ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 人間の信頼に値する神
    ものみの塔 1976 | 2月15日
    • 人間の信頼に値する神

      人間の約束は,多くの場合当てになりません。それでも,わたしたちはある人々を信頼します。なぜですか。人を信頼するかどうかは,その人が過去において頼りになる,もしくは信用の置ける人であったかどうかの記録に大きく依存しているからです。わたしたちは,何らかの理由で,人が約束した事柄を果たせなくなる場合のあることを知っています。しかし,そうだからといって,人を信用しないわけではありません。

      それでは,創造者については何と言えますか。創造者は,はるかに大きな信頼を寄せるに値する方ではありませんか。確かにそのとおりです。神の約束の成就が何ものかによって妨げられることは決してありません。わたしたちがそうした確信を持てるよう創造者は証拠を与えてくださいました。約束を果たすという面で,エホバ神に関する過去の記録は,全く非の打ちどころがありません。一例として,ヨシュアの時代のイスラエルを挙げることができます。彼らは,カナンの地が与えられるという,400年以上も昔に先祖アブラハムに与えられた神の約束が成就するのを目撃しました。(創世 15:13-21)その上,神の助けと保護を得ることによって,また,モーセを通して与えられた神の約束の成就として,強力な諸国家の激しい抵抗に遭いながらも,カナンの地を平定することに成功しました。(申命 7:17-21; 11:23)エホバ神の行なわれた事柄を思い起こしたヨシュアは,イスラエルの民に向かって,こう言うことができました。『エホバがイスラエルの家に語りたまいし良き事は一つだに欠けずしてことごとく来たりぬ』― ヨシュア 21:45。

      いかなる障害もその成就を妨げえない

      人間とは何と異なっているのでしょう! 人間の場合,比較的短い期間にその約束を果たせないなら,不測の事態に妨げられて,約束をいつまでも履行できなくなることがあります。その約束はほご同然になります。しかし,とこしえに存在される神の場合,約束のことばは,常に『生きていて,力がある』のです。(ヘブライ 4:12)その成就を妨げ得るものはありません。

      預言者イザヤを通して(イザヤ 55:10,11),エホバはこう宣言されました。「天から雨が降り,雪が落ちてまた帰らず,地を潤して物を生えさせ,芽を出させて,種まく者に種を与え,食べる者にかてを与える。このように,わが口から出る言葉も,むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし,わたしが命じ送った事を果す」,口。

      ひとたび雨や雪が降り始めたならそれが地中に染み込むのを,だれが阻止できますか。雨や雪となって降る水分は,必ずその目的を果たします。まず,土中の栄養素と結びついて,植物が成長し実を結ぶのに必要なものを供給します。穀物の場合は,収穫した種子の一部を,次の種まきの季節のために取っておき,残りの大部分を,粉にひいてパンを作るのに用います。こうして,水が地に降りそそぐ最終的な目的が成し遂げられるのです。

      同様に,神の約束も,行く手にどんな障害が立ちはだかっていようとも,詳細な点に至るまで,ことごとく成就します。イザヤ書 55章に記されている,今考慮中の明確な約束の言葉は,この点を見事に例証しています。12節と13節にはこう書かれています。「あなたがたは喜びをもって出てきて,安らかに導かれて行く。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い,野にある木はみな手を打つ。いとすぎは,いばらに代って生え,ミルトスの木はおどろに代って生える」,口。

      この約束は,いばらやおどろの生い茂る荒廃したユダの地が,再び耕され,人が住むようになる時が訪れることを示唆していました。しかし,バビロンで捕囚の身にあったイスラエル人にとって,この約束の成就はほとんど不可能と思えました。カルデア帝国の首都バビロンは,どう見ても難攻不落の町だったからです。バビロニア王朝が支配するかぎり,イスラエル人が解放される望みは全くありませんでした。聖書の述べるところによれば,当時のバビロニア王朝には,「世界を荒野のようにし,その都市をこわし,捕えた者[つまり,捕囚の民]をその家に解き帰さない」という評判がありました。―イザヤ 14:17。

