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    目ざめよ! 1976 | 4月8日
    • は何の価値もありません。神だけが必要な生命力を与えることがおできになるのです。

      したがって,神が存在されるからこそ,死者の復活も初めて可能になるのです。詳細を説明していないとはいえ,聖書は,人が復活に対して強固な信仰を抱く根拠とするに十分の情報を与えています。あなたは,現在もまた将来も,このすばらしい希望から個人的に益を受けることができます。ではどうすればその益を受けられるでしょうか。

  • この希望からどのように益を得られますか
    目ざめよ! 1976 | 4月8日
    • この希望からどのように益を得られますか

      死はすべての事の終わりであるとみなす人と,死者が復活するという確信を抱く人とでは,どちらがより幸せであると言えますか。

      希望のない人には頼るべきものが何もなく,せいぜい七十年か八十年の生涯を期待できるに過ぎません。死が不意に家族に臨む時,慰めを与えてくれるものは何もなく,死は永久の別れとなります。そうした人は,嘆き悲しんでいる他の人に同情を示すことはできても,励みとなる希望を与えることはできません。その人自身,死者には何の希望もないと思っているので,たとえ他の人に害が及んでも,自分が生き続けるためには,どんなことでもしようという気持ちに駆られるかもしれません。

      その点,死に関する聖書の教えを信じ,そこに述べられている復活の希望に信仰を持つ人々には大きな相違が見られます。その人たちは,墓にいる者すべてが死の眠りから呼び起こされることを確信しています。また,こうした知識は死者に関する偽りの教えに基づく恐れから彼らを解放しました。神のみ言葉を信じる者は,死者は無意識で,記憶すらないことを知っているので,亡くなった愛する者が,一時的の,あるいは永久の責め苦の場所で苦しんでいるのではないかという恐れを持ちません。また,死者は助けを与えることも,害を加えることもできないことを理解しているので,死者に関するどんな恐れからも解放されています。

      確かに,復活の希望を自分のものとして抱くなら,今でもそれから益を得られます。たとえ愛する友や親族を死により奪われても,死者が命によみがえらされるという確信があるので,そうした希望を持たない人々のように,悲嘆にくれるようなことはありません。また愛する者を亡くして悲しんでいる人々に,真の慰めを与えることもできます。

      復活があるという確信を持つ人は,ただ現在のためにだけ生きるということはなくなります。「ただ食べたり飲んだりしよう。あしたは死ぬのだから」といった考え方に従って生きる代わりに,復活の希望は,神に喜ばれる生き方をするよう人を促すものとなります。―コリント第一 15:32。

      死者をよみがえらせる神の力に信仰を持つ人は,暴力的手段によって命を絶たれることへの恐れからも解放されます。神のみ言葉は,「死に対する恐れのために生涯奴隷の状態に服していた者すべて」を解放するのはイエス・キリストであることを示しています。(ヘブライ 2:15)権威者の命令に従わなければ処刑されるという恐れのために,幾世紀にもわたって,原則を犠牲にし,自ら悪いと認める事柄を行なってきた人は少なくありません。しかし,神の約束にゆるがぬ信仰を持つ人は,そうした仕方で自分の良心を傷付けたりはしません。清い良心を保つことは,復活を信じる人々に与えられるもう一つの優れた益ではありませんか。

      死者をよみがえらせる神の力に信仰を持つ人は,今益を得るだけではなく,よみがえらされる死者を迎えるか,あるいは自ら命によみがえらされる人々の一人となるかそのいずれかの見込みを持っています。しかし,復活の希望が実現するのを目撃する人々の一人になるためには,幾つかの要求にかなっていなければなりません。

      死んだ人すべてが死からの復活を受けるのではありません。イエス・キリストは,神の霊に対して罪を犯した人々には何の希望もないことを指摘し,こう言われました。「人はあらゆる種類の罪と冒とくをゆるされますが,霊に対する冒とくはゆるされません。たとえば,人の子に逆らうことばを語るのがだれであっても,その者はゆるされるでしょう。しかし,聖霊に言い逆らうのがだれであっても,その者はゆるされないのです。この事物の体制においても,また来たるべき体制においてもです」。(マタイ 12:31,32)神の霊に対する罪に関しては,どんなゆるしもないので,そうした罪を犯す人すべては,永久に死の状態にとどまることによって十分な報復を受けます。

      幾十億という死者と比較すれば,神によってゆるされない者とみなされる罪を故意にならわしにして有罪とされるのは,人類の中のごく少数の人にすぎません。とはいえ,そうした罪を犯し得るという事実を考えるなら,故意に神のご命令を無視して,そのような危険を冒すことの愚かさに気付かねばなりません。死者の復活という神の約束に信仰を持つ人は,ゆるされない罪を犯し,そのためにとこしえの命を失うことがないよう自らを制します。

      一歩先んじる

      復活の希望に対する信仰を反映する生き方には,さらにもう一つの益があります。それは義の道において一歩先んじることをも意味するからです。どのようにそれを行なえますか。

      「義者と不義者」が地上の命へよみがえらされることにより,その双方の人々に神の子としての完全さに達する機会が与えられます。(使徒 24:15)すべての人は,イエス・キリストとその仲間の支配者たちの手中にある天の王国によって与えられる助けを受けることができます。自分の死と復活以前に心を込めて神に仕えた人は,イエス・キリストとその仲間の支配に服すことが比較的容易であるのに気付くでしょう。一方,神のご意志に逆らって,かたくなであったのであれば,その人が変化し,完全さへと成長するのはいっそう難しくなるはずです。

      イエス・キリストは,不信仰な郷里の人々にその点を指摘し,次のように言われました。「ニネベの人びとは裁きのさいにこの世代とともに立ち上り,この世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが,見よ,ヨナ以上のものがここにいるのです。南の女王は裁きのさいにこの世代とともによみがえらされ,この世代を罪に定めるでしょう。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからですが,見よ,ソロモン以上のものがここにいるのです」。(マタイ 12:41,42)真理の音信に注意を払うことをかたくなに拒み続けたある町に言及し,イエスはこう言いました。「裁きの日には,その都市よりもソドムとゴモラの地のほうが耐えやすいでしょう」― マタイ 10:15。

      義者と不義者の双方が死より復活することによって,裁きの日が可能になります。その期間中,人間は,キリストによる神の王国に服すことを本当に望んでいるかどうかを示すことができます。イエスが宣べ伝えるのを聞き,その奇跡を目撃しながらもなお,イエスを退けた郷里の人々の場合,そうすることは非常に難しいでしょう。そうした人々は,誇りを捨て去り,イエスをメシアとして受け入れなかったという自分たちの誤りを認めねばなりません。自分たちの王として望まなかった方の支配に服すためには,確かに謙遜さが求められます。

      一方,ソドムとゴモラの住民には,イエスの強力な業を見た人々に差し伸べられたような機会が全くありませんでした。そうした人々の場合,誇りやかたくなな態度は,西暦一世紀当時の不信仰

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