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霊的な分別で満ちよものみの塔 1959 | 11月1日
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霊的な分別で満ちよ
『あなた方が知恵においても,霊的な分別においても,神の御意の正確な知識に満ちることである。それはヱホバにふさわしく歩み,……ヱホバを全くよろこばせるためである。』― コロサイ 1:9,10,新世。
1 クリスチャンはどんな種類の決定をくださねばなりませんか。正しい決定をくだすために何が必要ですか。
献身したクリスチャンは,毎日決定をしなければなりません。この世に生活しているので,たくさんの問題が生じます。そして決定をしなければならぬ事柄が生じます。家庭内では自分の家族に影響する決定をしなければならず,仕事の場所では真理外の人々との関係に影響する決定をしなければなりません。また新世社会内の兄弟姉妹たちとの関係に影響する事柄とか,ヱホバとその制度および御国奉仕に対する関係に影響を及ぼす事柄を決定しなければなりません。正しい決定をどのようにくだすか,その正しい道にいつもどのように従うか,それが問題です。それをするためには霊的な分別が必要です。
2,3 正しい決定をつくるために,私たちはどのように物事を見るべきですか。この結果は何ですか。
2 霊的な仕方で物事を分別するということは,ヱホバが物事を見る仕方で物事を見るという意味です。ヱホバは,その御霊のはたらきにより,物事についての見方を霊感の御言葉の中であらわされました。ヱホバはどのように事柄についての価値をつけられるか,価値のあるものが何であると考えておられるか,また無意味で無価値なものが何であると考えておられるか,そしてどんなわざと考えが良いもので美徳のものであり,悪いもの有害なものが何であるかを知らせています。人間は,堕落しているので,肉の見地から物事を見る傾向があります。しかし,ある問題が生じたとき,利己主義,恐れ,高慢,あるいはしつとというような肉の傾向によつて影響をうけるなら,その人は必ず悪い決定をします。
3 クリスチャンは,正しい決定をくだすために,霊的な分別で満ちなければなりません。クリスチャンは,善と悪を明白に分別しなければなりません。彼は正しいことを愛し,悪いことを憎まねばなりません。パウロはロマ書 12章9節(新口)で次のように言い表わしています,『悪は憎みしりぞけ,善には親しみむすび』正しい決定をして霊的な分別を持つていると示すことは,ヱホバをよろこばすことであり,ヱホバの御前にふさわしく歩くことです。同じ使徒は,コロサイ人に宛てて次の言葉を書きました,(コロサイ 1:9,10,新世)『私たちは……あなた方のためにたえず祈り求めてきた。それはあなた方が知恵においても,霊的な分別においても,神の御心の正確な知識に満ちることである。それは,ヱホバにふさわしく歩み,そしてあらゆる良きわざを行つて実を結び,神の正確な知識を増してヱホバを全くよろこばせるためである。』
4 『識別する』とはどういう意味ですか。霊的な識別において知識はどんな役割を果しますか。
4 私たちは,どのように霊的な分別で満ちることができますか。コロサイの会衆に宛てて述べた言葉の中で,パウロは第一番目の基礎的な絶体条件を指摘しています,すなわち神の御こころの正確な知識を持つこと,そしてそのような正確な知識で満ちることです。『分別する』とは,文字通りに『見る』すなわち『心の目で識別する』という意味です。つまり,それぞれのものを識別して善いか悪いか,重要か重要でないか,貴重か無価値かを認めることです。分別の目に対する知識の関係は,ちようど肉眼の目に対する光の関係のようです。それは照らしかがやきます。事物を他のものとの正しい関係の中に明白に表わし示します。けわしい危険な地でいちばん良い道を選ぶために光は是非とも必要です。それと同じように,この古い組織制度のけわしくて危険な状態にあつて正しい安全な道を見分けるために正確な知識は必要です。それで,神の御こころについての正確な知識は,そのような知識がもたらす神への愛とともどもに,人の生活の中で正義にたいする強い力としてはたらきます。そして,正しい決定をくだしヱホバをよろこばせるのに是非とも必要です。―エペソ 4:23,24。
5,6 (イ)どんな種類の研究が必要ですか。(ロ)私たちの学ぶ事柄を「たしかめる」ことのできる一つの方法とは何ですか。
5 神の御こころの正確な知識を心にかたくとどめるために研究は必要です。これは極めて肝要なものであるため,いくら強調しても強調しすぎることはありません。その研究は,考えが心の中に永久にきざみつけられる種類の研究です。そして,このためには努力と心の集中が必要です。私たちの聖書研究で『いつしよう懸命に努力』しなければなりません。そうです,研究とはまつたくそのことを意味します。―研究しなさい! それは深く心に考えることを意味します。食物を十分に消化するために,良くかむことが必要です。食物をかみながら,私たちは食物を味い,十分に賞味します。霊的な食物についても同様です。霊的な食物をかんで心の中に幾度も思いかえすことが必要です。そしてそれを十分に賞味することができます。霊的な食物を心の中でかむための助けとして(この雑誌を研究する時のごとく)読みながらなぜそうであるか,どうしてこうなのであるか,というような質問をすることもできます。それは,読んでいるところを批判しようという気持からするのでなく,諸点を正しく理解しているかどうかを知るため自分の心を調べるのが目的です。使徒も次のようにいましめています,『すべてのものを識別して,良いものを守り』すなわち,読んでいることを理解し,それからその諸点を心にしつかりとめるということです。―テモテ前 4:10。テサロニケ前 5:21,新口。
