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  • フォークランド諸島の人々に伝道する
    ものみの塔 1955 | 9月1日
    • りしました。1ヵ月経たない中に,首府内の家はことごとく訪問され,聖書研究は14軒の違つた家々で司会されました。この諸島の半分の人口は,まわりの島々や,前衛地,そして天幕に住んでいます。宣教者は,その時にはそれらの人々に接することができないため,聖書の書物を各家庭に郵送するよう取り極めました。このようにして,フォークランド諸島における業を約2ヵ月した後,どの家庭も,直接の訪問をうけるなり,あるいは郵便によつて,ことごとく御国の証言をうけました。

      宣教者がウルガイに戻つてからも,善意者からの手紙は宣教者のところに来ています。文面によると,彼らは聖書の研究を続けていて,いまでは同国人に伝道しています。御国の良いたよりをフォークランド諸島の人々にもたらすのに費した時間と努力は,全然水泡に帰さなかつたのです。その中の幾人かの人々は,ハルマゲドンの戦を生き残つて,正義の新しい世におけるヱホバの祝福を必らず楽しむにちがいありません。

  • 物質主義とクリスチャンの家庭
    ものみの塔 1955 | 9月1日
    • 物質主義とクリスチャンの家庭

      万事は物であり,そして物質主義の哲学は精神的な福祉をもたらすと,あなたは考えますか? この記事は,まつたく大切な知らせをあなたに伝えています。

      物質主義とその哲学は世界を征服しています。しかし,物質主義の哲学は,神の御意とは全然逆なものであるため,その征服の期間は短いものです。それが,いまの苦難の世界を救えないことは,ちようど広島における原子爆弾の爆発がキリスト教の原則を説明し得ないことと同じであります。人間には物質主義が正しく見えるかも知れませんが,神にとつては全然悪いものです。『人の道はおのれの目に正しとみゆ。されどヱホバは人の心をはかりたもう。』『人のみずから見て正しとする途にして,その終はついに死にいたる途となるものあり。』物質主義は,その途の一つです。―シンゲン 21:2; 14:12。

      物質主義は現世のことだけを考えます。それは霊的なものの反対です。その理論の教えることは,こうです。人間の現象は,歴史的なものでも,社会的なものでも,あるいは心理学的なものでも,霊的な面から見たり解釈せず,むしろ肉体や物質上の面から見たり解釈すべきであるというのです。物質主義は,神に信仰を持たないこの世から生まれたものであり,そして科学の偶像崇拝,自己礼讃,真理と価値の歪曲という有害の食物を取つています。それはヱホバ神をうしろに隠してしまい,人間生活に影響する神の御霊の貴重な価値をできるだけなくそうとしています。そして,人間の働きや考えを誇張して一番理論的であると誇つています。物質主義による技術の進歩は,人類の福祉に貢献すると見せかけるものの,その実際面から見るとき,それは人類の亡びをもたらす敵になつています。なぜならば,どんなことをしようとも,物質主義はこの悲惨な文明を救つてハルマゲドンの戦を通過させ,神のつくる新しい世に入れさせることができないからです。それに,物質主義は永遠の幸福や,平和や,そして生命を与えることができません。

      人間は生きるために神を崇拝しなければなりません。『神は霊であられ,神を崇拝する者は,霊と真をもつて崇拝しなければならない。』それで,霊的な事柄をおろそかにしたり,軽んじたりする人は,正しい価値判断をしていません。その人は,イエスが譬話の中で用いた物質主義の人のようです。この人は,こう言いました『「魂よ,お前は長年分の良い物を貯えているぞ。気楽にし,食べ,飲み,楽しめ。」すると神は彼に言われた。「分別の無い者よ。今夜お前の魂は取りさられる。そのとき,お前の貯えたものは誰のものになるのか?」 自分のために宝を積んでも神に対して富まない者はこれと同じである。』この教訓はこうです。『豊かに物を持とうとも,持物によつて生命は得られない。』『宝は怒の日に益なし。されど正義は救うて死をまぬかれしむ。』それで,物質主義に警戒し,自分の身を守りなさい。―ヨハネ 4:24。ルカ 12:15-21,新世。シンゲン 11:4。

      物質主義はキリスト教国に充溢

      聖書は,しのびこんでくる物質主義の麻痺について警告を与えていますが,それにもかかわらず物質主義は世界をすつかり征服しました。(ニューヨーク)第5番街にある長老派教会のジョン・スーザーランド・ボネルはこう述べています。『腐敗と万事金次第は,恐ろしい程アメリカ全地にひろまつている。物質主義は,アメリカの心に食い入つている。我々は,鉄や,銀や,金や,木の神々をつくつた。神の大いなる息が国中隈なく吹かねばならぬ必要がある。』ジョン・ヘイエス閣下は『自由の物質主義』の定義を下し,それは現代の文明において,非常な失敗,孤独,そして混乱をつくり出したと述べています。『それは奴隷の労働,飢餓をつくり出し,そして子供たちは両親を密かに窺うようになつた。それは神の信仰なしに,文化を持つ立派な民族をつくり得るという考えをひろめている。そのような哲学は,人間の知つている光と力の唯一つの源を取り除いてしまう。』物質主義は『理智のある我々の全歴史の中で,人間の平和と幸福に対する最大の犯罪』であると,彼は極めつけました。

      『クリスチャン』の家庭が,どの程度まで物質主義に食いこまれているかは,イエスの言葉から測ることができます。『地に宝を貯えることを止めなさい。』『今日は生きていて明日は炉に投げられる野の草をも,神はこのように装つてくださるのなら,ましてや,あなた方をそれ以上に良く装わない筈があろうか。あなた方信仰のうすい者たちよ。それであるから,「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言つて思いわずらつてはならない。これらのものは,諸国民の切に求めているものである。あなた方の天の御父は,これらのものがことごとくあなた方に必要であることを知つておられる。まず御国と神の義を求めなさい。そうすれば,これら他のものもすべてあなた方に添えてあたえられるであろう。あすのことを心配しなさるな。あすは,あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は,その日一日で十分である。』― マタイ 6:19,30-34,新世。

      今日,大部分の『クリスチャン』家庭では,イエスの言葉の逆を行つてはいませんか? ヱホバの証者が,アメリカ合衆国のいわゆる『クリスチャン』の家庭を訪問すると,その受ける答はたいていの場合,次のようです。『生活に追われていて,とても忙しい。』『そんなものを読む時間などは無い。』『信仰をする時間が無い。』『聖書に興味はない。』『宅には宅の宗教があります。』『新聞も娯楽雑誌をも読む時間はない。聖書など到底読めない。』まるで,新聞や娯楽雑誌は,神の御言葉や知識である聖書より,はるかに大切のようです。

