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  • “同性愛の生活”には本当の喜びがありますか
    目ざめよ! 1976 | 9月8日
    • 人もいれば,スポーツカーを好む人もいる』のです。

      それで人が同性愛者であるのは,自分がそれを望んでいるからです。聖書にある通り,それは彼らの「心の欲望に合」った事柄です。ゆえに聖書がこの行為を罪に定めているのは当然のことです。聖書によれば,男も女も同性愛者は「十分な返報を身に受け……それは彼らの誤りに対して当然なものです」。彼らは「神の王国を受け継がないのです」。―ローマ 1:24-27。コリント第一 6:9,10。

      それで本当に改めることを望むならば,彼らは自分を変えられるということに当然なるのではありませんか。聖書は,一世紀にこのような事をならわしにしていたある人々のことにふれて,まさしくこう述べています,「あなたがたの中にはそのような人たちもいました。しかし,あなたがたは洗われて清くなったのです」― コリント第一 6:11。

      真の命を見いだしてください

      あなたは同性愛者の社会のメンバーですか。その生活の仕方に満足を見いだして確かに本望を遂げたと言えますか。何千人もの同性愛者は,“同性愛の生活”が決して喜びがあるものではないことを,つらい目にあって初めて知りました。彼らの生き方は「冷笑癖,絶望そして自殺にさえ導くことがある」と,同性愛者のウィリアム・キャロルは述べています。あなたがそのような事になる必要はありません。一世紀の,あの同性愛者たちと同じく生き方を変えて人生を真に楽しんではいかがですか。

      道徳の面で自分の生活を神のご意志と一致したものにして,真の幸福を見いだしたいと心から願う人すべてに,本誌の発行者はエホバの証人と連絡するようお勧めします。エホバの証人は,「命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得る」道を学び知るようにあなたをご援助したいと願っています。―ヨハネ 10:10。

  • 神の崇拝者は菜食主義者であるべきですか
    目ざめよ! 1976 | 9月8日
    • 神の崇拝者は菜食主義者であるべきですか

      “菜食主義: 若者を中心に普及する食生活”1975年3月21日付のニューヨーク・タイムズ紙にはこうした大見出しが掲げられました。その記事が伝えるところによると,現代の菜食主義者には,「ハーバード大学の栄養学者ジーン・メーヤー博士を初めとする幾人かの強力な支持者」がいます。また同紙は,これら菜食主義者の中には,「信者が肉食をしないセブンスデイ・アドベンティスト派やヘア・クリシュナ教などの宗教団体の会員がいる」とも報じました。

      こうしたことから,幾つかの興味深い質問が生じます。神の崇拝者は菜食主義者であるべきですか。もしそうなら,どの種類の菜食主義者であるべきですか。昨年の8月,米国メーン州のオロノで世界菜食主義者会議が開かれた際,菜食主義者にも様々な分類のあることがとくに注目されました。同会議の出席者の中には,「果物しか食べない……果実食主義者(fruitarian),野菜類のほかに卵やチーズを食べ,ミルクを飲む卵乳菜食主義者(ovo-lacto vegetarian),動物界から取ったものをいっさい衣食にあてない……植物主義者(vegan),塩,砂糖,精製粉,調味料の使用を避け,食事として果物と野菜を一緒に食べない自然衛生主義者(natural hygienist),ジャガイモやニンジンなど地中に産する食物をいっさい口にしない,インドに住むジャイナ教徒の菜食主義者」などがいました。(1975年8月22日付ニューヨーク・タイムズ紙)「これら菜食主義者は,友好的なふん囲気を保ちつつ,どれが『真の方法』かをめぐって折にふれ議論を交わすことがある」と同紙は報じました。

      このように,菜食主義にも様々な違いがありますが,全体的に言えることは,ジーン・メーヤー博士が指摘するように,それが,「経済性,健康の維持,動物に対する思いやりという三つの事柄を同時に満たす」理念であるという点です。同博士は,人によっては菜食主義が宗教上の問題になることもあると付け加えたかもしれません。

      経済的要素

      軽視できない経済性に基づく論議には二つの点が関係しています。まず第一に,野菜を中心にした食事は肉を含む食事より経費が安くて済むという点があります。当然のことながら,肉が多くなればなるほど経費がかさみます。わたしたちは生きるために食事をするのであり,食べるために生きているのではありませんから,これは菜食に有利な強力な論法の一つとみなされるかもしれません。しかし,そのような食事で生活することは必ずしも都合がよくないという事実も見逃せません。例えば,極地地方に住んでいる人が菜食主義者になろうとするなら,より温暖な土地に移住しなければならないでしょう。さらに,食べることから得られる楽しみも見逃せません。