6 霊的な分別は,たくさんの事実を学んだだけでは得られません。多くの人々は知識を持ち,頭に知識をたくわえます。しかし,それらの人々は霊的な分別に欠如しているのです。私たちが霊的な分別を持つとは,事実を理解して十分なつとくし,すでに学んだ他の知識と比較考慮してから,他のものとの正しい関係の中に新しい知らせをくらべ,新しい光の照り輝く事柄についての私たちの理解をひろげたり訂正して直したりします。このようにして,私たちは「何が神の御旨であるか,何が善であつて,神によろこばれ,かつ全きことであるかを,わきまえ知り」ます。―ロマ 12:2,新口。
7 霊的な分別で満ちるのに,ヱホバの御霊はなぜそんなにも肝要ですか。個人的な研究をする場合,何が為されねばなりませんか。
7 それから又,霊的な分別で満ちるためには,ヱホバの御霊による援助をうけることが必要です。ヱホバの御霊をうけつつ,また研究と考究をしてのみ,人は正確な知識を得て十分の理解を得ます。この絶対に重要な事実を決して忘れてはなりません,すなわち神の御霊の助けなしで霊的な分別に満ちることは不可能である,ということです。神御自身の言葉も次のように述べています,『いつたい,人間の思いは,その内にある人間の霊以外に,だれが知つていようか。それと同じように神の思いも,神の御霊以外には,知るものはない。ところが,私たちが受けたのは,この世の霊ではなく,神からの霊である。それによつて,神から賜わつた恵みを悟るためである。この賜物について語るにも,私たちは人間の知恵が教える言葉を用いないで,御霊の教える言葉を用い,霊によつて霊のことを解釈するのである。』それで,あなたが研究するとき,そうです,自分の家で個人ひとりで研究するとき,ヱホバの御霊によつて研究の援助をしていただくよう,そしてあなたの理解を助け,読んでいる事柄の意味をつかみ,霊的な分別に成長するようヱホバに祈りなさい。―コリント前 2:11-13,新口。
8 私たちは,どんな目的を心に留めて研究すべきですか。私たちは是非とも何を避けねばなりませんか。
8 御霊を求めるそのような祈りとともに,個人的な研究にも必要な努力を払わねばなりません。そして,神の御言葉の理解と認識を拡大して霊的な分別に生長することを目的としなければなりません。そのような研究は,愉快なものであり,また心ひきたてるものです。そしてそうでなければなりません。『ものみの塔』研究のような会衆の集会に対する準備の研究に,十分の注意と努力を払わないなら,霊的な分別を得ることはできません。ある人々は研究の準備を最後の時にいたるまで,多分予定されている会衆の研究の一,二時間前まで打ち捨てておく習慣があります。おそらく,やさしい質問のいくらかを調べて節の中からその答を見出すだけの時間はあることでしよう。そして,御国会館の『ものみの塔』研究の際にすくなくともいくつかの注解をすることができるでしよう。しかし,それは研究ではありません。そのようにして得る知識はすぐに忘れてしまいます。そして,その特定な記事を研究して一日か二日の後には,おそらく思い出すこともできないでしよう。
9,10 (イ)私たちの個人的な研究で復習はどんな益がありますか。(ロ)個人的な研究のための規則立つた予定は,なぜ必要ですか。
9 個人的な研究とか『ものみの塔』研究や他の集会の準備の為に明確な時間を計画する際には,その記事についてよく深く考慮するための十分の時間が当てがわれねばなりません。それはその,知識をゆつくり噛みしめて,心にしつかりとどめるためです。このことがなされたか否かを調べるためには,個人的な研究の時間が終るごとに復習することは良いでしよう。そのとき知識は新鮮なものであり,心に深い印象を残すことになります。研究の時間が終つたすぐ後にその知識を心の中に思い起させようと努力するとき,記憶力と,思い起す能力を訓練します。そして,いろいろな点を心にしつかり定めるのに大きな役割を果すでしよう。最後の復習は,雑誌なり本なりを閉じていたしなさい。記事の題があるのですから,主要な論議の大切な点についてどのくらいおぼえていますか。そこに用いられている証明の聖句のいくらかを思い起しますか。その記事を簡単に概略するとき,主要な諸点を述べることができますか。もしできないなら,その記事をふたたび研究する必要があります。そして,大切な諸点や主要な論議を気をつけて探さねばなりません。
10 このところで,ある人は『しかしこれには時間がかかる』と言うことでしよう。たしかにそうです。しかし,それは良く使われた時であり,神の御心の正確な知識を心にしつかりうえつけ,そして霊的な分別で満ちるための正しい基礎を置くためには,それだけの時間を使わねばなりません。近道というものはないのです。霊的な分別で満ちるため,研究,そうです定期的な研究は是非とも必要です。パウロもテモテに次の言葉を書きました,『私の言うことに絶えず考えをめぐらしなさい。主は,あらゆる事における分別を必ずあなたに賜わるであろう。』― テモテ後 2:7,新世。
11 真理の理解と認識に成長することからどんな結果が生じますか。
11 この賢明な道に従うとき,あなたは真理についての理解と認識の深まることによろこぶでしよう。それはあなたの心と思いに深く沈み,あなたの一部になるでしよう。そのとき,あなたは本当に『あなた方の中にある望みについて説明を求める人には,いつでも弁明のできる用意をしている』ことになります。あなたの思いと心は強い円熟したもの,そして健全なものです。あなたは行くべき道をはつきり見るでしよう。あなたは,真理と健全な教理という狭い道から,偽りの教えと,宗派的な考えという沼地に落ちこむことはないでしよう。事柄について極端な見地を取ることを避け,そして自分自身の理解に頼るという安易な罠に落ちこむことから身を守るでしよう。あなたの心は正確な知識で満ち,あなたの考える能力はヱホバの御霊によつてみちびかれているため,あなたは正しい道,光の満ちている道を見定め,そして暗黒にみちびく悪い道から救われるでしよう。『これは知恵が,あなたの心にはいり,知識があなたの魂に楽しみとなるからである。慎みはあなたを守り,悟りはあなたを保つて,悪の道からあなたを救い,偽りをいう者から救う。彼らは正しい道を離れて,暗い道に歩み』― ペテロ前 3:15。シンゲン 2:10-13,新口。
