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  • 悲しい時の慰め
    ものみの塔 1979 | 1月15日
    • なります。そして,もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,わたしたちの宣べ伝える業はほんとうにむだであり,わたしたちの信仰もむだになります。さらに,わたしたちは神の偽りの証人ともなります。神はキリストをよみがえらせたと,神に逆らって証しをしてきたことになるからであり,死人が実際にはよみがえらされないのであれば,彼をよみがえらせることもされなかったからです。死人がよみがえらされないのであれば,キリストもよみがえらされなかったのです。さらに,キリストがよみがえらされなかったのであれば,あなたがたの信仰はむだになります」― コリント第一 15:13-17。

      使徒パウロそして何百万人という他の人々にとって,死者の復活に対するゆるぎない信仰は絶対確実な慰めの源でした。今日においてさえ,それはなお同様です。なるほど,死人のよみがえりなどは見たことがないと言って,復活という考えを嘲笑する人も中にはいるでしょう。しかし彼らは死に面した時,その不信仰のゆえに,より優れた立場に立つことができますか。過去における復活の歴史的な証拠を否定することによって,彼らは遺族にどんな慰めを与えることができるのですか。彼ら自身が親しい親族や友人を亡くす時,彼らの不信仰は悲しみを和らげるのに助けとなりますか。事実を見る時,その答えはおのずから明らかです。

      ゆえに死によってもたらされた悲しみの時には,聖書に述べられている復活という神の確かな約束から慰めを得つづけてください。それ以外に希望はありません。それを手放してはなりません。また復活についての聖書の音信を分かつことにより,悲しむ人々に真の慰めを与える満足を見いだしてください。

  • 病気に耐えて生きてゆく
    ものみの塔 1979 | 1月15日
    • 病気に耐えて生きてゆく

      ダビデ王は重い病気にかかり,その敵たちは王が死ぬことを願っていました。訪問客は,王の健康状態に悪化のきざしが少しでも見えないかと鵜の目鷹の目になっていながら,偽善的にも表面では王が快方に向かうようにと言います。あとでその者たちは自分の否定的な観察を他の人々に告げては喜んだものです。「彼の体は悪性の病気で満ちている。病気で伏しているので,二度と起き上がれないだろう」と彼らは言います。親しい友人で,信頼を寄せていた助言者アヒトペルでさえ,裏切者と化してしまいました。―詩 41:6-10,新アメリカ訳聖書。

      ダビデにこのきびしい苦難の時を耐えさせたのは何でしたか。彼は希望を失って恐れに屈するようなことはありませんでした。神に対するダビデの信頼は弱まりませんでした。ダビデはこう宣言しているからです。「エホバご自身が病の床で[そのしもべ]を支えてくださる。あなたは彼の病気の間そのすべての寝床を必ず変えてくださいます」。(詩 41:3,新)結局,ダビデは確かにその病気から回復しました。

      しかし,至高者は苦難に遭っている,ご自分のしもべをどのようにして元気づけられるのですか。エホバ神は,ご自分の霊によって,病気の人に,慰めを与え希望を強める考えを思い起こさせるのです。この点で神の行なわれる事柄は,人が健康を取り戻す上で重要な役割を果たします。ですからダビデは,エホバが苦難に遭っている人の床を,病の床から回復の床へと変えてくださる,と言うことができたのです。

      現代の医師たちが,病気からの回復に当たって希望の果たす役割の価値を認めるようになってきているのは注目に値します。例えば,「欠くことのできないバランス」という本の中で,カール・マニンガー博士はこう書いています。「現在の科学の知識は,回復に役立つ力すべてを認識し,識別し,正しく評価するまでには至っていないが,それはどんな場合であれ,我々が克服せねばならない力すべてを理解していないのと同じである。ただ,次のことは分かっている。時として希望がくじかれ,そのあと死が臨む場合もあるが,希望が保たれて起こり得ない事の起きる場合もある」。

      絶望と恐れの有害な影響について,アメリカーナ百科事典はこう述べています。「精神的な不安が生ずると,特に病気があったり病の恐れのあったりする場合,もし正されないなら,しばしば極めて重大な結果を招く。恐れは,多くの人々に不安がられているどの疾患の最悪のものよりはるかに重大な影響を及ぼす。流行病の場合,それが引き起こす恐怖は,大抵,感染そのものと同じほど致命的である。それは,全身を麻痺させ,体からは神経のスタミナの自然の順応性を,頭の中からは元気を回復させる希望を奪い,年齢と体力からすれば助かる可能性の最も高かった人を犠牲者にしてしまう。恐れは精神的な毒薬であり,健康と医学の敵すべての中で,最も手ごわい」。

