-
約束をする神ものみの塔 1972 | 10月15日
-
-
約束をする神
人類に救出を約束している神はどなたですか。なぜ神の約束を信じるべきですか。また,どうすればそれに信頼を置くことができますか。
そうした確実な約束をすることができるそのかたは,万物の創造者,全能の神であるはずです。聖書は神をそのようなかたであるとしています。神が人類を正義の新秩序へ救出しようという意志を持っておられることには疑問の余地がありません。そのことは,神がそう約束しておられることからも明らかです。しかし,神が人類を救出しようとしておられることを確信するには,神の行為とみわざ,つまり,神がご自分の他の約束を成就したかどうかを調べる必要があります。
メシヤによる王国を通して人類を救出するという約束はべつにして,神の最も重要な約束はメシヤの初臨に関するものです。それは神が約束されたとおり実際に起きたでしょうか。
メシヤの最初の出現に関する記録
それは歴史の記録によって証明できます。メシヤをまちがいなく見分けられるように,聖書には非常に古くから,メシヤに必要とされる条件が述べられていました。その必要条件を一部紹介しましょう。
(1)ユダ族,しかもダビデの家系から出る。
「杖(支配する権威の象徴)ユダを離れず法を立る者その足の間をはなるることなくしてシロの来る時にまでおよばん彼に諸の民したがうべし」。(創世 49:10)「エホバ真実をもてダビデに誓ひたまひたれば之にたがうことあらじ曰く われなんぢの身よりいでし者をなんぢの座位にざせしめん」― 詩 132:11。イザヤ 9:7。
イエスはその家系の出身でした。歴史家マタイとルカが登録簿から取ったイエスの系図はそれを示しています。(マタイ 1:3,6,16。ルカ 3:23,31,33)西暦1世紀当時のユダヤ人の指導者たちは,考えうる限りのあらゆる点からイエスを攻撃したにもかかわらず,ユダヤ人自身の公の記録に基づく,その系図には疑いをはさみませんでした。
(2)ベツレヘムで生まれる。
「ベテレヘム,エフラタ汝はユダの郡中にて小き者なり然れどもイスラエルの君となる者汝の中より我ために出べし」― ミカ 5:2。
マタイはこの聖句を引用して,「イエスは…ユダヤのベツレヘムに生れ給ひしが」と報告しています。―マタイ 2:1,5,6。
(3)エルサレムの城壁の再建(西暦前455年)から数えて69「週年」(483年)の終わりに現われる。
「汝暁り知るべしエルサレムを建なほせといふ命令の出づるよりメシヤたる君の起るまでに七週と六十二週あり…その六十二週の後にメシヤ絶れん但是は自己のために非ざるなり」― ダニエル 9:25,26。
イエスは時をたがえず,西暦29年(西暦前455年から483年後)に自分の身を差し出され,ヨハネによりバプテスマを受けました。その時,イエスは神により油そそがれてメシヤ(油そそがれた者の意)になりました。(ルカ 3:21-23)そして,イエスの先駆者であるヨハネが宣べ伝えはじめたとき,彼らは「望みゐた」のです。―ルカ 3:15。
イエスはまた,バプテスマを受けてから3年半の後,人類のためにあがないの犠牲の死を遂げて「絶れ」,預言的な約束を成就しました。イザヤも同様に,メシヤの犠牲的な死を予告しました。―イザヤ 53:10-12。
一般の歴史も,イエスが地上に実在した人物で,すぐれた教師であったことを認めています。第1世紀のユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセハスはクリスチャンではありませんでしたが,イエスがポンテオ・ピラトの治世中に生存したこと,大きな影響力を持つ教師であり,キリストであったこと,ピラトによって死刑に処されたこと,三日目によみがえって弟子たちに現われたことを書きしるしました。―「ユダヤ古誌」第18巻,3章3節。ヨハネ 19:15,16; 20:1,19。マタイ 27:63,64。使行 10:40。
イエスの復活に関して,イエス自身の弟子の証言を疑う人がいるかもしれません。しかし,次の事実を考慮してください。500人以上の証人がいました。弟子たちは,イエスの墓につけられた番兵を追い払ったり買収したりできるような権力者とか有力者ではありませんでした。とりわけ,自分にとって何の得にもならない事柄に関して,そして,それほど多くの人々のあいだで共謀があったとはとても考えられないことです。彼らが利己的な動機から復活の証言をしたはずはありません。それは自分たちを苦しみと死にさらすことだったからです。彼らはほかでもない,メシヤに最も激しく敵対する人たちのいる場所,欺瞞などの必ずあばかれてしまう場所で証言しました。しかも,ユダヤ人の指導者の怒りが最高潮の時に彼らはちゅうちょすることなく,その場で直ちに証言をしたのです。―コリント前 15:3-8。使行 2:32; 3:15; 4:10,18-20; 7:55-58; 8:1。