      しかし,こうした大きな障害でさえ,約束の成就を阻むものとはなりませんでした。突然,それも一夜にして,大バビロンは,クロス指揮下のメディアとペルシャの軍の前に屈したのです。程なくして,クロスは,勅令を発し,捕囚の身にあったユダヤ人が,荒れ果てたユダの地に戻り,エルサレムにエホバの神殿を再建することを可能にしました。―歴代下 36:22,23。

      いっそうの保証が与えられる

      神の約束に全幅の信頼を寄せることのできるもう一つの理由は,神がご自身の語る事柄に自らの名前と名声をかけておられるという点です。例えば,アブラハムと約束をした際,神は誓いを加えることをもされました。ヘブライ 6章13節にはこう記されています。『神は,アブラハムに約束をされたさい,ご自分より偉大な者にかけて誓うことができなかったので,ご自身にかけて誓われました』。

      誓いによって不変のものとされたこの約束に関して驚くべきことは,その成就が,単にエホバ神だけにかかっていたのではないという点です。それはなぜですか。『地のすべての諸国民が自らを祝福する』かどうかは,アブラハムの「胤」にかかっていたからです。(創世 22:18,新)この「胤」の主要な者は,イエス・キリストであることが明らかになりました。(ガラテア 3:16)アブラハムの「胤」として地上にいる間,イエスは,全き忠誠を保ちますか。神の約束の成就は,まさにその点にかかっていました。

      イエス・キリストは,死の瞬間に至るまで全き立場を保たれました。ですから,アブラハムに対する約束が,神の他のすべての約束と同様,成就を見ることは確実です。アブラハムの胤の主要な者がだれであるかについては疑問の余地はありません。さらに,すべての諸国民はアブラハムの胤を通して自らを祝福しますが,その方がこの胤になるのに不適当な者とはならないだろうかという点に疑いをさしはさむ余地もありません。コリント第二 1章20節には,信仰を強める次の保証のことばが記されています。『神の約束がどんなに多くても,それは彼によって,はい,となりました。それゆえにも,わたしたちを通しての栄光のため,彼を通して,神に「アーメン」が唱えられるのです』。

      当然のことながら,イエス・キリストを,「アーメン」なる者とも呼ぶことができます。その語は,字義的には「確かな」「真実な」「そうあるように」あるいは「真実」を意味します。(啓示 3:14)「アーメン」なる者としてのキリストは,真理の単なる語り手以上の存在です。犠牲の死を含めて全き忠節を保たれた,人間としてのその生涯の歩みは,み父の約束すべての成就を可能にし,かつそれを確実なものにしました。神の約束のすべては,イエス・キリストのうちに成就されます。―ヨハネ 14:6。

      アブラハムの子孫であり,ダビデ王の家系から出た,処女マリアよりみ子を奇跡的に誕生させ,アブラハムの胤の主要な者とされたのは,ほかならぬエホバ神でした。エホバは,慈愛に満ちた父親として,ご自分のみ子が地上で経験した苦汁を深く思いやられました。それでも神は,世のために,み子を遣わし,進んで大きな犠牲を払われたのです。愛するみ子の命という高価な犠牲を払ってまでも,約束の実現のために確固たる基盤を据えた今,エホバ神が,何らかの点でご自分の約束を果たされないなどとはとても考えられません。使徒パウロは,その事実を指摘しこう語りました。「ご自身のみ子をさえ惜しまず,わたしたちすべてのために彼を渡してくださったそのかたが,どうしてそのご親切によって,彼とともにほかのすべてのものをも与えてくださらないことがあるでしょうか」― ローマ 8:32。

      それでは,神の約束のいずれかがあるいは果たされないかもしれない,などと心配する必要がどこにあるでしょうか。エホバ神は,すでに大きな犠牲を払っておられるのです。アブラハムに対する神の約束と誓いは,偽りではなく,全くの真実であることが証明されてきました。エホバは,人類の歴史を通じて,ご自分が信頼に値する方であることを実証してこられました。神がご自分の約束のことばを守らなかったことは一度もありませんでした。確かにエホバ神は,わたしたちが全幅の信頼を寄せるに値する神です。神は決してわたしたちを失望させません。それではわたしたちも,神のみ前で是認された立場を保つよう努め,神の期待に背かないよう励みたいものです。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1976 | 2月15日
    • 読者からの質問

