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  • 生命は自然に発生するか
    ものみの塔 1978 | 10月15日
    • 生命は自然に発生するか

      創造者が存在しないとすれば,生命はひとりでに始まったに違いありません。多くの人はそのように考えています。しかし増し加わる知識はこの考え方を裏づけていますか。

      古代エジプト人はタマオシコガネが土の中から突然に姿を現わすのを見,それがひとりでに生じたと考えました。アメリカ百科事典に次のことが出ています。「ナイル川沿いの堤の地面には無数のタマオシコガネがよく見いだされた。そしてこれが自然発生の考えを裏づけるものとなった」。(1977年版第24巻336ページ)しかし実際には何が起きたのでしょうか。めすの甲虫が糞をまるめて作った球に卵を生みつけ,それを埋めたのです。卵がかえると,幼虫は糞を食べて成長し,後に甲虫となって姿を現わしました。結局のところ自然発生ではなかったのです。

      ギリシャの哲学者は生命の自然発生を教えました。西暦前5世紀にはアナクサゴラスとエンペドクレスの両人がそれを信じていました。その1世紀後にアリストテレスは,うじとかたつむりが腐敗の産物であると教えています。西暦17世紀になってさえ,フランシス・ベーコン,ウイリアム・ハービーなどの科学者が自然発生を教えました。

      しかしその同じ世紀にレーディは,はえが卵を生みつけて後に初めて肉にうじがわくことを明らかにしました。微生物が発見され,自然発生の証拠としてもてはやされましたが,18世紀になってスポランザニは芽胞からそれが生ずることを明らかにしました。1世紀後にパストゥールは論争にけりをつけました。彼は生命からのみ生命が生まれることを証明したのです。今日の科学者はこの考えを受け入れていますが,それでも多くの科学者は,20億年から30億年の昔に生命が自然に発生したと主張しています。

      化学的進化論,最新の臆説

      メタン,アンモニア,水蒸気,二酸化炭素および少数の他の気体から成る原始の大気が紫外線の衝撃を受け,分子が破壊されて原子になり,それらが組み直されてアミノ酸つまりたんぱく質の構成成分を作ったと,多くの科学者は信じています。これら,および他の有機化合物が水の中に凝集し,膜を作り,生きた細胞になったとされています。これはおそらく初めはメタンから,そして後には発酵作用からエネルギーを得ました。さらに後になると,細胞は光合成の過程を“発明”しなければならなかったと言われています。しかし簡単な細胞がこのように作り出され,生きていくことが実際に可能でしょうか。最もすぐれた科学者でさえも,光合成を完全に理解することはできず,まして人工的にそれを行なうことは不可能であると,謙そんに認めています。

      幾つかの落とし穴

      多くの科学者は,細胞がこのようにして自然に発達したということを理論づけています。しかしその理論には落とし穴が多く,しかもそれは非常に深いのです。

      第1の落とし穴: 地球の原始の大気には,連鎖反応を引き起こすのに必要な気体が適当な割合で含まれていたとするのは大胆な仮説です。この事を裏づける証拠はありません。

      第2の落とし穴: このような大気が存在したとしても,そしてアミノ酸が作り出されたとしても,それはメタンおよびアンモニア,水蒸気を分裂させたと同じエネルギーによって破壊されてしまうでしょう。アミノ酸はきわめて複雑な分子です。したがって安定性が悪く,容易に破壊されます。それは3個のれんがよりも10個のれんがの積み重ねを押し倒すほうが容易なのと同じです。大気の上層部で形成されるゆえに,このようなアミノ酸が生き残って地球上の水に達することはまずありません。また達したとしても,凝集して,進化論でいうところの“スープ”になるまで長く残存しないでしょう。科学雑誌ネイチャーの1960年5月28日号に載せられたD・E・ハル博士の記事からの次の抜粋は,そのことを確証しています。

      「大気あるいは海洋中において分解するにしては,これらは寿命が短い。したがってどれほどの時を経ようとも,有機化合物の有用な濃縮が蓄積する可能性はない。…それが生命の自然発生を促す最初の有用な材料になる可能性は,許容される限り最大のものを考えても,絶望的と言えるほど少ないようだ。…これらの論拠から得られる結論は,自然発生論にとって致命的でないにせよ最も重大な障害となるものである。まず,熱力学の計算から予想できることであるが,最も簡単な有機化合物でさえ,その濃縮はごくわずかなものだ。第二にこのような化合物を合成する際に用いられる反応は,その分解を促す力のほうがはるかに強いことが知られている」。

      科学者の行なったある実験において,注意深く調合した混合気体に放電を行なったところ,最も簡単な二,三のアミノ酸が確かに蓄積されました。しかしそれは放電の場から直ちに取り去られたからにほかなりません。もしこれらのアミノ酸に放電を続けるならば,生ずる事態は,ひとりの人がれんがを作るそばから,別の人がハンマーでそれを砕いてしまうのと同じようなものです。ふつうのたんぱく質を作るには,数百のアミノ酸をひとつの鎖の中に正しい順序で結びつけることが必要です。そして最も簡単な有機体を作るにも,数百の異なるたんぱく質を必要とします。それでれんがを作る人のたとえで言えば,彼は何百ものれんがを一列に並べてセメントで接合し,さらにこれられんがを並べたものを何百も蓄積しなければなりません。―しかも一方の人が盛んにハンマーを振るっている最中にこのすべてをするのです。それでもこれは極端に簡単なたとえです。なぜなら生きた有機体を作るには一連のアミノ酸よりもずっと多くのものを必要とするからです。

      さらに多くの落とし穴

      第3の落とし穴: アミノ酸は無作為に形成される時,化学的には同一の,しかし一方は“右きき”で他方は“左きき”の分子という二つの形をとります。それぞれの種類のものがほぼ同じ数だけ混ざり合っているのです。しかし生体内においては“左きき”のアミノ酸だけが使われています。それで先のたとえにもどって言えば,れんがを作る人は赤と青の二種類を作ります。そして赤と青のものが入り混じった何百万というれんがの山を積み上げます。(もちろんハンマーを振るう人はいなくなったものと仮定しなければなりません。進化論者も破壊的な紫外線が作用しなくなったものと仮定しています。)さて,巨大なシャベルが,何百万という赤と青のれんがの山に突っ込まれ,何十万個のれんがをすくい取ります。すると,偶然にそのすべてが赤いれんがなのです。同様に,単細胞の生体を作っている何十万の,そして時には何百万のアミノ酸すべては,偶然に“左きき”でなければなりません。しかもそれは“右きき”の他のものが何百万も入り混じった中から取られているのです。