それらの証人が,イエスの復活を証言するに際して,話を「でっちあげ」たのでないことは,失意に沈んだ状態にあった彼らにとって,復活は驚くべきでき事であったという事実からも理解できます。証人たちはイエスに人間の王となることを期待していましたから,イエスが死んだときには,大きな打撃を受けました。(ルカ 24:13-43。ヨハネ 20:24-29)確かに,イエスの復活こそが,証言をする勇気,非常に厳しい迫害下にあってもくじけることのない勇気を彼らに与えたのです。
神はメシヤに関する約束を,前述の預言をはじめ他の多くの預言についても詳細にわたって驚くべき仕方で成就されました。したがって,証拠を考慮する思慮深い人ならだれでも,『神はなるほどご自分の約束を果たすかただ』と言うに違いありません。
他の著名な人物に関する証拠
神が,メシヤをつかわすという約束を成就されたことは,神の信頼性を示すすぐれた例です。しかし,他にも数多くの例があります。昔神に仕えた人の多くは,一度ならず,生涯を通じて,神が約束を守るかたであり,信頼できるかたであることを見たり経験したりしました。ヨシュアやダビデやソロモンはそのような人たちです。
ヨシュアはイスラエルに対する告別のことばの中で次のように言いました。
「見よ今日われは世人の皆ゆく途を行んとす汝らは一心一念に善く知るならん汝らの神エホバの汝らにつきて宣まひし諸の善事は一も欠る所なかりき皆なんぢらに臨みてその中一も欠たる者なきなり」― ヨシュア 23:14。
ダビデ王は証言しました。「エホバの言はきよきことばなり」― 詩 12:6。
そのむす子,ソロモン王は,イスラエル人すべてを前にしてこう祈りました。
「エホバは誉べきかなエホバは凡てその言たまひし如くその民イスラエルに太平を与へたまへりその僕モーセによりて言たまひしその善言は皆一も違はざりき」。「イスラエルの神エホバよ天にも地にも汝のごとき神なし汝は契約を保ち…恩恵を施こしたまふ汝は汝の僕わが父ダビデにのたまひし所を保ちたまへり汝は口をもて言ひ手をもて成就たまへること今日のことし」― 列王下 8:56。歴代下 6:14,15。
この人たちは愚かな人ではありませんでした。賢人であり,大国の指導者でした。しかも,神がご自分の約束に注意を払い,忠節であったからこそ,それらが成就したことを認めました。彼らは人を欺こうとしていたのではありません。聖書の記述者たちが,自分自身のあやまちばかりか,自分たちの支配者や国家のあやまちを卒直に述べていることは,彼らが信頼に足りることを証明しています。
この神についてさらに学ぶ
現在の事物の体制からの救出を真剣に考える人は,神の約束を徹底的に考慮します。楽園の地,復活による愛する者のよみがえり,永遠の命を約束しているのは神だけです。より良い世界についての人間の約束は,それに比べると貧弱なものです。しかも,人間はそれさえ実現することができません。
さらに,神は,ご自分の手になる創造物,人間を愛しておられます。神は,そうする義務があるからではなく,愛の気持ちから救出を約束しておられます。み子を地上につかわされたのは,神ご自身の自発的な行為であり,それは人類の救出の基礎を据えました。使徒パウロはこう書きしるしました。「我等がなほ罪人たりし時,キリスト我等のために死に給ひしに由りて,神は我らに対する愛をあらはし給へり」― ロマ 5:8。
ではなぜ,そうした愛のある備えを疑ったり認めなかったりすべきでしょうか。それよりも,神と神の約束に関する知識をもっと得てください。エホバの証人は,あなたが,「凡てのこと試みて善きものを守(れ)」という,霊感を受けた助言に従うのを喜んでご援助いたします。―テサロニケ前 5:21。
-
-
神は何を約束されましたかものみの塔 1972 | 10月15日
-
-
神は何を約束されましたか
新秩序 ― そこでの生活はどのようなものでしょうか。地上に住む人々はすべて,りっぱな,豪華ともいえる家を持つでしょうか。交通および通信にどんな手段が使われるでしょうか。
聖書はそれについて何も述べていません。なぜですか。そうした事柄は,特に今の時に,知らなければならない最重要の事ではないからです。それらの事柄そのものは真の幸福をもたらしません。では,真の幸福をもたらすのは何ですか。
今の事物の体制で,りっぱな家を持っている人は少なくありません。食物,衣服,自動車,娯楽の面でぜいたくをしている人もいます。しかし,貧しい人々のあいだにおけると同様,良い暮らしをしている人々のあいだにも家庭の分裂,子どもの非行,病気などの問題があります。