      クリスチャンと自称するこれらの人々が,霊の思を持つていないことは明らかです。彼らが御国を第一に求めていないことは,確かです。彼らは,霊の価値のすべての意義を失いました。ただ,生活の必需品と快楽だけに思いわずらつて,霊的な事柄にたいする時間はありません。彼らは『物質を求めるロボット』になつてしまい,そして霊的な必要物は物質でもつて満足が得られると考えています。例えば,キリスト教国は物質の勢力を用いて平和を求めます。しかし,平和とは心の状態であつて,神の御霊の結ぶ実であります。よろこび,幸福,そして満足は,御霊によつてつくり出されるものです。しかし,この世の人々は,新しい家,シャレた家具,最新の自動車,大きな冷蔵庫,21インチのテレビジョン,その他のような物質を持つことによつて,よろこびや,幸福を得ようとします。しかし,物質は真実の満足を与えておらず,彼らはそれを疑問に思つています。

      彼らは次のことを理解していません。すなわち『肉の人は神の御霊の事柄をうけいれない。それは彼には愚かなことである。それは霊によつて調べられるために,彼には理解することができない。しかし,霊の人はすべての事をことごとく調べるが,自分自身はだれからも調べられない。』御霊によって生活する,― つまり,神の御言葉の指示に従つて生活するならば,愛,よろこび,平和,親切,善,信仰,温和,節制は,自然に私たちのものとなります。争いと分裂をひき起す利己主義や,競争や,そしてねたみは,神の御意の働くときに,消え失せてなくなります。神の御霊が豊かに働くクリスチャンの家庭には,平和と満足が充ちています。―コリント前 2:14,15,新世。

      しかし,物質主義がクリスチャンの家庭内に入りこんでくると,キリスト教はすぐに無くなります。人よりも物に強調が置かれると,愛情と家庭はすぐに分裂します。『あなた方の宝のあるところに,あなた方の心もあるであろう。』妻は,良い家を維持するために,外の仕事をしなければならぬと信ずるようになります。家政は副のものになり,子供の世話は,おろそかになります。おたがいの必要を感じなくなります。間もない中に問題が生じます。―マタイ 6:21,新世。

      近代の便利施設や『幸福を生み出み出す方法』というようなものを持てば安全であるという偽りの気持が生じてきます。『自分の家や,仕事や,家族や,友人がある。それに,自分たちの宗教があります。お分りのように,私たちには聖書は必要でありません。もうすつかり満足しています。欲しいものは何でもあります。どうもありがとう。』これには物質主義の臭いが感ぜられます。そのような家では,宗教はちよつとした方便であつて,仕事や社交上,あるいはいざという時に役立せるものにすぎません。多かれ少かれ自動車に備えられた予備タイヤのようです。予備タイヤがあれば,安心しておられるし,それにパンクした時には役に立ちます。この家の宗教もそれと同じようであつて,ただ便宜のために持たれているのです。

      物質主義を克服する努力

      しのびこんでくるこの麻痺を克服するため,この物質主義の世を変えようとする努力が為されています。それは,いまよりもつと物質主義になることにより,そして宗教が政治と社会の事柄に一層関係するようになり,かつ物質主義的な海軍と軍隊に,より一層の信頼をすすめることによつてです。まるで気が狂つていてとうてい考えられないと思うかもしれませんが,そのような哲学がこの世界を導いているのです。クリスチャンの家庭に物質主義を入れることは,災をうけることです。『姦淫を行う者よ,世の友となることは,神の敵になることをあなた方は知らないか? それであるから,世の友となろうと欲する者は,誰でも自ら神の敵になるのである。』この物質主義の世に加わることは,神と戦争をすることです。―ヤコブ 4:4,新世。

      物質主義は,巨大な蛇のようにこの世界を取り巻いています。それは,宗教指導者の愚と無能を通して,その犯罪を長く行つてきました。物質主義の人は,知識を祭り上げて偶像にしてしまい,神には背を向けています。彼は,自分の仕事を達成させるための道具と理智の供給者,すなわち造り主に讃美を捧げません。

      チャールス・リンデバーグが『フライト・アンド・ライフ』の中で,ぴつたり言い中てているように,物質主義の持に信頼するこの世は,『生命の真の特質 ― 地の美,その季節と空,人間の兄弟愛,妻と子供たちのよろこび,時間を生き残るのに是非とも必要とする無限の力 ― 戦争により亡ぼされず,平和により腐敗されない要素』を失つた。彼はこう結論しています。『私はいま悟つたのであるが,都の石垣に漆喰が必要であること以上に,霊的な真理は国家に必要である。国民の行為が,これらの真理によつて導かれないならば,その石垣がくずれるのは時間の問題である。』

      時は刻々と過ぎさつて,間もなく世界最大の戦争が起ります。この戦争に生き残る者たちは,かたい岩の土台に家を建てる慧き人になぞらえられています。その人は神の永続する御言葉に従順に従います。そのクリスチャンの家の壁は,しつかりと立ち残ります。他のものはことごとくくずれ落ちてしまいます。あなたが,自分の家を霊的な土台の上に立てる賢い建て主でありますように。そして,ある人は戦車や,馬に頼もうとも,救いを与える方はヱホバだけであることを憶えていて下さい。―マタイ 7:24-27。詩 20:7。

  • ヱホバへの献身
    ものみの塔 1955 | 9月1日
    • ヱホバへの献身

      『神よ,あなたの御意を行おうとして,……私はまいりました。』― ヘブル 10:7,新世』

      1 ものみの塔の支持しているものに関して,約200万人の人々はどんな個人的な質問に面しますか?

      あなたは,約200万人の『ものみの塔』の読者のひとりであつて,この雑誌のどの号もヱホバ神の崇拝を支持していることにおそらくお気づきでしよう。あなたにとつて,ヱホバ神の崇拝とはどういう意味を持つものですか? あなたにとつて,宗教はどうでも良いことがらですか? それとも,あなたの生活の中できわめて重要な地位を占めますか? もし聖書の真理を良く知つておられるならば,あなたは多くの霊的な祝福をうけています。そしてあなたと同じような全地の幾十万の人々とともに,宇宙の大いなる神についての知識と理解に進歩して行く祝福された機会を持つています。これは,あなたにとつて重要ですか? 真理によつて,あなたの心には崇拝したい気持ちが生じましたか? 多分生じたことでしよう。あるいは生じないかもしれません。あなたがこれらの言葉を読み,又聖書を開きつつ,この記事と次の記事を注意深く研究することは,非常に良いことです。それにより,あなたには聖書を読むだけの勇気があり,また真理を知りたいという希望のあることが示されるからです。あなたは,神の御言葉について怠慢,無関心,臆病の道を取つていません。

      2 ことさらに無関心の態度を取れば,原則対御都合主義の問題を避けることができますか?

      2 多くの人は御国の音信に注意を払いません。その理由を知るときに,あなたは驚くことでしよう。多くの人は,明白でしかも美しい聖書の教理や,いま成就されている予言の証拠や,キリスト・イエスの御国臨在を証明する大いなるしるしや,そして躍進する新しい世の社会のすばらしい業に注意を向けた後に,こんな風に言います『それはあなた方の聖書の解釈です。別の人は別の解釈をします。私にも自分の解釈があります。それで,私には別段興味がありません。』そのような人は,意欲がないために,興味を持つていません。しかし,次のことはたしかです。これから先の生涯,それらの人はヱホバ神とその御言葉にたいして,ことさら無関心の態度を取るにしても,しかし自分の行動を,原則に基いて行うか,または御都合主義に従つて行うかという問題に,たえず直面するでしよう。私たちの時代が裁きの時代であるという理由からしても,このことは真実であります。―1952年8月15日と9月1日号の『ものみの塔』を見なさい。

      3 聖書の知識にことさら興味を示さない理由はなんですか? それは,どうして臆病と言えるのですか?