      第4の落とし穴: 正しい種類のものを十分な量取り出すだけがすべてではありません。20種類のアミノ酸のそれぞれは,たんぱく質を作る鎖の中で正しい順序に結合することが必要です。1個のアミノ酸の位置がずれるだけで,生体は不具になったり,死ぬことがあります。ゆえに巨大なシャベルは赤いれんがだけをすくうのみならず,そのひとつひとつを正しい位置に落とさなければなりません!

      第5の落とし穴: 細胞膜は膜組織で形成されます。進化論者の理論によれば,たんぱく質の小さな塊の周囲の水の膜が細胞膜になったか,あるいは脂肪球がたんぱく質を包み,細胞膜になったとされています。膜は非常に複雑で,糖,たんぱく質,脂肪の分子から成り,どの物質が細胞内に入れるか,そしてどの物質が入れないで通り過ぎるかを支配します。その巧妙な仕組みすべてが解明されている訳ではありません。バーナルは「生命の起源」の中で,「我々が今なお欠いているのは,前述したように脂肪の起源を示す納得できるモデルである」と述べています。(145ページ)脂肪がなければ細胞膜はあり得ず,細胞膜がなければ生物はあり得ません。

      不可能なことを信ずる

      進化論には,電光あるいは放射線によって衝撃を与えられた原始の大気に始まって,生殖能力を持つ単細胞生物に至るまでの途中至るところに文字通り何千という落とし穴があります。有能な科学者はだれでもその事を知っています。またこれらの落とし穴を避けるために提出された多くの臆説が不適当なものであることも承知しているのです。エネルギーと物質を支配する法則は,生命の自然発生が不可能なことを明白に示しています。数学の確率の法則から見て,その可能性は皆無です。

      生殖を営む生物として最も簡単なもの(H39型ミコプラズマ)は,それぞれ平均400個のアミノ酸から成る625のたんぱく質を持っています。しかし理論的にはこのようなたんぱく質が124あれば足りるという説も出されています。“右きき”と“左きき”のものが混ざり合った中から“左きき”のアミノ酸400を持つ,これらたんぱく質のひとつが作られる確率はどれほどのものですか。10120(1に120のゼロをつけた数)分の1の確率です。

      しかし実在しないこの細胞には124のたんぱく質が必要です。これだけ多くがすべて“左きき”の分子から偶然に生成する確率はどれほどのものですか。1014,880分の1です。しかしこれらのアミノ酸はただ無差別に結びつけばよいのではありません。正しい順序に結合しなければならないのです。それぞれに平均400を数える“左きき”のアミノ酸がこれら124のたんぱく質の中に正しい順序で結合するとなれば,その確率は1079,360分の1になります。この数字(1に79,360のゼロをつけた数)を書き表わすとすれば,この雑誌の約20ページを埋めることになるでしょう。確率の権威であるエミール・ボレル博士によると,ある事柄の起こる確率が1050分の1よりも小さければ,それはどんなに長い時間をかけても決して起こらないでしょう。しかもこれは,このページの2行以内に書き表わせる数字です。

      著名な進化論者たちはこの問題に気づいています。それを宇宙空間のかなたに押しやろうとしている人々もいます。英国の天文学者フレッド・ホイル卿は,『生命の起源を地球に求める現在の説は,化学的な理由からしてきわめて不満足なもの』であり,『生命は地球上に発生したのではなくて彗星に起源がある』と述べています。別の人々は証拠がないにもかかわらず,無理に信じています。ノーベル賞を受けた生物学者ジョージ・ワルド博士はこう述べました,「生命のある有機体の自然発生が不可能なことを認めるのは,考えただけでも大変な仕事である。それでも,我々は自然発生の結果,存在しているとわたしは信ずる」。自分でも認めているとおり,同博士は不可能なことを信じているのです。このような考え方は一時代前の生物学者D・H・ワトソンのそれに比べられるものです。彼は次のように語りました。進化論が「広く受け入れられているのは,論理的に首尾一貫した証拠によってその真実が証明されているからではなく,それに代わる唯一のもの,特別な創造を信じられないことが明白だからである」。

      あなたは軽信的それとも論理的ですか

      進化論に関する著述家は,他に根拠がないため,権威という名の横暴に訴えます。『有力な科学者はみなそれを信じている; 著名な生物学者でそれを疑う人はいない; 知識人ならばそれを疑問視しない; 理知的な人はだれでもそれを受け入れている; それを受け入れないのは,宗教的偏見を持つ人だけである; それは繰り返し証明されてきた; これ以上の証拠はもう必要ない』。圧力を加えることや洗脳はこのようにえんえんと続きます。

      しかしあなたはご自分で調べるべきです。そしてご自分で決めてください。あなたの命があなたの決定にかかっていると言えます。そして次の事を考えてごらんなさい。あなたが20階のビルから飛び降りたとします。地面にたたきつけられる直前に激しい突風が起こってあなたを捕え,ビルの屋上に連れもどします。それはありそうな事ですか。まずあり得ないことです。それを当てにすることはできません。しかし生物の自然発生は,それよりもはるかにありそうもない事なのです。それを当てにしないでください。

      聖書の詩篇 36篇9節にはこう記されています,「いのちの泉はなんぢ[神]に在り」。生命が自然に発生したことを信ずるのは軽信です。理知ある神によって生命が創造されたことを信ずるのは理にかなっています。次の記事はそのことを示しています。