したがって,真の幸福には明らかに,霊的な意味での繁栄が物質的な繁栄に先行しなければなりません。人を幸福にするのは,その人の霊的かつ精神的な状態ではないでしょうか。神に対して正しい良心を持ち,聖書を導きとして神の王国の関心事に奉仕するときにのみ,真の,そして永続する幸福を得ることができます。
別の角度から問題を見ると,現在この世で不幸の原因となっているのは何でしょうか。それは主として物の不足ですか。それとも,人そして人の態度ですか。他の人や他の人の所有権に思いやりまた敬意を示さないことが原因となっているのではありませんか。物質面でどんな境遇にいようと,隣人に対して貪欲で無礼で冷淡であれば人は幸福にはなれません。
ですから,聖書は主として人々について述べており,人格を変えることを強調しています。(エペソ 4:22-24。コロサイ 3:9,10)金持ちの人もいれば貧しい人もいるでしょう。しかし,いずれにしろ,聖書の忠告に従い,同じ真の信仰を持つ人々と交わるなら,その人は幸福になれます。
それで,聖書は神がこの地球という惑星を滅ばされないことを保証する一方,人間を保護することについてさらに多くの事を述べています。聖書には,人が生き残るために必要な要求が書かれているのです。
そうであれば,神の秩序が物質面ではどんな状態かについて悩んだり,ことさら心配したりする必要があるでしょうか。確かに,いろいろな事情や自分の置かれた環境のために良くなる見込みもなく,みじめな貧しい生活を余儀なくされている人は,地上に幾百万人もいます。そうした人々が物質的により良い状態を望むのは自然で正しいことです。そして,神の約束に望みを置く人々が,神が約束する事柄をいろいろと考えるのも当然です。しかし,推測に時間を費やしても真の益にはなりません。しかし,聖書が実際に述べている事柄を調べようとするのは少しも悪いことではありません。
聖書は何を示しているか
神が新秩序で人々に何を備えられるかを知るうえで,聖書はどのように助けとなりますか。おもに,神の人格 ― 神とはどんなかたか ― を示すことによってです。
まず,聖書は,神は「己を求むる者に報い給ふ」と述べています。(ヘブル 11:6)ですから,神への忠実に対する報いを求めるのは正しいことです。また,神の恵みを得ると,わたしたちの必要物はすべて備えられますが,その恵みをもたらすのは神への信仰と忠誠であることも知ります。ソロモン王は,神の民イスラエルを導くために,富ではなく,従順な心と理解を求めました。神はそれを喜ばれ,次のように言われました。「汝此事を求めて己の為に長寿を求めず又己のために富有をも求めず又己の敵の生命をも求めずしてただ訟を聴き別る才智を求めたるに因て 見よ我汝の言に循ひて為り我汝に賢明く聡慧き心を与ふ」。しかしそのあと神は続けてこう言われたのです。「我また汝の求めざる者即ち富と貴とをも汝に与ふ…又汝もし…わが法憲と命令を守らば我汝の日を長うせん」― 列王上 3:9-14。
したがって,神の新秩序では幸福を満喫するために必要な物はことごとく備えられることが確信できます。エホバ神について,ダビデ王は経験に基づきこう言いました。「なんぢ手をひらきてもろもろの生るものの願望をあかしめたまふ」。(詩 145:16)神は,人の造り,人を幸福にするのに必要な物,人の心の願いをご存じです。(詩 139:1-4)神はわたしたちが必要とする物を,わたしたち自身よりもよく,わたしたちがそれに気づいてそれを求める以前から知っておられます。―マタイ 6:8。ヨハネ 2:25と比べてください。
使徒パウロは,マケドニアのピリピにあった,物質的には貧しくても寛大なクリスチャン会衆にあてて,次のように書き送りました。「わが神は己の富に随ひ,キリスト・イエスによりて,汝らの凡ての窮乏を栄光のうちに補ひ給はん」。(ピリピ 4:19。コリント後 8:1,2)今の事物の体制の滅びを生き残って,神の新秩序にはいる人々,それに,キリストの一千年の統治のあいだに復活を受ける人々は何を必要とするでしょうか。
人間に必要な物は保証されている
アダムとエバに対する神の目的を考えると,新秩序における神の目的について多少の理解が得られます。最初の人間夫婦は精神的にも肉体的にも完全でした。(創世 1:31)命を維持し,楽しむのに必要な食物がすべて備わった,美しい園の家にふたりは置かれました。(創世 2:9)ふたりには動物を治める権が与えられていましたので,動物との関係は平和なものでした。(創世 1:28)アダムとエバが罪を犯した時にはじめて,ふたりは楽園から追い出されたのですから,楽園は,完全な人間の住みかとして神が備えられたものということがわかります。
