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エホバの制度とともに「楽しき地」に住むものみの塔 1963 | 8月1日
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制度を通して,すなわち,主の持ち物すべての管理を委ねられ,一定の組織の下に集められた「忠実にしてさとき僕」たちを通して行なわれた事が分ります。(マタイ 24:45-47)私はいつの時でも,大会を期待しました。それは,真理が一層啓示され,御国奉仕の新たな活動が発表されるのはいつでも大会の時だったからです。そしてそれらはどんなものでも聖書に基づいていました。
制度からの声が私にとって大きな力となった事の顕著な例をさらにあげれば,陰うつな第二次世界大戦中の事があります。世間的に見れば,当時ロンドンで生活するのは実にみじめなものでした。そんな状態がいつまで続くのか,その先どうなるのか,考えてみても分りませんでした。ヒトラーの感高い声がしきりなしにラジオで中継され,日増しに緊張の高まる開戦少し前の時期に,家から家の活動で会う人に,これがおそらくその区域をまわる最後の機会になり,その場で各自が「羊」か「山羊」かはっきり応答しなければならないのだ,といったような態度で伝道したのを覚えています。
たしかに,人間的な見地からすれば,当時の情勢は陰うつであり,見通しは不確かでした。このままハルマゲドンに突入して終りになるのだろうか。しかし,その時,まだ大戦たけなわの時代に,協会はニューヨーク州にある御国農場に海外の国々で働く宣教者の訓練を目的とする学校を設立する方針であるという発表の言葉が伝えられました。私にとってその発表には万巻の重みがありました。それは前途にまだ何があるかを知らせるエホバの制度の言葉であり約束でもありました。とばりはぐっと引き上げられたのです。
象徴的にも聖書的にも,とばりはあげられたと言えます。それによって,イザヤ書 55章12節に予め告げられた,回復された霊的な楽園に共に加われるようになりました。「なんぢらは喜びて出で来り,おだやかにみちびかれゆくべし,山と岡とは声をはなちてみまへに歌ひ野にある樹はみな手をうたん」。これこそ正に住むにふさわしい場所,楽しいところです。
この霊的な楽園は実際に感知できる仕方で実現しています。40年後には立派で広々した新しいベテルの中で仕事をし生活しているだろうなどと,1920年代の初めに言われたなら,アブラハムやサラと同じように,信じられぬ事として笑ったことでしょう。(創世 17:17; 18:12)私は今でも事務所の仕事をしています。しかし,なんと立派な事務所でしょう。私の働く部屋は大きく,庭に面した壁にはずらっと窓が並んでいます。その窓からは,広広と続く空と森の景色と共に,近くにあるスギの巨木が見えます。ここは働くには実に気持の良いところです。しばらく前に地帯の僕ホフマン兄弟が言われたように「回復された楽園の中に住んでいるような気持です」。
そしてもう一つ,これまで30年以上の間私の友となりルームメイトとなってくれたのはエドガー・クレイ兄弟で,その経験をすでにお読みになった方もおられるでしょう。今,二人の部屋は南向きで,ながめの良い,実に快適なところですが西側にも窓があって,起伏のある畑地や木立,輝く入日の変化も見られます。
神の制度からの声に注意を払ってきたことによって,他の幾万ものクリスチャン兄弟とともに,昔の詩篇記者ダビデと同じく,「はかりなははわがために楽しき地におちたり」と言えます。―詩 16:6。
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死者の家を見に行くものみの塔 1963 | 8月1日
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死者の家を見に行く
◆ 1962年に,ポーランドのクドワ・ツェルムナ寺院をたずねた旅行者は,数分といえども,まさに髪の毛の逆立つような思いをした。この寺院は,頭蓋骨をたくさん保存していることで有名である。ガイド役をつとめるリチャード・マコウスキー氏が,見学者を集めて寺の歴史を物語るおりしも,壁にかけた数千の頭蓋骨(ペストや30年戦争の犠牲者のもの)が,腰を抜かさんばかりの旅行者の頭上に落ちてきた。一同のろうばいはともかく,それほどの怪我をした者はいなかった。壁がゆるみ,建物を修繕する必要は以前から認められていたが,観光シーズンに寺を閉める事は望まれなかったので,工事は延期されていたもの。しかし,頭蓋骨は待っていなかった。それで床に落ちてきたのである。1772年,クドワ・ツェルムナに住んでいたある僧侶が,死者の家であるこの頭蓋骨寺院を建てた。彼は,ポーランドのクロディ地方の野原から,ペストと30年戦争で死んだ人たちの骨を集めた。それらがこの寺院に陳列されたのである。同様な寺院 ― 人の頭蓋を集めたところ ― は,クロディの近く,ローマ,チェコのプラハなどにもある。―エキスプレス・ワイエクツォーニー誌,1962年9月2日号
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