿舎の手筈も完了し,野外奉仕のための区域の割当も良く,書物部屋,簡易食堂,自発奉仕申込所,開拓者申込所,自動車の駐車場も完備し,兄弟たちに必要なものは,みなまかなわれました。
「御霊の剣」をもって前進
神権制度を拡大するための野外の証言を一日中行なって,元気一杯になった大会出席者たちはその金曜日の夜,大会の会場に集まって,大界の最初のプログラムを聞きました。
司会者の冒頭の言葉から,この大会は仲間の一奉仕者の追悼大会でないことがすべての人に認識されました。これは人間製の制度でなく,神の制度であり,これからも神の制度として存続するということが,各人のあたまにしっかりきざみこまれました。歓迎の言葉は,簡潔でしたが,要点にふれていました。
それから,「ただひとつの光」と題する大講演が行なわれました。この講演の内容は,全部「ものみの塔」にのせられました。e どの点が強調されたか,各人は明白に知ることができました。それは「進め」の一つの言葉に要約することができます。講演者がイザヤ書 59章と60章の預言を説明し終えるまで,兄弟たちは身を乗り出して聞きました。私たちはすこし手をゆるめて,ちょっとの期間かくれるべきですか。否! 「歩調をゆるめる」べきか。否! 緊張をゆるめるべきですか。否! 前進せよ!が答えでした。エホバの証者は,待ち望んでいたものを受け取りました。彼らの取ったコースが正しいことは付加的に証明されました。
この1時間の講演の最後の15分間,協会の会長は『御霊の剣』を提出する特権にあずかり,大会出席者は大よろこびでそれを受け取りました。全聴衆の顔には,心からの満足と感謝が表われていました。兄弟たちは,新しい「ものみの塔」聖書というこの贈物をいただいたことについて,主に感謝しつつ,「最後」にいたるまで「前進」しつづけようという強い決意を持ちました。何ものも彼らが最高者にささげて歌う賛美をやめさせることはできません。f
新しい「ものみの塔」聖書の発表は,ほんとうに前進を示す歴史的な一歩でした。それは,聖書協会として協会の出版した最初の聖書ではありません。しかし,協会は協会所有の印刷機を使用して聖書の全部をはじめて印刷しました。それについては別の時にもうすこしお話ししましょう。
土曜日,9月19日の朝,家から家の証言,宣伝行進,ビラ配布,宣伝車活動の取りきめが設けられました。簡易食堂,書物室,宿舎の割当,あるいは大会に関連する数多くの仕事に従事しない人はみな野外の奉仕をしました。大会に出席した人は,だれも彼もなんらかの仕事をしました。
みなは,土曜日の午後に予定されていた「新しい世の戦士たち」という講演を期待していました。この時までには,52の大会都市に約8万人が出席していました。
この講演には二つの最高潮がありました。最初の最高潮は,エフタが敵共に対して勝利を得ること,第2番目の最高潮はエフタの娘がエホバへの犠牲として全時間の宮奉仕にささげられたことです。兄弟たちは,大エフタの指導下に行なわれる戦争の描写を聞いて大よろこびでした。兄弟たちは,次のことをはっきり知りました,すなわち大エフタはエホバの制度である協会を用いており,神の民は神権的な支配に従わねばならないこと,また主の民は神を崇拝する権利のために戦い,現在の立場を保つためにあらゆることを行い,全体主義的な勢力,すなわち現代のアンモン人の侵入を許さないということです。だれも手をゆるめるべきではありません。神はその御言葉により,彼を崇拝する権利をエホバの証者に与えました。彼らは神を崇拝します。この権利に干渉する者は,排撃されるでしょう。御国のこの福音が伝道されねばならないことは,きわめて明白に証明されました。「前進せよ」の合図は伝えられ,主のめぐみと援助により最高者のしもべは最終的な勝利を得る時まで前進しつづけます。全聴衆の心はよろこびにあふれ,大いなる神権者とキリスト・イエスに従う忠実な者たちは幸福感につつまれました。