12 生活中に問題が生ずるとき,クリスチャンは何をする必要がありますか。決定をくだす際に彼は何を見分ける必要がありますか。
12 クリスチャンは,自分の歩く道において霊的な分別を行使しなければなりません。それは,『ヱホバにふさわしく歩み……ヱホバを全くよろこばせる』ためです。個人に影響する問題が生ずるとき,不完全な人間はすぐに感応します。もし注意を払わないならば,その人は悪い行いをするようになるでしよう。人は肉の衝動と欲を抑え,霊的な分別でみちびかれねばなりません。それで,問題が生ずるとき,よく考える必要があります。このことについて聖書は何と言うであろうか。ヱホバとキリスト・イエスは,そのことをどのように見るだろうか。それにはたくさんの要因が関係していますが,急いで行うならばそのような要因を考えないでしよう。すなわち,仲間の証者の関心事やクリスチャン会衆の関心事,神の関心事,そして恐らく自分自身の生活の関心事というようないろいろな関心事に影響をおよぼす要因です。次の霊感の助言を考えてごらんなさい,『あなたがたの愛が,深い知識において,するどい感覚において,いよいよ増し加わり,それによつて,あなたがたが,何が重要であるかを判別することができ,キリストの日に備えて,純真で責められるところのないものとなり,イエス・キリストによる義の実に満たされて,神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。』― ピリピ 1:9-11,新口。
13,14 (イ)霊的な分別を持つ人は,会衆内の難事に直面したとき,どのように行ないますか。(ロ)どんなことは,正しい見地を持つ助けになりますか。
13 多分,会衆内のある事柄は正しく取りあつかわれていません。すくなくとも人はそう考えるかも知れません。たとえ,ある事柄が正しい仕方で行われなくても,心配動揺して,気をもむ理由にはなりません。もしそのようなことの起ることを許すなら,その人は平衡の感覚を必ず失うでしよう。そのような状況下で軽率に行うことは,肉の見地からなされるのであつて,円熟した霊的な分別からなされるのではありません。最初はある事に正しい場合であつても,軽率に行うことは助けになりません。そして,その人も悪い道を取るようになるでしよう。そのことは,事態を正しくしません。いつの時でも,私たちはヱホバとその制度に先がけせず,短気にならず,事柄を自分勝手に取りあつかわぬように気をつけねばなりません。ある人が間ちがいのことをする時はあるでしよう。そして,多分その人が会衆内のある立場を持つているため,しばらくのあいだすこし難しい状態になるかも知れません。しかし,その時こそクリスチャン忍耐を示す時です。そして,その事柄を神権的に取り扱うことができないなら,私たちはヱホバがその事柄を訂正するまで待たねばなりません。霊的な分別に満ちる人は,そうするでしよう。
14 それは正しい見地を取る,すなわち正しい釣合の感覚で事態を見るということです。人間が不完全であるために,局部的な難問や問題が生ずるでしよう。そして,不便な状態におちいり忍耐の試験をうけたり,また愛情に抑制をかけることになるでしよう。しかし,すこし深く考えてみて,他の重要な事柄と比較するとき,これらの問題は間もなく小さいものに見えるでしよう。
15,16 (イ)私たちが注意を向けねばならぬいつそう重要な事柄のいくらかは何ですか。(ロ)ピリピ人に宛てた手紙の中で,パウロはこの心の態度をどのように励ましていますか。
15 重要な事柄のいくらかを考えてごらんなさい。私たちがこの組織制度の終りの日に生活しているという事実,全能の神が御自分の宇宙的な至上権を宣明して立証する大いなる日の戦い,ハマルゲドンが間近に行われるという事実,キリスト・イエスは今御国の力を持つて支配し,『御国のこの良いたより』を全地に伝道させる大きなわざをみちびかれているという事実,この伝道のわざの結果,あらゆる国,言語,人種,そして国民から来る善意者は一致と調和のある新しい世の社会に集められている事実です。これらの事柄を考え,またこれらの事柄を知つてそれにあずかるというすばらしい特権や過分の御親切について考えるとき,心はヱホバへの感謝で満ちあふれるようになります。そのようにずつと重要な事柄と比較するとき,その問題はなんとちいさなものに見えるのでしよう! それで,小さな問題が生ずるとき,または局部的な見地から見て大きな問題が起るとき,霊的な分別を持つ人は,そのような問題を心の中で大きなものとならせて,見方をゆがめさせるようなことをしないでしよう。彼は自分の平衡を保ち,更に重要な事柄との関係を考えながら,事柄をいつでも見なします。
16 幸いなことに,問題とか難事は新世社会内に絶えず起きているわけではありません。全くのところ,現にあるよろこびと比較するとき,それらは数少く,わずかなものです。そのよろこびとは,野外での経験,羊を見出して養うこと,御国会館で兄弟たちと楽しい交わりをすることなどです。私たちは,これらの事柄に思いをめぐらすべきです。『すべて正しいこと,……すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい。』そのような事柄で心をいつぱいに満たしなさい。そのとき,あなたは分別の心をいつも保つでしよう。あなたは霊的に見分けることができます。―ピリピ 4:8,新口。
17 ある人々は,小さな事柄のゆえに,どのように真理から外ずれ落ちましたか。
