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人々を弟子とするわざを促進する大会ものみの塔 1968 | 3月15日
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「二,三週間前に職場でひとりのエホバの証人から「ものみの塔」誌をもらい,それを読んで感銘を受けました。次の2週間中,私は御国会館で10時間をすごし,その全部を楽しくすごしました。この大会でも全部のプログラムを聞いています。ここにいると光の中にいるように感じます。外で偽りの宗教の中にいるのは暗黒の中にいるようなものです。私は今まで21年間も軍隊にいました。こんどは別の兵士になります」。イエス・キリストの良い兵士になりたいという願いをはたすため,この人は定期的な聖書研究をすることになりました。―テモテ第二 2:3。
定期的に聖書を学んでいるひとりの人は,その研究を司会しているエホバの証人から熱心にすすめられてペンシルバニア州アレンタウンの大会に出席しました。そして深い感銘を受けたので,2週間後にニュージャージ州トレントンで開かれた大会にも出席しました。そしてこう語っています。「これこそエホバの組織です。私は世の中をよく見てきましたが,私の観察からするとエホバの証人は奇跡です」。
すすんで大会に出席してみずから調べる人は,このような結論に達するでしょう。ノルウェーで,エホバの証人の夫にともなわれて出席した不信者の妻の場合がそうでした。二人は会場に設けられた天幕村で2000人の証人と一緒に泊まり,大会が終わるとすぐキャンプ旅行に出かけました。彼女はどんな印象を受けましたか。
翌日彼らはふたたび姿を現わしました。「休暇をすごしに行かれたのではないですか」と尋ねられて,妻はこう答えました。「そうです。別のキャンプ場で一晩泊まりましたが,ここで経験した平和と秩序とくらべてあまりにも相違が大きいので,むしろあと片づけを手伝ったほうがよいと思ってまた来たのです」。
この世的な人々と一緒に休暇を過ごすよりもエホバの証人と一緒に働くことを望んだのです。大会以来,彼女は夫とともに会衆の集会に出席し,キリストの弟子となる道を歩んでいます。
「人々を弟子とする」地域大会は確かに大成功を収めました。今日の地上でイエス・キリストの真の弟子はだれか,心の正しい人々がそれを見きわめるのを助けるために大会は大きな役割をはたしました。また出席した何万人のクリスチャンは心を打つ助言や教訓を得,イエスの次の命令を遂行するわざに熱意をあらたにして励むよう動かされました。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子と(せよ)」― マタイ 28:19。
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聖書の原則をしらべるものみの塔 1968 | 3月15日
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聖書の原則をしらべる
「決定,決定,決定か!」。毎日のように決定を下す必要に迫られてこのことばを口しにたことがありますか。老若男女を問わずある事態におかれていろいろな事実あるいは要素を考量し結論を出す,つまり決定を下さねばならないことはしょっちゅうあります。時にそれは簡単な決定であり,人生の道を歩む速度や活動を多少,調節するだけのことですが,他の時には大きな岐路に面してその後の人生にずっと影響するような決定を下さなければなりません。いずれにしても,あなたの決定は何に基づいていますか。その場合にあてはまる聖書の原則をさがし出してそれを導きにしますか。
決定を下すのが難しい人が多いのは,うなずけることです。人々は何を導きにしていますか。ことわざとか経験に照らしそれを導きにして,特定の問題に対する結論を出す方法つまり人間の条理とも言うべきものが使われるかもしれません。しかしその場合,ことわざはどれほど真実ですか。経験は特定の事情の下で正しい結論を下すのに役だつものですか。ことわざや経験がその場合に不適当なものであれば,結論も不適当なものにならざるを得ません。下した決定から悪い結果の生まれることが多いとき,「決定,決定,決定か」という歎息が出るのも無理からぬことです。
決定を下さなければならない時,クリスチャンには幸いなことにそのような困難がありません。私たちには導きがあります。「私たちには聖書がある。その場合にあてはまる規則ないし律法を聖書からさがしさえすればよい」と言われるかもしれません。確かにそのとおりですが,事はそれほど簡単ではありません。聖書には,殺人,盗み,偶像崇拝を禁ずる律法など,クリスチャンにも適用される多くの律法が確かにあります。(ペテロ第一 4:15。コリント第一 10:14)聖書の見地から善悪が明白な行為に関して決定を下す場合には,聖書は有用な律法の本です。しかし私たちが日常生活において決定を迫られることの多くはそれほど簡単に割り切れません。それは黒白をにわかには決め難いものであって,いわば灰色の領域に属しています。
この場合に私たちの導きになるのが聖書の原則です。聖書の原則が役にたつのは,水泳をする人が,ふくらますことのできる救命具をつけるように,たいていはあらかじめ聖書の永遠の原則を学んで身につけておいた場合です。このように前もって学んだ原則が,いざというとき決定を下すのに役だちます。
神のことばの原則は廃止されたり,古くなることがなく,したがって永遠のものです。英国の歴史家サー・ジョン・シーレイはこう述べました。「原則は永続する。しかし特定の規則は,それが関係する事柄あるいは状態とともに過ぎ去る」。それで起こり得るあらゆる場合を想定していちいちにあてはまるように作られた,タルマッドのような,際限のない規則集を学ぶことは,クリスチャンに対するエホバの要求ではありません。エホバが賢明にも備えられたのは,クリスチャンの守るべき少数の基本的な律法と,多くの場合つまり日常生活において遭遇するいろいろな場合に導きとなるいくらかの一般的な原則です。―詩 119:129。
これらの原則は神のものであって完全です。それは不完全な人間の頭から出たものではなく,全知の完全な創造者から出たものです。創造者であられる以上,人間生活の円滑また幸福な営みに役だつ最善の原則をご存じのはずではありませんか。もちろんそうです。加えて創造者は無数の不完全な人間の経験を見てこられました。ゆえに私たちの生活に最善の導きを与えてくださるのは創造者です。エホバから特別な知恵を授けられた聖書の一筆者は,「すべての道で主[エホバ]を認めよ,そうすれば,主はあなたの道をまっすぐにされる」と述べています。(箴言 3:6)また彼の父は次のように書きました。「われ常にエホバをわが前におけりエホバわが右にいませばわれ動かさるゝことなかるべし」― 詩 16:8,文語。
原則を見いだす
しかしこれら貴重な原則を見いだすにはどうすればよいか,この点が疑問に思われるかもしれません。それは聖書にしるされているゆえに,神のことばの知識が肝要です。聖書
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