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  • 『私は沈没したタイタニック号の生残りです』
    目ざめよ! 1982 | 1月22日
    • 『私は沈没したタイタニック号の生残りです』

      米国フロリダ州ジャクソンビルに住む私の年老いた両親とおじを訪問したのがそもそもの始まりでした。おじは今から数か月前に亡くなりましたが,これはその少し前の話です。いつものように,私たちは日曜日の朝,公開講演に出席するためにエホバの証人の王国会館に行きました。私たちは,「あなたは『終わりの日』を生き残る者となりますか」という優れた話を聞きました。その帰り道,おじは,「あの話を聞いていて,恐ろしい惨事に生き残った時のことを思い出しました」と言いました。おじは少し間をおいてから,こう付け加えました。「私は沈没したタイタニック号の生残りなのです」。

      その後私はおじのルイス・ギャレットに,タイタニック号での経験について話してくれるよう頼みました。

      おじはこのように話してくれました。「そもそもの始まりから話しましょう。私は1900年にレバノンのハクールという小さな山村で生まれました。その村はベイルートの北130ないし140㌔の所にあります。家族は水力で小麦を粉にひく石うすを持っていて,それを動かしていました。父は村の製粉業者だったのです。一家は米国に移民することになりました。1904年に,母と二人の姉妹がレバノンを離れました。その後1906年になって,兄が米国へ向けて出発しました。父と姉と私が米国へ向けて出発し,家族全員の移民が完了したのは1912年のことでした。

      「1912年の3月に,船でフランスのマルセイユへ向かいました。そこにいる時に,ニューヨークへ向けて処女航海に出ることになっていたタイタニック号に乗る予約をしました。1912年4月10日がその出航の日付でした。父はやむなくマルセイユに残されました。目の病気のために,義務付けられていた身体検査で失格してしまったのです」。おじはにっこり笑って,「父にとっては非常に幸いなことでした」と声を強めました。

      おじの話はさらに続きました。「タイタニック号に乗り込んだ時,姉は14歳で,私は12歳でした。父を残してゆくのは悲しいことでしたが,当時としては最も大きくて最も速く,最も豪華な船とされた英国郵船タイタニック号に乗れるので興奮していました。しかも,その船は不沈船といわれていたのです。船には2,200人を超える人が乗っており,その中には当代きっての金持ちや有力者もいました。大勢の人はその処女航海を祝うためにタイタニック号に乗っていました。そうするのが社会的に著名な人々の間では“先端”を行くことだったのです。船足は予想通りで,ニューヨークには4月17日,水曜日に入港することになっていました。海面は穏やかでしたが,4月としては寒い気候が続きました。

      「海に出てから五日目の4月14日,日曜日には天候が特に寒くなり,余りの寒さに遊歩甲板の人影もまばらでした。その海域には氷山があるとの警報が出ていることを耳にしました。船の進路には一つもないということで,タイタニック号は全速力で航行を続けました。しかし,北大西洋上にあった別の船,カリフォルニアン号の船長は,私たちの行く手に氷山を見掛けた,とタイタニック号に無電で警告してきました。この警告は無視されました。スミス船長の自信過剰に対する代償として,仲間の乗組員約700人と乗客の800人以上が犠牲になったのですから,その代償は実に高価なものでした。

      「4月14日,日曜日の午後11時45分ごろ,姉と私は激しい揺れで目を覚ましました。姉は船室の寝台の上段におり,『何か変よ!』と叫びました。

      「『寝た寝た,姉さんは心配し過ぎるよ』と私は姉に言いました。ほどなくして,船の上で知り合いになった年配の男の人で,父親のような関心を示してくれた人が船室にやって来て,静かな口調で『船室から上甲板へ出なさい。今は自分の荷物を持って行くことなど考えないでもいい。後で手元に届くから』と言いました。

      「私たちは三等の切符を持っていたので,二等の甲板までは行けることになっていました。しかし,二等及び三等の乗客は,見張りの立っている,一等の上甲板に通じるゲートを通り抜けることはできませんでした。しかし,うまく救命艇に乗り込む機会を得るには一等の上甲板へ出た方が賢明だと告げられました。そうするためには,下の三等甲板から五つか六つ上の甲板にある救命艇のところまで鉄のはしごを登って行くしかありません。やっとのことで上甲板にたどり着きましたが,それは容易なことではありませんでした。鉄のはしごを登るのは姉にとって難しいことだったからです。それでも,ほかの人たちの助けを得て,何とかたどり着きました。