今の世の滅亡をもたらす「大なる患難」を通過させて新秩序に入れ,完全に荒廃した状態を受け継がせるというだけでは,神がご自分の忠実な民を扱う愛ある仕方と調和しないでしょう。神は人間がある種の住居を必要としていることを知っています。しかし,今の事物の体制が崩壊したあと,新秩序の設計図を知っておられるエホバ神によって与えられる『建築』計画にそって,地球が大いに建て直され美化されるにはかなりの時間がかかるかもしれません。それは人間自身の創意や才能がおさえられるというのではなく,神がだいたいの,もしくは総合的な型を決めるという意味です。同時に,すべての人の必要物が顧みられるでしょう。
神の民イスラエル人が約束の地にはいったとき,神が彼らのために行なわれたことは,生き残って新秩序にはいった人々のために神が必要物を確かに備えることを示しています。モーセはイスラエルにあらかじめ次のように語りました。「汝の神エホバその汝の先祖アブラハム,イサク,ヤコブにむかひて汝に与んと誓ひたりし地に汝を入しめん時は汝をして汝が建たる者にあらざる大なる美しき邑々を得させ汝が満せるに非る諸の佳物を満せる家を得させ汝が堀たる者にあらざる堀井を得させ汝が植えしにあらざる葡萄園と橄欖の樹とを得させたまふべし…汝謹め…エホバを忘るる勿れ」。その後,霊感を受けて書かれた箴言は,「罪人の資財は義者のために蓄らる」と,原則ともいえることばを述べました。―申命 6:10-12。箴言 13:22。
聖書は,「大なる患難」の後に都市とかその他のものが残るとは述べていません。しかし,約束の地にはいったイスラエルに対する神の備えについて聖書が述べている事柄は,新秩序にはいる人々が,この快適な地球上の命という貴重な賜物を受け継ぐだけでなく,物質的な必要物をも十分に備えられることを示しています。
神が約束する物,神がもたらす物は,まちがいなく,関係者すべてにとって最善のものです。わたしたちは,手にはいるとつまらなくなってしまう物をほしがることが少なくありません。ですから,神の新秩序で自分たちにとって最善の物が何かを決めることはできません。しかし,わたしたちは,神が現在わたしたちに霊的な形で与えてくださるもの,人生において真に価値のあるものを捕えることができます。
神は,ご自分が定めた時に,わたしたちのために貯えてあるもの,現在わたしたちの頭では想像できないはるかに喜ばしいもののすべてをわたしたちに示してくださるでしょう。今わたしたちがおもに関心を持たなければならないのは,義の新秩序にはいる用意をするため,「知識および十分な識別力」を得,「より重要な事がらを確かめ(る)」ことです。―ピリピ 1:9,10,新。
その重要な事柄とは何か,また,神に対して確かに正しい良心を持ち,神の目に正しい事柄を実践するために何が行なえるかについては,「神の新秩序に備える」と題する,本誌ののちの記事の中で取り上げます。
-
-
神はおそいと言えますかものみの塔 1972 | 10月15日
-
-
神はおそいと言えますか
ときどき人々は,世の中の状態はとことんまで悪くなっている,と感じます。どこを見ても,生活から喜びを奪うような危険がいっぱいです。そこでわたしたちは,『なぜ神はなにもしないのか』,『もし神がなにかするというのならなぜ今それをしないのか』といったことばをしばしば耳にします。
エホバの証人たちは,神がまもなく,そうです,現在生きている世代の生涯のうちに行動を起こされるという,自分たちが聖書の中で見いだした良いたよりを,すべての人に伝えるべく努力してきました。(マタイ 24:34)多くの人は非常に深い関心をもってそれに耳を傾けます。過去わずか3年のうちに,50万に近い人々が彼らに加わって,キリスト教国と呼ばれる国々に住む,全部に近い人々にその良いたよりを伝える仕事を行なうようになりました。また世界中の他の国々でも,大々的な宜明のわざが行なわれてきました。
しかし,神が早く行動を起こされないことに疑問をもつ人も,少なくありません。そういう人たちは,聖書に再三述べられている神の王国の約束を信頼しません。神のことをじれったく思い,神がご自分の時間表に従ってわざを遂行されるということを,認めようとせず,神はおそい,と考えます。
にもかかわらずある人々は,そう言うと同時に,政府の要職にある特定の人を支持しつづけ,その人に票を投じます。彼らは政治家の公約に信仰をいだきつづけます。この事物の体制に対してはきわめて忍耐強く,何年であろうが自分から進んで待ちます。政治,教育,生態学上の発達その他において,人間がすべての問題を解決するには何世代もかかるのだ,とさえ言います。その地位にある人々が,新しいより良い秩序建設に失敗したら,次には新しい人たちを選出して,その人たちがなんとか事をその方向にもって行くよう希望します。
