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    ものみの塔 1961 | 5月1日
    • 神の目的とエホバの証者(その17)

      「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

      バビロンのとらわれ始まる

      ロイス: 今の時代に特にこの国でクリスチャンがそんな仕打ちを受けるとは,ほとんど考えられない事ですね。

      ジョン: ニューヨークのベテルの綴りにある他の報告によれば,戦時公債を買うのを拒絶したという理由で兄弟たちは町をひきまわされたり,あるいははずかしめを与える他の仕打ちを受けました。ある者は路上で襲われ,人前でつばをかけられ,多くの者はタールと羽毛をあびせられるなど,その他あらゆる方法で苦しめられました。このすべては1918年の春と夏に起こったのです。彼らを倒して殺そうとする政治勢力の圧力によって,たしかに「彼らには戦いがいどまれました」。

      トム: ルサフォード判事との同僚が投獄されて,本部の運営はどうなりましたか。

      ジョン: 協会を代表する執行委員が任命されました。任命された5人の兄弟たちの主な仕事は,「ものみの塔」誌の発行をつづけるために編集委員をつとめることでした。a 圧倒的な反対を受けたこの期間にあらゆる場所の兄弟たちは及ぶかぎりの助けと力を必要としていたのです。しかしこの期間を通して「ものみの塔」が休刊になったことは一度もありません。

      しかし,本部での仕事に欠くことのできない石炭と用紙の不足など,多くの問題がありました。ブルックリンの協会に対する敵意は大きなものでした。愛国主義は高まっていました。すべての証者は裏切者と見なされたのです。ブルックリン・ベテルの運営をつづけることは,もはや不可能のように思われました。これらすべての事に照らして5人の委員は,他の兄弟とも相談の上,ブルックリン・タバナクルを売却してベテルの家を閉鎖することに決定しました。このようにして1918年の夏にはブルックリンの本部を解散してピッツバーグのフェデラル・アンド・リライアンス・ストリートにある事務所に戻ることになったのです。b

      エホバと御国を知らせた証者たちのかつては力強く確固とした声も,このような訳で1918年の夏までには沈黙させられてしまいました。彼らの組織された活動は象徴的に言って,殺されてしまい,かつては精力的だったこれらのクリスチャンたちは死んだように無活動となりました。1918年の8月26日,ブルックリンの本部からあたかも追われたような彼らはバビロンの逮捕者の手によってしっかりと捕えられてしまったのです。少なくとも象徴的には,わざは死んだ状態となりました。

      第13章 バビロンのとらわれから解放される

      ロイス: この1週間,私はずっとエホバの証者が1918年にうけた迫害のことを考えていました。それは本当に恐ろしい経験だったでしょうね。また,そのような経験はその頃協会と交わっていた人すべての信仰をためすことにもなったのですね。

      ジョン: そうなんです。でもマタイ伝 24章13節で言っている通りです。「しかし,最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。エホバが試練の期間を課せられる時はいつでも,例外なく逃れの道を備えられます。多くの者は耐え忍びました。わざは永遠に死んでしまったわけではありませんでした。協会の役員たちが刑務所に入っている時でも,「ものみの塔」の声はかすかですが,聞えていました。

      この投獄の期間中には,ほとんど何もなされませんでした。2,3の小さな大会が開かれましたが,これらの大会に一般の人々を集めようという努力はほとんどなされませんでした。むしろ,真理になおもとどまっている者たちを強めて,できるだけよくわざを続けていこうとするのがこれらの大会の主眼でした。先週学んだように,多くの聖書文書販売人は逮捕されてしまいましたが,何人かの忠実なコルポターはなおも忙しく働いていました。

      それから突然,1918年の11月11日に,第一次世界大戦は終わりました。ジャッジ<判事>・ルサフォードとその同僚の者たちは,いまだにアトランタの刑務所に入っていたのですか,兄弟には新しい希望が与えられました。釈放運動を活発に始める至極当然な理由が生まれたのです。そうこうしているうちに,1919年の1月がやってきました。それと共にまた,法人団体であるものみの塔協会の年次総会の時期にもなったのです。1月4日にはピッツバーグで大会が開かれ,兄弟たちを霊的に目ざめさせるにはどうしたらよいか,また同時に,役員の選出はどうしたらよいかという点を検討しました。