      「なんという光景でしょう。救命艇はほとんどなくなっていました。乗組員は婦女子だけを救命艇に乗せていました。すべての人が乗れるだけの数がなかったのです。夫を残して行きたくないと泣き叫ぶ婦人,妻や子供に急いで救命艇に乗り込むよう懇願している夫の姿が見られました。どうしようもないこの大混乱と集団ヒステリーのただ中で,英語を話せない二人の移民の子供,つまり私と姉は信じられないほどおびえ,助けを求めて泣いていました。

      「最後の救命艇に人が乗せられていました。非常に若い妊娠した妻を連れた中年の紳士は,夫人が救命艇に乗るのを助けてから甲板を振り返りました。そこには救命艇に乗りたがっている人々がほかにもいました。その紳士は夫人に別れの口づけをし,甲板に戻り,一番近くにいた人をつかみました。幸いにも,私は丁度よい時に丁度よい場所に居合わせ,救命艇に入れてもらいました。私は大声で姉を呼びました。姉はおびえて動けなくなっていました。ほかの人たちの助けを得て,姉も救命艇の中に押し込まれました。この親切な行為をしてくれた雄々しい男の人はだれだったのでしょうか。ジョン・ジェーコブ・アスター4世だったと聞きました。当時アスターは48歳で,妻のマドレーヌは19歳でした。子供はアメリカで産みたいという理由で二人は米国へ向かって旅をしていたのです。ジョン・ジェーコブ・アスターがどのように移民の子のために自分の命を捨てたかを伝えるニュース記事が数多く書かれました。アスター家の記録には,アスター氏が,夫人を救命艇に乗せるのを阻もうとした乗組員と口論したというアスター夫人の話が載っています。それでも,アスター氏は夫人を救命艇に乗せ,それからすでにお話ししたように,夫人に口づけをし,甲板に戻って他の人々が救命艇に乗るのを助け始めたのです。

      「救命艇に乗れてほっとしましたが,タイタニック号に残された人々のことを思うとやはり悲痛な気持ちになりました。振り返ってその大きな美しい船を見ると,船は異なって見えました。まだライトが幾つかついていたので,船の大きさや美しさを見ることができました。夜のしじまの中だったので,また音が海面をよく伝わってきたので,甲板でバンドが演奏し,人々が『主よみもとにちかづかん』を歌っているのが聞こえてきました。救命艇に乗った乗組員は,船からできるだけ遠く離れるようにこぎました。船が大洋の深みに完全に没する時,一緒に吸い込まれてしまう恐れがあったからです。そのようなことは起きませんでしたし,ある人が考えていたような爆発も起きませんでした。その晩,海は大変穏やかでした。そしてそれが幸いしました。どの救命艇にも人がすし詰めになっていたからです。

      「様々な記録によると,タイタニック号は,1912年4月15日の午前2時20分ごろ沈みました。私はその船が海の中に徐々に没してゆき,恐ろしい最期を遂げるのを目撃しました。沈んだ瞬間の記憶は,今でもまだ頭にこびりついて離れません。凍てつくような水の中に投げ出された人々が助けを求めるうめきや狂ったような叫び声の不気味な音です。ほとんどすべての人は,水が冷たかったために死にました。その音は45分ほど続き,それから徐々に消えてゆきました」。

      おじは記憶をたどるかのように,しばらくだまっていました。それから次のように言葉を続けました。「SOSが1度真夜中に発信され,キューナード・ホワイト・スター・ライン社の汽船カルパチヤ号がそれを受信しました。同船は93㌔ほど離れた所にいたので,ジブラルタルに向かっていたその進路を即座に変えて,全速力で救助に向かいました。その船は午前4時半ごろ到着しました。興味深いことに,カリフォルニアン号はタイタニック号が沈没した位置から32㌔しか離れていない所にいましたが,無線通信員が部署を離れていたために,そのSOSの信号を拾うことができませんでした。後日談になりますが,その晩,カリフォルニアン号は火の手が揚がるのを見ていました。しかしタイタニック号の乗客が処女航海を祝って花火を揚げているのだろうと思っていたそうです。