      ● 新世界訳におけるヨハネ 1章1節の翻訳はギリシャ語文法の規則を破るものですか。さらには唯一の神の崇拝と矛盾しますか。

      新世界訳はヨハネ 1章1節を次のように訳しています。「初めにことばがおり,ことばは神とともにおり,ことばは神[a god]であった」。ある人々はこの聖句の最後の部分にある「神[a god]」という翻訳に異論をとなえ,「神」の前に“a(ひとつの)”をつけるのはまちがいであると論じています。これは実際に誤訳ですか。

      ギリシャ語には英語の“a”に相当する不定冠詞はありません。しかし多くの場合,英語の“the”という語に訳される定冠詞ホがあります。たとえば,ホ・クリストス,ザ・クライスト(キリスト),ホ・キリオス,ザ・ロード(主),ホ・セオス,字義どおりにはザ・ゴッド(神)などです。

      しかしギリシャ語の名詞は冠詞を伴わずに使われることが少なくありません。文法学者はこれらの名詞をアナースラス,つまり無冠詞用法の名詞と呼んでいます。興味深いことにヨハネ 1章1節の最後の部分にある「神」はギリシャ語ではセオスであって,その前に定冠詞ホがありません。翻訳者はこのような無冠詞のギリシャ語名詞を英語に訳す場合どのようにしていますか。

      多くの場合,その句が正しい意味を伝えるようにするため,英語の不定冠詞“a”を加えます。たとえば,ヨハネ 9章17節の最後の部分のギリシャ語本文は牧師であるアルフレッド・マーシャル文学博士の行間逐語訳によると,字義どおりには次のようになります。「そして彼は言った ― ひとりの預言者[a prophet]です 彼は」。ここで「預言者」に相当するギリシャ語の前に定冠詞はありません。そこで翻訳者はこの語を「ひとりの預言者」と訳しました。英語の他の多くの翻訳も同様です。―欽定訳,新アメリカ標準訳。またチャールス・B・ウィリアムズの訳とウィリアム・F・ベックの訳。

      しかしこれはギリシャ語本文中に無冠詞の名詞が現われる場合,すべてこれを英語ではその名詞に不定冠詞をつけるということではありません。翻訳者はこれらの名詞をさまざまに訳しており,たとえ定冠詞を欠いている場合でも,その名詞が定まったものをさすと考えられるならば“the”をつけることさえあります。たとえばマタイ 27章40節において,幾つかの英語訳聖書は,「子」に相当するギリシャ語が定冠詞を欠いているにもかかわらず“the Son of God”(神の子)としています。

      ヨハネ 1章1節についてはどうですか。マーシャルの行間訳によってみると次のようになります。「初めにことばがあり,ことばは神と共にあり,そして神(God)はことばであった」。ごらんのようにこの聖句の最後の部分にある“God”の前に“the”はつけられていません。新世界聖書翻訳委員会は,そこに不定冠詞“a”を挿入する方法をとりました。これは,ひとりの神つまり大きな力を持つ神性者である「ことば」,イエス・キリストを,彼が「ともに」いた神,全能者のエホバから区別するのに役だちます。ギリシャ語に通じている人の中には,このような方法をとった翻訳者がギリシャ語文法の重要な規則を破っていると主張する人もいます。それはなぜですか。

      彼らによれば,問題は語順です。1933年にギリシャ語学者E・C・コーウェルは「ギリシャ語新約聖書における冠詞用法の明確な法則」と題する記事を発表しています。その中で彼は次のように書きました。「述部の限定的な名詞は,動詞に続く場合に冠詞を伴う。それが動詞の前にある時は冠詞を伴わない。……動詞の前におかれた述部の名詞は,冠詞を欠くというだけの理由で不定の,あるいは『性質を表わす』名詞として訳すことはできない。文脈上,述部が限定的と考えられるならば,冠詞を欠いていても限定的な名詞として訳すべきである」。

      ヨハネ 1章1節において述部の名詞セオスは確かに無冠詞で動詞の前におかれています。ギリシャ語では実際

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする