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抑うつ状態に対処することは可能ものみの塔 1977 | 8月1日
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だれからも見捨てられたように思える場合でも,ダビデの次の言葉から慰めを得てください。「わたし自身の父と母がわたしを捨て去るようなことがあったなら,実にエホバご自身がわたしを取り上げてくださるでしょう」。(詩 27:10,新)もちろん,クリスチャン会衆内の兄弟たちはあなたを見捨てたりはしません。確かに,彼らの助言が時として的外れに思え,あなたの感情を十分配慮したものと思えないこともあるでしょう。自力で病気を治す努力をさせようとしてあなたを奮い立たせるため,兄弟たちは少しきついことを言うかもしれません。しかし忘れてはなりません。兄弟たちはあなたを助けようとしているのです。その上,憂いに沈んだ状態にあるとちょっとしたことにも傷付きやすいものです。彼らの言葉に耳を傾け,示された関心に感謝し,その提案に従って自分にできることを行なってみるのです。
それに加え,仲間のクリスチャンと交わるようできるだけ努力してみるとよいでしょう。彼らには神の霊があるので,愛とりっぱな業を鼓舞することができます。エホバの霊のある所には自由があります。それには抑うつ状態の束縛からの自由も含まれます。(ヘブライ 10:24。コリント第二 3:17)自らを孤立させてはなりません。(箴 18:1)自分の家を訪れるよう友人を招いたり,クリスチャンの集会に出席したりするのです。―ヘブライ 10:25。
抑うつ状態というのは喜びの欠けた状態のことですから,憂いに沈んだ人は自分の持っている良いものや経験した良い事柄に喜びを抱くよう努めねばなりません。感謝したり,喜んだりすべき事柄をいつも考えるようにし,消極的で陰気な考えを捨てるようにします。(フィリピ 4:8)そうすれば抑うつ状態のもたらす様々な病気を避けることができますし,病気のゆえに憂いに沈んでいるのであれば,そのような健全な考え方をすることによって苦痛を軽減できる場合もあります。異なった環境の中で,数日,あるいは数週間過ごすことも助けになるかもしれません。自分の問題をいつも思い出したりする必要のない,どこか快適な場所へ行くのです。「心の楽しみは良い薬である。たましいの憂いは骨を枯らす」ということは,医学界でも認められています。また,「心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい,心に憂いがあれば気はふさぐ」という言葉もやはり真実です。―箴 17:22; 15:13,口。
他の人々は憂いに沈んだ人に対して辛抱強くあらねばならない
一方,親族や友人たちは,憂いに沈んだ人々が抑うつ状態から自力で抜け出すのは困難であることを覚えておかねばなりません。忍耐強くあり,憂いに沈んだ人がつむじを曲げようとしているとか,他の人をいらいらさせているなどと考えないことも大切です。常に親切と愛をもって語りかけてください。もっとも,憂いに沈んだ人に努力する必要のあることを納得させるため,き然とした態度で語らねばならないこともあるでしょう。
クリスチャン会衆に属する人々は,気落ちした人々を慰め,そして助けるために,自分にできる限りのことをすべきです。いつ,またどれほどひんぱんに訪問するかを決める際には分別が必要ですが,その努力がすぐに実を結ばなくてもがっかりしてはなりません。その人は助けようのない人であると決めつけて,あきらめてしまわないでください。初期クリスチャン会衆の中にも憂いに沈んだ人がいたため,使徒パウロは次の言葉を書くよう促されました。「兄弟たち,またあなたがたに勧めます。無秩序な者を訓戒し,憂いに沈んだ魂になぐさめのことばをかけ,弱い者を支え,すべての人に対して辛抱強くありなさい」。そして,「垂れ下がった手と弱ったひざをまっすぐにしなさい」。―テサロニケ第一 5:14。ヘブライ 12:12。
だれでも,心の中では愉快にしていたいと願っているのです。この事実を認めれば,不愉快な表情をしている人に対して,同情心をもって接することができるでしょう。その人にとって非常に現実的な障害物があるからこそ,愉快な気持ちになれないのだ,ということが分かるからです。わたしたちは,助けたいという強い願いを抱き,できることなら,その障害となっているのが何であるかを見極めるよう努め,愉快な気持ちを取り戻させるためにわたしたちがしてあげられることを行ないます。一方,不愉快な思いをし,憂いに沈んでいる人は,快い精神状態を捕らえるよう努力しなければなりません。そのためには,差し伸べられる援助を素直に受け止め,まず第一に祈り,それから必要と思われる事柄を実行に移すことによって回復に向かうよう努めねばなりません。
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賢人はどんな意味で述べたかものみの塔 1977 | 8月1日
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賢人はどんな意味で述べたか
虐げについて驚き惑ってはならない理由
人類史を通じて,多くの支配者や政府高官たちは,自らの利を求め,人々の益をないがしろにしてきました。その結果,一般の人々にとって生活は特に難しくなり得ます。賢い王ソロモンはこう述べました。「資力の乏しい者に対する虐げや,管轄地区における裁きや義がはく奪されるのを見ても,その事で驚き惑ってはならない。高い者よりさらに高い者が見守っており,彼らに勝って高い者たちがいるからである」。(伝道 5:8,新)そうです,下級官吏の腐敗や不正は,大抵の場合,彼らよりもさらに高い地位を占めている者たちの行為を反映しているにすぎません。そうであれば,事実上一番下にいる一般市民は,このような腐敗すべてがもたらす虐げの重圧の下に苦しんでいます。
不公正に関してそのような注解を述べた後,ソロモンは次のように記しています。「さらに,地の益は彼らすべての間にあり,王は畑のために仕えられた」。(伝道 5:9,新)興味深いことにヤングの字義訳聖書はこの節を,「そして,土地の豊かさはすべての人のためである。畑のために王は仕えられた」と訳出しています。さらに,古代ギリシャ語セプトゥアギンタ訳によるこの節の翻訳も注目に値します。「そして,土地の益はあらゆる人のためである,― 王は耕作された畑に付随する」。(チャールズ・トムソン版)「さらに,地の豊かさはあらゆる人のためである。王は耕された畑に依存している」― サミュエル・バグスター・アンド・サンズ社版。
では,この節は何を意味しているのでしょうか。次の点です。土地,つまり地球の豊かさ,産物,益は,地に住むすべての人のものです。地の住民の命は土地の産物にかかっています。一国の王といえどもこの点に関しては例外ではありません。しかし,土地が人の必要や好みに応じて産物を出すには,そこで働き,耕作し,耕す人がいなければなりません。ですから,畑と引き換えにという意味ではなく,畑の産物あるいは豊かな作物のためにという意味で,「王は畑のために仕えられ(る)」のです。それは自分の畑を耕作させ,耕させ,そこで働かせることによってなされます。豊かな作物を得るには,王は自分のしもべたちを遣わし,畑で働かせる,つまり畑を耕作させねばなりません。(歴代下 26:1,10)王が自分のしもべたちに種を播かせ,土地を耕作させない限り,王とその王家のための収穫を取り入れることはできません。王といえども,地の産出力を当たり前のものとみなすことはできません。この点と一致して,古代シリア語訳は伝道の書 5章9節を次のように訳出しています。「その上,地の富はすべての人のためである。王自身,自らの畑を耕作することによって仕えられている」― ジョージ・M・ラムサ訳。
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