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『行って…人々を弟子とし…バプテスマを施しなさい』ものみの塔 1970 | 3月15日
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『行って…人々を弟子とし…バプテスマを施しなさい』
「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし…彼らにバプテスマを施し(なさい)」― マタイ 28:19,新。
1 1959年5月7日,カリフォルニア州サンフランシスコの海岸で緊急処置としてバプテスマが施され,新聞や雑誌で報じられましたが,どうしてそのような事が起きましたか。
1959年5月7日,アメリカ,カリフォルニア州サンフランシスコでのこと,シァーリーとアルバートが湾の入口で泳いでいたところ,1匹のフカが泳いできました。それを見たアルバートは直ちに岸に向かって泳ぐようにとシャーリーに告げました。しかしその時,アルバートはフカに襲われ,左腕がもげそうになりました。シャーリーはフカに襲われる危険を顧みずアルバートのそばに引き返し彼を引いて泳ぎ,やっとのことで岸に戻りましたが,アルバートは頻死の重傷を負っていました。彼はまだバプテスマを受けていなかったので,シャーリーは海水をすくってその頭にかけてやりました。後に彼女はこう語りました。「私は十字を切って祈り,父と子と聖霊の名によって彼にバプテスマを施しました……」。その時,シャーリーは,悔い改めを告白する次のような短い祈りを自分のあとについて唱えるようにと,彼に告げました。「……わたしは天国にはいれないことと,地獄の苦しみとを恐れるゆえに,わたしの罪のすべてを憎みます。なかんずくそれらの罪は,わたしの神である汝を怒らせるものであるゆえにこれを憎みます。汝はわたしの愛のすべてを受けるにふさわしい最善の神であらせられます」。―1959年5月18日号,タイムおよびニューズウィーク誌。ニューヨーク・タイムズ紙,1961年3月24日号。
2 こうした形式的なバプテスマによって成し遂げられたことに関しどんな疑問が生じますか。
2 シャーリーはどう猛なフカのその後の攻撃からアルバートを救ったのち,自分の教会の教えに従い,バプテスマを受けていない人の陥る運命から彼を救うために良心的な努力をしました。その勇敢な行為は賞賛に値しますが,考えさせられた人もいます。彼女はフカの出没する海で助けたアルバートにキリスト教世界の宗教儀式の一つを行なって,彼を永遠の火から救ったのですか。彼はその後まもなく病院で死にましたが,彼女はその前にアルバートをキリストの弟子にしましたか。
3 これとは対照的に,1958年7月30日,ニューヨークのある海岸でどんな集団浸礼が行なわれましたか。それは西暦33年のどんな集団浸礼を思い起こさせましたか。
3 太平洋に面するサンフランシスコ湾でのこのできごとから,大西洋岸でのある光景が思い出されます。1958年7月30日,シャーリーがアルバートに形式的なバプテスマを施す1年ばかり前,別の海岸,すなわちニューヨーク市オーチャード・ビーチでバプテスマが行なわれました。バプテスマの自発的な希望者7,136人の男女は砂浜をおりて海に進み出,献身したクリスチャン男子の手で,全身を水中に没する浸礼を受けました。この大規模な集団浸礼は,「神の御心」国際大会の行なわれていたニューヨーク市近辺の人々の耳目を奪うできごとでした。その時この大会はヤンキー野球場とポロ球場で同時に開催されていました。この集団浸礼は,それより1,925年前,西暦33年のペンテコステの祭りを祝うエルサレムの大会で,イエス・キリストの十二使徒がおよそ3,000人の信者に施したバプテスマを思い起こさせました。(使行 2:1-42)それらの人々はこうしてイエス・キリストの弟子となる決意を公に証したのです。同様に1958年,オーチャード・ビーチでバプテスマを受けた7,136名の人々も,同じイエスの献身した弟子になることを望んだのです。
4 (イ)キリスト教世界が世界全体の改宗を行なえなかったことと,キリスト教世界そのものが衰退していることとを考えると,キリストの弟子にバプテスマを施すことに関してどんな疑問が生じますか。(ロ)今日,偽りのクリスチャンが多いのは,ある場所ではどんな恐れのためですか。
4 今は西暦1970年の春ですが,キリスト教世界は世の人々すべてをキリストの弟子として世界の改宗を図ることができなかったばかりか,宗教的に衰退し,影響力を失ってきたため,現代を“キリスト教時代以後”と呼ぶ人もいます。反宗教的な風潮の高まる20世紀の今日でも1世紀のこのキリストの弟子は生み出されていますか。19世紀余の昔に死なれたそのかたの弟子を生み出すのは今もなお適切なことですか,それともそれは時代遅れですか。従来の物事の価値が退けられている,いわゆる「革命の」時代の今日,これは重大な問題です。近所の人々のおもわくを恐れて,「異教徒」もしくは共産主義者と思われたくないばかりに,“クリスチャン”と呼ばれることを望む人の多い土地もあります。しかしそのような人は確かに偽りのクリスチャンではありませんか。それはクリスチャンとしてのあるべき姿と言えますか。キリストの真の弟子は偽りのクリスチャンではありません。
5 こうした質問の答えを得るには,どんな権威に頼らねばなりませんか。なぜその権威に頼るべきですか。
5 こうした問題の答えをどんな権威に求めることができますか。率直な答えを得るためには,キリスト教世界の僧職者にではなく,1世紀の師,イエス・キリストご自身に行かねばなりません。1世紀のイエスの忠実な弟子たちはイエスのことばを聖書後半の27冊の本の中に克明にしるしました。その記録はこうした問題をあいまいにしたり,わたしたちやわたしたちの宗教感情を傷つけまいとして真実や事実を控え目に述べたりしているところはありません。この1世紀の師は不信仰な嘲笑者からどんなにさげすまれようと,地上で生をうけたどんな人にもまさって人類を愛し,また地上のだれよりも遠い将来を見通されました。では20世紀の現代をも見通しておられましたか。そうです。神の御国を伝道し,かつ,教えたその当時の3年半のあいだだけ人を弟子とすることに関心をいだいたのではなく,20世紀の現在,さらに多くの人々を弟子とすることにも関心をもっておられました。そして今,人々を弟子としておられるのです。どうしてそう言えますか。
6 このことに関して引用されるキリストのことばは,どんな状態の下で述べられたものですか。そのことを弟子たちに話す場所はどのように示されましたか。
6 このことに関してイエスの語ったことをこれから引用しますが,それは彼が死からよみがえったのちに地上の特定の場所で話されたことばです。その場所とは,当時ガリラヤの地と呼ばれた現在のガリラヤ湖の地方のとある山でした。イエスは死なれる前,復活後にそこで弟子たちと会うことを指摘しておられました。刑柱上での死の前夜,いわゆる主の晩さんを設けた後,彼は忠実な11人の使徒たちにこう言われました。「今宵なんぢら皆われにつきてつまづかん『われ牧羊者を打たん。さらば群の羊散るべし』としるされたるなり。されど我よみがへりて後,なんぢらに先立ちてガリラヤにゆかん」― マタイ 26:31,32。マルコ 14:27,28。
