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なぜクリスチャンは責任を受入れて果たすべきかものみの塔 1962 | 7月15日
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の宮,家すなわち宮殿は,14万4001の「生ける石」でつくりあげられています。この終りの時,彼らの大部分は死人の中から復活させられて天に置かれ,残れる者だけがまだ地上にいて,その変化を待っています。(テサロニケ前 4:15-17)この栄光の家をつくる御方は,無限の恵みの中に,いまこの家を,彼の愛と善を感謝する人々でみたすことをのぞまれています。別の言葉で言えば,彼は幾十万という人々に宮の「生ける石」と交わる特権をさしのべています。それは,彼らがエホバと御子を知り,「生ける石」とともどもに崇拝者になることにより,新しい世における永遠の生命を受けるためです。次の言葉を語られたイエスは,これらの者に心をとめて居られました,「わたしにはまた,この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも,わたしの声に聞き従うであろう。そして,ついに一つの群れ,ひとりの羊飼となるであろう」。―ヨハネ 10:16,新口; 17:3。
16 (イ)いつ,そしてどんな出来事の後に,これら「万国民ののぞましいもの」は,来始めましたか。(ロ)彼らはどこから来ますか。何の目的のために?
16 これらの「他の羊」を集めることは,いつ行なわれますか。霊感を受けたイザヤは「すゑの日にヱホバの家の山はもろもろの山のいただきに堅く立ち」,と告げています。(イザヤ 2:2)エホバはどのように彼らを集めますか。彼はこう言われます,「しばらくして,いま一度,わたしは天と,海と,かわいた地とを震う。私は万国民を震う。万国民の中からねがわしきものが必ずくる。またわたしは栄光をこの家に満たすであろうと,万軍のエホバは言われた」。(ハガイ 2:6,7,新世)神の御国が天で1914年に誕生して後,そして,大患難がサタンおよび天界にいる彼の悪い手下共に始まって後,王の家は「万国民の中からねがわしき者」で満ち始めました。長老のひとりは,「他の羊」の「大いなる群衆」について,ヨハネにこう告げました,「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって,その衣を小羊の血で洗い,それを白くしたのである」。(黙示 7:9-14,新口)ヨハネのまぼろしによると,これらの柔和で羊のような人々は,数え切れぬ大いなる群衆であって,西暦1919年以来神の御国の伝道を聞いて後,王の家すなわち宮に来はじめました。彼らはいま約185の地や海洋の島々から来ており,エホバの道を教えられ,エホバの道に歩いています。―イザヤ 2:3。
17 (イ)それでは,真の羊飼たちの責任は何ですか。(ロ)長なる検閲者は,自己満足している者たちに,どんな警告を与えますか。
17 だれがこれらの者たちを教えますか。この終りの時に,エホバは「これを養う牧者をその上に立てる」と私たちに保証しています。(エレミヤ 23:4,新口)あなたはこの牧者のひとりですか。あなたはこの責任を受け入れて,果たしていますか。エホバの証者の会衆内には,羊のような従順な人々を援助して,訓練するだけの能力を持つ有能で円熟した兄弟たちが幾人かいても,彼らはそうしていないとのことです。なぜですか。それらの人々は,責任にしばりつけられることをのぞまないからです。ハルマゲドン直前のいま,目に見えぬ検閲者イエス・キリストが,『生きていると思っていても,実際には死んでいる』会衆内のそれらの者たちに告げている次の言葉を,彼らは忘れています,「目をさましていて,死にかけている残りの者たちを力づけなさい」。(黙示 3:1-3,新口)そのような自己満足の精神は,数多い神の会衆のなかのいくつかの会衆内に存在しています。彼らが悔い改めてその責任に目ざめず,「死にかけている残りの者たち」を助けないなら,彼らはその霊的なまぼろしを失うでしょう。そしてキリストが彼らをさばくために来られる時を知らないでしょう。
18 (イ)無関心な者たちは,事実上,エホバとその妻のごとき制度に向かって何と言いますか。(ロ)円熟した兄弟たちや,研究司会者たちは,これらの霊的な幼児に対して,どのように行なうべきですか。
