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神の目的とエホバの証者(その30)ものみの塔 1961 | 11月15日
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約4000人の証者たちは定期的に報告していました。この中には196人の開拓者もはいっており,全部の証者たちは毎年150万部から200万部の本と冊子を配布していました。j 1937年,目をさますことをすすめる特別の召が発せられ,その応答は満足すべきものでした。第二次世界大戦の直前,英国の開拓者の数は約1500名に増加し,約5000人の伝導者は野外奉仕に参加していました。
他の場所と同じく,英国でも反対が生じました。1938年と1939年中,特にいくつかのカトリック ― ファシストの攻撃が加えられてきました。ある場合には,牧師の指導する暴徒たちが証者を襲撃したり,集会に干渉したりしました。k
カトリックが反対したひとつの例は1938年10月14日に生じました。そのとき,ロンドンの「カトリック・ヘラルド」は,ものみの塔協会の会長ジャッジ・ルサフォードは,英国人の福利を害する仕事をしている,という中傷的な言葉をのせました。ルサフォード兄弟は直ちに手段を講じました。彼は英国にいる協会の弁護士に指示を与えて,ロンドン,「カトリック・ヘラルド」に対する3つの中傷裁判をおこしました。ひとつは,ジャッジ・ルサフォード個人として,2番目はものみの塔協会の会長ジャッジ・ルサフォードとして,そして第3番目は,ものみの塔協会の法人としての裁判です。この思いもよらぬ手段を見て,「カトリック・ヘラルド」は,示談を求め,急速な解決を求めました。ルサフォード兄弟は,次の条件で訴訟を取り下げることに同意しました。すなわち,その新聞社がその時までの費用をみな払い,かつジャッジ・ルサフォードの指示通りの取り消し文をすべての人が必ず見ることのできるようにするため,黒線の中に入れて1頁に発表するということでした。英国の法廷では,とても勝てないと知ったこの新聞社は,11月25日号の第1頁に取消しの言葉をのせました。l
また1938年にはロンドンで特別顕著な大会が開かれました。欧州大陸の政治状態は緊迫してきたので,ジャッジ・ルサフォードは大会より6週間も前からロンドンにいて,旅行のできた欧州からの支部の僕たちと会いました。したがって,欧州大会は,ロンドンで最適の大会場,ローヤル・アルバート・ホールで開かれることになりました。
ふたたび新しい試みが実施されました。大きぼな放送の行なわれていた期間中,ラジオ電話通信は,非常な成功を収めました。したがって,地上の各地で50の大会が同時に開かれ,直接電線でむすびつけられる取りきめがもうけられました。このようなことはまったく前代未聞であり,英国国王のメッセージを放送するときでもこの種の取りきめはつくられませんでした。プログラムは大成功をおさめ,ふたつの大講演はロンドンから英国,スコットランド,アイルランド,カナダ,アメリカ合衆国およびオーストラリアの49の他の都市に伝えられました。
その最初は,9月10日の日曜日で,「地をみたせ」という題でした。このすばらしい話は,地上で生きる希望をもつハルマゲドン生存者たちは,最初エデンの園でアダムとエバに与えられた生めよふえよ地にみてよの命令に従う特権にあずかるという聖書的な説明を与えました。2番目の公開の話,「事実を見よ」は,世界の国民に対する強烈な挑戦であって世界の直面している危険な状態を認めるよう人々にすすめるものでした。また,民主主義の国民にカトリック・ファシストが世界支配計画を立てていると警告しました。a
時たつ中に,「事実を見よ」という冊子は1200万部も全地に配布されました。b
1936年,ニュージャージー州,ネワークで始められた新しい奉仕は,ロンドンでさらに発展しました。「事実を見よ」という講演を宣伝する際,プラカードは各証者の肩から前と後にかけられました。それに加えて,プラカードをになう者たちのあいだに他の証者たちは看板を棒につけてもちはこんでいました。それらの看板は,「宗教は罠でありごまかしである」および「神と王なるキリストに仕えよ」と示すものでした。兄弟たちはそれから長さ10キロにおよぶ行列をつくって都市の忙しいところを歩き,講演を宣伝しながらビラを人々に渡しました。この人目を見はらす行列は,「案内行列」cとして知られるようになり,録音された公開講演を宣伝するためにしばらくのあいだ大きぼに使用されました。後には,証者たちはひとりかふたりで歩き,行列をつくらなくなりました。
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子供の証者ものみの塔 1961 | 11月15日
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子供の証者
子供たちでも,次の例のようにこのわざによくあずかることができます。10歳と12歳のふたりの女の子は,開拓者が母親の勉強のためにくる時,一緒に聞いて興味をおぼえました。ふたりがいつもよく乗るバスに乗っていた時に,めくらの人が同じ停留所で下りるということに気がつき,下りるのを手伝ってあげました。まもなくふたりは,御国についてその人に話し,またどのようにして盲人の視力が回復される時がくるかを語りました。その人はふたりの母親の電話番号をおしえてもらいました。そのうちに,ふたりの少女は彼を定期的に訪問するようになりました。ある日,開拓者は,この姉妹のうちのひとりと共に彼を訪問し,開拓者は声を出して文書を読んで聞かせ,協会で出版している本の中の1冊を用いて聖書研究をはじめました。それからしばらくして彼を御国会館に伴っていき,すべての僕たちに紹介しました。今,彼は自分の家で研究しているほか,会衆の書籍研究にも出席しています。―1961年度のエホバの証者の年鑑より,スウエーデン。
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