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最高至上者の御意が成されるようものみの塔 1958 | 11月1日
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の全きを危うくするような事柄は,何一つとして許してはなりません。それで,ヱホバになされるこの献身には,真実に重大な責任がともないます。神の御言葉を伝道することは,随意勝手なものであるなどと考えてはなりません。宣教の業は,キリスト・イエスの場合と同様に,是非しなければならぬ任命の仕事なのです。イエスの献身の時はその宣教の業の始まりとなりました。そして,為し行おうと決定し同意した新しい生涯の行いからイエスがそれるというようなことは一度もなく,また他の事柄で支障を受けるということも一度もなかつたのです。
15 献身は何にかたどることができますか。
15 これは最初を示すものですから,人の誕生日になぞらえることができます。つまり,新しい生命の最初ということです。この時以前では,人間生活のごく僅かな程度だけを楽しむことができました。しかも,私たちがアダムの堕落した状態にかたどられていたため処罰の下にいたのです。
16,17 (イ)新しく献身した人は,この重要な歩みをどのように見るべきですか。(ロ)新しく献身した人の目的は何ですか。
16 人は子供と同じように熱心に学び,円熟に達する為学びつづけなければなりません。子供は一生懸命に両親にまねようとします。また,子供には成人に達しようとする強烈な力があるのです。実際のところ,成人になりたいという気持から子供は熱心に進んで研究いたします。子供は幼児のままでいたいと思わず,また青少年のままでいたいと思いませんから,知識を得ようとつとめます。そのように,『新しく生まれた』クリスチャンは将来の自分の生命を見るべきです。
17 子供たちにミルクの食物とか,柔らかい流動食のようなものだけを与えるなら,子供はきらいます。子供は両親がかたい食物を食べているのを見て,そのかたい食物を食べたいと欲します。かたい食物は成人のものであると知つているからです。クリスチャンの場合もそうです。パウロはこのようにさとしました。『しかし堅い食物は,善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。そういうわけだから,私たちはキリストの教の初歩をあとにして,完成を目ざして進もうではないか。今さら,死んだ行いの悔改めと神への信仰,洗いごと(洗礼)についての教と按手,死人の復活と永遠のさばき,などの基本の教をくりかえし学ぶことを止めようではないか。』― ヘブル 5:14–6:2,新口。
18 献身した人は何を追い求めるべきですか。何がその人の心によろこびをもたらしますか。
18 クリスチャンは知識を熱心に追い求めねばなりません。かくして,霊的な円熟に達して自分の献身を為し行い,他の人々を助けて生命に達するのを援助することができます。若い人々が成人に達するということになぞらえることができるものです。成人になつて結婚すると,新しい子供たちを生みます。円熟したクリスチャンたちもそれと同様です。彼らは『来なさい!』と言つて他の人々をみちびきます。新しく聞いた人々は,以前の行いから離れて同様に研究し,ヱホバの御意をする為に自分の生命を献身するようになります。生活をするにしても,又は行うにしても,クリスチャン円熟は,すばらしい幸福な状態です。
19 献身を考えている人にとつて,それにともなう事柄を真剣に考慮することは,なぜ重要ですか。
19 献身という事柄を注意深く考える際に,人は次のように思うかも知れません,「この宣教の業をするとか,参加するなどということは,私にはとうていできない。でも私は神を愛しているし,私は神に仕える。私の生涯中神を十分に第一と認めるが,全き献身ということになると,とうていすることができない。」人は最初そのように考えるでしよう。しかし,そのような気持でいるならば,その人は研究しつづけ,正確な知識を採り入れるべきです。円熟した考え方をするならば,正しい決定に達することができるからです。これはまつたく肝要な決定です。丁度,将来のことを考えて,家の建築を計画している人になぞらえることができます。しかし,家を建てる場合でも,人は座つてその費用を計らねばなりません。イエスも次のように言われました,『あなたがたのうちで,だれかが邸宅を建てようと思うなら,それを仕上げるのに足りるだけの金を持つているかどうかを見るため,まず,すわつてその費用を計算しないだろうか。そうしないと,土台をすえただけで完成することができず,見ているみんなの人が,「あの人は建てかけたが,仕上げができなかつた」と言つてあざ笑うようになろう。』献身をする際に,人はその行いをなして最後まで守り通すということに伴うあらゆる事柄を計算しなければなりません。しかも,真面目な気持の中に熱心にすべきです。―ルカ 14:28-30,新口。
献身は幸福をもたらす
20 献身した僕たちに対するヱホバの祝福のいくらかは何ですか。そして,何がよろこびをもたらしますか。