18 エホバはいま,幾十万という柔和で従順な人々をご自分の宮に毎年万国民から集め入れられています。責任を避ける人々は,事実上エホバに向かって「父よ,どうぞ集めることを中止して下さい」と言い,エホバの妻のごとき制度に向かい,『産み出すことを中止して下さい。彼らはもう多過ぎます。私たちには養うだけの時間がありません』と言っていることになります。あなたが無関心で,怠惰なら,あなたは神に仕事の仕方を指図しているのです。あなたはそのことにお気づきではありませんか。それでは,だれがこれらの羊を養い,教え,そして訓練するのですか。これらの幼児が自分ひとりで養えると思いますか。あなたが幼児のとき,あなたは自分自身を養いましたか。忠実な働き人は,パウロにならわなければなりません。彼は『兄弟たちの間で,ちょうど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった』。(テサロニケ前 2:7)それは次のような意味です。すなわち神の「羊」が聖書研究で質問に答えるのに難儀を感じているときがあります。そのとき聖書研究の司会者や円熟した御国伝道者は,その「羊」を必ず訪問して,彼らが円熟するまで彼らのために食物をさいて研究の仕方を数えねばならないということです。
19 (イ)今日なぜ,ある人々は自分の責任を良く果たしませんか。(ロ)昔と現代のどんな例は,彼らの主張が根拠のないものであることを証明しますか。
19 会衆内のある人々は,気をゆるめてその責任を果たすことを渋っていることもあります。それらの人々は御国のことよりも世俗の仕事を重んじ,この世の便利な品物やぜいたく品を求めるために勤務時間以外も働きます。彼らは集会に欠席し,しばしば野外奉仕に参加しません。彼らはこの終りの時に肝要で,しかも私たちを励ます忠実な兄弟たちとの交際や交わりをしません。彼らはこんな風に論じます,「私たちは結婚していて,子供がいます。家族を養うために働かねばなりません」。たしかにそうです。パウロの言葉によると,人は『自分の家族に必要な物を備えねばなりません。さもないと,彼は信仰を捨てた者で,不信者よりも悪い』。(テモテ前 5:8)しかし,預言者イザヤ,エゼキエル,ホセアそして使徒ペテロはどうですか。今日,結婚していて多数の子供を持ちながら,エホバの奉仕を勤勉にしている幾千人という人々についてはどうですか。彼らはどうしてそうすることができるのですか。手をゆるめている兄弟たちの信仰はどこにありますか。彼らが長なる働き人,イエスの次の言葉を軽く取りあつかっていることには疑問の余地がありません,「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えで与えられるであろう」。(マタイ 6:33。詩 37:25,新口)これらの兄弟たちは,本末を転倒しています。そのわけで,彼らには主人のよろこびがないのです。
20 (イ)今日の私たちの特権は何ですか。私たちは,主人のよろこびにはいるために,何をしなければなりませんか。(ロ)『私は疲れている』と言う人々は現代,疲れに屈しないどんな模範にならうべきですか。
20 特に「万国民の願わしき者」が最終的に集められる今,エホバの奉仕にたずさわる働き人になることは特権です。もし,私たちの耳に「良い忠実な僕よ,よくやった。……主人と一緒に喜んでくれ」との言葉が鳴りひびくことを望みたいなら,私たちは責任を受け入れて果たさなければなりません。メシヤなる王が敵の只中で勝利を得る様子をあたまに思いうかべるなら,そしてサタンおよびその悪い勢力に対する彼の正義の戦争に一致しているなら,私たちは彼のいくさの力の日に,進んで献身しなければなりません。さもないと,私たちは敗北してしまうでしょう。勝利を得る王は,聖書の研究に欠席する人についてどのように考えるでしょうか。この研究には,神の御言葉を研究するために弱い「羊」が集まるのです。ところが,その研究に来ない人は,自分の家が研究しているところから数十米離れているという言訳で,その「羊」を助けようとしません。この兄弟は,ナイアサランドのアフリカ人の証者についてどう言いますか。このアフリカ人の兄弟は,会衆の集会に出席するため,「雨の中を10キロから20キロ歩き,ワニのうようよいる川を一つか二つ泳いで渡らねばなりません」。『私は疲れている』という浅薄な言訳は通用しません。長なる働き手は,なまけ者がその軍隊の中にいることをのぞみません。彼は,ふさわしからぬ兵士および働き人として,その者を口から吐き出してしまいます。―黙示 3:16。
21 (イ)会衆内の僕の地位を求めることは正しいことですか。(ロ)どんな二つの理由の故に,すべてのエホバの証者は責任を受入れて果たすべきですか。