17 批判し過ぎる人,不完全な内的の見地から他の人をいつも見る人は,重要な事柄を見失います。そのような人は,不幸な不平家になるでしよう。全くのところ,ある人々は小さな事柄の故に真理から外ずれ出てしまいました。どうして? 小さな事柄を生活中の大きな事柄にならせたため,他のすべてのものを追い出してしまつたのです。彼らは霊的な分別を失いました。神の御言葉の見地から物事を考えるかわりに,彼らは誇りとか,恐れとか又はしつとというような肉的の感情でもつて動かされました。それらの人々は,自分自身の理解にたよつたため霊的なわざわいに終る道に入りました。
18 そのようなつまづきの道に対して,どのように身を守ることができますか。
18 私たちはみなそのような道に対して警戒したいと欲しませんか。私たちに対する神の御心が何であるかについての正確な知識を増しつづけ,更に重要な事柄を心と思いにしつかり保ち,そして問題の生ずるとき,御言葉に述べられているごとく物事に対するヱホバの見方に注意し,自分自身の目から見て賢明にならないとき,私たちはそのような道に対して身を守ることになります。このことに関連してヱホバがシンゲン 3章1-7節で与えている時機にかなつた助言に注意しなさい,『我が子よ,わがおきてを忘るるなかれ。なんじの心にわがいましめを守れ。さらばこのことは汝の日を長くし,生命の年を延べ,平康を汝に加うべし。あわれみと真実とを汝より離すことなかれ。これを汝のくびにむすび,これをなんじの心の碑にしるせ。さらばなんじ神と人との前に恵みと好名とを得べし。なんじ心をつくしてヱホバにより頼め,おのれの聡明によることなかれ。なんじすべての道にてヱホバをみとめよ。さらばなんじの道を直くしたまうべし。自ら見てさとしとするなかれ,ヱホバを畏れて悪を離れよ。』
19 私たちは,すべての心をこめてヱホバに信頼していることを,どのように示しますか。
19 たとえ自分はあることに正しいと考えても,過度に正し過ぎないように気をつけ,自分の目に賢明にならず,自分自身の自己偽善でまどわされぬよう気をつけねばなりません。クリスチャンは自分の平衡を保ち,自分の精神を制御して行かねばならないのです。そして,サタンに打ち負かされて,悪い道にみちびかれるという機会を与えてはならないのです。事柄を考慮して霊的な分別を用い,神の御言葉に依り頼んで,その事についての神の御考えを知るだけの時間を取らねばなりません。クリスチャンの生活中に起きる問題で,ヱホバの御言葉が賢明な助言と導きを与えていない問題というものは先ずありません。人は,ヱホバの助言を求めて,それにいつでも従い,神の御こころの正確な知識に従うことを「彼の心に働きかける力」となし,かくして『神のみこころにしたがい,まことの義と愛の中につくられる新しい人格』を着ることにより,すべての心をこめてヱホバに信頼していることを示します。―エペソ 4:23,24,新世。
20 (イ)霊的な分別は,怒つたり心配動揺したりすることから,私たちをどのように守りますか。(ロ)非行をなした者を取り扱う際,どんな正しい道を取れとイエスはさとしましたか。
20 霊的な分別は新しい世の社会内にいる兄弟や姉妹たちとの正しい関係にみちびきます。たとえば,自分に害がなされたとひとりの兄弟が感じたとしても,その兄弟はすぐに怒つてしまい,他の兄弟が自分について行なつた事なり又は言つたことについて心を動揺させるというようなことをしないでしよう。そのような状況の下にあつて人を動揺させて怒らせる原因となるものは何ですか。それはただ自分自身のことだけを考え,多分自分の良い名前が悪く代表されたためではありませんか。しかし,それよりも更に重要な事柄が含まれてはいませんか。もし会衆内のある者が悪い行いをするなら,霊的な分別を持つクリスチャンは,この兄弟の悪い行いは霊的な弱さの証拠であり,その故に霊的な生命が危険なものであると見ます。そして,その兄弟が自分に対して行つた実際の害または想像上の害よりも,そのことの方がずつと憂慮すべき事柄であると見なします。円熟したクリスチャンは『うらみを抱かず』に,間ちがいを犯した兄弟のところに行きます。それは怒つた気持でするのでなく,また彼の加えた悪に対して個人的な報復感を得るためでなく,むしろ彼に対する愛の心から,そしてできることなら,手遅れにならぬ前にその兄弟を誤ちから救い出すためです。これこそイエスがさとしている事柄ではありませんか,『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら,行つて,彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら,あなたの兄弟を得たことになる。』― コリント前 13:4,5。マタイ 18:15,新口。
21 ヱホバの円熟した僕は,どのように自分自身を見ますか。
21 霊的な分別を持つ神の忠実な僕たちは,自分たちが実際には何であるかを知つています。彼らは単に地的な器であつて,それ自身の価値はほとんどないものです。しかし,ヱホバの奉仕に用いる尊い知識の宝を内に持つています。このことは彼らを謙遜にならしめます。そして,彼らの持つている価値あるものはヱホバから,いただいたものであり,彼らには誇るところはないと認識いたします。コリント前書 4章6,7節(新口)のところで,使徒は次のように書きました,『「しるされている定めを越えない」ことを学び,ひとりの人をあがめ,ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いつたい,あなたを偉くしているのは,だれなのか。あなたの持つているもので,もらつていないものがあるか。もしもらつているなら,なぜもらつていないもののように誇るのか。』この聖書的な見地を持つとき,私たちは高慢になつて自己中心になり,神経過敏になつて怒り易く,つき合いがむずかしい,などということが防げるでしよう。彼はヱホバのめぐみと,ヱホバおよび御子キリスト,イエスを知る特権に対する感謝でいつぱいになるでしよう。そして,自分自身のことを忘れ,自分の持つている良い事柄を他の者と分ち合うことだけに興味を持ちます。
22 私たちは謙遜である一方,どんな極端なことを避けねばなりませんか。どのように?