      「カルパチヤ号は午前8時30分ごろに救難活動を終えました。私たちの救命艇は救助された最後のグループに入っていました。船に引き上げられ,毛布にくるまって熱いお茶を与えられ,楽になってようやく生きた心地がしました。もっともあてがわれたくつや上着はぶかぶかでしたが。

      「後で,カルパチヤ号の船長が,甲板に出て来て氷山を見るよう生存者すべてを呼びました。12歳の私の記憶に,その氷山は大きな煙突のある二階建ての家ほどの高さがあり,それよりずっと幅の広い大きな物体として残っています。その船はジブラルタルまでの旅行を続ける前に,私たちをニューヨークにまで届けてくれました。それは,キューナード・ホワイト・スター・ライン社の経営陣の非常に親切な行為でした。私たちは4月18日,木曜日の午後8時半にニューヨークに到着し,キューナード・ホワイト・スター社の波止場に連れて行かれました。

      「救命艇の中で過ごしたあの長い時間を今にして思うと,カルパチヤ号に無事救出されたのは奇跡のように思えます。厳しい寒さに,もう少しで打ち負かされるところでした。私たちは身を寄せ合って寒さをしのぎました。人々は互いに親切を示し合いました。カルパチヤ号の甲板では風が非常に強かったのを覚えています。風は強くなって,時速数ノットになっていました。幸い,風は救出作業の終わるまでの間,やんでいました。海面が穏やかでなく波が高かったなら,救出作業はこれほどうまくはいかなかったことでしょう」。

      「救命艇の中で死んだ人がいましたか」と私が尋ねました。

      「私の知っている限り,私たちの救命艇に乗っていた人で寒さのために死んだのは一人だけです。その遺体はシートに包まれ,そっと水面に送り出されました」。

      「その救命艇には男の人もいたのですか」。

      「乗組員の指示通り,こぎ手になった数人の乗組員以外は婦女子だけでした。乗組員を“うまくだました”,赤ん坊のいる若い一夫婦もいました。その奥さんは非常に抜け目がなく,若い夫に女装をさせ,その頭をショールで覆い,赤ん坊を抱かせました。夫の方は別の救命艇に,その奥さんの方は私たちの救命艇に乗っていて,どちらもカルパチヤ号に救出されました。

      「ニューヨークに着いた私たちは,移民手続きを済ませるためにエリス島へ連れて行かれるものと思っていました。ところが,生存者たちはすでに痛みや苦しみに耐えたという理由で,この手続きは省かれました。私たちは赤十字の手にゆだねられ,家族と会うことができました。兄のアイザックはニューヨークにいましたが,私たちの再会は喜びと悲しみの入り混じったものでした。父はまだフランスにいたのです。しかし考えてみれば,父がタイタニック号に私たちと一緒に乗っていたなら,婦女子だけという規定のゆえに,父は生きてはいなかったのです。私たちが生き残れたかどうかにも影響を及ぼしたかもしれません。父をタイタニック号に残して,自分たちの身の安全を計るのは私たちにとってつらいことであったに違いないからです。幸いなことに,父は3か月後に別の船で無事到着しました」。

      おじは少し休止を入れ,その恐ろしい経験について深く物思いにふけっていました。結局私の方がその考え事の邪魔をする形になりました。「その悲劇の生存者になられたわけですね。では,『終わりの日』のこの間近に迫った患難についてはいつ学ばれたのですか」。

      おじはこう答えました。「話は1912年から1930年へと飛んでしまいます。ニューヨーク市ブルックリンから一人のコルポーターが,兄の家族及び私と家内と息子で成る私の家族が住んでいたフロリダ州ジャクソンビルを訪れました。兄はアラビア語を話すエホバの証人の幾人かと聖書を研究していました。兄自身活発なエホバの証人になっていたのです。ジョージ・カフーリィという名のそのコルポーターは,アラビア語を話す人々のために幾つかの集会を開きました。私は『神の立琴』という本のアラビア語版を受け取りました。幾度も兄と議論を交わした後,私は気が転倒してとうとう兄に,『昔からやっているギリシャ正教を離れたのなら,もう兄とは思わない。三位一体のしるしである十字を二度と再び切らないなどとはとても信じられない』と言いました。

