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「彼らは一致の中に伝道する」ものみの塔 1961 | 11月1日
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これはすぐれた記録です。雑誌のこの広範囲な配布によって,真理の探求に多くの人々の関心をよび起こしたことは間違いないでしょう。
クリスチャンのなすべき真の崇拝をさがし求めている人々は,つぎの経験が証明しているように「良い羊飼」の声を認めて,ただちにエホバの制度に従います。「私は自分の職業がら,おとくいさきの家でいつも聖書を見つけ出しては,どうにかしてその内容について少しでも話すようにしています。昨年のこと,やはりそのことをしていた時,真理を求めている青年を知るようになりました。彼は軍隊付牧師になることを考えていましたが,戦争を鼓吹するのは正しくないような気がしました。メソジストの牧師になることも考えましたが聖書を調べてみて彼らの教えが聖書と一致していないことを発見しました。仏教や瑜伽にさえ頭を突っ込んでみましたが,どちらも彼が求めていた真理のひびきをもっていませんでした。
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前にあるわざについての正しい見解ものみの塔 1961 | 11月1日
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9:4)すると,彼は御国の音信をうけいれるようになり,あなたが次に訪問するとき耳を傾けて聞きます。区域内の人々にするどい興味を持つとき,私たちは耐え忍んで教えます。そして,人の生活環境が変るとその態度も変り,私たちは彼を助けて救いの道を歩かせることができます。また,再訪問して聖書の真理に対するいっそうの認識をはげます機会に注意を払います。
伝道をうける者に対する関心
13 人は,彼の奉仕する人々に対する関心を,どのように示すことができますか。
13 伝道をうける者にするどい関心を持つ奉仕者は,奉仕について機械的な見方を取りません。それらの奉仕者は,奉仕に出かけるとき,2時間か3時間を奉仕に費すことだけを考えません。また,戻ってくるとき,配布した文書の数だけを語りません。彼らは人々に関心を持っており,神に善意を持つ人々を探しています。彼らは救命のわざに従事していると認めます。彼らは家の人が誠実であると知るなら,たとえ悪魔が恐怖の障害を設けようと,御霊の剣を巧みに用いてその障害を切りはらい,「捕われ人に放免を告げ,縛られている者に解放を告げ……」ます。(イザヤ 61:1,新口)彼らは,敬虔なことに関心を示さぬ者たちと議論して,時間を浪費するようなことをしません。しかし,反対の言葉を言う者が,みな反対者であるとも考えません。主イエスの教える方法を巧みに用い,悪い環境下でも自分を抑制し,柔和な心で教えることのできる多くの機会を見出します。最初話を良く聞かない人にでも,教えることができます。時たつ中にこれらの人々は本心に帰り,真理の正確な知識を得るでしょう。―ヨハネ 1:46-49。使行 9:1-22,新口。
14 イエスとパウロは,伝道した人々に対してどんな態度を示しましたか。
14 イエスは,彼が奉仕した人々に愛の心から関心を示しました。彼はその点において際立っていました。彼は子供たちが小さ過ぎて聞くことはできないと言って,子供たちを押しのけることをしませんでした。また,金持ちは誇り高ぶっているから,彼の時間をさくに値しないと言って押しのけませんでした。また,貧乏人,盲人,そして不具者も押しのけませんでした。彼の心は人々に注がれました。彼は「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れているのをごらんになって,彼らを深くあわれまれた」。(マタイ 9:36,新口)彼は,疲れてすこしの休息を必要としたときでも探し求めた人々を追い払わなかったのです。パウロも,彼の伝道した者たちを「愛し」ました。(テサロニケ前 2:8,新口)私たちも,同じ見解を持たねばなりません。
15 どんな経験は,宣教について円熟したクリスチャンの見方を示しますか。
15 ひとりの開拓者の姉妹は,その感情を良く示しました。彼女は別の会衆にいる友人を訪問したとき朝の野外奉仕に参加して,ひとりの若い婦人に会いました。この人は興味をいくらか示して,提供された聖書の文書を受け取りました。この姉妹の訪問期間は非常に短かったため,彼女には再訪問する機会がなかったのですが,姉妹の心はその善意者に注がれ,家に戻ってから手紙を書いて,その人に研究を励ましたのです。郵便によって聖書研究が司会されました。その人の興味は急速に増したので,姉妹は程なくしてその若い婦人に会うため,わざわざその地まで旅行し,彼女をその地の会衆に紹介しました。いま彼女は奉仕に参加しています! その開拓者の姉妹は,伝道に費した時間を報告するためにだけ奉仕に参加したのではありません。彼女の願いは,エホバに対して羊のような気持ちを抱く人々を見出して養うことによりエホバをあがめることでした。それこそ円熟した各奉仕者が奉仕に対して抱く見解であります。
献身についての正しい見解
16 人は野外奉仕に定期的に参加するかも知れませんが,神はさらにどんな段階を要求しておられますか。そしてなぜ?