22 しかし,私たちが謙遜である一方,劣等感を持つて弁明がましくし,自分自身に満足しないで失意落胆するという極端な反対に走ることに対しても注意する必要があります。ヱホバの御霊の力を認める人は,健全な心の中に次のことを見分けます,すなわちヱホバの助けがあるなら,自分に対するヱホバの御こころを行うことができ,奉仕のどんな役割も信仰をもつて果すことができるということです。ロマ書 12章3節(新口)にはこのように書かれています,『私は自分に与えられた恵みによつて,あなた方ひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思い上がることなく,むしろ,神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがつて,慎み深く思うべきである。』
23 霊的な分別は,兄弟間の一致にどのように貢献しますか。
23 クリスチャンが自分自身に対してこのような謙遜な見地,および現実的な見地を取るとき,自分の兄弟たちに対して正直でつつしみかくさず,かつ現実的な態度を持つことができます。かくしてその交際を快いもの,その調和を敬虔にみちたものにします。霊的な分別を持つとき,私たちは一致の中に互に働き,お互の必要を認識します。そして,実際的な愛の表現をする事ができます。それで,霊的な分別に満ち,正しい決定をいたしなさい,『それはヱホバにふさわしく歩み,そしてあらゆる良きわざを行つて実を結び,神の正確な知識を増してヱホバを全くよろこばせるためである。』
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霊的な分別 ― クリスチャン円熟の証拠ものみの塔 1959 | 11月1日
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霊的な分別 ― クリスチャン円熟の証拠
1,2 (イ)新しい状況に面する子供には何が必要ですか。しかし,賢明な両親は何にむかつて努力しますか。(ロ)もつとも重要な種類の円熟は何ですか。
子供は援助と導きを必要とします。成長して行く子供が新しい状況に面するごとに,子供の福利を気づかう両親は,必要な援助と助言を与えます。最初,両親は子供のために決定をつくつてやらねばなりません。すなわち何が良く何が悪いか,何を食べ,何を食べてはいけないか,いつ眠つていつ遊ぶべきか,子供は安全などんな場所に行けるか,またどんな危険な場所を避けるべきか,子供はどんな文書を読んでその向上に益となるか,そしてどんなものは混乱をひきおこして,霊的な成長や道徳的な成長に悪いかを決定します。しかし,子供が年を取るにつれ,賢明な両親は子供が自分自身で考え,何が善で何が悪であるか,何が賢明で何が愚かであるかを見分けることができるよう訓練します。そうするなら,成人したときには精神面でも円熟したものでしよう。
2 子供たちの精神的な成長および霊的な成長について,両親がその必要を認識することは重要です。特に後者の成長は重要です。『円熟』という言葉は,多くの種類の成長に適用することができます,身体面,精神面,感情面,そして霊的な面の成長に適用できます。そして,最も大切なのは最後に述べられている種類のもの,すなわち霊的な円熟です。しかし,この世に関するかぎりそれはいちばん無視されているものです。
3 (イ)賢明な教訓者は,自分と研究している者を,どのように訓練すべきですか。(ロ)クリスチャン円熟の証拠は何ですか。
3 子供についてのこのたとえは,真理の知識を新しく学んだ人がクリスチャン円熟に成長することにも良く適用できます。最初は神の御言葉の研究の仕方について援助を必要とします,すなわち円熟したクリスチャンの個人的な助けとみちびきが必要です。養うことが必要です。しかし,賢明な教訓者は,自分の生徒が自分ひとりで考え,考究するように訓練します。それは,生徒が間もない中に自分自身を養い,分別の力に成長し始めることができるためです。成人は,大人としての理解と認識を示すことによつて分ります。同じくクリスチャンとしての円熟性は,霊的な分別,正しい決定を下す能力,そして聖書の原則にもとずいて善悪をはつきり見分けることによつて示されます。パウロはこのことを次のように良く表現しました,『すべて乳を飲んでいる者は,幼な子なのだから,義の言葉を味わうことができない。しかし,かたい食物は,善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。そういうわけだから,私たちは,キリストの教の初歩をあとにして,完成を目ざして進もうではないか。』― ヘブル 5:13から6:1まで,新口。
4 (イ)真理に新しく接した人々には,どんな励ましがありますか。(ロ)円熟に向かつて進歩する際の主要な要因は何ですか。