7 イエスがよみがえった日,その場所に関する指示はどのように確かなものとなりましたか。弟子たちはその場所でどのようにふるまいましたか。
7 二日後,イエスが死からよみがえった朝,今や入口が開かれて,からになった墓を訪れた女たちに天使がこう語りました。「『彼は死人の中よりよみがへり給へり。みよ,汝らに先だちてガリラヤにゆき給ふ,かしこにてまみゆるを得ん』と告げよ」。このことを弟子たちに伝えるために出かけたその婦人たちは途中で,よみがえったイエスに会いました。イエスはこう告げました。「おそるな,往きて我が兄弟たちに,ガリラヤにゆき,かしこにて我を見るべきことを知らせよ」。それから1週間余の後,弟子たちはそうしました。「十一弟子たちガリラヤにゆきて,イエスの命じ給ひし山にのぼり,つひに謁えて拝せり。されど疑ふ者もありき」。―マタイ 28:3-10,16,17。マルコ 16:7。
人間の命令以上のもの
8 (イ)その地で与えられたキリストの命令の遂行を妨げる権利は地上の人間にはありません。なぜですか。(ロ)ヨハネ,パウロまたペテロなどの使徒たちは今日のイエスの地位についてなんと述べましたか。
8 名前の述べられていないガリラヤのその山で弟子たちが聞いた事柄は単なる人間のことばではありませんでした。地上の人間,国家あるいは国民には,そのかたの命じた事柄の遂行を妨げる権利はありません。人間が干渉する場合もありますが,それは神が許しておられるからにすぎず,干渉したからといって,そのような人間が神の是認を受けるわけではありません。そうした妨害にもかかわらず,バプテスマは多くの人々にひそかに施されてきました。ガリラヤのその山で弟子たちに現われたイエスは,死からよみがえって終わりのない命,すなわち不滅の命を与えられた最初のかたであり,いみじくも,「死人のうちより最先に生れ給ひしもの」と呼ばれています。(黙示 1:5)その復活後,何か月かを経てイエス・キリストを奇跡的に見たひとりの人は霊感の下にイエスについて,「彼ははじめにして死人のうちより最先に生れ給ひし者なり。これすべての事につきて長とならんためなり」と述べました。(コロサイ 1:1,18)また,ガリラヤの山でイエスに会った弟子のひとりはこうしるしています。「キリスト(は)……一たび罪のために死に給へり,彼は肉体にて殺され,霊にて生かされ給へるなり」。(ペテロ前 3:17,18)イエスは神の霊の子たちの中で第一の位を占めておられます。
9 キリストはその地でどんな権威をもって,どんな命令を弟子たちに与えましたか。
9 したがってイエスはガリラヤのその場所で弟子たちに対し,人間以上の権威をもって次のように命じ,かつ,その命令を単なる人間の長官や支配者の命令以上のものにすることができました。「わたしは天と地ですべての権威を与えられた。それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命じた事柄すべてを守るように教えなさい。見よ,わたしは事物の体制の終局までいつもあなたがたとともにいるのである」― マタイ 28:18-20,新。
10 その命令をしるしたことばにはどれほど永続する力が宿っていますか。なぜですか。
10 このことばには力がありました。そして19世紀を経た今日でもこのことばには同じ力が宿っています。それは天地のどんな創造物も侮ったり無視したりできない権威者のことばだからです。彼はあらゆる権威の源であられる全能の神から「天と地ですべての権威」を与えられました。その全能者はイエス・キリストの天の父であり,イエスを死からよみがえらせ,霊の領域で不滅の命を持つ者とさせたかたです。イエス・キリストは神の御子ですが,こうしてよみがえらされたことにより,天の父との間に今やよりすぐれた新たな関係を持っておられます。よみがえったイエス・キリストは人間としてのご自分の完全な犠牲の価値を携えて,天の父であられる全能の神の御前にはいられました。そして生者死者の別なくすべての人のために備えたご自身の人間としての犠牲の価値,あるいはいさおしを神にささげました。イエス・キリストはまた,神から与えられた「すべての権威」をささえ,行使するための「聖霊」,つまり神の見えない活動力を受け,その力を行使し,かつそれを弟子たちに注ぎました。
11 (イ)よみがえったキリストの権威について今日,どんな考えをいだいてはなりませんか。(ロ)この事物の体制の現段階においてキリストがその権威を行使することに関してはなんと言うべきですか。
11 しかし次のように考えてはなりません。「それは1,900年も前のことであり,イエス・キリストの主張したその権威は,物事が大きく変わる科学の時代の今日もはや通用しない。イエスの権威はキリスト教世界の影響力と同様に衰退し,今では用をなさない。今日この地上ではわれわれが権力を握っており,実際に権威を持っているのはわれわれなのだ。われわれ人間は,19世紀前だれが何を言ったかにはかかわりなく,自らの有する権威を思いのまま行使するのだ」。しかし自分を欺いてはなりません。イエス・キリストは仮空の人間ではなく,歴史上の実在の人物です。イエスはご自分の権威を自ら放棄したことはなく,またバチカン市,ジュネーブ,モスクワ,その他地上のどんな首都の一群の人間もしくは一個人にもご自分の権威を譲ったことはありません。イエスは今日,依然としてそのご自分の権威を保持しており,今やかつてないほどに権威を行使しておられます。このことを弟子たちに保証するものとして,イエスはその権威ある命令を次のことばで結ばれました。「見よ,わたしは事物の体制の終局までいつもあなたがたとともにいるのである」。(マタイ 28:20,新)この事物の体制は今もなお存続していますが,現在は明らかにその終局の時期にあたっています。
12 (イ)今日,キリストの権威をどのように過少評価する人々がいますか。そのような人はなぜ考え直さねばなりませんか。(ロ)イエスの弟子たちは今日,そのご命令にどう答え応じなければなりませんか。なぜですか。
12 復活したイエス・キリストに付与されたのは,終わりのない宇宙的かつ超人間的な権威であることを考えれば,イエスのことを嘲笑する者すべては立ち止まって反省すべきでしょう。つまり,「キリスト教は今やすたれ,われわれはキリスト以上に人気があり,重要である」などと語る者すべては立ち止まって,神の天の御子キリストを正しく評価すべきです。また,今日イエスの正真正銘の弟子たちすべては,イエスのご命令を真剣に取り上げて,1世紀の弟子たちと同様にその命令の遂行を生活上の最も重要な事柄とすべきでしょう。キリストのご命令の背後にある権威を認識し,それが行使されることを考えれば,現在の「事物の体制の終局」の全き最後までその命令を遂行したいとの熱意に燃えないわけにはゆきません。イエスはその時まで「いつも」彼らとともにおられます。ゆえに彼らはイエスの支持を得ているのです。
拡張的なわざ
13 (イ)イエスの弟子になることは,地上のどれほどの地域の人々にあてはまる事柄でしたか。(ロ)このことに関する事態の推移は,世界的に知恵の知られたソロモン王の当時の事情とどのように異なるものでしたか。