そのような人々は神が最高主権者であること,そしてメシヤの王国を通してその主権が直接行使されるときにはじめて正しい政治が行なわれるということを聞くと,『神は人間をとおして働く。よりよい世界をつくることは,人間自身の工夫にまかせている』と言うかもしれません。しかしそれは聖書が言っていることではありません。聖書は,神が,天に源を発する永続する政府を確立するために,人間の事柄に干渉することを述べています。―ダニエル 2:44。
神の言われることを退ける人々が,どうして神の援助を期待しうるでしょうか。神は彼らが政府をつくることに対しても,彼らが公職につける者たちの行動に対しても,何の責任もありません。彼らは,神の王国をとおして人類を救済するという神の約束を聞きましたが,人間の支配を好んで,それを無視しているのです。神の約束の宣明に反対することまでする人々もいます。聖書はそうした人々の思いを次のように述べています。「悪しきことの報速かにきたらざるが故に世人心を専にして悪をおこなふ」― 伝道 8:11。
おそいのではなく,忍耐強いことを表わす
しかしながら,神は遅いのではありません。使徒パウロは次のように書いています。「〔エホバ〕その約束を果すに遅きは,ある人の遅しと思うがごときにあらず,ただ一人の亡ぶるをも望み給はず,すべての人の悔改めに至らんことを望みて汝らを永く忍び給ふなり」。(ペテロ後 3:9,〔新〕)神は人類の救済をこの世代に行なうことを定めておられます。(ルカ 21:32)天と地においていっさいの権を持たれる神は,果たしえない約束をする必要はありません。イエス・キリストの使徒のひとりは,『神は偽ることができない』と言いました。また預言者イザヤは,「なんぢら常磐にエホバによりたのめ,主エホバはとこしえの巌なり」,と書いています。―テトス 1:2。イザヤ 26:4。
人類の諸問題が人間の支配によっては解決されないことに気づいて,その解決を神に求めるならばわたしたちは,神の真理のことばを調べることにより,神が一見『手間取っている』ように見えるのは,おそいからではないことを理解するに至るでしょう。使徒パウロはことばをつづけて,「かつわれらの主の寛容を救なりと思へ」と述べています。(ペテロ後 3:15)今日,多くの人は救いの道を歩んでいます。彼らは今の時を利用して,神が人類のために何を準備してくださったかを学び,無力なこの事物の体制に信頼を置くことをやめています。また,聖書がいたずらに,『自分のために時間を買い取りなさい。時代が邪悪だからである』と言っているのではないことに気づいています。(エペソ 5:16)神の忍耐がつきると,この事物の体制の破滅はゆっくりとは進行しないことを彼らは知っています。その始まりは,鋼鉄のわながぱちんと閉まるときのようでしょう。
ですから,おそいなどと言って神をとがめるよりも,むしろ自分自身をよく調べて,新秩序にふさわしい生き方をしているかどうかを考えてみるほうがずっと良く,またイエス・キリストの助言に従うほうがよいのではないでしょうか。イエスは,話を聞いていた人々に対して,不忠実なエルサレムの滅びを,そして後には現在の体制に臨む滅びを予告したのち,こう言われました。「汝らみづから心せよ,恐らくは飲食にふけり,世の煩労にまとはれて心鈍り思いがけぬ時,かの日わなのごとく来らん。これは遍く地の面に住めるすべての人に臨むべきなり。この起るべきすべての事をのがれ,人の子の前に立ち得るやう,常に祈りつつ目を覚しをれ」― ルカ 21:34-36。
-
-
神の新秩序に備えるものみの塔 1972 | 10月15日
-
-
神の新秩序に備える
永住するつもりで外国に移住すると,ふつうの場合多くの変化が要求されます。ほんとうにうまくやっていくためには,ことばを習う必要があります。法律,人々の習慣,慣例などについてもある程度知らねばなりません。母国では十分通用しても,新しい国では人々の感情を害するので捨てなければならない表現とかくせなどもあります。考え方や生活用式を変えてその国に十分とけ込み,きまり悪い思いや困った思いをすることなくやってゆけるようになるまでには時間がかかります。
ではもしあなたが,完全な義の満ち渡る社会,隣との交渉が正しく行なわれ,人種や国籍のいかんを問わず人々が心からもてなされ,愛される異なる社会である新しい秩序 ― あなたが仲間の人間を信頼することができる場所に移されるとしたらどうですか。それは今あなたを取り巻いている社会とはちがう社会,別の国に移転するよりも大きな変化と言えないでしょうか。
標準の高い考え方が必要