      3 聖書の知識にたいするそのような態度は,怠け者の態度です。それは,自分の心を使つて神の御考えを知ろうとする進取性と積極性に欠けているか,あるいは単なる無関心の答であります。どちらの場合にしても,それは神の御言葉を軽んじているのです。そして実際には,違つた人が違つた考えを持つているため,全能の神の考えは全然大切ではないと言つているのです。しかし,この答は多くの場合に,臆病の答であります。人が真理を恐れ,また真理を知ることによつて課せられる責任を恐れ,また現在の自分の不敬虔な行が示されるのを恐れてそう答えるならば,それは臆病の答であります。まつたく公正で聖なる唯一つ真の神の御言葉に記されている公正と正義の原則から,人はいまはなれており,不義の行をしているからです。ヱホバの御言葉に対するあなたの態度は,どのようなものですか?

      4 どんな見地を持つことにより,私たちのよろこびと尊崇は増し加わりましたか?

      4 聖書の真理を理解して受けいれることは,他の人の解釈に,ひとりの人が反対の解釈を持ち出すことでは決してありません。それは,ヱホバ神が御言葉の中に述べられていることをうけ入れるか,あるいは棄てるかという問題です。ヱホバ神は,御言葉により人を教え,正義とヱホバの崇拝を知らせています。聖書の中にあるすばらしい真理により,幾十万という多くの人の生活はよろこびの充ちたものとなり,その心は幸に充ち,そして神への尊崇は増し加わりました。『ものみの塔』の雑誌は,たえずその真理を支持しており,かつ尊重しています。あなた御自身の場合,聖書研究にたいするあなたの態度はいかがですか?

      崇拝

      5 生命を持たないものや,植物,そして動物は,どの程度まで創造者を讃美しますか?

      5 私たちの身のまわりには,創造者であるヱホバをそれぞれの方法で讃美し,崇めているものがあります。しかし,それらのものはヱホバを崇拝する私たち人間の力を持つていません。詩篇19篇で絵のごとくに述べられている無生の創造物は,ヱホバの讃美を『歌』います。『もろもろの天は神のえいこうをあらわし,大空はその御手のわざをしめす。』(詩 19:1)神の御住居の天に住む者たちや,新しい世の新しい天は,ヱホバの讃美を歌い,そしてヱホバを崇拝します。しかし,実際の星や,太陽や,岩は神を崇拝するでしようか? もちろん,そういうことはありません。美しい宝石は,それを仕上げた人の誉を示しますが,しかし生命を持つていないために,その宝石は清い宗教を伝えることはできません。私たちは,この地を装う自然の美を知つています。労しない美しい野の百合は,その造り主を崇めています。しかし野の百合は造り主の崇拝に参加しますか? もちろん,そのようなことはありません。面白くて愛らしい動物は,寿命を生きて目的を果しており,そしてヱホバのすばらしい御力を明白に示すものです。しかしながら,牝の獅子や小獅子,鴉の子,山羊,野驢馬,野牛,駝鳥,馬,蝗,鷹,鷲,また空中,陸上,海中の生きている他の動物は,神を崇拝しますか?(ヨブ 38:39より39:30)御存知の通り,その一つとしてヱホバ神に崇拝を捧げることができません。なぜですか? なぜならば,それらには理智が無いからです。この記事と,この記事に関係する記事が示している一つの目的は,清い崇拝という見地から,一方に人間,そして他方に動物,植物,無機物体との相違を示すことであり,かつこの相違があなたにおよぶ万一の影響を示すことであります。

      6 人間と人間以上の者だけは,どんな特質を持つていますか?

      6 私たちの良く知つているヱホバ神の創造物で,人間より低いものは,間ちがいなくその目的を果しており,そして神の御力を証明しています。しかし,忠実,愛,公正,そしてこれに関係する性質は,人間以下のものにありません。それらのものは人間か,または神の創造の高い者たちが持つております。それは崇拝の性質であります。清い宗教である崇拝は,ただ理智を持つ神の創造物だけが為し得ます。

      7 人間が成功するか,あるいは人間が失敗するかについて,何が証明していますか?

      7 ヱホバを崇拝していることは,真実の理智を証明するものです。(シンゲン 1:7; 9:10)いわゆる『理智』を持つ創造物でありながら,ヱホバ神を崇拝しないことは,その創造物自体の失敗です。そのような無用の人間は,地に戻つて行きます。それは至極当然です。まつたくのところ,理智に欠けた人間のいるよりは,獣や,花や,あるいは岩のある方が,はるかに良いことです。(詩 14:1)『人の中には霊あり。全能者の気息人に聰明を与う。』(ヨブ 32:8)人に与えられたと示されているこの『聰明』は,正しい行為をするための理智,識別力,知覚力,賢明,智恵を意味しています。

      8 各人が問わねばならない良い質問を述べなさい。そして,それにたいする主要な答を言いなさい。

      8 理智を持つヱホバ神の創造物は,どのようにヱホバを崇拝しますか? 私はどのようにヱホバを崇拝することができるかと,尋ねるかもしれません。人はこの質問を尋ねるべきです。その質問を避けて,気にかけないことは,愚かなことです。私たちの望みは,神御自身の御言葉,聖書の中にある神の答を指摘することです。また,多くの読者が,この事柄についての大切な聖書の真理を悟り,そして従つて頂きたいものと希望し,信頼し,そして祈つています。なぜならば,それこそ永遠の福利に是非とも大切なものだからです。神を崇拝したいと望む各人が,まずヱホバへの献身をすることは必要です。

      ヱホバへの献身

      9 人間の最高の行は,何ですか? 卑劣などんなものは,それを妨げますか?

      9 人間はヱホバ神に献身することによつて,人間より低いすべての創造物とまつたく区別されるようになります。それは,人間の,一番高く,かつ一番崇高な願であり,また望みであります。そして,生命を得る人類は,みなその道に従わねばなりません。(ヨハネ 17:2,3。詩 119:1,2)聖書の中に啓示されているヱホバを理解するようになつても,人は利己主義に妨げられて,ヱホバ神に献身することはできません。どうして,そのようなことはあり得ますか? 多くの宗教の人で,ヱホバ神に献身している人は,まずいないではありませんか? 本当に多くの人は献身していません。実際,ヱホバの献身した地上の僕の数は,少数です。しかし,それらの人々は,あらゆる階級,あらゆる層から来た人々です。人はそれぞれ,何らかのものに献身していると言つても間ちがいでありません。一般の人の献身には,何が欠けていますか? それは,その御名がヱホバである宇宙の全能の神に献身しているのではなく,むしろ自己の利害か,あるいは他の義か,或は他の神に献身しているのです。それで,それらは献身した者たちをヱホバ讃美の永遠の生命に導いていません。

      10 クリスチャンの献身を定義しなさい。

      10 『献身』の本来の意味は,公表する,断言する,おごそかに述べる,身を捧げるということです。それは,特定の使用のために,あるものを取り分けるか,または捧げる行を指します。人あるいは物が,ある仕方か道,または使用を始める行を指しています。クリスチャンにとつて,献身とはヱホバ神への奉仕と崇拝のためにすべてのものを,まつたく捧げることです。それは,キリスト・イエスを通してヱホバ神の御意を全く無条件になそうと同意し,自分自身を専心それに捧げることです。その御意は,どのように表明されますか? 宗派や分派を通してですか? 人間の計画や,人間の制度を通してですか? 答は否です。神の御意は聖書の中に表明されており,そして神の聖霊によつて明らかにされています。それで献身は次のことを意味します。人は献身した後,この腐敗した世から離れて聖い生活を行わねばならず,そしてヱホバ神に奉仕しなければなりません。

      11 献身の問題にたいして,多くの人はどのような反応をいたしますか? その問題を無視することができますか? あなたは,どのようにして祝福された人になりますか?