4 この雑誌のある読者たちは,ごく最近の幾週間か前,または幾ヵ月前から,ものみの塔の研究の手引を用いて聖書を研究し始めたかも知れません。そのような人は,霊的な見地から見ていわば幼な子であるため,『言葉を味わうことができない』と感ずるでしよう。そのような人は,神の御言葉を熱心に研究しつづけなさい,そしてヱホバの過分の御親切によりクリスチャン円熟に成長し得ると確信しなさい,と私たちは言ます。子供が身体面で成人になるには幾年もかかります。しかし,クリスチャン円熟に達するには必ずしも長い年月を必要としません。それは研究についやす時間の量に依存するのでなく,むしろヱホバに捧げる心から深い献身と『義の御言葉』に対する認識にもつぱら依存するのです。謙遜に教えを受け入れ,そして進歩しようと切望しなければなりません。初歩の教理を消化して後,真理の『かたい食物』を理解するために進歩し,円熟に向かつて進歩を表明します。
5 ヘブル書 5:13から6:1までの言葉は,実際には誰に述べられていますか。そして,なぜ?
5 しかし,前述に引用したヘブル人書の言葉を書いた使徒は,クリスチャン会衆に新しく交わり始めた人々に手紙を書いたのではありません。実際には,『真理』に長い年月いながら円熟に進まず,霊的な分別ではまだ幼児の者たちに彼は書いたのです。彼らは『成人』の性質を示していませんでした。それは教えるわざをするために是非とも必要だつたのです。それで,彼は『久しい以前からすでに教師となつているはずなのに』と彼らに書きました。これらの人々が『最後まで望みを持ちつづけるためにも,同じ熱意を示し,怠ることがなく,信仰と忍耐とをもつて約束のものを受けつぐ人々に見習う者となる』ことは必要でした。―ヘブル 6:11,12,新口。
6 なぜ私たちは「円熟に向かつて進み」つづける心要があるのですか。
6 円熟というものは,一度得たならば,それから後は努力をしなくても私たちから離れない,というものではありません。クリスチャン制度は絶えず進歩しています。クリスチャン制度の上に照り輝く真理の光は,ますます明るくなります。このことは,ヱホバが御自分の宮に来られている今日,特に真実です。なぜなら,『あなたのさばきが地に行われるとき,世に住む者は正義を学ぶからである。』知識と理解において進歩があるだけでなく,また今日は『御国のこの良いたより』を伝道する日でもある故,ヱホバは最も効果的な方法でこのわざを達成せしめるためにいまだかつてない仕方で御自分の証者たちを訓練しています。ヱホバは,御自分の神権制度を用いて,このわざのための新しい方法や備えを絶えず供給しておられます。霊的な理解と奉仕の能力において,進歩する制度の円熟さと歩調をそろえることは,絶えず「円熟にむかって進む」ことを意味します。―マラキ書 第3章。イザヤ 26:9。マタイ 24:14。
7 奉仕に関連して人は何を見定めねばなりませんか。どのようにしてのみ,私たちは進歩しつづけることができますか。
7 ヱホバの証者の各人は,制度のなす進歩に対する自分の関係を分別しなければなりません。ある人は真理に長く交わっていて,宣教に長年のあいだ活潑であったかも知れません。そのように長く行なってきたことは,ヱホバによろこばれるものです。しかし,同時に人は新しい世の社会と歩調をそろえているかどうかを見定めねばなりません。もし長年のあいだヱホバの奉仕をしてきたのであるなら,自分の奉仕が効果的であるかどうかについて是非知りたいと思うでしよう。それは実を産出しますか。新しい人々を教えて,弟子をつくり出すことにより,あなたの奉仕は新しい人々を援助していますか。前に述べたごとく,円熟と霊的な分別の基礎的な肝要条件の一つは謙遜です。私たちがどれほど進歩しているかを正確に見定めるため,私たちは自分自身を正直に,また謙遜に見ることが必要です。もし望んでいた進歩をしていないなら,高慢な態度をとって援助を求めようとしないなどということがあってはならず,また監督のひとりが来て援助を申し出る時に怒りを感ずるということがあってはなりません。進歩しつづけるためには私たちは自分の必要物を分別しなければならないのです。―ピリピ 3:16。
8 (イ)霊的な分別はどこから始まりますか。(ロ)クリスチャンにとつてどんな関係または交わりはいちばん大切ですか。
8 クリスチャン円熟にこのように成長して行くことは,各人のとる段階,またそれぞれの決定の際の分別に見られます。それは献身から始まるものです。献身を考えている者は,自分の献身が,ある人にささげられているとか,又は夫であろうと妻であろうと,母親であろうと父親であろうと,人をよろこばすためになされているのではない,と先ず理解しなければなりません。それは一つの制度にささげる献身でなく,新しい世の社会にささげる献身でもありません。それは宇宙の最高の御方,ヱホバ神にささげる献身であつて,彼の御こころを行ない,彼をよろばせようという決意をもってなされます。イエスもそのことをこのように表現しました,『神よ……御旨を行うためにまいりました。』それで,献身した者は次のことを認識しますす,なわち最も大切な交わりあるいは関係は,彼がいま入りつつあるヱホバとの関係である,ということです。それは聖にして尊く,また『親密な』関係です。そして,ヱホバはイエス・キリストを通しその過分の御親切により御自分の被造物をその関係に招待しておられます。その関係を軽々しく破ってはなりません。―ヘブル 10:7。詩 25:14。
9 ひとつのわざに献身することは,なぜ間ちがいですか。奉仕について釣合のない見方を取ることは,何にみちびきますか。