この移転こそ神が約束しているものです。そしてそれは確かに,現在の社会の標準や慣習からの大きな,そして多くの変化を意味します。「キリスト教」国に住んでいる人々でもそのような変化をしなければならないのでしょうか。イスラエル国民は,神に仕えていると口では言っていましたが,今日のいわゆる「キリスト教」国の人々と同じような生き方をしていました。つまり彼らは,『敬虔な様子をしながら』,神の律法の高い標準に従って生活することをせず,『その実を捨てて』いました。(テモテ後 3:5)神の戒めを無視し,自分自身の道に従って生活していたために腐敗した習慣に陥りました。それでエホバは彼らにこう言われました。「わが思はなんぢらの思とことなり,わが道はなんぢらのみちと異なれり天の地よりたかきがごとく,わが道はなんぢらの道よりも高く,わが思はなんぢらの思よりもたかし」― イザヤ 55:8,9。
新秩序への変化は,あなたの考え,あなたの表現および行動の変化を要求するでしょうか。それは疑いありません。取り引きするにも信頼が置け,あなたに対する態度には善意がこもっており,また徳を高めるきれいなことばを使う人々との交わりはどんなにちがうでしょう。そのような高い標準をもつ社会の一員となることを望む人は,たしかに変化することが必要です。
しかし次のような疑問が生じます。もし新秩序での生活に今備えるとすれば,悪い習慣の行なわれているただ中で,どうすればそれができますか。まっ正直な清い生活をしても,現在の体制の中でやってゆけるでしょうか。家族を養ってゆけますか。この世が行なう悪行に同調しなくても生きのびることができますか。
答えは,はい,です。なぜですか。わたしたちは創造者のことばをそのまま信じなければなりません。わたしたちは創造者のことばである聖書から,創造者ご自身がお定めになった,しかもそれを守る者に真の益となる,正しい原則を学ぶことができます。そのあとそれらの原則を実生活に適用し,神が約束によって誓っておられるとおり,神がわたしたちを最後まで助けてくださることを信ずるかどうかは,わたしたち次第です。しかし,神が何を要求され,どんな約束をしておられるか考えてみましょう。
「ことば」の変化
聖書によると,その必要な変化を行なうには,新しい「ことば」を学ばねばなりません。バビロンの捕囚からイスラエルを復帰させることについて語られたとき,神は次のように言われました。「その時われ国々の民に清き〔ことば〕をあたへ彼らをしてすべてエホバの名を呼ばしめ心をあわせてこれにつかへしめん」。(ゼパニヤ 3:9,〔新〕)それはイスラエルの文字通りのことばの変化ではなく,彼らが話すこと,彼らの話す方法,清い真理のことば,平和とともに神への賛美と崇拝の一致をもたらすことばの純度における変化でした。
現在神は昔のその当時と同様に,『ご自分の憤りと激しい怒りとをそそぐために,もろもろの民をつどえ,もろもろの国を集めて』おられます。そのために現在もまた神はあらゆる国の心の正しい人々に,彼らの話す言語に関係なく,「清き〔ことば〕」を与えておられます。―ゼパニヤ 3:8〔新〕。
さて,ことばのこの変化は,わたしたちの生活全体の変化を意味します。わたしたちは次のように命令されているのです。
「聖徒たるに適ふごとく,淫行,もろもろの汚れ,またむさぼりを汝らの間にて称ふることだにすな。また恥づべき言・愚なる話・戯言を言ふな,これよろしからぬことなり,むしろ感謝せよ」― エペソ 5:3,4。
使徒パウロは,わたしたちが行なう変化をよく説明しています。
「されば地にある肢体,すなわち淫行・汚れ・情慾・悪慾・またむさぼりを殺せ,むさぼりは偶像崇拝なり。神の怒りは,これらの事によりて不従順の子らに来るなり。汝らもかかる人の中に日を送りし時は,これらの悪しき事に歩めり。されど今はすべてこれらのことおよび怒・いきどほり・悪意を棄て,そしりと恥ずべき言とを汝らの口より棄てよ。互に虚言をいふな,汝らはすでに旧き人とその行為とを脱ぎて,新しき人を着たればなり。この新しき人は,これを造り給ひしものの像に循ひ,いよいよ新になりて知識に至るなり」― コロサイ 3:5-10。
それでこの新しいことばを話すには,以前用いていた表現,悪い習慣や生活様式を捨てて,それらを「御霊の果」に置き替えることが要求されます。それはわたしたちが神の新秩序へ救い出されるにふさわしい者となるためです。(ガラテヤ 5:22,23)こうしたことは使徒が語っている,正確な知識と十分の認識とを要する「重要な事柄」です。(ピリピ 1:9,10,新)すべての人が次のことばに従わねばなりません。「この事物の体制に合わせて形づくられるのをやめなさい。むしろあなたがたの思いを作り変えて,みずからを一変させなさい。あなたがたが神の善良で,好ましく,かつ完全な意志を自分自身に実証するためである」― ロマ 12:2,新。