      11 『私には,それができない』と多くの人は言います。『神を生活の第一にすることは,とうていできない。自分自身の利害や,自分に属する物や人の利害を第一にするが,神は第二にする。もちろん,私は神に奉仕し,時々都合の良い時には神に感謝を捧げる。しかし,ヱホバに献身すること? 私には,どうしてそれができようか?』 大抵の人は,そのような態度を取ります。この雑誌を読んでいる多くの読者は,ヱホバに奉仕するために,献身をしておりません。前に述べたように,ヱホバへの献身を阻げるものは,自己の利害を考える利己主義です。あなたはこの問題を避けることが決してできません。その問題を無視することはできません。どうしても,それに面しなければなりません。献身は決定を要します。あなたは,生命をお与えになつた神を崇拝して奉仕するか,あるいは自分個人の生活で神の御言葉と御意を無視するかを決定しなければなりません。神があなたになされた善を深く感謝して,正直に,かつ誠実な気持ちから,そしてまた神への愛という気持ちから神に奉仕しようと献身するならば,あなたは本当に賢明な人であり,祝福された人であります。

      12 ヱホバ神に献身する理由を述べなさい。

      12 人は,ヱホバの御意と,そして神の御言葉に導かれるというおごそかな同意をなすために,また神の目的と一致して行い,また努めて聖書の高い標準に従おうとするために,なぜ献身しなければなりませんか? 人は,なぜこれをなすべきですか? それよりもむしろ,人は,なぜそれをすべきでないでしようかと尋ねるべきです。ヱホバ神への全き献身は,ヱホバ神がそれをうけるのにふさわしい方である故になされるべきです。ヱホバ神御自身の至善さの故に,彼を愛する者たちが献身するのは当然であります。(ペテロ前 1:15,16)私たちの讃美,奉仕,崇拝をヱホバに捧げることは,全く当然なことです。彼は真の宗教の中心です。私たちの不備な言葉でヱホバの至上の御性質を述べることは不可能であります。しかし,人が真心からヱホバに感謝するとき,あらゆる善の与え主ヱホバにたいする愛が生じます。ヱホバに感謝するということは,彼の至善さについて正しい認識をなし,ヱホバの至上性を十二分に悟り,私たちの神について満足と嘉納の暖さを感じ,そしてヱホバの御業に感謝することであります。あなたは生命と,その祝福,真理,啓示された神の御言葉,人類のために御子キリスト・イエスを通して為された御業,天にいまや設立されている御国,地上でいま行われているヱホバの御業,そして現在活動している新しい世の社会に感謝していますか? あなたはこれらの事を敬重していますか? あなたはそれらを拒絶するか,あるいは,感謝の気持でうけいれるかのどちらかです。もし,あなたがそれらを感謝し,それを備えられた神に感謝するなら,自分自身を献身して神に奉仕するでしよう。全き感謝の念は,献身に導きます。ヱホバに献身することは,生命の大いなる源に献身することです。それは,生命をうける者すべてが従わねばならぬ行為であつて,本当に賢明な道であります。―シンゲン 14:27。

      13 献身をすることによつて,何が表明されますか? 献身は何に導びきますか?

      13 『人が最善のことをして,仲良くして行おうとすれば,万事みなうまくなると信ずる。』多くの人は実際そのように言います。しかし,それは聖書の教えることではありません。それは自己欺瞞です。(シンゲン 14:12)『万事みなうまくなる』人々は,永遠の生命をうける人々です。しかし,生ける神,大いなる創造者御自身,そして生命の泉から切り離されながら,永遠の生命をうけることは不可能です。神の生ける御言葉は,このことについて全然疑問をはさみません。献身はヱホバへの全き信頼と確信を表明します。献身は次のことを表します。つまり,献身する人は,ヱホバが神であること,神が正しい方であること,神の義がかならず勝利を得ること,そして献身した者の心と気持には一点の疑問もないこと,そしてヱホバ神の側に立つて幸福とよろこびに充ちていると確信していることです。

      14 (イ)ヨハネ伝 3章19-21節のイエスの言葉を読みなさい。それから,その論議を自分の言葉で言い直しなさい。(ロ)今日のクリスチャン献身について,私たちは何にはげましと確信を求めますか?

      14 ヨハネ伝 3章19-21節(新世)に記録されているキリスト・イエスの言葉は力強いもので,しかも啓示を与えるものです。イエスは,こう述べました『いまや,これが裁きの基である。光は世に来たが,しかし人は光よりも暗い方を愛した。人の業は悪いものだからである。悪いことを行う人は,自分の業が明るみに出されるのを恐れて,光を憎み,そして光に来ない。しかし,真実を行う人は,光に来る。それは自分の業の神と一致して為されたことが示されるためである。』そこに述べられている裁きの基は,変化しておりません。そして神の真理の言葉である聖書の光を持つ理智の人々,すなわち私たちの前に,問題は厳然として置かれています。キリスト・イエスはヱホバに献身していて,クリスチャンの従うべき正しい型を残しました。イエスの時以前にも,献身の事柄は真の神の崇拝と関連していました。それで,次の記事では歴史に考慮を払つてみましよう。それは,神権的な御国の設立されているすばらしい今日にあつて,私たちを励まし,かつ確信を与えるものです。

  • 確信を与える献身の歴史
    ものみの塔 1955 | 9月1日
    • 確信を与える献身の歴史

      『ヱホバを恐れ,かつ忠実と真実をもつて彼に仕えよ。……私と私の家族はヱホバに仕える。』― ヨシユア 24:14,15,新世。

      1 ヱホバに崇拝を捧げるとき,なぜ彼に献身することは必要ですか? このことはエジプトにいたイスラエルの場合に,どのように示されていますか?