      「私は兄を愛していたので,二人の間にこうしたわだかまりができてしまったことがとてもつらく思われました。数か月後,以前に入手した『神の立琴』という本がたまたま目にとまりました。ほこりがたかっていましたが,昼過ぎにそれを開いて読み始め,夜中までそれを読み続けました。神の言葉の真理が私の心の中に入り込んできました。私はアラビア語を話す人々のために司会されていた研究に加わり,1933年にバプテスマを受けました。

      「私の人生でもう一つ際立ったことがあります。長年の間夢みてきた旅を,財政的に実現できるようになったのは1949年のことでした。レバノンには片親を異にする兄がおり,その人を訪問して,王国の希望を伝えたいと思っていました。レバノンへ帰る飛行機はグリーンランドの上空を通るルートをとり,タイタニック号が沈んだその場所の上空に非常に近い所を通過しました。冷たい大西洋を見下ろし,あの悲惨な出来事について思い巡らしているうちに,感きわまってしまいました。

      「私が顔を涙でぬらしているのに気付いたスチュワーデスが静かに手を伸ばし,私の腕を軽くたたいて,『どうかされましたか。何かして差しあげましょうか』と尋ねました。私は,『いいえ,12歳の子供だった時のことを思い出していただけなんですよ。私はタイタニック号という大きな船に乗っていましたが,その船は丁度この真下あたりで沈没して,1,500人以上の命が奪われたのです。私はいまだにあの恐ろしい朝のこと,暗やみの中から聞こえてくる,助けを求める叫び声,そしてあの凍り付くような水のことが忘れられません』と答えました。黒い髪の美しいスチュワーデスは,『悲しいお話ですね。タイタニック号の惨事については読んだことがあります』と言いました。

      「私はレバノンへの旅を終えました。うれしいことに片親を異にする兄は聖書に関心を示しました。そして後日,やはり献身したエホバのクリスチャン証人になりました」。

      ルイスおじは,神の王国が現在のサタンの事物の体制に取ってかわるという希望を言い表わして,その経験談を締めくくりました。

      おじはこう言いました。「神のみ言葉の真理は私の人生の導きとなる力となってきました。私は,タイタニック号の惨事に際して命を救われ,この重大な『終わりの日』の今,神に仕える機会を与えてくださったことをエホバに感謝しています」。おじは自分の兄夫婦の近所に住み,死の日に至るまで自分の最善を尽くして兄夫婦と共にエホバに仕えました。神のご意志が天で行なわれているように地にも行なわれますように,と祈ることを決してやめませんでした。(マタイ 6:9,10)ハルマゲドン前に死ぬことがあるなら,神は命への復活によって墓の力から自分を救い出してくださるという希望をおじは強く抱いていました。

  • では,あなたはこの体制が沈む時,生き残りますか
    目ざめよ! 1982 | 1月22日
    • では,あなたはこの体制が沈む時,生き残りますか

      タイタニック号が沈没するなど考えられないことでした。タイタニック号の船長で,中佐でもあったE・J・スミスも,「この船が致命的な惨事に見舞われるなどということは私には考えられない。近代造船術はそれを凌駕した」と語りました。ところが,そうした惨事が生じたのです。その巨大な船が沈み始めた時でさえ,それに乗っていた人々は自分たちが本当に危険な状態に置かれているということを信じようとはしませんでした。1912年4月19日付のニューヨーク・タイムズ紙が伝えたところによると,一生存者は次のように語りました。

      「乗組員はすべての人に[救命艇]に乗り込むよう勧めたが,だれも急いでそうしようとはしなかった。危険はないと考えられており,船を離れれば,数時間後にはわざわざボートをこいで船までもどって来なければならなくなり,物笑いの種になるというのが一般的な考え方であった。

      「最初のうちは,船内のどこでも人々は無関心であった。不沈船であるとの確信が非常に強かったので,ほとんどの人は最後の瞬間まで船の安全性に確信を置いていた。一人の旅客係<スチュワード>が後に私たちに語ったところでは,ある婦人の部屋の戸を繰り返したたいたのに,その婦人は動こうとはしなかった。旅客係はとうとう婦人を引きずり出そうとしたが,彼女に撃退され,最後にはあきらめてしまった。その婦人は特等室の中に入ったまま,海のもくずとなったと考えられている」。