変化することを恐れてはならない
生活をこのように変化させることは,腐敗した世界のただ中にあっても可能です。神は,義と正直に関する神の原則を守る者とともにいると言っておられます。生活を変えれば経済状態が苦しくなって,家族が食べてゆけなくなるかもしれない,と恐れる必要はありません。「主みずから『われ更に汝を去らず,汝を捨てじ』と言ひ給ひたればなり」― ヘブル 13:5,6。
わたしたちは世界を悩ましている恐れから自由になれます。「神もし我らの味方ならば,誰か我らに敵せんや」ということを知っているからです。多くの困難を通して神の保護を経験したモーセは,「なんぢさきにいへりエホバはわが避所なりと,なんぢ至高者をその住居となしたれば災害なんぢにいたらず」と正直に言うことができました。―ロマ 8:31。詩 91:9,10。
もう一つ,現在でも,全く正しい新しい事物の体制のもとで生きる希望をいだいて,神の標準に従って生活できる理由があります。それは,現在神に奉仕することを望む人々を助けるための組織を神が地上にもっておられるということです。エホバの証人は,神のことばの示す標準と原則を受け入れました。彼らはそれを生活に適用しています。彼らは自分たちが,一般の人々と同様に生れながらの罪人であることを知っていますが,しかし「清いことば」を語ることによって自分の性格を作りかえており,また一人の人間のように「心を一つにして」奉仕しています。―エペソ 4:20-24。ピリピ 1:27,28。
神はその約束どおり,あらゆる階層,あらゆる国民,あらゆる民族から来たこの人々のグループを援助してこられました。全員が一致協力する150万人の団体として,彼らはダビデ王の次のことばの真実さをあかしすることができます。「我むかし年わかくして今おいたれど義者のすてられ或はその裔の糧こひありくを見しことなし」。(詩 37:25)また,エホバの証人は幸福です。彼らの幸福な様子は,彼らの隊伍に加わった他の人々の注意を引きました。キリスト教世界の諸教派が衰微してゆく一方,真のキリスト教を誠実に実践するエホバの証人たちの数は増加し,その一致と平和はいよいよ増し加わっています。そして,神の新秩序における生活の備えをしている人々であることを証明しています。
-
-
教会員であれば,それで十分ですかものみの塔 1972 | 10月15日
-
-
教会員であれば,それで十分ですか
『私は神の新秩序に救い出される人たちの中にはいっているだろうか』。神の約束を信じている人はみな,必ずこの質問をします。また,『私は教会員だけれども,これは神の恵みが必ずあるということだろうか』と考える人も少なくありません。
これらの質問は真剣に考慮するだけの価値があります。とりわけ,相容れない教理や儀式を有する教会が多数存在することを考えればなおのことです。
では,バプテスマを受けたエホバの証人のメンバーはどうですか。その人たちも,『エホバの証人の研究集会や戸別伝道への私の参加を含め私の交わりは,この事物の体制が滅ぼされるときに私の救いを保証するものだろうか』と自問してみるべきでしょう。
このどちらの質問に答えるにしても,あなたは,神は何を要求しておられるか,ということを考慮しなければなりません。「われなんぢの主たる神,ねたむ神なれば[すなわち専心の献身を求める神]」と神は言われています。(申命 5:9,ドウエー訳。新世界訳と比較してください。)ですから,神は個人としてのあなたに専心の献身を求めておられるのです。あなたは個人的に,心から,そして何が神を喜ばすかについての正確な知識をもって,神に奉仕しなければならないのです。―歴代上 28:9。マタイ 22:37。
神のことばに関する知識は重要
この知識は神の真理のことばである聖書からしか得られません。神に奉仕すると公言するある人は熱心で誠実かもしれません。その人は自分の教会の指導者たちも誠実だと考えているかもしれません。しかしそうした事柄自体は,神の恵みを保証するものではないのです。
聖書はそのことを示す顕著な例をわたしたちに提供しています。その例は,たとえ誠実でも,一個人または一組織全体でさえ,神への専心の献身にほど遠い場合がありうる,という点を強調しています。使徒パウロは,彼が愛した同胞のユダヤ人に向かって次のように述べました。「兄弟よ,わが心のねがひ,神に対する祈は,彼ら[ユダヤ人]の救はれんことなり。われ彼らが神のために熱心なることを証す,されどその熱心は知識によらざるなり。それは神の義を知らず,己の義を立てんとして,神の義に服はざるなり」― ロマ 10:1-3。