13 よみがえったイエス・キリストの弟子として歩むのは,考えを言い表わすことをしない自分本意の安易で消極的な宗教の生き方とは異なります。それは自らの考えを公に表明する,いわば産出的で再生産を行なう宗教であり,その働きを抑制もしくは禁ずることはできません。イエスの弟子になることは,世の一般の人々のあずかり得ない事柄か何かのように,地上のある狭い地域の人々だけに限られるべきものではありません。これこそ人々に広く知らせ,全地の人々があずかり得るようにすべき事柄です。それは紀元前11世紀にエルサレムで治めた賢い王ソロモンの場合とは異なります。この王に関し歴史上の記録はこう述べています。「もろもろの国の人々ソロモンの知恵をきかんとてきたり天下のもろもろの王ソロモンの知恵をきゝおよびて人をつかはせり」。(列王上 4:34)シバの女王さえ「地の極」と呼ばれた土地からはるばるエルサレムを訪れ,ソロモンの知恵のほどを見聞きしました。(マタイ 12:42。列王上 10:1-13)イエス・キリストは地上におられた時でさえご自身のことを「ソロモンよりも勝る者」と言われました。イエスの生活と死はソロモンの場合と異なり全人類に影響を与えました。イエスは,人々を世界のすみずみから地上のエルサレムに招きあるいは来させて,ご自分の知恵のことばを聞きかつ学ばせる代わりに,すべての国民の下に出かけて行くことをガリラヤの地で弟子たちに命じて言われました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし(なさい)」。(マタイ 28:19,新)弟子たちは,人々が自分たちの下に来るのを待つのではなく,あらゆる場所の人々の下に出かけて行くことになったのです。
14 イエス・キリストによる救いの音信はだれのためのものでしたか。イエスは昇天する前にこのことをオリブ山でどのように示唆されましたか。
14 地上におられた時のイエスは,モーセの律法の下に生まれて割礼を受けた生来のユダヤ人でしたが,イエスに関する音信はただユダヤ人だけのためのものではありませんでした。ただ神からの恵みのゆえにユダヤ人が最初にその音信を受けたのです。しかしイエス・キリストによる救いのこの音信は全人類のためのものであり,あらゆる国の民に差し伸べられねばなりません。よみがえったイエス・キリストはガリラヤの山においてだけでなく,そのしばらく後,この地を去って天の父エホバ神のもとに昇る前にもこのことを示唆されました。エルサレム東方の有名なオリブ山の上で,そこから昇天することになっていたイエスは,同行した弟子にこう語りました。「時また期は父おのれの権威のうちに置き給へば,汝らの知るべきにあらず。されど聖霊なんぢらの上に臨むとき,汝ら能力をうけん,しかしてエルサレム,ユダヤ全国,サマリヤ,および地の極にまで我が証人とならん」― 使行 1:7,8。
15 (イ)その少し前の聖書研究の際,イエスの名による罪の許しがどれほどの範囲にわたって伝道されるかにつきイエスは弟子たちになんと述べましたか。(ロ)その証はなぜエルサレムから始まるのですか。
15 人類を救う神のご計画におけるイエスの重大な役割に関するこの証は,世界中に離散した割礼のある生来のユダヤ人だけに与えられるのではなく,異邦人(ユダヤ人以外の民)にも差し伸べられることになりました。ゆえにイエスはその少し前,弟子たちとともに聖書研究をしていた時,次のように言われたのです。「かくしるされたり,キリストは苦難を受けて,三日めに死人のうちよりよみがへり,かつその名によりて罪のゆるしを得さする悔改はエルサレムより始まりて,もろもろの国人に宣伝へらるべしと。汝らはこれらのことの証人なり」。では,なぜエルサレムから始まるのですか。なぜなら,弟子たちはその後のペンテコステの祭りの日にエルサレムで聖霊をもってバプテスマを受け,キリストによって罪の許しを得させる悔い改めに関し,その町でペンテコステを祝う人々にまず証をすることになっていたからです。―ルカ 24:46-49。
16 使徒行伝 2章によれば,そのとおりのことがどのようにエルサレムで生じましたか。
16 事実そのとおりのことが生じ,西暦33年のペンテコステの祭りの日,使徒ペテロは探求心に富むユダヤ人とその改宗者たちの大群衆にこう語りました。「なんぢら悔改めて,おのおの罪のゆるしを得んためにイエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ。さらば聖霊の賜物を受けん」。エホバ神にすでに献身していたそれらユダヤ人と改宗者たちおよそ3,000人は,キリストに対するそれまでのまちがった態度や行為を悔い,今やキリストの追随者としてキリストの名によってバプテスマを受けました。それはこれらの人にとって一つの始まりにすぎず,彼らはキリストの十二使徒からさらに多くを学びたいと願い,使徒たちは喜んで彼らに多くのことを教えました。それで水のバプテスマを受けたのち,「彼らは使徒たちの教を受け,交際をなし,パンをさき祈祷をなすことをひたすらつと(め)」たのです。―使行 2:37-42。
一世紀に見られた拡張
17 ペンテコステの時にエルサレムでバプテスマを受けたそれらの人々はその良いたよりをどのようにして全地に広めましたか。
17 人類救済のための神の備えは,世界中の人々があずかれるように取りはからわれることになっていました。ゆえにエホバがペンテコステの日にエルサレムでキリストを通して聖霊を注がれたのはいかにも賢明でした。これら転向してバプテスマを受けたユダヤ人と改宗者たちは,アジア,ヨーロッパ,アフリカの各地,事実,「天下の国々」から来ていたのです。こうしてキリストの使徒たちから今や十分の教えを受けた人々は自分たちの居住地に戻り,そこで良いたよりを広めました。しかしそれらの土地に住む割礼を受けた生来のユダヤ人にのみ広めました。(使行 2:5-12; 11:19)では,ユダヤとガリラヤの間にあるサマリヤ地方についてはどうですか。
18 バプテスマを受けて霊に満たされたクリスチャンによる収穫のわざは,どのようにしてサマリヤ地方に及びましたか。
18 イエスはかつてスカルの町のサマリヤ人に伝道しましたが,その結果,それらサマリヤ人はこう言いました。「自分自身で親しく聞いて,この人こそまことに世の救主であることが,わかった」。そうです,イエスはユダヤ人のみならず,人類の「世の」救い主なのです。そのサマリヤの地でイエスはご自分の使徒たちにいみじくもこう語りました。「目をあげて畑を見よ,はや黄みて収穫時になれり。刈る者は,価を受けて永遠の生命の実を集む」。(ヨハネ 4:35,36,38-42,口語)しかし弟子たちがサマリヤの野外に行って収穫のわざをするためには,迫害によって散らされねばなりませんでした。よみがえったイエスは,天に昇る前に,サマリヤ人に証をする権威を弟子たちに与えました。ゆえに迫害が起きて,エルサレムとユダヤから追われた福音伝道者ピリポはサマリヤに行って伝道し,サマリヤ人の多数の信者にバプテスマを施しました。その後,エルサレムの使徒たちからつかわされたシモン・ペテロとゼベダイの子ヨハネはそれらサマリヤ人の信者に神からの聖霊を分け与えました。―使行 8:1-17。