講演の第2番目の最高潮は,エフタの娘がささげられることを説明するもので,それは真に迫った胸を打つ話であったため,多くの人は目に涙をうかべて聞き入りました。エフタがひとり娘を主に捧げたと同じく,私たちの御国証言と奉仕による実はみな主に捧げられねばならぬことをエフタの劇は示しています。彼らはそのことを十分に認識しました。「他の羊」を群れの中に集めるこのわざは,神の恵みによって増加します。この大いなる群れは,主のものであることを認め,エホバの奉仕のみに専念します。
この講演が終わってから,決議文が提出され,全聴衆は異口同音に「ハイ!」と大声で答えて採決しました。それから,52の大会の都市では,新しい世の戦士たちに「新しい世」という新しい本がいっせいに発表されました。g
この本はヨブの預言的な物語を聖書の観点に立って研究するものでした。この本は,ルサフォード兄弟が1年前の彼の最後の大会のときの最初の話であった「忠実」と題する講演の主題を発展し,詳説していました。後日,この本といっしょに使用するため,質問の冊子が発表され人々の家庭で聖書研究の司会が可能になりました。それは,「模範的な研究」冊子に似ていました。h
その晩,9月19日の土曜日,制度の指示についての新しい冊子が紹介され,神権的な支配が正しいこと,および神権的な支配だけが主の制度の唯一つの支配であることが示されました。これらの新しい制度の指示は,「神権制度に仕える」と題する話の中で論ぜられました。後日,冊子は各会衆と開拓者に送られたため,僕たちはみな冊子を持つようになり,その指示は1942年10月1日から有効になりました。i
進歩した奉仕の取決め
トム: この時に,奉仕の面で新しいことが紹介されましたか。
ジョン: 重要なことがひとつあったので,いまお話ししたいと思います。それは,協会の代表者を各会衆に訪問させる取決めが始まったことです。この再組織とともに,旅行する協会の代表者は「兄弟たちの僕」と呼ばれ,すくなくとも6カ月に1度各会衆あるいは会を訪問することになりました。彼らは会の伝道者の記録カード,再訪問のつづり,区域のつづり,会の会計,文書と雑誌の会計,および「制度の指示」の中に述べられている他の詳細なことを調べました。会の兄弟たちは,「兄弟たちの僕」の訪問中に野外奉仕に参加するようつよくすすめられました。「兄弟たちの僕」の主要な責任は,兄弟たちを援助して「最も効果的な仕方で御国の関心事を拡大させる」ことだったからです。j
さて,もう一度1942年の大会のプログラムについてお話ししましょう。「神権制度に仕える」と題する講演が終わって後,「勝利」と題する別の話がなされました。この話の中で,新しい世の戦士は,過去1年の中にアメリカの法廷で数多くの勝利を得たと示されました。今後もさらに多くの戦いがある。しかし,主の恵みにより決して敗北することはないということを講演者は示しました。この話の終りに,講演者は「御国ニュース」第11番を発表しました。大会出席者全員は,その夜と翌日,幾十万の部もの「御国ニュース」を配布しました。
「平和,それはつづくか」
9月20日,日曜日の朝,エホバの奉仕に献身した者たちの浸礼式の取決めがつくられました。アメリカ合衆国内の52の大会報告を合わせると,3548名は水の洗礼により献身を象徴しました。これに他の国々からの報告を加えると,一日の中に約5000人は,その日以後,人間に仕えず神に仕えるということを証者たちの前で言明しました。
世界中が戦争をしていた時であったため,この公開講演の題は実に適切でした。大会前からも人々が興味を示していたことから,出席者の数は多いと考えられていました。実際その通りになりました。
9月20日,日曜日,午後4時,大々的に宣伝されていた講演の行なわれる時間が来ました。電話でつながれたアメリカ合衆国の52の大会都市で12万9699人が講演を聞きに来たと報告は示しています。「平和 ― それはつづくか」という質問は,十分なっとくの行くように聖書から答えられました。出席者はみな聖書の預言の成就にびっくりしました。そして,黙示録 17章についての理解は聴衆を満足させ,彼らは将来の出来事をはっきり知ることができました。そして,「平和と安全」が叫ばれるまで,わざをつづけねばならぬことが明白に示されました。k