  • 「造られた物を通して認められる」
    ものみの塔 1978 | 10月15日
    • 「造られた物を通して認められる」

      荒削りな石器が設計者の存在を証明しているとすれば,複雑な造りを持つ生物はそれ以上に,賢明で,力強い創造者の存在を雄弁に物語っているのではありませんか。

      山の中で岩盤がくずれれば,それが落ち込んだ谷底には岩石の山が見られるはずです。もしその岩石すべてが美しい石造りの家の形に収まっていたとすれば,わたしたちは自分の目を疑うことでしょう。家を建てるには,設計と目的のある働きが必要とされるからです。設計者がいなければ設計はできませんし,理知ある働き手がいなければ目的のある働きも見られません。これは,ヘブライ 3章4節にある,「家はすべてだれかによって造られるのであ(る)」という聖書の言葉と調和します。

      ある科学者は,地面の粗石の中を掘って,滑らかで,中央に穴の開いた,丸味を帯びた細長い石を見いだします。科学者は,原始人がそれを形作ったと信じて疑いません。それは皮のひもで木の棒に結び付けられ,ハンマーか武器として使われたのだ,と確信します。同様に,先のとがった平らな石が見付かれば,それは「石器時代」の人がナイフかスクレーパーとして使うために造ったものだと堅く信じます。あるいは,矢じりのような形をした,鋭くて堅い石の小片を見れば,それは矢とかやりの先につけて用いるため人間が考案したものであると信じます。そのような,目的のある,考案された物は,偶然の所産ではない,と科学者は結論づけます。

      作品はその作り手について物語ります。これらの道具や武器は幼稚なものですから,その作り手は原始人であったと思われます。サルは武器を作りませんし,現代人の武器の造りは精巧だからです。それで,科学者は,この道具を作った人を石器時代に位置づけ,その外見と知力はサルと現代人の中間であるに違いないと推測します。そこで科学者は,ねこ背で,知能の低い,足を引きずって歩く,毛深い猿人のことを思い浮かべます。この猿人の創作物は,サルの拾い上げるかもしれない棒よりは目的や工夫のあることを物語ってはいますが,現代人の作り出す物と比べればはるかに劣ります。科学者は作り出された物を通してその作り手を想像し,その作品から作り手の特質を判断します。

      自らの論法を捨てる

      ところが,地上に見られる豊富な動植物のこととなると,ほとんどの科学者は設計には設計者が必要という自らの見解を覆してしまいます。最も単純な有機体でさえ,荒削りな石器と比べればはるかに複雑です。単細胞の原生動物さえ単純なものとみなすことはできません。その単一の細胞の中には,脊椎動物が数々の器官を用いて維持している,体のあらゆる機能を果たす能力が備わっているからです。原生動物そのものの内部は複雑な有機体なのです。進化論を唱える科学者は,そのような複雑な有機体に製作者はおらず,偶然に存在するようになったと主張します。原生動物が自然に発生することと比べれば,地すべりや奔流によって荒削りな石器ができるほうが,あるいは単純さそのものの点から言っても,崩れ落ちた岩石によって石造りの家が建つほうが容易でしょう。

      宇宙の中でも最高度の複雑な仕組みを持つ創造物のことになると,目的のある作品は理知ある作り手の特質を反映するという自らの論法を捨てる知識人が少なくないのは,感情的な偏見のためでしょうか。聖書は科学者たちの奉ずる法則と同じことを述べていますが,科学者たちはその法則を適用している聖書の次のような言葉を受け入れようとはしません。「神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見える(のです)」。(ローマ 1:20)科学者たちは,荒削りな石器が偶然によってできたという考えを受け入れようとはしませんが,原生動物だけでなく,人間を含む地上の全生物が偶然によって形造られたということになると,すぐにその考えを受け入れるのです。科学者たちは,これらの設計の驚異の背後に宇宙の偉大な設計者また創造者がいることを認めたがりません。そのような驚異の幾つかについて考えてみると良いでしょう。そして,それらの驚異に反映されている特質が,盲目的な偶然によって生ずるかどうか考えてみてください。

      足下の土

      創造の第三日目にエホバは,「かわいた地が現れよ」と言われました。(創世 1:9,口)その結果,地上に植物が生えるための道が開けました。しかし,それらの植物が繁茂するためには,驚異的な働きをする土が不可欠です。土ですか。土が驚異的な働きをすると言うのですか。それは地表面に見られる,ごくありふれたものの一つではありませんか。確かにその通りです。しかし,土は肝要な資源で,今日ではその浸食によって,黄塵地帯が作り出されたり,砂漠が広がったりすることが懸念されています。岩が肥沃な土壌になるまでには,大抵,幾千年もの期間がかかります。岩は風化され,菌類が定着して成長し,それが新芽を出して苔類にからみつき,菌類と苔類が一緒になって地衣となります。地衣は岩石の表面に生え,それを崩し,蘚類の生きてゆけるような薄い土の層を作ります。そして今度は蘚類が生長し,枯れて,最終的には実生の草木が生えるような土壌を作り出します。これらの土は浸食作用によって他の場所へ運ばれてそこに堆積し,より高等な植物が生えるのに必要とされる深さになり,ついには樹木を支えられるまでになります。

      植物が葉を落として枯れると,バクテリアがそれを腐敗させ,肥沃な有機土壌ができ上がります。そして微生物がこれら有機化合物を,植物の必要とする単一の養分へと分解します。わたしたちはよくゆるぎない大地について語りますが,多くの土壌はとてもゆるぎないなどと言えたものではありません。その中には,空気,水,そして幾多の生物が満ちているのです。一オンス(約28㌘)の土の各粒子の表面積を合わせると,2.4ヘクタールにもなります。温帯では,小さじ一杯の土に,50億もの生物が含まれていることがあるのです。その各々は,設計と目的の驚異であり,『地が産物を出す』前に,そのすべてが必要とされていました。(エゼキエル 34:27,口)土は単に足で踏むためにだけあるものですか。その土なしには,地球上に生物は存在しなかったでしょう。