20 あなたの捨てる事柄と,ヱホバから約束されている事柄をならべて比較してごらんなさい。(マタイ 19:27-29)そのことについて良く考えてごらんなさい! あなたの持つている良いものの中で,最初にヱホバから頂かなかつたものがありますか。献身,賛美,そして心からの奉仕を捧げるという力もヱホバから頂いたものです。あなたはこれらのものをよろこんでヱホバに捧げます。また,ヱホバに奉仕するためあなたのすべてをも捧げます。これらのものは,正しい方イエス・キリストを通してヱホバに快く捧げられます。それは,神の献身した僕たちに絶えず与えられ,言葉に言い表わし得ぬ特権と祝福をもたらします。しかし,次のことを留意して下さい。その人はヱホバの証者の一人としてヱホバの御名によつて呼ばれ,またヱホバの御名により語る特権を持つということです。亡びに定められて死に向かつているこの古い世にあつて,献身している神の僕たちはいちばん幸福な民であります。まつたくのところ,その民はハルマゲドンの神の宇宙戦争に生き残り,全地に亘つて完全となるパラダイスで永遠に生きるとつよく期待しています。それですから,多くの事柄は献身をすることに依存しており,あらゆることがらはその献身を守り通すことに依存しています。忠実を保つて献身の誓を忠節に果し行うことは最高の幸福をもたらします。それに失敗することは失望をもたらします。
21 献身の程度はどのくらいのものですか。
21 献身についての十分の意義および重要性は,イエスの次の言葉に要約されるでしよう,『あなた方のうちで,自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては,私の弟子となることはできない。』(ルカ 14:33,新口)どんなものであろうと,献身を妨げさせてはなりません。その中には妻や夫,家族そしてそれ以外に大切と思われるこの世のものも含まれるのです。ヱホバへの献身は,その程度においてまつたく明白なものでなければなりません。人はヱホバに専心の献身を捧げるという義務を負つています。
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バプテスマものみの塔 1958 | 11月1日
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バプテスマ
『イエスは……バプテスマをお受けになつた。そして,水の中から上がられるとすぐ……聖霊がはとのように自分に下つて来るのを,ごらんになつた。すると,天から声があつた,「あなたは私の愛する子,私の心にかなう者である。」』― マルコ 1:9-11,新口。
1 (イ)どんな段階が献身の後につづきますか。(ロ)何がイエスの献身を象徴しましたか。何時彼は聖霊を受けましたか。
全能の神に奉仕したいと,気持と心の中で献身して後,どのようにその献身を完了しますか。別の段階が必要です。それは,水のバプテスマを受けることにより,自分の献身を他の人に公に発表し告白するということです。興味深いことには,キリスト・イエスはこの正しい行いについての模範を残されたということです。『イエスはバプテスマを受けるとすぐ,水から上がられた。すると,見よ,天が開け,神の御霊がはとのように自分の上に下つてくるのを,ごらんになつた。また天から声があつて言つた,「これは私の愛する子,私の心にかなう者である。」』(マタイ 3:16,17,新口)この言葉から,キリスト・イエスの献身はバプテスマにより,公に象徴されたと知ります。彼が水から上られると,ヱホバの御霊はイエスに下つてきました。そして,ヱホバ神は御子の採つた行いによろこばれていると洗礼者ヨハネの聞こえるところで述べられたのです。
2 (イ)『バプテスマ』という言葉の語源であるギリシャ語の言葉の意味は何ですか。(ロ)バプテスマを施すことは,どのようになされるべきですか。
2 『バプテスマ』という言葉は,『浸す』という意味のギリシヤ語バプティスマから取られています。それですから,水をふり注ぐという意味はすこしもありません。また,バプテスマを施すヨハネのところに行つて浸礼を受けた際のイエスの自発的な行為に気をつけなさい。彼はヨハネに身を全くゆだね,後ろ向きになつて水の中に浸されました。イエスがヨルダン河の水の中に全く没して浸された仕方は,イエスが以前の地上の生涯に関しては死に葬られたということを良く表わし示しました。それから彼が水の中から引き起されたことは,その時以降彼がヱホバの御意を行うために生かされたということを示します。それですから,個人の献身の正しい公のしるし又は象徴として水のバプテスマはまつたく適当なものです! ヨハネがイエスにバプテスマを授けたとき,誰もヨハネに手助けしていません。また,この浸礼の際に他の人がいたなどとは述べられていません。このことは,キリストの弟子が洗礼を受ける正しい仕方の手本となります。つまり,ひとりの人は,受洗希望者を水の中に仰向けに浸し,全く水の中に没せしめてから再び引き起すということです。
3 イエスはバプテスマを施す権威を誰に与えましたか。
3 イエスが全能の神の献身している僕のところに行つてバプテスマを受けられた,ということも重要です。イエスは献身している僕のところに行つてバプテスマを受けられましたが,また他の者にバプテスマを施すよう11人の忠実な弟子
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