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暴力に直面した時のクリスチャンのふるまいものみの塔 1967 | 12月1日
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こう言われました。「わたしが世のものでないように,彼らも世のものではありません」。(ヨハネ 17:16)ゆえにクリスチャンはこの世の激烈な闘争に荷担しません。ご予定の時にしかも罪のない人々を傷つけることなく神がすべての悪を終わらせることをクリスチャンは知っています。
今日のクリスチャンもこの世の争いにかかわり合わないようにする結果,初期クリスチャンのしたとおりのことを行なっています。ジャスチン・マーターが2世紀に書いたことに注目してください。「我々はかつて戦争,果たし合いその他すべての悪をほしいままにしていたが,世界中どこでも互いに戦いの武器を変え,剣をすきに槍をくわにし,そして,はりつけにされた方を通じて天の御父より受けた資質すなわち敬虔,正義,博愛,信仰,希望を培った」―「ニケア以前の教父」,第1巻,254頁。
国々の権威者の多くはクリスチャンの中立を正しく認めていませんが,理解している人も中にはいます。
たとえば,アフリカのある国で内乱が生じ,警察および軍隊が各地の道路に防さいを築き,かなり時間のかかるきわめて厳重な検閲を実施しました。ところがエホバの証人はほとんどの場合,証人であることの十分の証拠が提出されると,あとはごく簡単な検査を受けるだけで通行を許され,検閲官はしばしばこう語りました。「あなたがたなら信頼できます」。「ご心配いりません。エホバの証人のことならよく知っています」。また,これらクリスチャンの幾人かが奉仕者の大会に向けて旅行中のこと,一検問所でこう告げられました。「あなたがたの仲間の何人かがすでにここを通って行きました。さあ,あなたがたも早く行きなさい!」エホバの証人の中立の立場を熟知しているこれらの官憲は証人たちが内乱に無関係であることを知っており,証人たちは敬意をもって取り扱われました。
しかし逆に政府当局から迫害されてもクリスチャンは各自中立の立場を守ります。その歩むべき道はエホバ神のみことばの中に定められており,彼らはどんなことがあっても妥協しません。こうして世の暴力行為に荷担することを避け,神からの不利なさばきを受けないようにします。
今や神は暴力に悩むこの社会をまもなく終わらせ,かわりに,「義の住む」新しい事物の制度をもたらします。(ペテロ第二 3:13)暴力に面しても正しいふるまいを保つクリスチャンは,命,健康,平和,幸福などのすばらしい益をその時ゆたかに刈り取り,暴力のない新しい秩序における生活を永遠に享受するでしょう。「柔和な者は国を継ぎ,豊かな繁栄をたのしむことができる」― 詩 37:11。
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彼らは血を食べないものみの塔 1967 | 12月1日
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彼らは血を食べない
● 西暦3世紀古代ローマの著作家ミヌシウス・フェリックスは「オクタビウス」と題する対話形式の作品を書いた。その中で彼は,当時クリスチャンである事を公言する人々に対してあびせられていた非難を論破しようと試みている。流布されていたうわさの一つは,彼らが「幼児を殺害しその血を用いて入会式を行なう」ので,血を飲んでいる,と云う事であった。生命と血の神聖さを甚だしく軽視している異教徒の風習についてあらまし述べたのちにミヌシウス・フェリックスは,当時のキリスト教信仰を持つ人々が血に関する神の律法に尊敬心を持っていた事を示した。彼は次のように書いている。「彼ら[異教徒]もまた,血に濡れ,血で汚れ,そして人間の手足や内臓で肥えた円形闘技場の獣をむさぼる者と異なるところがない。我々の持つ法律は殺人を見物したり,承認したりすることを許してはいない。それで食物として食べて良い動物の血でさえ用いない我々は,人間の血からはもっと遠ざかる。(ミヌシウス・フェリックスのオクタビウス,30章「ニケア信条以前の教父たち」4巻,191,192頁)3世紀になってもキリストの追随者であると公言する人々の持っていた血に対する態度が聖書的であり今日の真のクリスチャンと異なっていない事は注目に値する。―創世 9:3,4。使行 15:28,29; 21:25。
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