16 私たちは,これらの羊のような人々を見出して,御国の良いたよりの伝道者になるように援助します。しかし,それで私たちの仕事が終わったわけではありません。新しい世の社会と交わることだけで神の是認が保証されるとか,御国の音信の伝道に参加することだけが,ハルマゲドンを生き残るための神の要求全部であるなどと感じてはなりません。ぜったいにそうではないのです! 神にむかって,『あなたに仕えることは,私の生涯の目的です。私はあなたの御心を行なうのをよろこびます。私の生命はあなたの奉仕 ― それがどんなものであろうと ― にささげられています』と言わないなら,その人の奉仕は,真心こめたものではありません。多分,その人は神への献身にともなう責任を取りたくないのかも知れません。しかし,献身を避けるなら,その人は恵まれた立場にはいりません。できる立場にいながら,イエス・キリストの模範に従わず,神に奉仕するための献身もせず,それを水の浸礼で象徴しないなら,その人はまだ生命に通ずる狭い道を歩いていません。ある意味において,その人はキリスト教国の宗教制度の成員独特の考え方をいまでも持っています。彼らも生活の指針として聖書の原則をいくらかうけいれています。しかし,彼らは決定をくだす権利を保留します。彼らは神をさばき,神の御言葉の中で彼らに都合の良いものを自分勝手にとりあげます。エホバの要求が何であるかを知っても,その全部に従うことは必要でないと心で決めるなら,その人はエホバを神として受けいれていません。それでは,神が彼をうけいれて,新しい世の生命を与えることなどどうして期待することができますか。神の要求を知っていながら,それを行なわない者たちについて,主の弟であるヤコブは,次のように述べています,「人が,なすべき善を知りながら行わなければ,それは彼にとって罪である」。(ヤコブ 4:17,新口)そのような人は,神への奉仕についての正しい見解を得るため,円熟した人の援助を必要とします。それらの人は,神の御言葉の知識を必要とするだけでなく,神の要求を認識することが必要です。
17 (イ)献身して洗礼をうけるなら新しい世に生き残れますか。(ロ)神は,彼に仕える者たちに何を求められますか。
17 もちろん,献身と洗礼そのものは,新しい世における生命を保証するものではありません。献身した人は,神に向かって約束した通りに生命を用いなければなりません。いわば「自分勝手の取りきめで」新しい世にはいれると期待することはできません。できるだけすこしの奉仕ですませようと努力する者は,最大のいましめをすでに破りました。そのことについて質問をうけたイエスは,永遠の生命を得るために次のことが必要であると言われました,「心をつくし魂をつくし,力をつくし,思いをつくして,あなたの神であるエホバを愛しなさい。また自分を愛するように,あなたの隣り人を愛しなさい」。(ルカ 10:25-27,新世)私たちの裁き主なるエホバ神は,人間の見るもの以上を見ます,「ヱホバはすべての心をさぐりすべての思想をさとりたまふなり」。(歴代志略上 28:9)エホバは私たちの行いを知るだけでなく,私たちの動機をもご存知です。私たちがエホバの奉仕に真心こめて努力しているか,また隣人に対する私たちの愛,隣人に救いを得させたいという私たちの欲求が,私たち自身に対するのと同じくらい大きいかどうかをもご存じです。神が最終的なさばきをくだす前の今こそ,私たちの心をしらべ,私たちの奉仕をしらべ,そして神が私たちに与えた肝要なわざについての正しい見解を持っているかどうかを調べる時です。
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