      第二の点は,食物の生産自体がいっそう経済的に行なえるということです。1ヘクタールの土地から,年間およそ225㌔の肉が得られると言われていますが,同じ土地から,穀物ならその10倍,ジャガイモならその100倍が得られます。しかしながら,これは機構上の問題であり,すべての人々が菜食主義者になればだれにでも十分の食物が行き渡るようになるとはいえ,世界人口のごく一部を占めるにすぎない真の崇拝者たちが肉を食べないからといって,どれほどの効果が得られるでしょうか。世界が,その神悪魔サタンの力と影響下にある利己的な人間によって動かされているかぎり,食物が平等に配分されるということはまず考えられません。―コリント第二 4:4。

      健康上の要素

      健康上の理由で菜食主義者になった人は少なくありません。1975年5月14日付のニューヨーク・デーリー・ニューズ紙のある記事の中で,メーヤー博士は,菜食主義が普及している事実を報じた前述の記事に対して大きな反響があったことを指摘し,「菜食が栄養価の高い」ものである点を再度強調しました。アルゼンチン人やアメリカ人,カナダ人が一般に肉を食べ過ぎることは,医学関係者の間で広く認められています。しかし,肉食を全くやめれば人々の健康状態が良くなるかどうかについては疑問の余地があります。また,一般の人々の食習慣という観点から見て,それがどれほど現実的かといった問題もあります。さらにメーヤー博士は,菜食主義者になると体重の減ることも指摘しました。炭水化物をより多く食べるようになっても,カロリーが炭水化物の倍もある脂胞分の摂取量がずっと少なくなるからです。

      しかし,厳密な意味での菜食には,多くの場合ビタミンB12が不足しています。このビタミンは,「やがては脳と脊髄の退化を引き起こす悪性貧血の予防に重要な役割」を果たします。また,「菜食にはビタミンDも不足しているものと思われ(ます)。……良質の鉄分が,レバーをはじめとする肉や貝その他の動物性食物から豊富に得られることを考えると,菜食には鉄分も不足しているように」思われます。菜食主義者を自認するメーヤーはこう結んでいます。「一般にどんな食事でも,制限を課せば課すほどその食事にはバランスが欠け,何らかの栄養素が不足しがちである。これは,一風変わった減量食ばかりでなく菜食についても言えることである」。

      同情心と宗教上の要素

      菜食主義を奉ずる人の中には,その論拠として,動物に対する同情心を挙げる人が少なくありません。この種の菜食主義者たちは,“動物愛護 ― 食用にするのをよそう”と書かれたステッカーや“動物を優しく扱い,食用にするのをよそう”と書かれたワッペンを作って人々に配っています。彼らは,自分たちの説を支持する人物として,仏陀やプラトン,ソクラテス,ピタゴラス,オビディウス,ボルテール,ショー,シュバイツァーなどのほかに,陸軍元帥モンゴメリーや空軍大将ダウディング卿(英国空軍,ブリテンの戦闘における功労者)など有名な軍人の名前まで挙げています。

      この同情心の問題が肉食を避ける最大の理由となっていることは確かです。しかし,これは本当に道理にかなっていますか。それとも,感傷的すぎますか。何よりも,神の言葉である聖書はそうした立場を支持していますか。

      この場合にも霊感のもとに記された,エレミヤ記 10章23節および8章9節の次の知恵の言葉が,当てはまるようです。『人の道は己れによらずかつ歩む人は自らその歩みを定むることあたわざるなり』。『[この世の]知恵ある者は……エホバのことばを捨てたり彼ら何の知恵あらんや』。神の言葉は,この問題に関しても平衡の取れた理解を与えてくれます。そこには神の知恵が収められているからです。それでは,この知恵の源から,わたしたちはどんなことを学べるでしょうか。

      まず第一に聖書は,人間の命は神聖なものであり,故意にその命を奪うものは自らの命を失うことになるとしています。この律法が,洪水の生存者であるノアとその家族によって代表されていた当時の人類に初めて与えられた正にその時に,神は肉を食べることを人間に許しました。(創世 9:3-5)言い替えれば,神が人の命を奪うことを厳格に禁じ,その罰として死罪を定めると同時に,食物として動物を殺すことを人間に許したことになります。

      人間と動物の間のこうした違いは聖書全体を通じて認められます。事実,ごく初期の時代から動物の犠牲が捧げられ,それは神の是認を得ました。(創世 4:2-5; 8:20,21)モーセの律法に定められていた各種の犠牲には,数多くの動物を殺すことが関係していました。年毎の過ぎ越しの祝いなどに関連し,神はイスラエルに子羊やヤギなどの肉を食べるよう求められなかったでしょうか。酬恩祭の犠牲を捧げた際,彼らはしばしばその肉を食べたことは言うに及びません。祭司たちはとくに肉をよく食べました。彼らはそれぞれの酬恩祭の犠牲に共にあずかったからです。このように考えてみると,神ご自身もご自分の分として祭壇の上で焼かれた犠牲の動物の肉を,象徴的な意味で食べたことになります。―出エジプト 12:3-9; 34:25。レビ 7:11-15。