      人知を超えた航海者

      寒い気候を逃れ,食物を得るために渡りをする鳥は少なくありません。その航海技術は恐るべきもので,いまだに完全には解明されていません。北半球が寒い季節になると,東や西ではなく,南へ行けば気候が温暖になり,食物があるということを鳥はどのようにして知るのでしょうか。そして,春になって戻って来るときに,北へ飛ぶことをどのようにして知るのでしょうか。鳥の血液中に分泌される,種々のホルモンがそれを知らせるのです。中には,六か月前に飛び立った場所まで,幾百㌔,また幾千㌔も渡りをする鳥もいます。アジサシやチドリは,片道約6,400㌔の旅をします。若い鳥は,最初の渡りを単独で行ないます。中世になっても,動物学者たちは鳥が渡りをするということを信じようとせず,鳥が春と秋に現われたり,消えたりすることについて,奇想天外な説明を考え出しました。ところが,聖書はすでに西暦前七世紀に,渡りについて次のように述べていました。「空のこうのとりでもその時を知り,山ばとと,つばめと,つるはその来る時を守る」― エレミヤ 8:7,口。

      大きな鳥が渡りをすることが認められるようになってからも,動物学者たちは,小鳥はより大きな鳥の背に乗って大洋を横断すると論じていました。ところが,小さなズグロアメリカムシクイは,他の多くの小鳥同様,自らの力で大洋を横断します。この鳥は秋にアラスカを飛び立ち,徐々に米国の北東部沿岸まで旅をし,そこで天候が良くなるのを待ってから,大西洋を越え,三日ないし五日間飛んで南米の北東部沿岸に達します。体重わずか20㌘そこそこの鳥が,幾日もかけて,大海原を3,800㌔もノンストップで飛ぶのです。時を告げ,太陽の動きを計算し,星を利用し,そのすべての情報を目的地への海図に合わせ,さらには上空が曇っていても無事に目的地へ到達できるようにするのですから,その鳥の小さな頭にはどんなに驚嘆すべきコンピューターが組み込まれているのでしょうか。自分の心の奥底から,この小さなズグロアメリカムシクイが偶然によって存在するようになったと本当に信じられる人がいるでしょうか。

      伝書バトを使った研究を通して,鳥の用いることのできる別の誘導システムが明らかになりました。遠回りの道を暗箱に入れられて運ばれ,自分の巣から960㌔離れた地点で放たれた伝書バトは,一日で自分の巣に戻りました。太陽が照っていれば,伝書バトはそれを誘導システムとして使います。しかし,曇りの日でも,夜間でも伝書バトは帰巣できるのです。伝書バトは,地磁気を感知し,それを誘導システムとして用いるのです。一群の伝書バトが放たれ,そのうちの半分には背中に磁石が結び付けられていました。この磁石は地磁気をゆがめて,役立たないようにしてしまいます。晴れた日には,その群れはすべて無事に帰巣しました。ところが,曇りの日には,磁石を付けられていないハトは戻りましたが,磁石を付けられたハトはとりとめもなく空を舞っていたのです。長い間,どんな生物も地磁気を感知することはできないと考えられてきました。それは地磁気が非常に弱いものだからです。しかし現在,科学者たちは,鳥類だけでなく,ミツバチも地磁気を感知することに気付いています。最近の研究は,カタツムリの中にも地磁気を知覚するものがあることを示唆しているようです。

      移住するのは鳥類に限ったことではなく,クジラ,アザラシ,カメ,ウナギ,カニ,魚類,チョウ,そしてトナカイも移住します。しかし,中には眠たがり屋もいて,冬の厳しさを逃れるのに冬眠するほうを好みます。13本の縞のある小さなリスは,冬眠をする動物に起きる驚くべき生理学的変化の幾つかを示す良い例です。体温は隠れ場の外部の寒さとほとんど変わらないほどの温度まで下がります。心臓は一分間に一度か二度しか鼓動しなくなります。このリスは,活動していると,一分間に数百回呼吸しますが,冬眠中は五分に一回というゆっくりした呼吸になります。それでも,血液は酸素の十分供給された状態に保たれ,筋肉は余り使われなくとも,その正常な状態に保たれます。秋に冬眠に入り,春に目覚めるという判断を誘発するのは何でしょうか。天候だけではありません。血液中に分泌される化学物質が冬眠を始めさせ,さらに別の物質が目覚めさせる働きをするのです。そのような化学物質を用いて,科学者たちは冬眠をする動物が夏のさなかに長い眠りに就くよう仕向けました。

      こうした驚異について,ヨブは次のような事柄を認めました。「私は語りましたが,理解していませんでした。私の知らない,私にとって余りに奇しいことを」― ヨブ 42:3,新。

      独創的な設計の数々

      偶然に生じることのあり得ない,荒削りな石器のことを覚えておられますか。次に述べる事柄が偶然に起こり得るかどうかを判断するに際し,そのことを念頭に置いて比較検討してみましょう。

      大抵の人は,カメレオンが昆虫を捕らえるために数㌢も先まで舌を突き出せることを知っているでしょう。しかし,この生物がどのようにしてそうするかご存じでしたか。その口の奥には円錐形の骨が水平に横たわり,その先端は正面を向いています。その円錐形の骨の基部には,長くて,中空の舌が収まっています。長い筋肉が,アコーディオンの蛇腹のようにひだのついた舌を,その骨の周りに押し付けています。舌の先には括約筋があり,円錐形の骨の先端の所に収まっています。カメレオンの飛び出した両目は,各々別々に動き,射程距離内にいる昆虫を見付けます。すると長い筋肉が力強く収縮し,舌をさながら押し付けられたバネのような形にして骨の上に持ってゆきます。それから,滑りやすい骨の先端を包む括約筋が突然硬直し,同時に“バネ”を押しつけていた長い筋肉がゆるんで,舌が外に飛び出します。昆虫が粘々する舌の先端に付着すると,長くて,しまりのない舌は徐々に口の中に収められます。この作用は,子供が親指と人差し指の間にプルーンの種や滑りやすいすいかの種をはさんで飛ばすようなものです。ただこの場合には,滑りやすい骨は中にとどまり,圧力をかけたほうの舌先が外に飛び出すのです。こうした独創的な設計には,確かに設計者が必要とされます。