19 そのわざはさらにどんな拡張を見ようとしていましたか。しかしそうした拡張を明らかにためらった人がいます。それはだれでしたか。
19 しかしさらに大規模な拡張が行なわれようとしていました。全地に住む無割礼の「すべての国の人々」から成る異邦人に対してはまだ何も行なわれておらず,収穫のわざもなされていませんでした。ユダヤ人のクリスチャンは偏見を持ってはいなかったにしても,無割礼の異邦人つまり非ユダヤ人にメシヤに関する証をすることは躊躇しました。(使行 10:9-29)ユダヤ人のクリスチャンが無割礼の異邦人をそうした仕方で扱い続けたとすれば,クリスチャン会衆は拡張すべき予定の時に発展を妨げられたことでしょう。
20 当時,預言されていたどんな週が満了しようとしていましたか。ゆえに神はだれをつかわされましたか。だれに対し,また何を与えてつかわされましたか。
20 ユダヤ人のクリスチャンは気づきませんでしたが,エホバ神の恵みが生来のユダヤ人に限られていた期間の第七十週が西暦36年の夏の終わりに満了しようとしていました。それとともに,御国に関する活動のとびらをそれら異邦人のあいだで開く神のご予定の時が到来したのです。(ダニエル 9:24-27。マタイ 16:18,19)ゆえにエホバ神は第七十週に関するダニエルの預言を成就すべく,第2の「天国の鍵」を与えて使徒ペテロをつかわし,無割礼の異邦人の最初の信者に御国の音信を伝道させました。
21 今やクリスチャン会衆にだれが受け入れられることになりましたか。その結果,コロサイ人へのパウロの手紙が示すように,どれほどの拡張が成し遂げられましたか。
21 それら異邦人の信者は聖霊とその賜物を受けたのち,ペテロの指示に従って水によるバプテスマを受けました。(使行 10:1-8,30-48; 11:12-18)こうしてクリスチャン会衆は地の果てに至るまで無割礼の異邦人のあいだで拡張されることになり,他のユダヤ人のクリスチャンは新たに開かれたそのとびらを通って異邦人社会の活動分野にはいってゆきました。そして,すでに設立され,生来のユダヤ人またはサマリヤ人および改宗者たちだけで構成されていた諸会衆に異邦人が受け入れられました。イエスがオリブ山で別れのことばを語ってからおよそ28年を経て,使徒パウロはローマからコロサイの会衆にこう書き送りました。「この福音は汝らの聞きしところ,また天の下なるすべての造られし物に宣伝へられた(り)」。(コロサイ 1:23)使徒およびその仲間の弟子たちはキリストからゆだねられた任務を生涯を通じて遂行し続けました。
現代に見られる拡張
22 この20世紀における人を弟子とするわざの規模を予告したイエス・キリストが偽りの預言者でなかったことを述べなさい。
22 その後ヨーロッパ人によって新大陸が発見され,人を弟子とする真のクリスチャンのわざがそれらの大陸で行なわれるようになりました。しかし「すべての国の人々」を弟子とするわざが実際に地の果てに至るまで行なわれるようになったのはこの20世紀にはいってからです。イエスの真の追随者の携わる,人を弟子とするわざが全地に拡張されることを予告したイエス・キリストは偽りの預言者ではありませんでした。イエスはご自分の忠実な追随者に多くを要求しすぎたわけでもありません。神の霊の助けを得た彼らは,「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし(なさい)」とのイエスのご命令の示唆する地の果てに喜んで出かけて行ったからです。―マタイ 28:19,新。
23 教会の信者の膨大な数から考えて,キリスト教世界は,イエスの命じた人を弟子とするわざを行なってきたと言えますか。そう言えるかどうかはどうしてわかりますか。
23 今日,キリスト教世界の諸教会の信者はおよそ10億を数えますが,キリスト教世界は人を弟子とするこのわざを実際には行なってきませんでした。確かにキリスト教世界は聖書全巻またその一部分をおよそ1,337の言語で20億冊以上全地に頒布しました。しかしこのことだけで人々を弟子とすることはできません。事実,キリスト教世界は火と剣と迫害をもって多くの人を自らの宗教組織に入れてきましたが,これはイエス・キリストがご自分の使徒やその仲間の油そそがれた同労者たちに,『行って,人々を弟子とし(なさい)』と命じた事柄を遂行する方法ではありません。キリスト教世界の諸教会が独自の仕方でバプテスマを施して弟子とした,クリスチャンと称される人々のひととなりは,その方法がまちがっていることを実証しています。幾百もの宗派に分かれている,旧教,東方正教会また新教などはいずれも聖書の述べるキリスト教を奉ずる組織ではありません。
24 マタイ伝 28章19,20節のイエスのことばからすれば,人を弟子とするためにキリスト教世界で用いられてきたどんな方法は非とされますか。
24 イエスご自身のことばによれば,イエスの真の追随者は,すべての国の人々を国籍の別なく弟子とするわざをどんな方法で行なうのですか。イエスは言われました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名によってバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命じた事柄すべてを守るように教えなさい」。(マタイ 28:19,20,新)このことばからすれば,拷問もしくは迫害をもって人を脅かし,強制あるいは屈服させるということは考えられません。また,弟子になることを良心上の理由で拒む人々の大量虐殺も考えられません。キリスト教世界がこれらの方法を用いたからといって,それはイエスがご自分の忠実で従順な追随者に用いることを命じた方法であるとは言えません。
25 マタイ伝 28章19節に基づいて弟子となる人は,実際にはだれの教え子になるのですか。
25 「弟子とし(なさい)」との命令は,マタイ伝 28章19節に用いられているギリシア語の動詞からすれば,「学習者または教え子とし(なさい)」という意味です。このことを示して,K・S・ウェスト訳,「新約聖書詳解訳」はマタイ伝 28章19節を次のように訳出しています。「ゆえにあなたがたは出かけて行って,すべての国の民を教え,彼らをあなたがたの教え子としなさい」。もとより,イエス・キリストの追随者から教えを受ける人は,彼らの教え子,つまり彼らから学ぶ者となります。しかしその教えは確かにキリストに関するものであり,キリストがその追随者に命じた事柄を守るように教えるのですから,実際にはキリストが先生です。これはイエスが弟子たちに語った次のことばと一致しています。「汝らはラビの称を受くな,汝らの師は一人にして,汝らはみな兄弟なり」。(マタイ 23:8)ゆえに弟子となる人々は実際には,その命令を与えたこの唯一の師イエス・キリストの弟子となるのです。
26 そのような弟子たちの師として変わることなく存在しておられるのはだれですか。
26 人間であれば,先生は死去したり,別の土地へ去ったりしますが,イエス・キリストは弟子たちの師として常に存在しておられます。「新英訳新約聖書」にある次のことばどおりです。「ゆえに,出かけていって,すべての国の民をわたしの弟子とし,あらゆる場所の人にバプテスマを施しなさい」。