      崇拝とは,崇拝の対象物の特質から生ずる価値を認めて,尊崇の気持ちをもつて遇することです。それで,ヱホバ神に崇拝を捧げるとき,ヱホバ神の素晴らしい特質の故に,彼に献身することが必要であります。モーセとその友なるイスラエル人たちは,エジプトでヱホバを崇拝し,彼の律法に逆うのを拒絶しました。(出エジプト 1:17,21。ヘブル 11:23-29)ヱホバは,イスラエルが御自分の民であることを認められました。『私は,エジプトにいる私の民のくるしみを間ちがいなく見ており,……私はエジプト人の手から彼らを救い出そうとしている,……さて私はお前をパロのところに送り,イスラエルの子孫である私の民をエジプトから導き出させよう。』(出エジプト 3:7-10,新世)ヱホバはアブラハム,イサク,そしてヤコブと契約を結んで,御自分の目的を述べられていました。彼はその御目的を決して忘れず,そして遂には救助の裔を備えるということを御期待しつつ,「その契約を憶えておられる。」(出エジプト 6:5,新世)モーセを通してイスラエルの子らに述べられたヱホバの言葉は,次のようでした。『私はかならず,あなた方を私の民となし,私はあなた方の神になるであろう。あなた方は,エジプトの重荷から救い出している私が,あなた方の神ヱホバであると必らず知るであろう。私は,手を上げてアブラハム,イサク,ヤコブに与えると誓つた地に,あなた方を導くであろう。そしてそれをあなた方に与えよう。私はヱホバである。』― 出エジプト 6:7,8,新世。

      2 イスラエルをエジプトから救つた目的は,どのように示されていますか?

      2 エジプトから救い出された時に,次のことが再三再四明白に示されました。つまり,エジプトからイスラエルを救い出した目的は,彼らがヱホバの民となつて,彼に崇拝と奉仕を捧げるためでした。イスラエルは,エジプトからの救助の後に,いつたい何が要求されるかをその時知りませんでしたが,しかしヱホバの命ずるとおりのことを為そうと決定しました。(出エジプト 10:26)ヱホバは,その民について,モーセに言われました『お前はパロに言わねばならない。「ヱホバはこう言われる『イスラエルは私の子,私の長子である。そしてお前に言う,私に仕えることができるように私の子を去らしなさい。もし彼を去らせないならば,私はお前の息子,お前の長子を殺すであろう。』」』― 出エジプト 4:22,23,新世。

      3 イスラエルの献身の行を示す事実を述べなさい。

      3 ヱホバは,その御力によりこの言葉を成就しました。そして,エジプトの軍勢を亡ぼして,御自分の民であるイスラエルを救いました。この救い出された民,そしてヱホバに献身している民は,ヱホバの民であつて,ヱホバの命令に従いました。『ヱホバはさらにモーセに言われた。「人でも家畜でも,イスラエルの子らの中で最初に生まれる長子を潔めて私に捧げよ。それは私のものである。」』(出エジプト 13:1,2,新世)と強調されました。エジプトから救助された時と,その後に,崇拝についての詳細な事柄は,献身したこの民に述べられました。シナイ山で,ヱホバは契約制度を通し,イスラエルの国民と御自分とのあいだの特別な関係を,彼らに強調しました。そして,イスラエルの国民全部は,その献身を果す同意を表明しました。ヱホバの言葉はこうです。『もしあなた方が私の言葉にかたく従い,そして私の契約を本当に守るならば,あなた方は他のすべての民たちの中より私の特別な所有物になるであろう。なぜならば,全地は私に属するからである。そして,あなた方は私にとつて祭司の国となり聖なる国民となるであろう。』『その後,全国民は一致して答えて言つた。「私たちはヱホバの語られたことなら,みなよろこんで行う。」』― 出エジプト 19:5,6,8,新世。

      4 イスラエルの始めた生活の仕方を説明しなさい。ヱホバが何を求められたかを示す多くの事実を述べなさい。

      4 救助された人々で成り立つ従順の国民,そして御自分の特別な所有物とヱホバの言われた民にむかい,『神はこれらのすべての言葉を語られた「私はあなた方を,エジプトの地より,奴隷の家から導き出したあなた方の神ヱホバである。あなた方は私以外の何ものをも神にしてはならない。』(出エジプト 20:1-3,新世)出エジプト記 20章の最初の17節を読んでごらんなさい。特に,第5節(新世)には『あなた方の神である私ヱホバは,専心の献身を求める神である。』と書かれています。それに続く後の章は,そこで提起された契約の詳細の箇条を述べており,そして,次のような言葉で終つています『あなた方は,彼ら,あるいはその神々と契約を結んではならない。あなた方の地に,彼らを住まわせてはならない。さもないと,あなた方は彼らの影響をうけて私に対して罪を犯すようになるであろう。あなた方が彼らの神々に仕えるならば,それはあなた方にとつて罠となるであろう。』(出エジプト 23:32,33,新世)イスラエルの国民はエジプトから解放され,そしてモーセを通して与えられたヱホバ神の律法下に制度化されました。そして神の崇拝を中心とする生活を始めました。その神は彼らの支配者,律法の与え主,審判者,そして彼らの崇拝の対象であつたのです。彼らはこのことを認め,献身の気持のうちに『私たちはヱホバの語られたことなら,みなよろこんで行おう。そして従順に従おう』と言いました。(出エジプト 24:7,新世)その後再びヱホバは御自分の民を正しく指示して,こう述べました。『レビ人を取つて,イスラエルの子らのすべての長子に代えさせ,レビ人の家畜を取つて,彼らの家畜に代えさせよ。レビ人は私のものにならねばならない。私はヱホバである。』(民数記略 3:45,新世)ヱホバはその民を更に制度化して,そして儀式のことでも政府のことでも,御自分の崇拝に関連するあらゆる事柄を正しく遂行いたしました。ヱホバは彼らの王でもあり,また支配者でもあつたからです。

      5 ここに列挙されている歴史的な出来事を述べなさい。そして,献身は各人の為す重大な行であることを示しなさい。

      5 神の民であるイスラエルの歴史の中には,人々が物や人を捧げた時が多くありました。申命記 20章には,戦争に召された人が,まだ住んだことのない新しい家を持つている場合の手続きが記録されています。サムエル後書 8章11節に,ダビデは器を『納め』たと言われています。ここの『納める』という言葉は,神聖なるものにするという意味を含んでいます。列王紀略上 7章51節でソロモンはダビデが以前ヱホバに捧げた品物を宮にたずさえています。列王紀略上 8章63節で,王と全国民はヱホバの家を捧げて,ヱホバ崇拝のために正しく使用しはじめたと示されています。善良な女ハンナは,幼児を孕む以前に,その子をヱホバに捧げると誓いました。その子サムエルは忠実に奉仕して,ヱホバ神の崇拝をいたしました。(サムエル前 1:11)サムエルは,自分の献身した奉仕に関して,彼自身も行動を取りました。それはサムエル前書 3章10節に示されています。『サムエル,僕きく語りたまえ,と言う。』彼が従順を守つたことは,その宣教の記録全部に示されています。サムエル前書 3章19,20節はこう述べています。『サムエルそだちぬ。ヱホバこれとともにいまして,そのことばをして一も地におちざらしめたもう。ダンよりベエルシバにいたるまでイスラエルの人みなサムエルがヱホバの予言者とさだまれるを知れり。』予言者イザヤは,自発的に進んで神の奉仕に従事しました。『我またヱホバの声をきく曰く,われ誰をつかわさん。誰か我らのために往くべきかと。そのとき我いいけるは,われ此にあり,我をつかわしたまえ。ヱホバ言いたまわく,往きてこの民にかくのごとく告げよ。』(イザヤ 6:8,9)むかしからの真の崇拝の記録は,そろつて次のことを証しています。つまり,献身とは,ヱホバ神を崇拝し,ヱホバ神の是認をうけるすべての人各人が正しく取る重大な行ということです。

      神の御子の献身

      6 イエスの場合,彼の献身はなぜ正しいものでしたか? そしてなぜ大切でしたか?