      ホソクビゴミムシは,捕食動物を追い払うために,爆発物を用います。分泌腺から分泌される三種類の化学物質が貯蔵器官に蓄えられます。敵が近づくと,弁が開いてその化学物質がしっかりした内壁の施された仕切りの中へ放出されます。するとそこで,酵素の働きによりそれらの化学物質が爆発し,どの方向にもねらいをつけられる噴射口から有毒なガスが放出されます。この昆虫は数分間に幾十回も繰り返し爆発を起こすことができ,そのたびに“ポン”という音を立てます。敵は,時として発作を起こして退散します。この虫は,実験室を持ち,爆発物を製造し,それを目的をもって利用します。それは,驚くべき,小さな爆弾工場なのです。

      ミズスマシには池の水面と水中を見るために複焦点の眼が付いていますが,それもこの昆虫に関する驚異の始まりにすぎません。ミズスマシは,飛ぶことも,這うことも,水上を歩くことも,水に潜ることもできるのです。水に潜る際,ミズスマシは肺のような役割をする気泡を携えてゆきます。その気泡はミズスマシから排出される炭酸ガスを受け入れ,水中から酸素を取り入れてミズスマシに与えます。こうしてミズスマシは幾時間も水中にとどまっていられるのです。この虫の腹側は水をはじきませんが,複眼の上部を含む背側は分泌腺から絶えず脂肪が出て,水をはじくようになっています。ミズスマシは水面を自由自在にすばやく動き回り,その際に弓なりの波を引き起こします。このさざ波が岸辺や水面にある物 ― 例えば別のミズスマシや餌になる昆虫 ― に当たると,その波ははね返って来ます。ミズスマシは二本の触角を水面に当て,周囲の情況に関する情報を探知します。こうしてミズスマシは餌を捕らえ,すばやく気まぐれに動き回る何百という仲間たちと衝突することもありません。皆波を立てますが,各々自分の立てた波だけを探知するのです。このシステムは昼夜の別なく働きます。ミズスマシはコウモリが音波を使ってすることを,水面の波によって行なうのです。その小さな頭の中には,何とすばらしいコンピューターが収められているのでしょう。

      「日の下には新しいものはない」

      人々は工学上の業績を見て,人間の発明家を賞賛します。ところが,生物が同じ法則を意図的に用いているのを見ると,それは偶然生じたにすぎないと言います。大抵の場合,人間の発明家は実は改作者にすぎません。それは,「日の下には新しいものはない」というソロモンの言葉に示されているとおり,以前から行なわれていたことなのです。(伝道 1:9,口)ダニエル・ハラシー二世著,「バイオニックス」と題する本の19ページには次のように述べられています。

      「ある商業用飛行機は,鳥の翼をかたどった翼を付けて市場に出された。あるゴム会社は,船舶用の流線型の人工“被膜”の実験をしていたが,それは海生哺乳動物のそれを模倣したものであった。飛行機の新しい地上速度計はカブトムシの目をかたどっており,改良されたテレビカメラはカブトガニの目の構造をまねたものであった」。

      人間はエホバ神の創造物をじっくり研究し,その独創的な働きを発見し,それを人間の発明に応用しているのです。こうした事は,ヨブ 12章7節から9節(新)の次の言葉を思い起こさせます。「どうか,畜獣に尋ねてみよ。それはあなたを教え諭すであろう。また,天の翼のある生き物にも。そうすれば,それはあなたに告げるだろう。あるいは地に関心を示してみよ。そうすれば,それはあなたを教え諭すだろう。それに海の魚もあなたに告げ知らせるだろう。これらすべてのもののうち,だれかよく知らないものがあろうか。エホバのみ手がこれをなしたことを」。発明家たちは,自らの巧妙な改作に対する賞賛を受けることを喜びますが,非常に多くの場合,「知恵をもって」すべてのものを造られた方を認めようとしません。―詩 104:24,口。

      聖書は収穫アリについてこう述べています。「夏のうちに食物をそなえ,刈り入れの時に,かてを集める」。(箴 6:8,口)幾世紀もの間,穀物を収穫し,それを貯蔵するアリの存在は疑われていましたが,1871年に,英国の動物学者がその穀倉を発見しました。アリはまた,作物の世話をし,奴隷を持ち,家畜のようにしてある昆虫を飼っています。白アリはその巣に冷暖房を施しますが,それはハチがその巣に冷暖房を施すのと同じです。ミツバチはまた,暗がりでダンスをして蜜がどこに,どの方向に,またどれほどの距離の所にあるかを他のミツバチに知らせます。昆虫は,人間の模倣できないような驚くべき能力を示します。エホバ神によってそのように造られたため,聖書の述べるとおり,「それらは生まれつき賢い」のです。―箴 30:24,新。

      「水,一面水,だが飲める水は一滴もなし」。これは海洋に関する格言です。しかし,海鳥の中には,海水を脱塩するための分泌腺を持つものがいます。また,400ボルトにも上る電気を発電する魚やうなぎもいます。魚や虫や昆虫の中には冷光を発するものもたくさんあり,熱を出すためにエネルギーを失う光しか作れないでいる科学者たちのせん望の的になっています。コウモリやイルカはソーナーを使い,スズメバチは紙を作り,アリは橋を架け,ビーバーはダムを作り,ある種のヘビには摂氏千分の一度の温度の変化を感じ取る温度計が備わっています。池に生息する昆虫はシュノーケルや潜水鐘を用い,タコはジェット推進を使い,クモは七種類の糸を紡いで,落とし戸や巣や投げなわを作り,その子は空高く幾千㌔もの距離を旅する飛行家です。雌のガは香水をふりまきますが,その分子一つが雄の触角に触れるだけでも,10㌔先にいる雄のガはそれを認めることができます。サケは外海で幾年も過ごした後,自分の生まれた川に戻ります。サケは各々自分の生まれた川のにおいを覚えているのです。

      エホバはご自分の数多くの創造物の驚異にヨブの注意を引きました。それに対するヨブの反応はどのようなものでしたか。それは次のようなものでした。「わたしは知ります,あなたはすべての事をなすことができ,またいかなるおぼしめしでも,あなたにできないことはないことを」― ヨブ 42:2,口。