      トム: ジャッジ・ルサフォードはその時刑務所にいたわけですね。そうすると法人の総会はどのようにしてなされたのでか。

      ジョン: その疑問は多くの人が心にいだいていたものです。特にルサフォード兄弟自身,どうしょうかと思っていました。刑務所にはいっていた兄弟たちはみな,そこでなまけていたわけではありません。入所する時,伝道してはいけないと言われたのですが,2,3ヵ月たつと,聖書研究も定期的に行ない,それぞれの兄弟は,自分の級を一つづつ受け持ちました。この聖書研究は日曜日に行なわれ,100人ほど出席しました。c しかしルサフォード兄弟は,法人の総会でどんなことが起きるだろうかと心配していました。ルサフォード兄弟と共に刑務所に入り,今も健在のエー・エッチ・マックミラン兄弟は,ルサフォード兄弟が,このことを心配していたとよく語っています。それは協会の役員たちが刑務所にはいってしまったので,制度に反対していた者たちが,この時とばかり,何らかの方法でわざをのっとり,これまで何年もの間協会を健ておこすためになされてきたわざを破壊するのではないかという心配でした。

      確信にみちた言葉

      ロイス: それで総会のとき一体どうなったのですか。

      ジョン: 総会の2日前に普通の大会が開かれ,1000名かあるいはそれ以上の兄弟たちがアメリカとカナダの全区域から集まってきました。1月4日の朝に,副会長のシー・エッチ・アンダーソンは集まった兄弟たちに短い話をし,それについで決議を提出し,満場一致のうちに可決されました。この決議は,

      これら8人の被告の忠実性と,アメリカ政府およびその国民,同時に彼らの主に対する忠誠をつくしたことを確信するものである。更に,判決がくつがえされ,すべての事実が上告裁判所で十分かつ公平に再検討されるならば,彼らは完全に無実の罪をはらすことができるということを,全く確信するものである。d

      協会の会長と会計 ― 秘書が出席していないので,法律的な面である疑問がありました。選挙をするのを,6ヵ月間待った方がよいという人もありました。また株を持っている人々がそのようにすれば,兄弟たちを否認していると一般の人々がみるのではないかという意見の人もありました。長い討論が続きましたがその中で1人の兄弟は,次のような意見をだし,これはその時出席していた大多数の者の気持を表わしているように見えました。

      我々の敬愛するルサフォード兄弟に対して,我々が表し得る最大の賛辞は,同兄弟を再びものみの塔聖書冊子協会の会長として選出することだろうと思います。我々がこの問題に対してどのような立場を取っているかということにかんして,一般の人々の間に何らの疑問もないと思います。仮りに我々の兄弟たちが,理解していなかった法律を何か専門的な面で破ったとしても,その動機は純粋なものであったということを我々は知っています。その上,全能の神の御前では兄弟たちは,神の法律も,人間の法律も破ってはいないのであります。もし我々がルサフォード兄弟を研究会の会長として再び選出するなら,我々は最大の確信を表わすことができます。私は法律家ではありませんが,事態が法律的なことになると,忠誠の法律ということは少し知っているつもりです。忠誠は神が要求していることです。我々が選挙をしてルサフォード兄弟を再選すること以上に,我々の確信をよりよく表わすことができるものはないと思います。e

      討論の後,休憩をとり,6ヵ月待つという案は撤回されました。出席者の大多数は選挙をすることに賛成でしたし,ルサフォードを会長として再選することに疑いの余地は全然ありませんでした。

      選挙が行なわれ,ルサフォード兄弟が会長に選ばれ,シー・エー・ワイズ兄弟が副会長に,ダブリュ・イー・バン・アンバーは会計 ― 秘書に選ばれました。f 1917年から1918年にかけて協会に反対した者たちはだれもこれに口出ししませんでした。

      翌月,新聞を使って,ルザフォードとその同僚の者たちを釈放しょうとする運動が全国的に始められました。g 証者たちは何千通にもおよぶ手紙を書いて,新聞の編集者,下院議員,上院議員そして知事に送り,投獄されている協会の役員のために手をうってくれるようにとたのみました。この手紙を受け取った人たちの多くは,釈放することに賛成し,それについて尽力する旨を明らかにしました。h

      次には兄弟たちのために,1919年の3月,嘆願状が全国にまわされ,短い期間に70万の署名を得ることができました。i この嘆願状には無実の罪をきせられた者たちに対して,アメリカ政府が,正しい判決を下すようにということがしたためてありました。一般の人々のこのような反響からみても,目ざめてきた証者たちが再起し,活気づいてきたということがわかります。これはその当時の一番大きな署名運動でした。この嘆願状は政府に提出されなかったのですが,それが大きなあかしとなったことは事実です。j