黙示録 17章8節から次のことが明白に分かりました。すなわち,かつて国際連盟として存在した国際的な安全機関,「獣」は,第二世界大戦後に復帰し,そしてハルマゲドン前には,良いたよりを伝道する期間があるということです。大会出席者には,講演後に発表された「平和 ― それはつづくか」と題する冊子が無料で渡されました。友人に10冊の冊子を配布したいと思う人は,10冊も無料でもらえました。大会の出席者は,彼ら自身のためと他の人に配布するため,50万冊以上の冊子を受け取りました。「新しい世」の普及版も発表され,公開講演に出席した人々は,その本を幾千部も求めました。
アメリカ全土の暴力も大会の中止に失敗
ロイス: アメリカ全土で行なわれたこの大会に反対がありましたか。
ジョン: もちろんです。次の報告を聞いて下さい。
この新しい世の神権大会の最終日は,アメリカ全土で行なわれた大会の最も危険な日であった。暴徒たちは悪鬼にそそのかされ,宗教家たちの指導下に行動した。アメリカの多くの場所に集まり,平和の中に全能の神の崇拝に集まろうとしたエホバの忠実な証者たちに対して暴徒は宗教的な怒りをぶちまけたのである。アーカンソー州リットルロック,イリノイ州スプリングフィールド,そしてオレゴン州クラマス・フォールズは非アメリカ的という評判がアメリカ全土にひろまっていた有名な都市であった。その都市では,暴徒が勝手気ままに活動し,市民の権利を守るための措置はほとんど皆無の状態であった。兄弟たちは打たれて,投獄され,銃殺され,衣服をはぎとられ,文書は燃されて,こわされた。自動車は破壊されてひっくり返され,資産は破壊された。そして狂気じみた暴徒たちは,有罪であることを明白に示したが,「法律を施行する役人」と言われる者は彼らを認めたので,彼らは自由勝手な行動をしたのである。暴徒たちは聖書をも取りあげて,人々の前で燃した。悪魔が人々をそそのかして,そうさせたとしか思えない。
このような暴力行為を受けたにもかかわらず,兄弟たちはエホバを全く信頼して,その立場をかたく保ち,暴徒の行動を目撃した者たちに対して良い証言をした。兄弟たちは,エホバに奉仕したネヘミヤと彼の忠実な兄弟たちの戦術を採用し,御国のためと兄弟たちのために戦った。エホバの恵みにより,兄弟たちは大会の都市に集まり,黙示録 17章を通してエホバから与えられた貴重な真理 ―「平和 ― それはつづくか」という話の中で公に述べられていた ― をいただいた。悪魔が妨害を企てて,久々にそのような音信を聞かせまいとしたのも当然である。しかし,全能の神の音信は,御心にかなう人々のところに必ず伝えられる。悪魔はそれを妨害することができない。彼らは攻撃を加えたり,苦しめたりしてエホバの証者と仲間の者を失意落胆させようとつとめたが,それは失敗した。かえって,主の民は以前よりも一致するようになり,多数の善意者は宗教家やその政治的な手先の悪をはっきり知るようになった。エホバは,すべてのことが彼の賛美に帰するように取りはかられた。かくして,神権制度は新しい世の神権大会により拡大された。l
[脚注]
a (イ)1955年の「ものみの塔」(英文)650,651頁。
b (ロ)1946年の「年鑑」(英文)221-224頁。
c (ハ)1943年の「年鑑」(英文)60,61頁。
d (ニ)1943年の「年鑑」(英文)62頁。
e (ホ)1942年の「ものみの塔」(英文)291-300頁。
f (ヘ)1943年の「年鑑」(英文)63,64頁。
g (ト)1943年の「年鑑」(英文)65-67頁。
h (チ)「通知」(英文)1942年11月,1頁。
i (リ)通知(英文)1942年10月,2頁。
j (ヌ)「通知」(英文)1942年11月,1頁。
k (ル)1943年の「年鑑」(英文)68,69頁。
l (ヲ)1943年の「年鑑」(英文)73-75頁。