      このような驚くべき設計の見られる物が設計者なしに存在するようになることは不可能です。進化論者は,『自然選択と適者生存』がその製作者であると唱えます。しかし,問題となっているのは,その適者の生存ではなく,到来です。選択すべき種類が到来しなければ,選択はできません。建築材料が届かなければ,家を建てることはできません。聖書の述べるとおり,「言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です」。その証拠は至る所に見られます。荒削りな石器の背後に猿人の存在を認めながら,神の驚くべきみ業に反映される神の特質を読み取ることのできない人は少なくないのです。「彼らは言いわけができません」。(ローマ 1:20)しかし,わたしたちは,神の創造のみ業に反映されるエホバの存在を『見る目』を保つことにしましょう。―マタイ 13:14-16。

      [11ページの図版]

      カメレオン

      舌骨

      括約筋

      舌骨筋

      中心骨

      昆虫を捕らえる粘り気のある舌

      [12ページの図版]

      航海術,ソーナー,ジェット推進,園芸,通信などを最初に行なったのはだれですか

      [13ページの図版]

      ホソクビゴミムシ

  • 人間の脳 ― 1,300グラムの神秘
    ものみの塔 1978 | 10月15日
    • 人間の脳 ― 1,300グラムの神秘

      建物がひとりでに建ち,テレビが自らを製作し,コンピューターが自らを設計して,自らプログラムを入れると論じる人がいるでしょうか。こうした事柄を行なうには,脳の働きが必要とされます。ところが,脳は偶然に発生したに過ぎないと論じる人がいるのです。人間の脳は,建物,テレビ,そしてコンピューターより単純なものですか。

      ダビデは星をちりばめた夜空を見上げ,そこに示されている音信を読み取り,こう語りました。「もろもろの天は神の栄光をあらわし,大空はみ手のわざをしめす」。ダビデはその広大な広がりに畏怖の念を抱き,なぜ神が取るに足りない人間を気に掛けてくださるのか不思議に思いました。「わたしは,あなたの指のわざなる天を見,あなたが設けられた月と星を見て思います。人は何者なので,これをみ心にとめられるのですか,人の子は何者なので,これを顧みられるのですか」。それでも,ダビデは自分の体について深く考え,それから再び感嘆の声を上げました。「わたしはあなたをほめたたえます。わたしは恐るべく,くすしく造られているからです。あなたの御業は驚くべきもので,わたしの魂がよく知っている通りです」― 詩 19:1,口; 8:3,4,口; 139:14,新。

      今日の人々とは実に対照的ではありませんか。ダビデは2,000ほどの星を見て,神の壮大な力に圧倒されました。今日の人間は,銀河系にある数千億に上る星を識別し,宇宙にはほかにも(各々数十億の星を持つ)一千億に上る星雲があると見積もっていながらなお創造者の存在を否定しています。ダビデは自分の体の複雑な仕組みに感銘を受け,エホバをほめたたえました。今日,人間は人体の驚異についてはるかに多くの事柄を知っていますが,それをすべて盲目的な進化の所産としているのです。そうした人々は絶えず学んではいますが,自分たちの発見が雄弁に物語っている真理の知識,すなわちそのような設計上の驚異が存在するようになるには賢明で強力な創造者が存在しなくてはならないという結論に達することができないようです。

      サイエンティフィック・アメリカン誌はこの設計に言及して,こう述べています。「宇宙は何らかの意味で我々が存在するようになることを知っていたに違いないとさえ思える」。同誌は,わたしたちのためのこうした備えを,「我々の益のために,物理学上,および天文学上の幾多の偶然が共同して働いた」結果としています。しかし,わたしたちが存在するようになることを知っていたのは宇宙ではなく,エホバ神です。そして,神が地球とそのすぐ近くの天体をわたしたちのために準備されたのは,偶然などによるのではありません。地球と天体の広大な広がりを見るとき,わたしたちはダビデと同じく,小さくて,取るに足りないと感じるに違いありません。しかし,エホバが,地球は人間のために造られたと語られ,人間がその管理者となることを期待し,その責任を果たす能力を人間に付与した,と言われるのであれば,わたしたちは自分の微小さのゆえに神の注意を受けるにふさわしくないなどと考える必要はありません。―創世 1:14-18,26-28; 2:15。イザヤ 45:18。

      1,300グラムの神秘

      地球を管理するようわたしたちを備える点で神の与えてくださった最大の贈り物は,グレープフルーツよりやや大き目の,灰色のやわらかい物質です。それが守りの堅い場所にあることは,その貴さを強調するものです。それは三種類の膜で覆われ,事実上クッションとなる液体の中に浮いており,そのすべてがしっかりした骨,頭蓋骨の中に収まっています。そのお陰でわたしたちは,理性のない動物とは異なり,神の像と様に似る可能性を秘めているのです。わたしたちはそれでもって考え,学び,感じ,夢を見,物を覚えます。ところが,わたしたちはその脳を理解できないでいるのです。科学者がその働きを探ろうとして徹底的な研究をしたにもかかわらず,それは依然として神秘のベールに包まれています。英国の生理学者チャールズ・シェリングトン卿はこう書いています。「脳は神秘である。これまでも神秘であったが,これからもやはり神秘のままであろう。脳はどのようにして考えを生み出すのだろうか。これが中心をなす疑問であり,我々はまだその答えを得ていない」。著名な人類学者ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン博士は,「私の考えでは,全宇宙で最もすばらしく,神秘的な物質は人間の脳である」と書いています。

      神経系統の複雑さは畏敬の念を引き起こします。その細胞はノイロンと呼ばれ,体じゅうに延びています。その中には1㌢の数分の一しかないものもあれば,数㍍になるものもあります。最も長いものは,脳と足の親指を結んでいます。脳へ,また脳から情報を伝える電気化学的インパルスは,毎時3.2㌔から320㌔までの速さで伝達されます。比較的大きな神経は無数の線維から成っていて,視神経などには数百万の線維があり,その各々が別個の情報を伝達しています。自律神経系統は,人の意識的な思考とは無関係に,様々な器官,循環器系,膜などの働きや,呼吸,飲み下し,そして腸の蠕動運動などと関係するような数多くの筋肉の働きを律しています。