      協会の役員は釈放され無罪を言い渡される

      トム: でも70万にもおよぶ人々から署名を得ておきながら,どうしてそれを政府に提出しなかったのですか

      ジョン: その必要がなかったのです。政府はその時すでに8人の兄弟たちを釈放すべく手を打っていたのです。この点にかんして連邦地方裁判官のハーラン・ビー・ハウのことにふれるのは面白いと思います。兄弟たちが投獄を宣告されてから,保釈を拒否したのはまず彼でしたが,このハウという人が1919年の3月2日にワシントの検事総長グレゴリーに獄中の8人の男の刑を「ただちに軽くするようにという」電報打ったのです。グレゴリーはそれよりも先,ハウがこの動議を提出するようにということをすすめる電報打っていたのでした。k なぜこのようにことを運んだかというと,兄弟たちが上訴していたからです。ところが検事総長もハウも上級裁判所に事件が持ち込まれることを望まなかったのです。おぼえていらっしゃると思いますが,協会の役員たちは上訴中に投獄されてしまったのですが,これもハウとマントンが保釈をこばんだためでした。しかし,このハウのはかりごとは失敗してしまい,3月21日lにアメリカ合衆国の最高裁判所の裁判官,ルーイス・ビー・ブランディスは8人の兄弟たちを保釈するようにと命令し,4月14日に上訴する権利が与えられるべきだと指示しました。

      ただちに兄弟たちは釈放されました。3月25日の火曜日,彼らはアトランタの刑務所を出て,汽車に乗り翌日ブルックリンにつきました。この場所で1919年3月26日,各人は360万円の保釈金で連邦当局により次の裁判までは釈放されることになりました。a その釈放の知らせを受けて,兄弟たちが帰ってくるのを迎えにいったブルックリンの兄弟たちの喜びを,想像することができます。協会の本部は当時ピッツバーグにあったのですが,ニューヨーク市にいた忠実な兄弟たちは早速大きな宴会を準備し,ベテルの家でこれを開きました。そこに出席したものの話によると,全部の者が坐るだけの椅子もなかったそうですが,そんなことで彼らの気持や熱意はくじかれず,釈放されてきた兄弟たちの話に聞きいりました。このような楽しい時を過ごしてから,ルサフォード兄弟とその他の者はただちにピッツバーグに向かって出発しました。そこでもベテルの兄弟たちによる喜びにあふれた歓迎会が彼らを待ちうけていました。

      トム: でも兄弟たちがただ保釈出獄しているのだとしたら,まだその事件の結末がついてないということですね。それで最後にはどうなったのですか。

      ジョン: 兄弟たちの上訴した事件は1919年の4月14日に審理されることになっていました。それでその日にニューヨークの連邦第2巡回上告裁判所で審理されました。1914年の5月14日に,前年の夏なされた誤った判決はくつがえされました。事件を再審するため下級裁判所にもどすにあたり,ウォード裁判官は次の意見を述べました。

      この事件の被告たちは当然受くべき適当かつ公平な裁判を受けなかった。よって判決はくつがえされた。b

      これはどういう意味かというと,政府が再び起訴しないかぎり,兄弟たちが自由の身になれたということなんです。もう戦争も終わっていましたし,手元にある証拠から有罪と決定することは不可能だと彼らは知っていました。それで翌年,つまり1920年5月5日に,8人の者はブルックリンの公けの法廷で検事総長の命令で政府側の検事が訴訟を取下げると宣言した時,非合法的な裁判からすっかり解放されたのです。訴訟は原告の訴訟中止の同意により却下されました。c

      新聞はこの判決の取消しを,取りあげました。1919年5月15日付のザ・ブルックリン・イーグル紙は次のように報じています。

      ラッセル派に対する判決は上訴によりくつがえされた。「裁判は不公平だった」。ニューヨークの連邦地方上告裁判所の裁判官,ウォード,ロジャース,マントンは,ラッセル派の指導者たちの有罪の判決を今日くつがえした。ブルックリンで開廷された法廷で彼らはバーモントの裁判官ハーラン・ビー・ハウにより,徴兵を妨害し,入隊を思いとどまらせ,国家の軍隊の中に暴動と不服従を誘発したというかどで昨年の6月有罪の判決を受けた。

      裁判官,ハウの態度は〔3人の〕証者を取扱う際に不公平だったという判決である。……この判決はラッセル派の主張,つまりその成員に殺すことを禁じている制度は,兵役に服することから免除される資格があるということの合法性を認めているゆえに,この派の指導者たちが再び裁判にかけられるということはまずないように思われる……