      6 ヱホバ神への献身の例の中で,取分け際立つものはキリスト・イエスの献身です。イエスは自分の神に献身していました。彼はユダヤ人の律法を守りました。律法の下にあつて,イエスは30歳になり,自分の生涯に何を為すべきかという質問に直面しました。神の御意を為すべきであろうか? 大工職を為し続けて,ただモーセの律法に従うということは神の御意なのであろうか? 否,ヱホバの崇拝を拡張しなければなりません。そして,新しい神権制度であるクリスチャン会衆を設立して,その成員を集め,そしてその後に実体の神権政府,つまり天の御国と正義の新しい世の設立という神の御目的は,一段と進歩されねばなりません。イエスは自分の御父と,ヘブル語聖書中に録されていた御父の言葉を良く知つていました。彼はヱホバの至善さを知つていて,大工でいることに満足せず,そして利己的な気持を全く持たず御父の御意を為し続けました。彼は決定して,その心を定めました。彼は今後の生活に対する行動を決め,詩篇 第40篇の予言を成就しました。40篇の一部は,こう述べています『なんじ犠牲と祭物とをよろこびたまわず,汝わが耳をひらきたまえり。なんじ燔祭と罪祭とを求めたまわず。そのとき我いえらく。視よ,我きたらん。わがことを書の巻にしるしたり。わが神よ我は聖意にしたがうことを楽しむ。なんじの法はわが心のうちにありと。』(詩 40:6-8)ヘブル書 10章で,使徒パウロはこの予言を引用し,それは献身した時のキリスト・イエスに適用すると述べました。神にすべてのものを捧げたこの御子は,神の御意を行い,献身したこの僕の心に留められていた神の律法に従おうと自ら神への厳粛な献身をしました。彼は,このように始めた行為から決して逸れなかつたのです。その決定は,イエスにとつて大切でした。同じような決定は,あなたにとつても大切です。

      7 (イ)何の理由で献身をしますか?(ロ)形式的なことは適当ですか? なぜ?

      7 イエスは何の理由で献身しましたか? 神についての知識,天的な御父に対する愛,清い崇拝の義を進めて,ヱホバの御目的を拡大し,ヱホバの御名を立証しようという熱心な望みでありました。今日,人は何の理由でヱホバに献身しますか? 真理の知識,ヱホバの目的についての理解,キリスト・イエスを通して人類が持ち得る生命の見込み,御子を通して為された神の御準備への感謝,各人の心のなかに生ずる愛,そして,悪魔の支配する不敬虔な古い世の実践や標準に従わず,神の御意に従つて,神の御名を立証しようという決定であります。それは最高至上者への献身であります。イエスはなぜ自分の仕事を働かなかつたのですか? そして,働きながらできるだけの宣教をしなかつたのですか? なぜ,彼は献身しなければなりませんでしたか? 神の御意を為して,神の崇拝を為すことは,好い加減の事柄ではないからです。それは,しても良く,しなくても良いという事柄ではありません。ヱホバに献身することは,特別の厳粛さを必要とし,契約または公式の同意をなすことを必要とします。いつたん,献身が表明されるとき,その人に関係するすべての人も,また観察者のすべての人も,献身した人に今後何を期待すべきかを知ります。献身をしてからは,身を慎んで,正しく振舞うことが要求されます。

      8 (イ)献身のとき,ヱホバにむかつて実際に何と言いますか?(ロ)責任を避けるために,献身を差し控えるのは,なぜ良くありませんか?

      8 表向きだけは形式振つても,その裏は利己的なものに追い耽けるということは献身でありません。それとは全然逆になるものです。献身は,神の御意を為そうという良く考慮した平静な決定であります。そして正直な気持ちから,ヱホバにこう言います。『私はあなたの御意を行うために来ました。私はあなたにすべてを捧げました。私はあなたに献身しました。私はここにいます。私を遣して下さい。あなたの言われることならば,何事も為しとげます。あなたの御言葉と律法より私を教えて下さい。あなたに讚美を捧げ得るよう私を用いて下さい。』ある人は『しかし,献身はなんと大きな責任をもたらすのでしよう!』と言うかもしれません。たしかに,献身は大きな責任をともないます。献身がないならば,その時責任がありますか? 契約がないならば,その契約の条件を果す責任や責務はありません。それで,献身しないならば,作られていない献身の条件に,人は従うことができません。そういうことならば,神への献身を差しひかえて,責任を避ける方が良くないでしようか? 否,それは現在の裁きの日にあつて非常な間ちがいであります。なぜ? なぜならば,知識と感謝の念が不足しているか,あるいは利己主義の気持を持つているとき,人は献身できないからです。ヱホバ神は感謝の念を持たない利己的な人,あるいは不誠実な人に生命を与えません。健全で真実の信仰を神に持つならば,私たちは神に献身します。もし献身をしないならば,それは神の言葉を信じないか,神に注意を払つていないことになります。そのどちらにしても,私たちは神から生命をいただくことはできません。血を吸う蛭のように,ヱホバの設けられた御準備をみなしぼり取つてしまうような人々がいます。ヱホバ神はそのような人々に生命を与える義務を有していません。彼らはすべてのものを取つて自分のものにしながら,そのお返しに心を捧げようともしなければ,深い感謝も,愛も,有難さも,忠実も,公正も,そして敬虔な事柄を得ようとする努力も示さないのです。

      9 献身に関しての正しい態度と基礎を指摘しなさい。

      9 それで,献身を恐れてはなりません。むしろ,献身を切望しなさい。正しい知識を得なさい。真理を学びなさい。御言葉の中に述べられているヱホバの御準備を良く知りなさい。そして,真理があなたの心に生ぜしめる愛の気持ちから,ヱホバの御意を為すため献身いたしなさい。ヱホバ神に献身いたしなさい。イエスは「あなたの御意を行うのは私の憎むところであるが,行わねばならない。私は無理強いに強制されている」とは語つていません。予言の示すところによると,『わが神よ,我は聖意にしたがうことを楽しむ』とイエスは言われています。献身ということについて,各人は自分の自由意志を用います。献身は決断力のない,意志の弱いものでありません。それは決意の充ちた,強い意志の事柄であつて,その強い意志をヱホバ神の御意に従わせることであります。そして,ヱホバ神のいましめに従おうと決意することであつて,御言葉の中に表明されている神の御意に反する人間のいましめや,自己の利害に従うことではありません。ヱホバに献身する人は,献身という行により,また神の御意を為そうと同意することにより,ヱホバと個人的な関係を持つようになります。これは,神への愛と,キリスト・イエスを通して為された神の御準備への信仰に基くものです。そして,私たちは,かならずや私たちのために適用されるイエス・キリストの贖の価値により,ヱホバの御前に立つことができるのです。