      脳そのものには100億個のノイロンと1,000億個の神経膠細胞があります。神経膠細胞は正常な生理の平衡を保つのに役立つ組織で,栄養補給面の機能も果たしていると考えられます。脳にあるノイロンは昼夜兼行で,睡眠中にも活動し,高率でエネルギーを消耗します。各細胞の中では,ブドウ糖の酸化によってエネルギーが得られます。脳は動くことがなく,収縮も成長もせず,体重のわずか2%を占めるにすぎません。ところが,その機能を果たしてゆくために,脳は心臓から送り出される血液の20%を受けねばならず,血液が供給する酸素の25%を必要としています。もし血液の供給が15秒間断たれれば,意識は失われ,四分間断たれると,取り返しのつかない損傷が脳に生じかねません。脳の電気的な活動を測定し,波形の曲線にして紙の上に記録することは可能であり,それは脳波と呼ばれています。こうして取られる記録は,脳電気図またはEEGと呼ばれます。

      脳のより高次の思考作用は,様々な葉から成る大脳に集中しており,大脳は左右の半球に分けられています。左大脳半球は右半身をつかさどり,大抵の場合優位半球となっており,論理や言語能力そして秒刻みに脳に流入する幾百万もの情報を処理する能力の中枢となっています。右大脳半球は左半身をつかさどり,頭脳の創造的,直観的な活動に専ら当てられています。しかし,若い時に大脳のいずれかの半球の機能が冒されても,もう一方の半球がその機能の大半を肩代わりします。脳は十分に活用されてはいないと考えられています。脳には,ごくありふれた,平凡な人間を天才に仕立てる可能性が秘められているのです。

      情報,思考,感情

      『聴くところの耳と視るところの目とはともにエホバの造り給えるものなり』。(箴 20:12)耳は音波を捕らえ,それを聴神経の中にインパルスを引き起こす電気刺激に変えます。それが脳の聴覚部位に達すると,それは音として解され,思考が生まれます。光が目の中へ入ると,それは杆状体と錐状体の働きで電気刺激に変えられ,その刺激が視神経を伝って脳へ行くインパルスを引き起こします。脳に達すると,そのインパルスは思考を刺激する情景となります。同様にエホバは,鼻や口や皮膚の中に,においや味や感触や熱を電気刺激へと変える,知覚神経受容器官を備えられました。これらの器官は脳へインパルスを送り,次いで脳はそのようにして受けた情報を分析し,取るべきふさわしい反応を決めるのです。

      ノイロン,つまり神経細胞の一方の端には木の枝のように広がった樹状突起があり,もう一方の端は軸索突起と呼ばれる細長い糸状のものになっています。樹状突起はインパルスを捕らえ,それを軸索突起へ送り,軸索突起はそのインパルスを次のノイロンの樹状突起へ伝えます。しかし,軸索突起と樹状突起は決して触れ合いません。人間の頭髪の500分の1ほどの狭い,小さな溝があるので,インパルスがノイロンからノイロンへと走り,脳に達するにはその溝に橋が渡されねばなりません。シナプスと呼ばれるこの溝の橋渡しをしているのは,ノイロトランスミッターとして知られる化学伝達子です。情報は電線を通る電気のようにして,脳まで行ったり来たりするわけではありません。それは電気化学的な性質を帯びており,刺激の強さによって周波数の変わるインパルスの形を取って伝わります。電線を通る電気のように外部の力の源によって推進させられる必要はありません。ノイロンは各々小さな電池のようになっていて,自らがその動力源になっています。そして,インパルスの強さ,つまり力は,脳との間を行き来する間じゅう一定に保たれます。途中の損失はありません。

      脳の情報処理能力は理解しがたいものです。大きな交響楽団の指揮者の脳裏で行なわれているに違いない事柄を想像してみてください。50ないし100の楽器のための楽譜を暗記してしまった指揮者もいます。楽団が演奏をすると,毎秒,様々な周波数の音が幾百となく指揮者の耳に流れ込みます。そして,指揮者はそれらの音を自分の記憶の型と照らし合わせているのです。数ある楽器のうちの一つが間違った音を出しても,指揮者はそれを察知します。あるいは,十本の指を駆使して,難しい楽譜を弾きこなす,音楽会で演奏する能力を備えたピアニストのことを考えてみてください。自分の記憶の中にある音符に対応する鍵を正しくたたくよう,指の空間的な関係を寸分たがわず指示するのですから,その人の脳には実に驚くべき,応用運動学上の感覚が備わっているに違いありません。

      脳の中にある100億個のノイロンの相互結合によってできる網状組織の数は,余りにも天文学的な数字になり,人間の理解力の及ばない,意味をなさないものになってしまいます。最近の研究は,軸索突起と樹状突起のつながりだけではなく,軸索突起同士のつながりや樹状突起同士の間に見られる微小な回路のことをも示しています。次の引用文はさらに多くの情報を提供しています。

      「大脳皮質にある無数の神経細胞のうち,連想記憶に利用されるものが群を抜いて大多数を占めている。これらの細胞は,幾十億もの連合神経線維で鎖状に結ばれている。これらの細胞や線維は無限に再利用でき,使われるたびに,インパルスはより容易にシナプスを越えられるようになる。こうして,ある細胞に蓄えられた記憶は他の細胞に蓄えられた記憶と関連づけられ,新たな印象を以前の印象の記憶と比較することができるようになる。その結果,論理的な結論に達することが可能になり,それらはさらに創造的な思考をもたらし得る」― アメリカ百科事典,1977年版,第四巻423ページ。

      「脳の重さは1,300㌘足らずであるが,ただ一つの脳の出力に匹敵する処理能力を持つコンピューターは,全地を覆うほどの大きさになろう。脳は,目,耳,鼻,およびその他の末端感覚器から毎秒1億ビットのデータを受け取り,それを仕分けるが,消費する電力は普通の電球よりもはるかに少ない。……各ノイロンには数多くの分枝を有する20万ほどのシナプスが含まれており,そのノイロンが無数にあるのだから,シナプスのお陰で,脳にはほぼ無限の柔軟性が備わっていると言える」― メインライナー・マガジン誌,1978年3月号,43,44ページ。