      神のみ子,イエス・キリストの例も前述の事柄と一致しています。イエス・キリストが人類に対して愛と同情心を抱いておられたことに疑問はありません。(フィリピ 2:5-8)キリストは,わたしたちに対する神のご意志を明らかにすると同時に,わたしたちの手本ともなられました。(ペテロ第一 2:21)ではイエス・キリストは,肉を食べることを非とされましたか。そのようなことはありません。なぜなら,イエスご自身,忠実なユダヤ人の一人として,少なくとも過ぎ越しの祝いごとに肉を食べておられたはずだからです。さらにイエスは,魚をとって食べることに,何のとがめも感じておられませんでした。事実,二度ほど,漁をしている弟子たちの大きな網に魚がいっぱいかかるようにされました。また,少なくとも二度の機会に,ごくわずかな魚を奇跡的に増やして,幾千人もの男女子供にそれを食べさせました。―マルコ 8:18-20。ルカ 5:4-6。ヨハネ 21:6-11。

      肉を食べることの是非に関して初期のクリスチャンの間で問題が起きましたが,これは動物に対する思いやりからではありませんでした。ユダヤ人として彼らは,以前にある種の肉を食べることを禁じられていました。そこで,この問題については,もはやモーセの律法のもとにいないことを彼らに示す必要があったのです。(使徒 15:19,20)また,偶像に捧げられた肉を食べることに関する問題もありました。神を崇拝する者が,肉を食べるか否かに基づいて裁かれるべきでないことを使徒パウロは次のように明らかにしました。「ある人はなんでも食べてよいとの信仰を持っているのに対し,弱い人は野菜を食べます。食べる者は食べない者を見下してはならず,食べない者は食べる者を裁いてはなりません」。ここに挙げた聖書の諭しや例は,宗教上の理由で肉食を非とする人の主張を効果的に反論しています。―ローマ 14:2,3。

      前述のことから明らかなように,人間の必要に応じて動物を殺すのは,神のご意志に反することではありません。しかしながら,神の言葉は動物を正しく顧みるようにと勧めています。(箴 12:10)といっても,聖書は,人間と同じ程度に動物を“愛する”ことを求めているのではありません。考えてみてください。アダムとエバがまだエデンの園にいた時,神は身を覆う皮衣を二人にお与えになったのです。そのためには,動物を殺すことが必要だったことでしょう。(創世 3:21-23)銃,魚雷,そして爆弾などの引き起こす流血の戦争行為に異議を唱えることなく,動物を食用のために殺すことに強く反対する人は平衡の取れた見方を失っているように思えます。こうした戦争によって,幾百万もの男女子供が殺され,苦しめられ,言い知れない惨状に陥り,辛苦をなめているのです。

      『神の崇拝者は菜食主義者であるべきですか』との質問には,それは全く個人的な問題であるとしか答えることができません。経費などの経済上の諸要素や健康上の理由から,菜食主義が実際的で価値があると考え,菜食を励行する人もいるでしょう。しかし,その規定食を是とする倫理的な根拠を神の言葉である聖書の中に見いだすことはできません。菜食主義の根拠を聖書に見いだそうとする人は,物事を神の見地から見ていないことになります。

      今日重要なのは,肉を食べるか食べないかではありません。真の神エホバをそのみ言葉である聖書に示されている仕方に従い,霊と真理をもって崇拝しているかどうかが重要なのです。イエス・キリストは,その崇拝の仕方を身をもってわたしたちに示してくださいました。イエスは人々の必要を満たすべく,物質面で,また霊的な面で人々に仕えました。しかし,「人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」と語ったイエスは,とりわけ霊的な面に気を配られました。これこそ,神の真の崇拝者すべてが従うべき手本です。―マタイ 4:4。ヨハネ 4:24。

  • 『影の下に来る』
    目ざめよ! 1976 | 9月8日
    • 『影の下に来る』

      岩,雲,建物,樹木,その他の物体が投げかける影は,暑い日差しなどからの,願ってもない保護物となります。その理由で,『何々の影の下に来る』という聖書の表現は,保護を受けられる,安全な,避難所となる場所に来ることを意味しています。例えば,ロトは自分のもとに客として来たみ使いに関して,ソドムの男たちにこう告げました。「ただこれらの人たちには何もしないでください。そのためにわたしの屋根の影に来たのですから」。(創世 19:8,新)イザヤ書 32章1節と2節もご覧になってください。

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