      神とそのみ言葉の約束とに揺らぐことのない信仰を抱く人は,そうした破壊的な恐れに屈しないよう保護されます。そのような信仰を持つ人は,いかなる苦難もやがては終わるという事実に慰めを得ます。それが結局のところ死をもって終わるとしても,その人は恐れに圧倒されてしまうことはありません。死からの復活に関する神の約束がその人を元気づけるからです。そうした人は,苦難に耐えながら,忍耐してゆくための助けをエホバ神に請い求めます。そうすると,神の霊,つまり活動力は,必要とされる力を賦与します。それに加えて,病気の人は,次の聖書の約束の成就を,確信を持って待ち望みます。「[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:4。

      この壮大な約束の生み出す希望は,病気や事故の結果として生じる大きな苦難に直面しても,明るい見方を保つよう人を助けることができます。末期的な脊椎ガンに襲われた,43歳のロバートの場合を例に取ってみましょう。医師は彼に,あと一週間ほどしか持たないだろうと告げました。しかし,四か月ほど後,その容態が重かったにもかかわらず,彼はエホバの証人の大会に出席するよう取り決めました。そして自分のベッドに横になりながらも,大会のプログラムの多くを聴くことができました。医師たちは,この人が上きげんでいられることをとても信じられないといった様子でした。ロバートは,『私は,エホバの約束してくださった新秩序の希望で命をつないでいるのです』と言ったものです。また,絶えず祈り,忍耐するための力を至高者に請い求めました。

      この同じ約束は,優子という日本の若い婦人の生き方をも変化させました。31歳のとき,この人は膠原病にかかりました。これは,皮膚がこわばり,その結果体が硬直してちょうどミイラのようになり,それが広がるにつれて少しずつ死へ向かってゆく病気です。まず彼女の右手が硬直し,指が曲がってしまいました。その治療法は知られていないので,特に,自分の三人の子供の将来を考えると,優子はとても憂うつになりました。入院中に彼女は貧血症になり,口とあごの筋肉が硬くなって,もはや自由に話せなくなりました。それで,優子は流動食をとらねばなりませんでした。

      ところが,聖書を研究するようになって以来,どんなことが起きたでしょうか。人が病気になったり,死んだりすることのなくなる,エホバの新秩序について学ぶのは,彼女に大きな慰めとなりました。優子はこう語っています。「私は初めて確かな希望を見いだしました。やがて私は,同じような境遇に置かれている他の人々に自分の信仰を表明したいという強い願いを抱くようになりました。それによって,他の人々もエホバのみ手にすべてをゆだねることを学ぶためです。私の貧血を心配して,医師は私が外出して,日光に身をさらすことを望みませんでした。しかし,私は自分の学んだ事柄をどうしても他の人に分かたなくてはならないと感じました。結果はどうでしたか。それ以上貧血の問題はなくなりました。外へ出て聖書について他の人々に語るようになった結果,食欲が出て,体重が増えました。また,口の筋肉も自由に動くようになったのです。私の健康状態が奇跡的に快方へ向かったのを診察して,医師は驚いてただ首を振るばかりで,一体何がそうした変化をもたらしたか計りかねていました」。

      多発性硬化症に冒された一人の若者も,同様の変化を経験しました。この青年は半身不随になって,養護施設の個室で車イスに座って時を過ごしたものです。片手で自分の車イスを操り,前後左右に動くのがやっとでした。すっかり希望を失って,この若者は死を待つようになりました。ところが,エホバの証人の一人とある期間聖書を研究した後,この人は生きることにより深い関心を示すようになりました。彼は家具につかまって歩くことを幾度も試み,やがて,歩行器をかなり上手に使えるようになりました。この青年はそのまま養護施設に住み続けるかわりに,自分のアパートに引っ越し,自分で食事を準備し,部屋を掃除するようにさえなりました。死を待つかわりに,この若者は,病気のない世界に関する聖書の約束の成就を待ち望むようになりました。

      このように,まさにわたしたちの時代に至るまで,聖書の音信は,お年寄りや虚弱者,そして事故や病気で苦しんでいる人々に,慰めと励ましを与えてきました。力を得るためにエホバ神に頼ることを学び,神の差し伸べてくださる希望を自らの希望にすることにより,そうした人々は大きな苦難に耐えてくることができました。これは,聖書が尽きることのない慰めの源であることを示す,実に優れた証拠ではありませんか。

  • 『網が広げられても無益である』
    ものみの塔 1979 | 1月15日
    • 『網が広げられても無益である』

      無法な者とかかわり合いにならないようにという警告の一部として,箴言 1章17節(新)はこう述べています。『網が翼を持つものの目の前で広げられたところで,それは無益なことである』。鳥は生来,用心深く,鋭敏な視覚を持っています。それゆえ,人が鳥のよく見えるところで網を広げるなら,鳥を捕らえることは期待できません。その人の努力はむだになるでしょう。同様に,盗みや強奪によって生きている人々は,実際には何もうまくやり遂げてはいないのです。そうした人々は単に自分のためのわなをしかけているにすぎず,そうしたたくらみすべては結局はむだに終わります。―箴 1:19。

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