21 会衆の僕たちや聖書研究の司会者たちがたくさん集められる「他の羊」の世話をすることは,絶対的に必要です。使徒パウロは,有能な兄弟たちがこれらの立場をいっしょうけんめいに求めるようにと励まし,テモテにこう助言しました,「もし人が監督の職を望むなら,それは良い仕事を願うことである」。(テモテ前 3:1,新口)いま地上にいる最後の成員が,すでに天にいる「生ける石」に参加するとき,賢明な主権者の栄光に輝く宮殿はごく間近に完成するでしょう。「万国民から願わしきもの」はどんどんはいって来て,その速度は増しています。私たちは何をしますか。私たちが天界のエホバの宮殿をつくりあげる油注がれた者であろうと,あるいは地的な「他の羊」の者であろうと,円熟したクリスチャンとして,私たちは他の柔和な人々を集めて,エホバの忠節な崇拝者にならせ,かつ教える者にならせるという責任を受け入れました。私たちは愛の心からこの責任を果たさなければなりません。なぜそうですか。第一に,最高の神の同労者になってこの大きな仕事をすることは,はかることのできないほど大きな特権であり,名誉であるからです。第二に,教える者と教えを受ける者は生命を受けるからです。霊感を受けた使徒パウロは,このことを明白に示し,テモテにこう書いています,「自分のことと教のこととに気をつけ,それらを常に努めなさい」。なぜですか。「そうすれば,あなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる」。―テモテ前 4:16,新口。
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愛はすぐに落胆しないものみの塔 1962 | 7月15日
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愛はすぐに落胆しない
グアテマラで奉仕している数人の全時間特別開拓奉仕者たちは,愛はすぐに落胆しないことを実証しています。そのうちの,あまり教育を受けていないある独身の男性は,証者がひとりもいない町に任命されました。彼は,御国会館になる小さなへやを借りるのに,所持金の大部分が献金できるように,自分はバラックに住みました。会衆の集会の準備をするために午前3時に起きたり,10マイルから12マイルのほこりっぽい道を歩いて,善意者を訪問したり,バナナ園やコーヒー園で聖書研究の司会をするため,ガタガタのバスやのろい汽車で長時間旅をすることを,彼はなんとも思いませんでした。現在のところこの区域には,50人の証者の幸福な会衆があります。そして彼らも,その奉仕者として彼らに聖書の真理をもってこさせた集会に集まるのに,同じ努力を払っています。
それからまた,ある奉仕者の夫妻は,グアテマラのへき地で奉仕するために,目ぼしい所持品をみな売って,飛行機でその任命地に行きました。ふたりの愛と熱心によって,15人の証者の熱心な新しい会衆ができました。夫の非利己的で能率的な方法の訓練の結果,会衆のふたりのメンバーが,全時間特別開拓奉仕者としての資格をえ,さらに他の場所に派遣されました。彼は,このふたりを,自分の会衆で用いることができましたが,必要のもっと大きな場所で彼らが奉仕することのたいせつさを知っていたので,彼らをひき留めることを望みませんでした。そして,バスで8時間,山道を徒歩で12時間という旅をもいとわず,そのうちのひとりを任命地まで送って行きました。
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隣人愛は多くの実を結ぶものみの塔 1962 | 7月15日
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隣人愛は多くの実を結ぶ
ドイツ
ある姉妹は,提案された通り自分の家の近くを伝道しました。この結果について,巡回の僕は次のように述べています,「この姉妹の住んでいるアパートには,10世帯住んでいます。そして,彼女はそのうちの四つの家族と聖書の研究をしています。そのうえに,アパートの子供全部を集めて,毎週1回午後聖書の研究をしています。彼女の夫も同じアパートで一つの聖書研究を司会しています。そして,巡回の僕の訪問期間中にもうひとりの人と研究をはじめることができました。そのアパートで開かれる会衆の書籍研究には,6人が定期的に出席しています。そのうちの3人は,もう奉仕しはじめました。―1962年のエホバの証者の年鑑より
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