      タイタニック号の救命艇には1,178人の収容能力がありました。これはすべての人を収容するに足るものではありませんが,700人という生存者の数をはるかに上回ります。“不沈”船に対する誤った確信のせいで,最初に降ろされた救命艇の幾そうかは定員の半分ほどしか乗せずに船を離れたために大勢の人がいたずらに命を失いました。

      ある婦人の乗客の部屋のドアを一人の旅客係<スチュワード>がノックし,“考えられない事柄”が起きていると繰り返し警告したのに,無視されてしまったことにお気付きになりましたか。『なんと愚かなことだろう』と言われるかもしれません。

      しかし,あなたの家のドアをも繰り返しノックし,差し迫った警告を与えている人々がいます。その人たちは全能の神の忠実な「家令<スチュワード>」であるエホバの証人です。それは,戦争や犯罪,残酷な暴力などがはんらんしているため,この世界的な事物の体制全体に“沈没”の危険があるという警告ではありません。むしろ,神がそれを間もなく“奈落の底”へ落とし,ご自分の天の王国により支配される義の新秩序がそれに取って代わることを可能にされるという警告です。

      その警告にあなたはどのような反応を示しますか。タイタニック号の前述の女性の乗客のように,『冗談にもほどがある! そんなことは考えられない!』と言って,ドアを閉じますか。そのような態度は命を失うことにつながりかねません。

      危険は容易に見て取れるはず

      興味深いことに,タイタニック号に乗っていた警戒を怠らない幾人かの人は惨事が差し迫っていることを感じていました。なぜですか。その船は安全な操船術の最も基本的な原則を犯していたからです。その点を一生存者は次のように指摘しています。「私たちは昼過ぎに,大西洋横断の記録すべてを更新しているということを知らされました。この船が時速23マイル(約36.8㌔)で航行しているということが,氷山にぶつかる数時間前まで乗客の間で繰り返し話題に上りました。その日に船にもたらされた,危険を告げる警告について知らない人はいませんでした」。

      どうして危険きわまりない猛スピードを出していたのでしょうか。別の生存者は次のように回想しています。「[惨事のあった晩]就寝前に,グランド・トランク鉄道会社の社長チャールズ・H・ヘイズと長話をしました。ヘイズ氏は最後にこう語りました。『ホワイト・スター社,キューナード社,それにハンブルク-アメリカン社は,その注意力と創意の才を注ぎ込んで互いにしのぎをけずり,豪華船やスピード記録に関して優位に立とうとしている。今に必ず何か恐ろしい惨事が起きて,こうした事態が正されるであろう』。かわいそうに,数時間後には当のご本人が死んでしまったのです」。

      現在の世界の状況はそれと非常によく似ていませんか。安全性に注意を払わず,自らが不沈であるとの神話に確信を置いて,タイタニック号は危険な競争を行なっていました。今日,世界の諸国家はそれよりもさらに危険な軍備競争にうつつを抜かし,タイタニック号の船長同様,惨事が臨むことはないと信じています。しかし,そのような信頼を置く根拠がありますか。それとも,人々の確信は誤ったところに置かれているのでしょうか。世の有様を観察する考え深い人は,災いが臨む可能性はますます強くなっていると論じています。

      この事物の体制に臨もうとしている災いについてエホバの証人が伝える警告を聞いて,『冗談にもほどがある! そんなことは考えられない!』と言いたくなる方には,次の点を銘記していただきたいと思います。この世は安全な政府,安全な生態学,および安全な国際関係にかかわる最も基本的な原則を犯しているのです。災いが臨む可能性はないとどうして言えるでしょうか。

      警告に注意を払う必要

      言うまでもなく,危険を察知しているだけでは,この世の体制の終わりから救い出されることにはなりません。タイタニック号に乗っていたヘイズ氏が危険に気付いていたのに,救われなかったのと同じです。タイタニック号の生存者は,危険が迫っているとの警告に応じてふさわしい行動を取った人々でした。