9 伝道というような特定なわざをするために献身する人は,間ちがいです。そのわざがむずかしくなると,その人はすぐに失意落胆します。制度やその成員との交わりがいちばん重要なもので,守らねばならぬものと見なすなら,その人は霊的な分別に欠けています。良いたよりを伝道するわざ,新しい世の社会との交わりだけは十分でなく,救いを保証するものではありません。わざだけによることに,救いはありません。このような見方を持つ事はモーセの律法下にいた人々と同じ危険な状態に入ることです。彼らは『自分自身の「義」を設立しよう』と求めました。それは伝道奉仕の良い記録を持つことについて『互にいどみ合い,互いにねたみ合う』ことにみちびきます。―ロマ 10:1-3。ガラテヤ 5:26。新口。
10 どんなことは,御国のわざについて正しい見地を保たせる助けとなりますか。
10 神のわざは重要でない,という意味ですか。そうではありません! それとは反対に,円熟したクリスチャンは霊的に次のことを識別します,すなわちヱホバに献身している故にすべての心,魂,思い,そして力をつくしてヱホバを愛さねばならない,ということです。彼は,『信仰も,それと同様に,行いをともなわなければ,それだけでは死んだものである』というヤコブの言葉を記憶しています。彼はヱホバに献身した関係をつねに意識している故,自分のわざについて正しい見方を取り,正しい動機でもってそのわざをすることができます。それは天の御父にささげる愛の心から,御父の御名を高めたいと欲する気持から,そして自分の隣人を愛し隣人とともに同じ特権と祝福を分ち合いたいという気持からなされるのです。献身という最初の段階について円熟した理解を持つことは『霊と真理をもって』する円熟した崇拝にいたらせます。―マルコ 12:30。ヤコブ 2:17。ヨハネ 4:23,新口。
11 結婚している人は,霊的な分別の欠如をどのように示し得ますか。
11 それで,霊的な分別は奉仕についての円熟した見方を持つことになります。すると,ヱホバの献身した僕として持つ他の責任についても考えねばなりません。結婚していて子供を持っている人は,祝福された特権や責任を多く持っています。野外の奉仕ですばらしい記録をつくろうとするため,家族の責任を無視するならば,それは霊的な分別の欠如を示します。クリスチャンは自分の家族に必要な物質を供給しなければなりませんが,また霊的な面で『自分の家族をかえり見』なければなりません。そして,自分の家族と研究し,そして自分の家族を援助して神の奉仕に円熟させなければならないのです。『自分の家族』を正しくかえりみないことは,「信仰を捨てたこと」と同じです。―テモテ前 5:8。
12 円熟しているクリスチャンは,自分の伝道活動について何を識別しますか。そして,必要な世俗の仕事について何を識別しますか。
12 良いたよりの伝道奉仕の記録そのものは,円熟性を証明するものではありません。道徳についての聖書の原則に一致しない歩みをしたり,または別の面で会衆に害を及ぼすことを行うなら,そのような奉仕の記録は何の役に立つでしようか。これはヱホバにふさわしく歩いているのではありません。ヱホバを全くよろこばしているのでもありません。クリスチャンは,神への奉仕に熱心に働き,他の者たちに良いたよりを告げます。と同時に生活内のあらゆる面で忠実の道を歩まねばならぬ,という必要性を認めねばなりません。それは,ヱホバの御名を立証するために奉仕することです。円熟している人は,いつの時でも次のことを記憶しています,すなわち彼は神の御こころを行うために献身しており,つねに自分の仕える御方,ヱホバをよろこばせたいと欲するのです。彼は,会衆の活動をしている時でも又は世俗の仕事をしているときでも,人をよろこばすために事柄をしません。むしろ,あらゆる事柄を正直に行い,『誠実な心をもって』『人に対してではなく,ヱホバに対してするように,心から』働きます。―コロサイ 3:22-24,新口。
13 (イ)円熟した伝道者は,平衡のとれた奉仕をどのように行いつづけますか。(ロ)奉仕に真実のよろこびを感するこつは何ですか。
13 奉仕のわざそのものでも,分別心ある良いたよりの伝道者は正しい平衡を保ちます。そして,奉仕について更にいつそう重要な事柄をつねに心にとめます。文書を配布する家から家のわざだけに満足しません。伝道するだけでは十分でないと,知ります。いまこそ教える者となり,羊をやしなって羊を助け,永遠の生命の道を見出させるときであると知ります。それで,見出した興味ある人の記録をきちんとつけ,再訪問します。再訪問するとき,興味深い聖書の話を用意し,善意者と家庭聖書研究を取り極めるようにします。クリスチャン奉仕者は,神の御言葉の正確な知識にみたされ,また大いなる羊飼ヱホバに対する愛と,良い羊飼キリスト・イエスに対する愛,及び他の羊に対する愛にみたされ,羊を見出して養おうという燃えるごとき欲求をもって奉仕に出かけます ― 愛の気持から出かけるのであって,義務の観念で出かけるのではありません。それは奉仕において真実のよろこびを感ずるこつです。―ヘブル 5:12。ヨハネ 21:15-17。
14,15 (イ)クリスチャン円熟からどんな祝福が得られますか。(ロ)何に対して警戒しなければなりませんか。どのように?