      マーティン・ティー・マントン裁判官の意見は,ヘンリー・ジー・ウォード裁判官によって書かれた大多数の意見とちがっていた。d

      裁判官マントンが反対の票を投じたことは,意外なことではありませんでした。なぜならローマ・カトリック教徒としてよく知られているこのマントンは,1918年の7月1日に何の特定な理由もなしに,ルサフォードとその同僚の保釈を拒絶しているのです。このため9ヵ月も不当に刑務所に入ることを余儀なくされ,彼らは上訴することができませんでした。このように保釈を拒絶することは,

      アメリカ合衆国最高裁判所の法令に全く反するものである。以下はその法令からの引用である,「アメリカ合衆国の法令は,告訴された者が最後の手段である法廷で最後的に有罪の判決を受けるまでは,投獄あるいは刑罰を強制的に課せられることはなく,逮捕後,あるいは裁判前更に判決後あるいは錯誤令状が未決定の時にも,保釈は許される」― ハドソン対パーカ,156ユー・エス・277。e

      マントンは後程,法王ピオ11世により「セント・グレゴリー1世の勲爵士」にされましたが,彼が公平でなかったということは,1939年6月3日に遂に明るみに出されました。その時彼は,六つの判決に対して6696万円のわいろを受け取って,自身の高い連邦裁判官の権限を誤用したというかどで2年間の投獄とそれに加えて360万円の罰金という最も重い刑罰を課せられました。f

      トム: その判決がくつがえされたということは,ジャッジ・ルサフォードとその他の者が無罪になったという意味ですね。私はちょっと前のことですが,カトリックが発行した文書の中で,ジャッジ・ルサフォードのことを「前科者」と言っているのをみましたよ。

      ジョン: そのように言うことは本当にまちがっています。1919年5月14日に法廷は判決を下し,ルサフォードとその同僚が不法にも有罪と宣告され,投獄されたということを確証しているのです。そして更にルサフォード兄弟が前科者でないと証明した事実は,後になって彼がアメリカ合衆国の最高裁判所に弁護士としてはいれたことからでもわかります。もし彼が刑務所で服役した記録をもつ者と考えられていたなら,これは不可能なことだったでしょう。それでこのようなことを言う人は,全然事実を知らないか,それともルサフォード兄弟のことをわざとわるく言おうとしているかのどちらかです。

      [脚注]

      a (ム)1918年「ものみの塔」242,255頁。

      b (ウ)右に同じ。290頁。

      c (イ)1919年の「ものみの塔」(英文)の116頁。1939年23日号の「慰め」(英文)の8頁。

      d (ロ)1919年の「ものみの塔」(英文)23頁。

      e (ハ)「ペンシルバニア州ピッツバーグ,1919年1月2日-5日,聖書研究生の大会の報告」(英文)の37頁。

      f (ニ)1919年の「ものみの塔」(英文)23,24頁。

      g (ホ)1919年の2月20日のペンシルバニア州ピッツバーグ,「ナショナル・トリビューン」紙

      h (ヘ)1919年の「ものみの塔」(英文)101頁。

      i (ト)1920年の「ものみの塔」(英文)162頁。1919年の「ものみの塔」(英文)93頁。

      j (チ)1919年の「ものみの塔」(英文)194頁。

      k (リ)1919年の「ものみの塔」(英文)117頁。1939年9月6日号の「慰め」5,6頁。

      l (ヌ)1919年の「ものみの塔」98頁。

      a (ル)1919年の「ものみの塔」(英文)118頁,1925年の「ものみの塔」(英文)71頁。

      b (オ)「ルサフォード対アメリカ合衆国」258,F855,863。

      c (ワ)1920年の「ものみの塔」(英文)162頁。

      d (カ)1919年の「ものみの塔」(英文)162頁。1939年9月6日号の「慰め」(英文)6,7頁。

      e (ヨ)「万国聖書研究会訴訟事件」(英文)4頁。

      f (タ)1939年8月9日号の「慰め」(英文)3-6頁。1929年1月21日付ニューヨーク・タイムス紙。1946年11月18日,23頁,3欄。

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1961 | 5月1日
    • 読者よりの質問

      ● 輸血によって人間のからだに血を取りいれることの重大さを考えるとき,献身して洗礼を受けた者が輸血を受け,この点で聖書にそむいた場合,その人はクリスチャン会衆から排斥されますか。