もし以前の信仰や教理にこだわって偏見をもつようなことをせずに,広い心をもって聖書の述べることを読みまた受け入れるなら,神が要求しておられることを知るのはむずかしいことではありません。一つの例をあげてみましょう。専心の献身を求めることについて述べる前に神は次のように言われています。
「各種の刻んだ形をつくるな,高く天にあるもの,低く地にあるもの地の下,水のなかにあるものの形を。それらの前に,あなたはひれふしも拝みもしてはいけない」。(申命 5:8,9,ドウエー訳)そうしたものを「つくるな」,またそれらのまえに「ひれふし」てもいけないと神が言われていることに注目してください。のちほど神は宣言されました。「私は主である,それが,私の名である。私は,私の光栄を,ほかのものにゆずらず,私の名誉を,偶像にあたえない」― イザヤ 42:8,ドウエー訳。
それでもしあなたが崇拝に像を使っているならそれがたとえキリストの像であろうと,天使や聖人たちの像であろうと,まただれがどんなことを言おうと,あなたは神に専心の献身をしていなかったことになります。
そうなれば,崇拝に像を使うことを教える教会は,たとえそれが相対的崇拝にすぎないと考えられていても,会員のあなたを保護するものではない,ということが確かに理解できます。何にせよ神に栄光を帰さないものは,神に専心の献身をしているとは言えません。またどんな組織にせよ,神の栄光とならないあるいは神の教えに矛盾する教理を教える組織はその会員に神の祝福をもたらすことはありません。むしろ,その組織の会員であるがために,あるいはそれを支持するがために,神がご自分の栄光とならないものを地から一掃されるときに,滅びなければなりません。―テサロニケ後 1:7-9。
個人的な行ないも重要
またあなたは,聖書の熱心な研究生かもしれません。聖書の教える原則,とくに道徳にかんする原則を知っているかもしれません。他のクリスチャンと称する人たちと交わっていようといまいと ― 実際のところ,たとえ神に専心の献身をしていることがあなたにわかっている人々と交っていたところで ― 重要な問題は,あなたはそれらの正しい原則に従って生活しているか,ということです。
使徒ペテロは,クリスチャンと称する人ひとりびとりの上にある責任を指摘して次のように述べています。「偏ることなく各人の業に随ひて審きたまふ者を父と呼ばば畏をもて世に寓る時を[世に住んでいても世の一部ではない者として]過せ」。そしてのちほどこう警告しました。「すでに時いたれり,審判は神の家より始まるべし。まづ我らより始まるとせば,神の福音に従はざる者のその結局はいかにぞや。義人もし辛うじて救はるるならば,不敬虔なるもの,罪ある者はいづこにか立たん」― ペテロ前 1:17; 4:17,18。
したがって人は,教会員という立場に依存することはできません。また,まちがった教理を唱えたり,聖書に反する行ないを黙許したりする教会を離れただけでも安全とは言えません。それに加えて自分から神の意志について学び,それを行なうという,積極的な行動を取らねばなりません。
しかしそのようになってもなお自分に注意しなければなりません。使徒パウロは,かつては神に愛された人々と交わっていたにもかかわらず私生活において悪を行なって落伍したいく人かの例をあげてのち,「然らば自ら立てりと思ふ者は倒れぬように心せよ」とコリントのクリスチャンたちに書き送っています。(コリント前 10:6-12)神に奉仕しつづけるには,絶えず目をさましていて,自からをよく吟味することが必要です。だれも,まだどんな組織も人を救うことはできません。「我らおのおの神のまえに己の事を陳ぶべし」とあるからです。―ロマ 14:12。ヘブル 4:12,13と比較してください。
豊かな恵みを受けていた使徒パウロのような人でさえ,自分のことをこう言いました。「かく我が走るは目標なきが如きにあらず,我が拳闘するは空を撃つが如きにあらず。わがからだを打たたきてこれを服従せしむ。恐らくは他人に宣伝へて自ら棄てらるる事あらん」― コリント前 9:26,27。
教会員であればそれで十分ですか,という質問に対する答えをまとめると,それは絶対に,いいえ,です。神に奉仕することを願っている人は,自分の属する宗教組織が神のことばに従っていないなら,それを捨てなければなりません。そして次の段階は,清い崇拝を行なって神に奉仕する人々と交わることです。次いでエホバ神に専心の献身をし,自分の生活が,『すべてのことにおいて,わたしたちの救い主なる神の教えを飾るように』生きなければなりません。(テトス後 2:10)これを行なう人は,次の神の約束に確信をもつことができます。
「すべてエホバをよぶもの誠をもてこれをよぶものにエホバは近くましますなり エホバは己をおそるるものの願望をみちたらしめ,そのさけびをききてこれをすくひたまふ」― 詩 145:18,19。
-