      多くの人にとって,そのような行動は真夜中に快適な特等室を出て,ガウンを着ただけで冷え冷えする甲板にかけ上がることを意味しました。旅客係や乗組員の命令に逐一へりくだって従い,場合によっては夫や兄弟をあとにして小さな救命艇に乗り込むことを意味しました。それは,当時,「壮大な15階建ての水上宮殿,どこを見ても豪華で巨大,……広々とした談話室にレストラン,小劇場,スカッシュやテニスのコート,水泳プール,蒸し風呂や電気風呂,広々とした喫煙室,トランプ室,美しい音楽鑑賞室,サンルーム,熱帯植物の温室,ヤシの木の点在するラウンジ,体育館,そのうえ……小さなゴルフ場まで……備わっている」と言われた船から小さなボートに乗って離れて行くことを意味しました。そうしたぜいたくで快適な物すべてを捨て,冷たい海の上で覆いのないボートの硬い席に座ることを意味したのです。少なくとも最初に救命艇に乗った人々について言えば,すぐに恥ずかしそうにボートをこいでタイタニック号に戻って来て「物笑いの種になる」だけだと言う人々の嘲笑に対する恐れを克服しなければなりませんでした。このように,たとえ警告を聞いていたとしても,それに注意を払うのは容易ではなかったでしょう。その警告に注意を払うには,断固とした態度,謙遜さ,物質主義を否定すること,困難をいとわない自己犠牲の精神などが求められました。しかし,それにはそれだけの価値があったのです。それ以外の道と言えば,快適な暮らしをあと数分長く楽しんで,死ぬだけでした。

      すでに沈みつつある

      この世の体制はすでに1914年以来“沈みつつ”あります。その年に起きた第一次世界大戦をもって,聖書のマタイ 24章,ルカ 21章,マルコ 13章にあるイエスの預言の著しい成就が始まりました。イエスは次のように述べておられました。「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食料不足や地震がある(の)です。これらすべては苦しみの劇痛のはじまりです」― マタイ 24:7,8。

      イエスはさらに,これら「苦しみの劇痛」の後に,クリスチャンに対する迫害,偽預言者の登場,犯罪と不法の増加,神の王国の良いたよりが全地に宣べ伝えられることなどが続くと指摘されました。「それから終わりが来るのです」とイエスは言われました。―マタイ 24:9-14。

      1914年以降,正にこの預言がいよいよ真実になってきていることを否定できる人がいるでしょうか。そうする人は,巨大な船が本当に氷山に衝突したことを否定したタイタニック号の乗客のようになるでしょう。

      1914年にこの世の体制に起きた事柄は,単なる氷山との衝突よりもはるかに意義深い事柄でした。聖書の年代表の示すところによると,エホバ神は1914年にイエス・キリストをこの地の正当な支配者として任命されました。a キリストは直ちに,サタン悪魔を天から地の近くへ追い落とすという処置を取られました。その結果生じた事柄は,啓示 12章12節に見事に描写されています。「地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである」。

      世界的な「災い」の生じるその『短い時』は1914年に始まりました。それはどれほど続くのでしょうか。イエスはその期間が,その始まりを目撃した世代の生存期間中に終わるであろうことを示されました。(マタイ 24:34)では,この「災い」の期間はどのようにして終わるのでしょうか。徐々にではなく,突然終わるのです。それは浸水して沈没しつつあるとも言えるこの世界的な“豪華船”が,この世の政治勢力とキリストのみ使いたちの軍勢との劇的な対決によって滅ぼされる時です。この最終的な対決はハルマゲドンの戦いとして知られています。―啓示 16:14,16; 19:11-21。

      ですから,この事物の体制のいかなる偽りの“浮力”にも欺かれてはなりません。中には,「そのことを冗談の種にした」タイタニック号の愚かな乗客のような人もいます。事実,当時の新聞報道によると,「[タイタニック号にぶつかった氷山の]氷片の幾つかが甲板に落ち,幾人かのひょうきんな者たちはその出来事の記念品だと言ってそれを拾い,順番に回した」のです。