27 人を弟子とする唯一の正しい方法とはなんですか。バプテスマを正しく受けるには何を学ばねばなりませんか。
27 したがって,人を強制してキリスト教に改宗させるために火や剣,湾曲刀や拷問また異端審問所を用いることは,イエス・キリストが決して許さない事柄です。人々を師イエス・キリストの真の弟子とする唯一の方法は,イエス・キリストに関する聖書の証を愛のある穏かな仕方で行ない,証をする人の弟子ではなく,イエスの弟子になるのを助けることです。そのような人々は,御子についてだけでなく,その天の父および聖霊,すなわち神がそれを用いて御心を遂行される,神の,見えない活動力についても学ばねばなりません。さもなければ,学んでいる人はどうして「父と子と聖霊との名によって」バプテスマを受けることができますか。
28 パウロがエペソで会った12人の人々の例は,そうした知識が必要であることをどのように示していますか。
28 たとえば,昔エペソにいた12人ほどの人々はすでにバプテスマを受けていました。彼らはそれがバプテスマのヨハネの施していたバプテスマであることは知っていましたが,神の聖霊については知りませんでした。したがって彼らは,神の御子イエス・キリストの名によってバプテスマを受けたのではありません。神について知ってはいましたが,神を御子イエス・キリストの父として理解し,かつ認めていたのではありません。ゆえに使徒パウロがイエス・キリストについて彼らに証をした後,彼らは再び,そしてこのたびは『主イエスの名によって』バプテスマを受けねばなりませんでした。それからパウロがそれら新たにバプテスマを受けた人々の上に手を置いたところ,彼らは神の聖霊を受け,その力に動かされて預言を語りはじめました。それは聖霊について知り,あるいは聖霊を受けるまでは,行なったことのない事柄でした。―使行 19:1-7。
29 バプテスマを受けたのち,弟子はもはや何も学ぶ必要がないと言えますか。このことはどうすればわかりますか。
29 水のバプステマを受けたのちでさえ弟子はさらに多くを教えてもらわねばなりません。イエスは,バプテスマを施すことだけでなく,「わたしがあなたがたに命じた事柄すべて」をバプテスマを受けた人に教えるべきことをも述べました。バプテスマを受けた人はひき続き師イエス・キリストについて学ぶ者,またその教え子でなければなりません。「わたしがあなたがたに命じた事柄すべてを守る」べく強制されたり,拷問を受けたりするのではなく,キリストの命じた事柄すべてを守るように忍耐強く穏やかに,かつ愛をもって教えてもらうのです。聖書の記録によればこれこそ使徒たちが人を弟子とするわざを行なった方法です。この事実は,キリスト教世界で用いられてきたのとは異なるこの方法が正しいものであることを実証しています。
30 人を弟子とするわざは,キリストの予告した他のどんなわざとともに行なわれることになっていましたか。小アジアにおけるパウロとバルナバの働きはこのことをどのように例証していますか。
30 人を弟子とするこのわざは,マタイ伝 24章14節(新)の,「御国のこの良いたよりは,すべての国の民への証として,人の住む全地に宣べ伝えられるであろう。それから終わりが来るのである」という預言の中でイエス・キリストが予告された別のわざとともに行なわれることはいうまでもありません。しかし御国を宣明もしくは布告することは,公のわざであり,すべての人々を改宗させるためではなく,「すべての国の民への証として」なされるものです。人を弟子とするわざが伝道のわざとともに行なわれたことは,小アジアで働いたパウロとバルナバの記録からもわかります。こうしるされています。「その町に福音を宣伝へ,多くの人を弟子として後,ルステラ,イコニオム,アンテオケにかへり,弟子たちの心を堅うし信仰にとゞまらんことを勧め(たり)」― 使行 14:21,22。
31 人を弟子とする者,また弟子自身は,人を弟子とするわざにおいて,伝道以外に何をしなければなりませんか。
31 しかし人を弟子とするわざは,御国の宣明もしくは布告による公の証のわざと異なり,むしろ個人的また私的なわざです。人を弟子とするには,まず最初に証をすることに加えて,教えることが必要です。公になされる証は一般の人々から無視され,退けられるかもしれません。しかし人が弟子,学習者または教え子になることは,教え手から学ぶ知識を受け入れて,師イエス・キリストの追随者になることを意味しています。それは,父と子と聖霊との名によって水のバプテスマを受け,その後も唯一の師イエス・キリストの教え方を学び続け,学んだ事柄に従って生活してゆくことを意味しています。
32 バプテスマを受ける人はバプテスマを施す人,その他地上のだれかの弟子になるのですか。説明しなさい。
32 このような仕方でバプテスマを受ける信者は,そうすることによって地上の単なる肉の人間のだれかの弟子となるのではありません。また,バプテスマを受けた人は,水のバプテスマを施した献身した人の弟子となるのでもありません。(コリント前 1:12-17)バプテスマを受けた人はイエス・キリストの弟子となったのです。このことは使徒行伝 11章26節の次の記録からもわかります。「弟子たちの[パウロの追随者ではなく]〔クリスチャン〕と称へらるることは[シリヤの]アンテオケよりはじまれり」〔新〕。
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『人を弟子とする』わざはいつまで行なうのかものみの塔 1970 | 3月15日
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『人を弟子とする』わざはいつまで行なうのか
1 バプテスマを受ける弟子の数が限られているかどうかに関してなぜ質問が提起されますか。
バプテスマはキリストの弟子が特定の人数に達するまで行なわれることになっていましたか。黙示録 7章1-8節また14章1-3節でキリストは14万4,000人の霊的なイスラエル人が天の御国のイエスの共同相続者となることを明らかにされました。したがってキリストはご自分の弟子としてバプテスマを受ける者の数を限定されたのではありませんか。
2 (イ)人を弟子とすることを命じたキリストは,その人数を明示されましたか。(ロ)どんな制限が設けられていたなら,今日,バプテスマを受ける人はほとんどいないと考えられますか。
2 そうではありません。マタイ伝 28章19,20節でイエスはその数を限定せず,ただ次のように言われただけです。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし……彼らにバプテスマを施し(なさい)」。確かにイエスは,ご自分の弟子,学習者または教え子にバプテスマを施すわざを中止すべき時を知ることができ,また,知っておられたことでしょう。彼らの唯一の師であられるイエスは,望みどおり十分の数の弟子を得た時を見定めることができるからです。したがって,忠実な追随者はイエスが許しておられるかぎり,人々をイエスの追随者として,引き続きバプテスマを施すことができるのです。しかし,キリストを通して神に全く献身した後,自分が霊的なイスラエル人,神の相続者,またイエス・キリストの共同相続者であることを示す,神の霊の証を持っていると唱える人だけにバプテスマを施すのであれば,今日わたしたちがバプテスマを施す人はほとんどいません。どうしてそう言えますか。