      10 実際的なもので,すすめるのに価値があり,賞讃に値する,重要な献身の結果を詳細に述べなさい。

      10 それで,献身は非実際的で,頭の中だけのものでなく,又無用なもので,偽りの宗教のもの,そして意味のない表現ではありません。それどころか,献身は実際的なもので,すすめるのに価値があり,賞讃に値する,重要なものであります。イスラエルの国民は,神の選民であつたため,エジプトの世から自由に解放されました。ヱホバへの献身は私たちにも自由をもたらします。献身によつて,私たちの物の見方は変り,私たちは神の御言葉の目と,神の御目的を理解する目を通して物事を見るようになります。私たちはヱホバに確信と信頼を置くことによつて,もはやこの古い世,その制度,その標準や慣習,あるいは悪魔的な宗教に捕われることはありません。献身をするとともに,私たちはヱホバの奴隷になるのではありませんか? 確かに,ヱホバの奴隷になります。それは献身の一つの目的です。私たちが,神の地上にいるのは,私たちの勝手な気持ちによるのでなく,また私たちの準備によるのでもありません。私たちは,正義と不義のどちらかの奴隷あるいは僕にならねばなりません。私たちがヱホバ神に献身して,彼の奴隷になることを選べば,それは正しい選びをしたことになります。イエスはそれをいたしました。イエスの行は,天の御父にたいする愛と熱心からなされましたが,彼の献身は,その事実に示されています。

      11 ヨシュア記 24章にあるヨシュアの経験の中では,どんな良い決定が為されましたか?

      11 この問題は,ヨシュア当時の問題を思い起させます。ヨシュアはこのように言いました。『いまやヱホバを恐れ,かつ忠実と真実をもつてヱホバに仕えよ。そして,あなた方の先祖が河の向う岸とエジプトで仕えた神々を取りのぞき,ヱホバに仕えよ。ヱホバに仕えるのを悪いと見えるならば,あなた方は今日,あなた方の先祖が河の向う岸で仕えた神々にもせよ,あるいはあなた方の住んでいる地のアモリ人の神々にもせよ,誰に仕えるかを選びなさい。しかし,私と私の家族はヱホバに仕える。』(ヨシュア 24:14,15,新世)そのとき,イスラエルの国民がヨシュアに述べた答は,非常に賢明な決定でありました。『民はこれに答えて言つた。「私たちがヱホバを棄てて他の神々に仕えるなどということは考えもしないことである。私たちと私たちの先祖をエジプトの地から救い出したのは私たちの神ヱホバであられる。……ヱホバは私たちの神である故に,私たちもヱホバに仕える。」』(ヨシュア 24:16-18,新世)それらの人々は,その時ヱホバに献身しましたか? 否,彼らはヱホバへの献身を確認しており,再び強調していたのでした。その記録は,さらにこう続いています。『それでヨシュアは民に言つた。「ヱホバは聖なる神である故に,あなた方はヱホバに仕えることができない。彼は専心の献身を求める神である。彼はあなた方の過ちと罪をゆるされない。あなた方がヱホバを棄てて外国の神々に仕えるならば,ヱホバは必らずあなた方から離れ,あなた方に福祉をなして後あなた方に害を加えて亡ぼしてしまうであろう。」民はヨシュアに答えて言つた「否,私たちはヱホバに仕える。」ヨシュアは民に言つた。「あなた方は,自分からヱホバを選んで仕えると言い,自分自ら証者である。」彼らは「私たちは証者である。」と言つた。「それでは,あなた方の中にある外国の神々を取りのぞき,イスラエルの神であるヱホバにあなた方の心を傾けよ。」民はヨシュアに答えて言つた「私たちは,私たちの神であるヱホバに仕え,彼の言葉に従おう。」その日,ヨシュアは民と契約を結び,シケムにおいて規則と法規とを彼らのために定めた。』― ヨシュア 24:19-25,新世。

      12 生命の祝福をうけることは,どんな道の目標ですか?

      12 献身の道は,非常に祝福されたもので,ヱホバ神に奉仕するすべての人に求められています。献身は永遠の生命にみちびきます。ルカ伝 14章27節(新世)にあるイエスの言葉は,献身の必要性を示しています。『だれでも,自分の刑柱を負つて,私に従わない者は,私の弟子にはなれない。』代表者キリスト・イエスを通して至上の支配者ヱホバに献身して,生命への救を得ます。むかし,正義の人ヨセフが国政を掌つていたエジプトの国で,飢餓に面した人々は次のように話して,その救を示しました。『食物と引きかえに私たちと私たちの土地を買つて下さい。私たちは土地とともにパロの奴隷になります。私たちに種子を下さい。そうすれば私たちは生きることができて死をまぬがれ,土地も荒れることはない。』『それでヨセフはエジプト人の全地をパロのために買いとつた。……彼らは言つた「あなたは私たちの生命を救つた。」』― 創世 47:19,20,25,新世。

      決定

      13 献身,謙遜,悔い改めにみちびく決定の中で,信仰はどんな役割を果しますか?

      13 献身と結びついて信仰の大切なことは,前に述べました。人は神と神の御目的を知つてから信仰を持ち,その信仰により神に来なければなりません。神の真理の言葉である聖書を学んで,その知識を得ることができます。このことから,『私は道であり,真理であり,生命である。私を通してでなければ誰一人として御父に行けない。』(ヨハネ 14:6,新世)と言われたイエスの言葉は,至当なものです。ヨハネ伝 6章44節(新世)のイエスの言葉も同じことを示しています。『私を遣わされた御父が引き給わないならば,何人も私のところに来ない。私は終の日に彼を復活させる。』使徒パウロは,ヘブル人に同様な事を書きました。『それに,信仰がないならば,神の良いよろこびを得ることはできない。神に近づく者は神のおられることと,神は神を熱心に求める者には報いを与える方であるということを信じなければならない。』(ヘブル 11:6,新世)謙遜が必要です。霊的な必要物を意識している謙遜な人だけが,ヱホバに献身します。そして,謙遜な気持ちから,うけついできた罪と弱さを認め,かつ心からなす悔い改めが必要です。初期のキリスト教信者たちの行は,それらの大切な性質をはつきり示しました。『彼らはそれを聞いて心を刺され,ペテロと他の使徒たちに「兄弟よ,私たちは何を為すべきでしようか」と言つた。それで,ペテロの言葉を心から受け入れて信じた者たちは,洗礼をうけた。その日,約三千の魂が加えられた。』(使行 2:37,41,新世)ペテロは悔い改めをすすめましたが,その助言の言葉は使徒行伝の次の章に述べられています。『自分の罪をぬぐい取つていただくために,悔い改めて本心に立ち返りなさい。それはヱホバの御前から慰めの時が来て,あなた方のためにあらかじめお定めになつたキリストなるイエスを遣わして下さるためである。』― 使行 3:19,20,新世。

      14,15 ルカ伝 14章28-33節のイエスの言葉は,献身について何を示していますか?