14 霊的な円熟は,いまだ告げられたことのないよろこびと祝福をもたらします。正確な知識と霊的な分別で満たされることにより,クリスチャンは強い者となり,敵サタンの攻撃をしりぞけ,物質主義と人間の恐れの巧妙な罠を見分け,それらに反抗することができます。その人は心配動揺を感ぜず,また無価値で有害な欲望に従わず,自ら身を刺す痛みなどを持ちません。そして,自分自身を責めさいなんだり,重い有罪の気持を感じさせるような愚かな行いを避けます。―テモテ前 6:9,10。
15 私たちは,そのような円熟によつて得られる祝福をよろこびますが,同時に過信に対して気をつけねばなりません。そして,クリスチャン円熟と霊的な分別は私たち自身の努力によつて得られるのではなく,私たちに対するヱホバの恵みを表わすヱホバの御霊の働きによってなされる,ということをつねに記憶しなければなりません。それで,私たちは祈りの中にヱホバに願い求め,円熟した仕方でヱホバに奉仕しつづけることができるよう,そして私たちが僭越な行いをするのを抑えるようヱホバに願い求めます。それは,つねに「私たちの口の言葉,私たちの心の思いが,ヱホバの前によろこばれる」ためです。―詩 19:13,14。
16,17 各人は,新しい世の社会のよろこびにみちる楽観主義の精神に,どのように参加することができますか。
16 ヱホバの忠実な僕は,確信をもつて前進します。そして,統治している王キリスト,イエスのみちびきを受け,また神が地上に設立した目に見える神権制度の下に働くとき幸福と満足を感じます。クリスチャンとして円熟している彼は,自分の兄弟たちや善意者たちを強めて建ておこすことができます。それで彼らもクリスチャンとして全き成人になり,同じよろこびと祝福を分つことができるのです。
17 ヱホバの証者の新しい世の社会が示す幸福で満足した見方は,その円熟さを証明します。各人はクリスチャン円熟の目標に向って努力し,霊的な分別に満たされるとき,そのよろこびにみちる楽観主義の精神にあずかることができます。私たちがそうするとき,現在およびごく間近い新しい世において数え切れぬよろこびと特権は私たちのものになります。『ただし,あなたがたは,ゆるぐことがなく,しつかりと信仰にふみとどまり,すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は,天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものである。』― コロサイ 1:23,新口。
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ハワイから興味深い経験ものみの塔 1959 | 11月1日
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ハワイから興味深い経験
伝道者になるだけでなく,教える者になるということは,ハワイ諸島にいるすべての僕たちにより昨年度中強調されました。そしてすばらしい結果が得られたのです。正しい監督の必要も強調され,伝道者を熱心に教える者たちや,正しい手本を示す者たちは,深く感謝されています。監督は,次の言葉を述べたペテロの助言に従います。「あなた方にゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく,神に従つて自ら進んでなし」(ペテロ前 5:2,新口)。それで,監督はすばらしい結果を得ます。次の記事は,ハワイにおける教えるわざの経験です。
『ある日曜日の朝,私はかなり年配の仏教徒の日本人の婦人に1冊の本を配布しました。この婦人は,私を追いはらう為に本を取つたのではないかと私は感じました。しかし,配布した日と同じ日に再訪問するか,又はほんの二,三日してから再訪問するようにという「御国奉仕」の提案については考えをめぐらしていました。しかし,そんなことはここの区域では適用しないのだと,私は自分に言い聞かせていたのです。それから三月の後,私は定期的な訪問をしていた巡回の僕といつしよに働きましたが,そのとき共々にその婦人のところを訪問しました。この方は,私共を見ていやな顔をするだろうと私は感じていました,が驚いたことに私たちを内に招じ入れて,しかも非常な興味をもつて聖書の話を聞いたのです。そして,聖書研究をすすめたところ,即座に承知しました。1週間後に訪問したときも,あのときの承知はただ協会の特別な代表者である巡回の僕に感銘を与えるためではなかつたか,と私は考えていました。これは間ちがつた結論だつたのです。その婦人は,研究するところを下調べして私を待つていました。
『最近に私はもつとすばらしい報いを受けたように感じました。それは,私が聖書研究に行つたとき,亡夫の写真といつしよにテーブルの上に置いてあつた大きな仏壇が無いのに気づきました。研究しているとき,彼女はこう告げてくれました,彼女は「偶像」の章を読んでからヱホバの怒りを受けたいと思わず,その仏壇を譲つてしまつたとの由です。研究が終つてから,彼女は研究の本と聖書をとりあげて夫の写真といつしよにテーブルの上に置き,微笑をうかべながら,「この方がいまはずつと良く見えます」と言いました。』(1959年度のヱホバの証者の年鑑から)
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