3,4 (イ)発表された記録によれば,1942年以来,神の霊によって生み出された者であると唱えるバプテスマを受けたクリスチャンの人数には何が生じましたか。(ロ)1969年およびその前年の主の夕食で象徴物にあずかった人々と対照をなすものとして,奉仕年度中にバプテスマを受けた人々の数は前述のことをどのように例証していますか。
3 発表された報告によれば,バプテスマを受けたクリスチャンで,イエス・キリストの霊的な共同相続者として神の霊によって生み出された「残れる者」を構成する人々の数は,1942年以来年ごとに減少してきました。
4 たとえば1969年4月1日,例年の主の夕食に出席して,記念のパンとぶどう酒にあずかったこの油そそがれた霊的な残れる者は1万368名だけでした。しかしこれと著しい対照をなすものとして,御国の宣明の行なわれた昨奉仕年度中,キリストを通して神に献身したしるしとして水によるバプテスマを受けた新しい信者は12万905名を数えました。その前の奉仕年度の主の夕食でパンとぶどう酒にあずかったのは昨年より251名多い1万619名でした。したがって昨奉仕年度中,自分が14万4,000人の霊的なイスラエル人のひとりであることを唱えた人は200人余減少しました。これら残っている人々1万368名のうち何人が,1969奉仕年度中に水のバプテスマを受けた12万905人の中に含まれていますか。もしそのような人だけにバプテスマを施すのであれば,1969奉仕年度中,バプテスマはほとんど施されなかったことでしょう。ところが報告によれば,12万905名がバプテスマを受けたのです。
5 (イ)人々を弟子として,バプテスマを施すわざはどれほどの期間,あるいはいつまで続きますか。(ロ)御国を伝道するわざが予告どおり1914以来続けられていることからすれば,これに関連するどんなわざがそれとともに引き続き行なわれてゆきますか。
5 人をキリストの弟子としてバプテスマを施すわざはどれほどの期間,つまりいつまで続けられるのですか。イエス・キリストは,人を弟子としてバプテスマを施すことに関するマタイ伝 28章19,20節のご命令を与えたのち,この点にふれて言われました。「見よ,わたしは事物の体制の終局までいつもあなたがたとともにいるのである」。それでこのわざは「事物の体制の終局」に至るまで続くことになっていました。1914年の初秋,「諸国民の定められた時」が終わって以来,わたしたちはその終局の時に住んでいます。(ルカ 21:24,新)今日,「御国のこの良いたより」を全地に伝道するわざは,1914年以来かつてなかったほど大規模に推し進められており,「事物の体制の終局」に関するマタイ伝 24章14節のイエスの預言の成就の最高潮を迎えようとしています。したがって,この御国の伝道のわざがキリストの導きを受けて今日まで発展してきたのであれば,人を弟子としてバプテスマを施すわざがそれとともに引き続き行なわれるのは当然なことです。
6 (イ)これらの幾万もの人々はマタイ伝 28章19節によれば,どんな者としてバプテスを施されましたか。(ロ)1923年以来,音信を受け入れた大ぜいの人々は前途のどんな見込みを自分たちの希望としましたか。
6 それでは近年,毎年報告されてきたこれら幾万人もの人々の受けたバプテスマはキリストの「弟子」として施されたバプテスマですか。そのとおりです。献身したクリスチャンがバプテスマを施して教えるようにとマタイ伝 28章19,20節で命じられているのはそのような人だけです。イエス・キリストはご自分の霊的な羊の「小さな群れ」のために祈った後,確かに次のように言われました。「わたしにはまた,このおりのものではない他の羊がある。わたしは彼らをも連れてこなければならない。彼らはわたしの声を聞き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるであろう」。(ヨハネ 10:16,新)これら「他の羊」は,天に行く希望ではなく,地上の楽園でとこしえの命を受ける希望を持つ人々です。1923年,ロサンゼルス(カリフォルニア州)で羊と山羊のたとえ話の意味が説明され,後日,同年10月15日号「ものみの塔」誌にその話が載せられて以来,御国の証を聞いた多くの人々は,神の天の御国の治める地上の楽園を相続する「他の羊」の部類にはいることを望みました。しかしバプテスマを受けるようにとの勧めは幾年ものあいだなされませんでした。
どんな者としてバプテスマを受けたか
7 バプテスマを受けるようにと勧められたそれらの人は,どんな者としてバプテスマを受けることが認められたのですか。
7 このことに関する勧めのことばが1934年8月15日号「ものみの塔」誌,250ページ,34節に掲げられて以来,これら「他の羊」になることを願う人々は,キリストを通して神に献身したことの象徴として水のバプテスマを受けました。しかしどんな者としてバプテスマを受けることが認められたのですか。特に「他の羊」としてですか。
8 1935年6月1日土曜日,ワシントンの大会でバプテスマを受けた人々はどんな者になったかに関してどんな疑問が生じますか。
8 さらに翌春,アメリカの首都ワシントンで開かれた大会では黙示録 7章9-17節の預言が説明され,この句に述べられている「大なる群衆」は,地上で生きる希望をいだく現代の「他の羊」で構成されていることが明らかにされました。この驚くべき解明はのちに1935年8月1日および15日号「ものみの塔」誌に掲載されました。大きな喜びをもたらしたその講演の翌日,「他の羊」の一員になることを望んでいた多数の出席者はバプテスマを受けました。それにしても,1935年6月1日のその土曜日,ワシントン大会で浸礼を受けたこれら大ぜいの人々は,どんな者としてバプテスマを受けたのですか。「他の羊」としてですか。楽園で生きる希望をいだく「大なる群衆」の成員としてですか。神に献身したのは,そのような者になるためでしたか。
9,10 (イ)マタイ伝 25章41-46節また黙示録 7章9-17節は,現代が「他の羊」の『大いなる群衆』の現われる時であることをどのように示していますか。(ロ)信者を類別してバプテスマを施すということに関してどんな質問が生じますか。
9 この問いに対する聖書に基づく答えを得る安全な道は,この問題に関してイエスがその追随者に命じた事柄を参照する以外にありません。羊と山羊に関するイエスのたとえ話は「事物の体制の終局」にかかわるイエスの預言の一部であり,この特異なたとえ話は確かに「事物の体制の終局」の時,つまり現代にあてはまります。また,「大なる群衆」(黙示 7:9)に関する幻が使徒ヨハネに与えられたのは,明らかにヨハネが,印を押された14万4,000人の霊的なイスラエル人の幻を得たのちでした。したがってこの幻は特に1935年以来,つまり14万4,000人の霊的なイスラエル人に印を押すことがほとんど終わったとされているその年以後の現代にあてはまるでしょう。