      14 各人の責任,― つまり献身をしない人の責任と,ヱホバ神に献身する人の責任を十分に良く理解してから献身することは,賢明な決定であります。献身は,深く考えてしかもそれにともなう責任を良く悟つてから行われるものです。事業を行う前に費用を計算するというイエスの譬話は,そのことを良く説明しています。『たとえば,あなた方の中のだれかが,塔を建てたいと思うなら,それを仕上げるのに足りるだけのお金を持つているかどうかを見るため,まず坐つてその費用を計算しないだろうか? そうしないと,土台をすえただけで,仕上げるだけの資金がなく,それを見る人は皆「この人は建てかけたが,仕上げるだけの資金がなかつた」と言つて,あざ笑うようになるであろう。どの王でも,他の王と戦を交えに行くとき,まず坐つて,自分の一万の軍勢がはたして敵の二万の軍勢に対抗し得るかどうかを考えてみないであろうか? もし対抗することができないなら,敵がまだ遠くにいるあいだ,使者たちを送つて和を求めるであろう。それと同じく,あなた方も自分の財産をことごとくふり捨てないならば,私の弟子になることはできない。』― ルカ 14:28-33,新世。

      15 献身という事柄に関して,献身をしようと,しまいとそのどちらの道も正しくて賢明であると考え,自分の勝手気儘に道が選べるなどと,イエスは話されてはいません。イエスの指摘されていることは,こうです。自分の財産をことごとくふり捨てない者は,イエスの弟子になることも,又イエスの道に従いキリスト・イエスを通してヱホバ神に献身することもできません。といつて,私たちが貧民になることではありません。献身は,私たちのすべて,私たちの生命,私たちの富,ありとあらゆるものをヱホバに捧げ,そして最善をつくしてヱホバの御意を行い,またヱホバのいましめを守ることによりヱホバに讃美を捧げることです。私たちは,このことを為したいですか? それを良く考えるとき,そう為したい気持を感じますか? 私たちはそう感ずべきであります。このことから,献身は,天幕集会における復生運動の非常な緊張と刺戟でなされる感情的な『改宗』ではありません。献身は,事実の光に照し合わして,静かに深く考慮してなされるものです。そして次のことを考えに入れます。

      16 ヱホバに献身する人は,どんな事実を静かに考えますか?

      16 ヱホバに献身する人は,ヱホバを最高主権者,生命の与え主と認めねばなりません。またキリスト・イエスを救い主,王と認めねばなりません。そして,神の御霊は神の活動力であり,献身したクリスチャンの生活に重要な位置を持つという事実をしつかりと理解しなければなりません。これらのことは,私たちの信仰の根本であり,それが献身に直接結びついていることは,イエスの言葉からも分ります。『行つてすべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊の名によつて洗礼を施しなさい。』(マタイ 28:19,新世)むかし,詩篇を書いた人は『かれらはヱホバという名をもち給う汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし』と祈りました。(詩 83:18)そしてまた,『いのちの泉はなんじに在り。』とも祈りました。(詩 36:9)ピリピの会衆を組織する特権を持つた使徒パウロは,その会衆にあててこう書きました『この故に,神は彼(キリスト・イエス)を勝れた地位に高めて,すべての名に優る名を彼に与えられたのである。これは,イエスの名に在つて,……すべてが膝まづき,またすべての舌は「イエス・キリストは主である」と言い表わして,父なる神に栄光を帰するためである。』(ピリピ 2:9-11,新世)献身は,深く静かに考えてから決定する選択であります。『自分の肉に播く者は,その肉から腐敗を刈り取り,その霊に播く者は,その霊から永遠の生命を刈り取るであろう。』(ガラテヤ 6:8,新世)『御霊で充ちなさい。』― エペソ 5:18,新世。

      17 人は,自分の献身がヱホバの御旨にかなうかどうかを,どの様に知りますか? このことにつき,私たちを励ますどんな記録が残されていますか?

      17 ヱホバ神が私たちの献身を認めてうけいれるということを,どうして知り得ますか? 私たちの献身が,心からの誠実なものであるなら,ヱホバはそれをうけいれます。ヱホバは,誠実で祈りのこもつた献身をうけ入れ,しかもおよろこびになります。このことから,『私には神に奉仕することができない。神の御旨にかなうことはできない。ヱホバに献身することはできない。ヱホバの証者になることはできない』と言う程に臆病で,そして劣つていると感ずる人は,力と助けを得るでしよう。コルネリオについての記事は,私たちを励ましてくれます。こう書かれています『ある日の午後三時ごろ,神の御使が彼のところに来て「コルネリオよ!」と言うのを幻ではつきり見た。彼は御使を見つめていたが恐ろしくなり,「主よなんでございますか」と言つた。御使は言つた「あなたの祈りや施しは神の御前にとどいておぼえられている。人をヨッパに遣し,ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。」コルネリオは(ペテロに)言つた「いまから数えて四日前,私が午後三時頃自宅で祈つていると,とつぜん輝いた衣を着た人が私の前に立つて,こう言いました。「コルネリオよ,あなたの祈は聞きいれられ,あなたの施しは神の御前におぼえられた。」ペテロがこれらのことを語つてまだ言い終らない中,それを聞いていた人の上に聖霊がくだつた。』― 使行 10:3-5,30,31,44,新世。

      18 誰が献身の特権を持ち得ますか?

      18 あなたの国や,家系や,生活状態が何であろうと,また劣つた能力を多くうけつごうと少くうけつごうと,あなたは献身と忠実な奉仕により神の是認をうけることができます。あなたは確信してその事をなし,しかもそうすべきであります。これと関連して,栄光に輝く宮がソロモンの指示の下に落成した時に,どんな言葉が述べられたかに注意をいたしなさい。その祈りの一部分は,このようでした。『かつ又なんじの民イスラエルの者にあらずして,なんじの名のために遠き国より来る異邦人は,(そは彼らなんじの大いなる名と強き手と伸たる腕を聞き及ぶべければなり。)もし来りてこの家にむかいて祈らば,なんじの居処なる天において聞き,すべての異邦人のなんじによび求むるごとく為したまえ。なんじかく地の諸の民をしてなんじの名をしらしめ,なんじの民イスラエルのごとくなんじを畏れしめ,又我が建てたるこの家はなんじの名をもて称呼るるということを知らしめたまえ。』― 列王紀略上 8:41-43。

      19 さらに,どんな点を理解することが必要ですか?

      19 『ものみの塔』の他の記事で討議されたように,聖別と献身には聖書的な区別があります。聖書で用いている聖別は,キリスト・イエスと共になる祭司たちを任命する神の御業を指しています。そして,キリストと,油注がれて霊で産み出されたキリストの体の成員だけに適用します。もちろん,この行は,キリストの体の成員になるよう召されたクリスチャン各人が献身した後に,なされます。これらクリスチャンの希望は,天的なものであつて,ヱホバの『他の羊』の持つ地的な希望ではありません。人はヱホバ神に献身して後,何をすべきですか? ヱホバの永続する是認をうけるとともに,献身したクリスチャン生涯で成功するために,献身した人は何をしなければなりませんか? 聖書から見て献身したクリスチャンの責任は何ですか? これらの質問は,次号で考慮されます。

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