      思考がはっきりしたものになると,感情が生み出され,感情が高まると,行動が引き起こされます。エホバの創造物について考え,感謝の念に動かされると,エホバに仕えるようになります。愛する人が危険に直面していることについて考え,恐れを感じると,その人を救うための行動が惹起されます。邪悪な考えも同様に働きます。人が不道徳な考えをもって女性を見ると,欲望がつのり,姦淫を犯してしまうかもしれません。イエスと弟子ヤコブもこの点を確証しています。「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。ついで欲望は,はらんだときに,罪を産みます」。(ヤコブ 1:14,15。マタイ 5:27,28)脳に通じる知覚神経が感情を生み出します。例えば,脳の中には快感中枢があり,電極によって刺激が与えられると,快感が引き起こされるのです。ほかの感覚中枢が,電極によって刺激されると,激怒,恐怖,あるいは平安などが生じます。ネコにそのような刺激を与えて,ネズミの姿に身をすくまさせることもできます。ある部位に電極を当てがうと,ネズミは激怒し,別の部位に当てがうと快感を覚えます。ペダルが取り付けられて,ネズミがそれを押すとネズミの快感中枢が刺激されるようにしたところ,ネズミは寝食や性行為に見向きもせず疲れ果てて倒れてしまうまで,一時間に5,000回もの割合でそのペダルを踏みました。

      いまだに残る数多くのなぞ

      脳に関して多くの調査がなされてきましたが,なぞに包まれた部分がはるかに多く残されています。電極を用いることにより,どこで,どのような機能が果たされるかを示す,大脳皮質各部の精密な分布図が作成されました。頭の隆起に触って“性格”を研究する,骨相学のような誤った考えは取り除かれました。頭蓋骨の形は大脳の形によって決まるわけではなく,脳の特定の部分を“性格”と関連づけることもできません。

      しかし,感覚受容器官にある神経の先端が,受けた刺激をどのようにして電気刺激に変換するのかは分かっていません。どのようにして記憶が働くかも分かっていません。電気化学的なインパルスからどのようにして思考が生じるのか,どのようにして決定が下されるのか,運動神経を通して送られる反応はどのようにして引き起こされるのかなどは,何一つ分かっていません。ノイロンを伝ってゆくインパルスの伝導でさえ,まだ完全には解明されていないのです。これらの電気的なインパルスがどのようにして夢を見させ,詩や音楽を書かせるのか,また,それに関して,意識そのものをどのようにして存在させているのかは,人知では計り知れません。

      歩行,談話,食事,水泳,自転車に乗ること,あるいは野球ボールを捕ることなど,わたしたちが当たり前と考えている行為に必要とされる膨大な脳の働きについて考えたことがありますか。初心者は高く上がった飛球を追って右へ左へ動きますが,大抵ボールは当人から数㍍離れた地点に落ちます。それとは対照的に,プロの選手はボールがバットに当たった音と同時に飛び出します。ボールがバットに当たった時の音は,それがどれほど強く打たれたかを知らせます。その選手の目はボールの軌道と速度を観察し,その人の脳はボールの大体の落下点をはじき出します。選手はその方向へ向かって走りますが,走っている間も,その脳のコンピューターは,捕球するにはどの位置にいなければならないかを正確に定めるため絶えず計算をしています。風があるでしょうか。それはどれほどの強さで吹いていますか。それはボールを右へ,あるいは左へ流しているでしょうか。ボールは風に逆らって失速していますか。それとも風に乗って遠くへ運ばれているでしょうか。走る方角を変えねばなりませんか。もっと速く,それともゆっくり走ったほうがよいでしょうか。地面はでこぼこですか。よけねばならない穴がありますか。ほかの野手が球を追って来ますか。では,その人に球を捕らせるべきでしょうか。それとも手を振って追い払いますか。

      選手はこのすべてに注目し,なおボールから決して目を離さないのです! 目を離せば,「自分のコンピューターのプラグを抜く」ことになり,捕球し損なうでしょう。こうした数多くの計算や決定を意識的に行なう時間はありません。当人の記憶に残された経験によって訓練されたその選手の頭脳と筋肉は,そうした事柄を自動的に行ないます。その人の脳はそのすべてを行なうよう,練習の際にプログラムに組み込まれているからです。その人がボールを捕らえる能力をどのようにして身に着けるようになったかは,なぞなのです。

      現在,非常に大勢の科学者がしているように,脳の知性を偶然の所産として片付けてしまうことができますか。偶然について考える段になると,科学者たちはきわめて一貫性に欠けています。彼らは,仮想上の惑星にある,遠い文明社会との通信を確立するため,星に向かって無線信号を送ることについて話します。では,遠く離れてその信号を受信する者たちは,その信号が単なる偶然ではなく,知的な源から出たものだとどうして認められるのでしょうか。その信号は,2×3=6というような簡単な数式を伝えるものかもしれません。これは容易に行なえます。あるいは,その信号はずっと複雑ではあっても,情報が伝えられる順序があり,場合によっては人間の姿を描き出すものであるかもしれません。確かに,深遠な宇宙空間を探索する,人間の大きな電波望遠鏡の一つがそのような絵画によるメッセージを受信すれば,科学者たちはそれが理知ある源から出たことを決して疑わないでしょう。しかし,それも脳と比べれば非常に単純であり,さらに,脳だけではなく人間全体を作り上げる可能性を秘めた,子宮内の単一の細胞と比べれば,はるかに単純です。脳は偶然に発生し,子宮内のその細胞は偶然に生じ得ると言いながら,一定の型に従った無線信号はその背後に理知ある源があることを証明している,と言うのは一貫していますか。

      神,宇宙,そして人間の本質について話していた際,アルバート・アインシュタインは,突然空を見上げて「我々はこのすべてについて全く知らない。我々の知識は学童の知識にすぎない」と言いました。

      アインシュタインもダビデも,夜空と人間に見られる神秘に畏怖の念を抱いていました。そしてわたしたちは,頭蓋骨の中に収められた,あの1,300㌘の神秘,すなわち人間の脳に畏怖の念を覚えてやまないのです。

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