      霊感された聖書は排斥されると答えています。西暦第1世紀の中頃,キリストの12弟子は,ユダヤ人でない人々をクリスチャン会衆に受け入れるための聖書的必要条件を決定するため,エルサレムの会衆の他の円熟した兄弟たちと共に集まりました。この重要な問題を決定するために集まった12使徒とエルサレムの会衆の他の円熟した代表者たちは,ユダヤ人もしくは割礼を受けた改宗者たちでした。それで彼らは,西暦33年のペンテコストまでは,モーセの律法の一部であった,動物の血を飲んだり食べたりすることを禁止する律法のもとにいました。そのモーセの律法の,レビ記 17章10節から12節で,神はユダヤ人にこういわれました,「イスラエルの家の者,またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも,血を食べるならば,わたしはその血を食べる人に敵して,わたしの顔を向け,これをその民のうちから断つであろう。肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである。このゆえに,わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち,だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない」。

      それらユダヤ人のクリスチャンたちはいまや,神と人との仲保者イエス・キリストの血が死によってそそぎ出されることにより有効とされた新しい契約にはいりました。では彼らは,異邦人の信者をクリスチャン会衆に受け入れるために,どのような条件を彼らに課すことを決定したでしょうか。彼らの決定を示した命令はつぎのとおりです。「使徒たちと古い兄弟たちから,アンテオケ,シリヤ,キリキヤにいる異邦人の兄弟たちにあいさつを送る。……聖霊と私たちは次の必要なこと以外にはあなたがたにこれ以上の重荷を加えないことにする。すなわち偶像にささげられた犠牲と,血と,血を取りださずに殺したものと,淫行とを避けることである。注意してこれらのものから遠ざかるなら,あなたがたは栄えるであろう。ではお元気で」。(使行 15:23-29,新世)それで,すべてのクリスチャンにとって「必要な」事項のなかには,血と,血を出さずに殺したものを避けることが含まれていると,使徒の命令は,神の聖霊のみちびきのもとに述べています。使徒行伝 21章の25節によると,なん年かあとでも,その決定はクリスチャンに対して効力をもっていました。その決定は神がなされたものですから,廃止されたことは全くなく,今日も,献身し洗礼を受け1900年まえにユダヤ人として生まれたイエス・キリストの足跡に忠実に従うクリスチャンに適用します。

      預言者モーセの中だちによってイスラエル民族に与えられた神の律法のもとでは,動物の血を食べたり飲んだりすることを禁ずる律法を犯したユダヤ人もしくは改宗者は,神の選民から切り離されることになっていました。エルサレムでのあの会議から出された使徒の命令によると,クリスチャン会衆は,動物の血を食べるか飲むかした者に対して同じことをする責任がありました。使徒の時代には,輸血は流行していませんでした。しかし,12使徒とエルサレムの会衆の彼らの仲間のメンバーが,現代の輸血などを考慮に入れていなかったにせよ,それは,彼らの出した命令の範囲にはいっています。命を救うには輸血が必要だと医師はいいます。その輸血が,ほかの人のあるいは人々の血で,人間の血管を通し直接養うものであることを医学は認めています。

      神の律法は,人間の魂がその血の中にあることをはっきり述べています。ですから輸血を受ける者は,自分と同じ人間あるいは人々の血液にある神から与えられた魂を食べているのです。それは,クリスチャンに対する神のいましめを破ることです。それは重大なことであって,各自が良心に従って随意に決定すべきものとして見すごしたり軽視すべき事がらではありません。エルサレムの使徒たちの命令は,「注意してこれらのものから遠ざかるなら,あなたがたは栄えるであろう」と述べています。したがって,意識して輸血を受けて,血を避けないクリスチャンは,霊的に栄えないでしょう。来たるべき事がらの影を示すモーセの律法によると,輸血を受ける者は,排斥によって神の民から切り離されなければなりません。

      もし,献身して洗礼を受けたクリスチャンが,クリスチャンとしての円熟性と安定性に欠けていたがために輸血を受けるという罪を初めておかして,その誤りを認めて深く悲しみ,悔い改めて神と神の地上の会衆のゆるしを乞うなら,彼にあわれみをさしのべねばなりません。そして彼を排斥する必要はありません。その人は監視のもとにおかれて,この問題に関し,聖書に基づいて十分に教えられる必要があります。それによってその人は,将来同じような事件が起きたとき,クリスチャンの標準にしたがって決定が下せる力を養うのを援助されます。

      しかしがなら,その人がもし,要求されているクリスチャンの標準にしたがわなかったことを認めず,クリスチャン会衆の中でその事について問題を起こし,自分を支持させるために会衆内の他の者を感化しようとするなら,あるいは,将来輸血を受けることや,他の者にこの医療を施すための血を供結することをやめないなら,その人は心から悔い改めたのではなくて,神の要求に故意にそむいたことを示します。それで反逆者,クリスチャン会衆内の他の者に対する不忠実の例として彼を排斥し,会衆から切り離さねばなりません。

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