10 またこの事実と一致して,主の夕食を祝う油そそがれた霊的なイスラエル人の残れる者はますます少なくなっています。ところが今日,献身してバプテスマを受けたエホバの証人はおよそ100万人を数えています。これらのクリスチャンはきたるべき神の報復の日の「大なる患難」を生き残って,神の建てられる地上の新秩序にはいることを望んでいます。ゆえに「他の羊」のこの数え切れない「大なる群衆」が出て来る予定の時は明らかに今日であることがわかります。イエスは,人々を弟子としてバプテスマを施すわざを遂行するご自分の従順な追随者たちと,「事物の体制の終局」の時の今日まで「いつも」ともにいると言われました。しかし,イエスは,天の御父が天の御国を与えることをよしとされた「小さな群れ」の成員としてのバプテスマを献身した人々に施すようにと命じましたか。また,今日「他の羊」に属する者として献身する人々に,神の国の治める地上の楽園を相続する「大なる群衆」の成員としてのバプテスマを施すようにと命じましたか。
11 (イ)こうした質問に対する聖書の答えはどうして献身の意味の再検討を求めるものとなりますか。(ロ)バプテスマを受けたのち,人は神から何が与えられることを期待できますか。
11 聖書は否と答えます。イエスは単に,「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを施し(なさい)」と言われました。(マタイ 28:19,20,新)このゆえにわたしたちはクリスチャンの献身の意味を正しく知らねばなりません。キリストを通して神に献身する場合,わたしたちはある条件を設けて,その条件に基づいてわたしたちの献身を神に受け入れてもらうのではありません。献身する人は,「みよ,我なんぢの御意を行はんとてきたる」と語った御子イエスが行なわれたように,自らを神にささげるのです。(ヘブル 10:9,10。詩 40:7,8)したがって個人の永遠の運命に関して自分自身の願いを言い表わさず,そうした決定はエホバ神にゆだねます。自分自身に関してエホバの御心が行なわれることを願うなら,わたしたちはエホバから割り当てられる事柄を受け入れ,そこに喜びと満足を見いだせるでしょう。(ロマ 9:16)献身してバプテスマを受けた人に対してなされた神の決定に関する証が,バプテスマの後に神から与えられると考えるのは正しいことです。神の霊によって生み出される人には,子としての証が神から与えられるでしょう。―ロマ 8:16,17。
12 (イ)したがって,わたしたちのバプテスマは,どんな助言に従った後,どんな者として受けるバプテスマですか。(ロ)わたしたちは,自分自身はもとより他の人々がバプテスマを受けて,だれの弟子になることを望んでいますか。
12 したがってわたしたちのバプテスマはイエス・キリストの弟子としてのバプテスマです。このことには疑問の余地がありません。それはイエスの命令に基づく,そうです,イエスに見習うバプテスマです。また,まず最初に費用を計算することを勧めたイエスの助言に従ったのち,御心を行なうとの決意をいだいて神に近づくのも同様にイエス・キリストに見習うことです。(ルカ 14:25-33)献身してバプテスマを受けた神のしもべであるわたしたちは,その忠実な御子の弟子以外の何者でもありません。西暦32年の過ぎ越しの後,ある高い山でイエスが変ぼうした時,エホバ神はその場に居合わせた使徒たちに,「これは我がいつくしむ子,わがよろこぶ者なり,汝らこれにきけ」と言われました。(マタイ 17:1-5)神にほんとうに献身した人は,ほかならぬ神ご自身の選ばれたかたの弟子になることを願います。献身してバプテスマを受けた人がイエス・キリスト以外の他の何者かの弟子になることを神は決して望まれません。イエスの変ぼうを目撃した使徒ペテロが,「キリストも汝らのために苦難をうけ,汝らをその足跡にしたがはしめんとて模範をのこし給へるなり」としるしたとおりです。―ペテロ前 2:21。
13 (イ)時代の意味と予告されたできごとを理解しているからといって,バプテスマ希望者は自分の受けるバプテスマをどのようにみなしてはなりませんか。(ロ)その人はバプテスマを受けたのちに,やがて神から何が示されることを期待できますか。
13 今は「事物の体制の終局」の時であり,イエス・キリストは「その栄光の座位」について,象徴的な「羊」を「山羊」から分けておられます。しかしそうだからといって,西暦1934年ないし1935年以後にバプテスマを受けた人が,自分は「他の羊」のひとり,あるいは現代のヨナダブ,もしくは霊的なイスラエルに属さない「大なる群衆」のひとりとしてバプテスマを受けたと考えることはできません。(ヨハネ 10:16。列王下 10:15-23。黙示 7:9-17)たとえ,献身してバプテスマを受けたエホバの証人が全地ですでにおよそ100万人を数え,天の命の希望を持つ霊的なイスラエル人の限定された数14万4,000人をはるかに上回っていることを知っていても,そうした考えを持つべきではありません。バプテスマはイエス・キリストの弟子,学習者または教え子として受けるものであるということを銘記すべきです。また,自分が現代の「他の羊」の「大なる群衆」に属する者とされたかどうかに関する証が,バプテスマを受けたのちに,無条件で自らをささげたエホバ神からやがて与えられるということを期待できるでしょう。
14 こうして示される事柄がなんであれ,どんな基本的な事実は変わりませんか。それらの人はどんな要求を一様に満さねばなりませんか。
14 献身してバプテスマを受けた人が,霊的なイスラエル人のひとりとして神の霊によって生み出されたしるしをやがて神から与えられようと,羊のような性質を持つ人々の「大なる群衆」のひとりになろうと,バプテスマを受けた,キリストの弟子であるという基本的な事実は変わりません。「他の羊」のひとりとなった弟子に対して神は,霊的なイスラエル人の一員になった弟子の場合と同程度の忠実性を求めておられます。弟子はあくまでも弟子です。「小さな群れ」または「大なる群衆」のいずれに属するかにはかかわりなく,弟子たちすべては今や,「ひとりの羊飼い」すなわちすべての羊のためにご自分の命を犠牲にし,人間としての魂を捨てた主イエス・キリストの導かれる「ひとつの群れ」となっています。(ヨハネ 10:15,16,新。ルカ 12:32,新)彼らは世のいろいろな宗教家に従う者ではなく,「ひとりの羊飼い」の追随者です。彼らはこの偉大な羊飼いを通して神から教えを受ける学習者または教え子です。(ヨハネ 6:44,45)したがって,自分の学んだ事柄を実践し,学んだ事柄を忠実に行なう生活をしなければなりません。さもなればクリスチャンと言えません。キリストの弟子でなければ,ハルマゲドンの戦いを生き残ることはできません。
弟子は他の人々を弟子にする
15 マタイ伝 28章16-20節によれば,すでに弟子となった人々は何を行なうように命じられていますか。彼らはこの点でだれに見習いますか。