      同様に今日でも,事実上,この世は常に戦争や犯罪,その他の苦難に遭ってきたと言う,「ひょうきんな者たち」がいます。『それなのに,どうしてそんなに興奮するのか』と言うのです。(ペテロ第二 3:3,4)この“豪華船”はまだまだ浮いていられる,とそうした者たちは主張します。しかし,忘れてはなりません。戦争や不法,食糧不足およびその他の苦難は,船が沈みつつあることを示す兆候にすぎないのです。最終的に,そうした事柄が船を沈めるのではありません。神が間もなくそれを突然にお沈めになるのです。

      甲板は傾いている

      それでも,二つの世界大戦,前例を見ないような地震の数々,毎年世界各地の飢きんのために幾百万もの犠牲者が出ていること,軍備競争の激化,これらすべては賢明な人々にとって,この快適な船の甲板が傾いていることの明確なしるしです。残された時は少なくなってきています。ちょうど,タイタニック号の乗客が自分たちの窮状の由々しさにようやく気付いた時には十分の救命艇が得られなかったのと同様,大半の人々がこの世界的な体制は滅びるということをようやく悟る時には,手遅れであることを聖書は示しています。“救命艇”はなくなっているでしょう。―マタイ 24:38-42。

      救命艇がなくなってしまえば,あとに残された人々が救い出される希望はありませんでした。当時,ジョン・ジェーコブ・アスター4世の個人的な資産が推定1億㌦あったということも何の役にも立ちませんでした。そのお金は命を救うものとはならなかったのです。その息子ビンセントの持っていたお金も役に立ちませんでした。ニューヨーク市で,当時ビンセントは,「悲嘆のあまりヒステリーのようになり」,無線局に押し掛け,「[無線の]通信士が父親が安全であるとのニュースを聞いたとさえ言ってくれれば,欲しいだけお金をやる」とだれかれなしに告げていたと言われています。そのすべては無駄でした。

      確かに,タイタニック号の遭難は大惨事でしたが,この事物の体制の前途に迫っている災いはそれよりもはるかに大きなものとなります。タイタニック号の乗客の約3分の1はかろうじて死を免れました。しかし,差し迫ったこの事物の体制の滅びの際に,世界人口のそれほど大きな部分が生き残ることを示す聖書的な根拠はありません。それとは反対に,「エホバに打ち殺される者は,その日,地の一方の果てから地の他方の果てにまで及ぶであろう」と言われています。(エレミヤ 25:33,新)その打ち殺される者には,「王たち……軍司令官たち……強い者たち……自由人ならびに奴隷および小なる者と大なる者」が含まれています。―啓示 19:18。

      その警告は,これまで長年にわたって本誌および姉妹誌である「ものみの塔」誌の誌上で与えられてきました。今でも戸口にやってくる「家令たち」の聖書に基づく指示に従って,謙遜な人々が“救命艇”に自分の乗る場所を見いだすための時間はまだ残されています。しかし,その時間は残り少なくなっています。まだ機会が残されているうちに,この事物の体制が沈没する時に生き残る者となるため何をするべきかについて,エホバの証人に尋ねてみてはいかがですか。

      [脚注]

      a ニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会発行の「とこしえの命に導く真理」という本の82-93ページをご覧ください。

      [10ページの拡大文]

      タイタニック号の前述の女性の乗客のように,『冗談にもほどがある! そんなことは考えられない』と言って,ドアを閉じますか

      [11ページの拡大文]

      “救命艇”に自分の乗る場所を見いだすための時間はまだ残されています。しかし,その時間は残り少なくなっています

      [9ページの図版]

      あなたはこの体制の終わりに関する警告に注意を払いますか

  • 「ハチのように忙しい」― どれほど忙しいのか
    目ざめよ! 1982 | 1月22日
    • 「ハチのように忙しい」― どれほど忙しいのか

      養蜂家に1㌔のハチミツを提供するために,ミツバチはどれほど働くのでしょうか。ドイツ養蜂家協会の出したチラシはその答えを与えています。それによると,1匹のミツバチは1時間に約700の花に授粉させることができます。しかし,1㌔のハチミツを生産するために,ミツバチは700万以上の花のところへ飛んでいかなければなりません。1㌔のハチミツを集めるには約15か月に相当するほぼ1万時間の“滞空時間”を要することを意味します。もっとも,これは1匹のミツバチがそれほど長く生きればの話です。そのハチは24万㌔,つまり地球の赤道をほぼ6周するのに匹敵する距離を飛ばなければならないのです。

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