15 マタイ伝 28章16-20節の記述には注目すべき大切な事柄があります。それはこの記録の述べる次の点です。「十一弟子たちガリラヤに往きて……山にのぼり……イエス進みきたり,彼らに語りて言ひたまふ『……されば汝ら往きて,もろもろの国人を弟子とな(せ)』」。すべての国の民の中で人を弟子とするわざを行なうようにと,よみがえったイエスから命じられたのは,すでに弟子となっていたそれらの人々でした。したがって,キリストの弟子は単にキリストの学習者また教え子であるにとどまらず,他の人を『一人の師』イエス・キリストの弟子とする者であることがわかります。このことを行なう人は,唯一の師イエス・キリストご自身に見習っていることになります。イエス・キリストも人を弟子とするわざを行なわれたからです。(ヨハネ 3:25,26; 4:1)男子はもとより女子にもイエスの弟子となる特権があります。ヨッパのタビタすなわちドルカスという名の婦人は特に弟子と呼ばれています。(使行 9:36)男子はもとより女子もキリストの弟子,すなわちキリストの信者として水のバプテスマを受けました。―使行 8:12; 16:15。
16 キリストのそのご命令によれば,どんなわざが今も続けられていますか。そのわざは今後どうなりますか。
16 今は「事物の体制の終局」の時ですが,人々を弟子としてバプテスマを施すこのわざは依然として続けられています。しかし西暦1914年以来のこの終局の期間の大半がすでに過ぎた今日,人を弟子としてバプテスマを施すわざのために残された時間はまもなく終わろうとしています。よみがえって栄光を受けたイエス・キリストは,その弟子としてのわたしたちに自ら命じたこのわざにおいて約束どおりわたしたちとともにおられるのです。―マタイ 28:20。
17 バプテスマのヨハネは,イエスがまもなく行なおうとしておられるどんな別のバプテスマについて述べましたか。
17 「事物の体制の終局」の時である今日,イエスは,人を弟子としてバプテスマを施すわざを監督するとともに,まぢかな将来に行なわれる別の種類のバプテスマの準備を進めておられます。バプテスマのヨハネは,イエスが19世紀前ヨルダン川でバプテスマを受けられる以前,イエスについてこう述べました。「彼は聖霊と火とにて汝らにバプテスマを施さん。手には箕を持ちてうちばをきよめ,その麦は倉に納め,からは消えぬ火にて焼きつくさん」― マタイ 3:11-13。
18 (イ)イエスは聖霊によるバプテスマをいつ施しはじめましたか。(ロ)イエスは「火」のバプテスマをいつユダヤ人に施しましたか。
18 イエスは西暦33年のペンテコステの祭りの日に聖霊をもって弟子たちにバプテスマを施しはじめました。(ルカ 24:49。使行 1:4–2:33)西暦70年,イエスはユダヤ州とエルサレムにいたユダヤ人に火のバプテスマを施す者となられました。そしてエルサレムとその宮は火のような滅びをこうむり,その町で過ぎ越しを祝っていた人々のうち110万人が殺され,生き残ったユダヤ人9万7,000人は奴隷としてローマ帝国領の各地に連れ去られ,ユダヤは荒廃しました。
19 1世紀のひな形からすれば,今や何が「火」のバプテスマを受けようとしていることがわかりますか。なぜですか。
19 これは偽りのキリスト教を奉ずる現代の実体的なエルサレム,すなわち世俗的なキリスト教世界にかかわる預言の大規模な最後の成就のひな形となりました。キリスト教世界のいわゆるクリスチャンはイエス・キリストの真の弟子ではなく,むしろ古代バビロンとその異教の宗教の創始者,また「エホバに逆らう強力な狩人」ニムロデに従う者です。ゆえにキリスト教世界は確かに現代の大いなるバビロンの一部,事実,その主要な部分です。バビロン的な偽りの宗教のこの世界帝国が滅びる時,キリスト教世界は1世紀のエルサレムとユダヤのように火のバプテスマを受けてその世界帝国とともに滅び去るでしょう。―創世 10:8-10。黙示 17:1–18:18。
20 ペンテコステの日にペテロが探求心に富むユダヤ人に語ったことばに似たどんな勧めのことばが今日告げられていますか。したがってどんなバプテスマを受けることのほうがすぐれていますか。
20 西暦70年にエルサレムとユダヤが荒廃に帰す37年前,使徒ペテロは,エルサレムでペンテコステを祝っていた探求心に富む人々に,イエス・キリストの名によってバプテスマを受けるようにと命じ,「この曲れる代より救ひいだされよ」と熱心に勧めました。(使行 2:37-40)今日,献身してバプテスマを受けたエホバの証人は同様のきわめて緊急な勧めのことばを,実体的なエルサレムすなわちキリスト教世界で宗教的な祝いを今日まで守ってきた人々すべてに語っているのです。近い将来,キリスト教世界が陥る火のような滅びのバプテスマを受けて,その「曲れる代」の人々とともに命を失うより,キリストの献身した弟子としていま水のバプテスマを受けるほうが,はるかにすぐれています。
21 (イ)警告の音信に心を用いなければならないのはキリスト教世界の人々だけですか。このことについてはなんと言えますか。(ロ)火のような滅びを生き残ったのはどんな人々ですか。この部類に属する人々は今日,どんな命令に引き続き従いますか。
21 キリスト教世界に属さない「すべての国の人々」も同様にこの緊急な音信に心を用いなければなりません。大いなるバビロン,すなわちバビロン的な偽りの宗教の世界帝国はキリスト教世界とともにことごとく「火にて焼きつくされん,彼をさばきたまふ〔エホバ神〕は強ければなり」とあるからです。(黙示 18:8,〔新〕)献身してバプテスマを受けた,イエス・キリストの弟子は,近づいた火のような滅びの時を生き残り,神の正義の新秩序,すなわち真のキリスト教の新秩序にはいるでしょう。キリストの弟子であるエホバの証人はこのことを心にとめて,「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし……彼らにバプテスマを施し(なさい)」とのイエスのご命令に引き続き従います。―マタイ 28:19,新。
[179ページの図版]
昨年の4月,記念式の象徴物にあずかったのは10,368人だけで,これとは対照的に,昨奉仕年度中,新しい信者120,905人がバプテスマを受けた
[182ページの図版]
キリストの弟子はその教え子にすぎないが,他の人々を教え,それらの人々をもイエスの弟子にしなければならない
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率先して事を運ぶ喜びものみの塔 1970 | 3月15日
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率先して事を運ぶ喜び
◆ 会衆内の円熟したクリスチャンが率先して物事を行なうなら,必ずエホバの祝福が注がれます。中央アフリカ共和国でのこと,ある会衆の監督は休暇開拓奉仕を人々に勧めるだけでなく,昨年の4月には自らも妻とともに休暇開拓を行ないました。他の人々がその良い模範に従ったときのふたりの喜びを想像してください。4月には,45人の伝道者から成るその会衆のすべてのしもべたちを含めて19人が休暇開拓奉仕を行なったのです。
― エホバの証人の1970年度年鑑より
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