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クリスチャンの道徳に対する見方ものみの塔 1971 | 11月1日
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しています。あなたはそうした事態に気づいておられるのではありませんか。
周知のとおりローマ・カトリック教会は妊娠中絶と離婚と妊娠調節に強く反対してきました。しかし,カトリックの優勢な多くの国々で私生児の出生率が非常に高いことも同様によく知られています。一例をあげれば,カトリック公認の週刊誌オリエンタシオン(1967年9月24日号)は,エルサルバドルにおける総出生件数の66.5%が私生児であるとの数字を示しました。また,多くのカトリックの国では売春も盛んで,イタリアの週刊誌ロ・スペクチオの伝えるところによると,おひざもとのローマで近年10万人もの売春婦が活動していました。めかけ囲い,姦淫,淫行などが,そうした国で非常に多いにもかかわらず,そのために破門されることはまずありません。ですから,そうした事態がいつまでもはびこります。
あなたはご自分の教会の牧師に,クリスチャンの道徳にかんしてどんな見方をもっているか尋ねたことがありますか。その答えにあなたは驚かされるかもしれません。
エホバの証人の見方や立場は前述のそれとどのように比較されますか。証人たちは現代の風潮に従っているでしょうか。
簡単にいえば,エホバの証人は次のような立場を取っています。神は人を創造するさい男性と女性の特質を人間に与えられた,という聖書の記録を信じます。(創世 1:27)このために,また性の力は(聖書が神聖なものとしている)命を産み出すことに関係しているゆえに,神だけが人間の性の力の用い方について何が正しくて良いか,何がまちがいで悪いかを告げる権威と権利を持っておられることを認めています。また,生命のこの神聖さゆえに,妊娠中絶によって生きた胎児を故意に殺すことを殺人と考えます。―創世 9:6。出エジプト 21:22,23。
新カトリック百科事典(1967年)第7巻はその846ページで,エホバの証人の信仰にかんし次のように述べています。「夫婦自身の決定にまかされている妊娠調節を除けば,彼らの婚姻と性の道徳は相当にきびしい。……彼らは聖書を信仰と行為の規則の源泉と考えている」。
聖書そのものは性道徳についてなんと言っていますか。姦淫,淫行,同性愛行為を正当化する「例外的な状況」を酌量していますか。ヘブル書 13章4節は,「すべての人,婚姻のことを貴べ,また寝床を汚すな,神は淫行のもの姦淫の者をさばき給ふべければなり」と述べています。また,コリント前書 6章9,10節〔新〕には,「汝ら知らぬか,正しからぬ者の神の〔王国〕をつぐことなきを。自ら欺くな,淫行のもの,偶像を拝むもの,姦淫をなすもの,男娼となるもの,男色を行ふ者,盗するもの,貪欲のもの,酒に酔ふもの,ののしる者,奪う者などは,みな神の〔王国〕をつぐことなし」としるされています。このことばの意味は明白で,まちがえようがないではありませんか。
エホバの証人はまた,神の恵みのうちにとどまるには会衆としての清さをも保たねばならないと信じています。ちょうど少しのパン種がひと焼き分の粉全部をふくらませ,1個の腐ったリンゴがひとかごのリンゴを全部腐らすように,会衆内にとどめおかれる不道徳な人は,会衆内の他の人々に汚れた影響をおよぼすということを証人たちは認めています。ですから,不道徳な行為をならわしにする人はだれでも,みずからを「排斥」,すなわちエホバの証人の全会衆から追放される危険に身をさらすことになります。そういう人たちが,ある期間を経たのち再び受け入れられる場合があることは事実ですが,それは誠実な悔い改めと,悪行を捨て去ったことが明らかになったときだけに限られます。
このことについて聖書はなんと言っていますか。使徒パウロは,不道徳な生活をしていたコリントの会衆内のある男子について,「かの悪しき者を汝らの中より退けよ」と命令しました。また,そのことと関連して,「兄弟と称ふる者の中にあるひは淫行のものあるひは貪欲のものあるひは偶像を拝む者,あるひは罵るものあるひは酒に酔ふものあるいは奪ふ者あらば,かかる人と交ることなく,共に食する事だにすなとの意なり」と述べています。(コリント前 5:11-13)あなたの出席する教会ではこの指示が守られていますか。
神のみことばに示されている定めは,人は自分がまいたものを刈り取るということです。(ガラテヤ 6:7,8)性にかんする現代の風潮は人をどこに導きますか。離婚や破壊した家庭が増加し,またそのような破壊した家庭が青少年の非行をはぐくむ肥沃な風土となっているのは事実ではありませんか。性病が手のつけられない疫病的な様相を呈してまん延していることを保健当局が警告しているのは事実ではありませんか。私生児が急増し,ますます多くの若い未婚の少女が母親になり,あるいはそうした事態を避けるために妊娠中絶を行なっているのは事実ではありませんか。これらの実は良いものをまいた結果だとあなたは思われますか。
神の律法は単に権威を有するだけでなく,賢明であり,人間を益するためのものなのです。「敬虔は今の生命と後の生命との約束を保ちてすべてのことに益あり」とあるとおりです。(テモテ前 4:8)そうです,聖書の原則に従う生活は,幸福,家庭の和合,神の恵みによる終わりのない命という報いにつながります。これがあなたの望むものですか。もしそうであれば,クリスチャンの道徳のたいせつさがよくおわかりになるでしょう。道徳の退廃を経験している世にあって,名前だけのクリスチャンを避けて,道徳的に清い生活をしている人たちとの交わりを求めるべきではないでしょうか。そのような交わりは人をさわやかにし,清い健全な行ないをするように励ますものであることがわかるでしょう。
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神の名前はなぜ聖書全巻に現われるべきですかものみの塔 1971 | 11月1日
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神の名前はなぜ聖書全巻に現われるべきですか
聖書を読むさい,いわゆる「旧約」と呼ばれる部分で神の名前を目にしたことがあるかもしれません。たとえば,欽定訳聖書(英文)の中で,次の聖句をお読みになったかもしれません。「然ばかれらはエホバてふ名をもちたまふ汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし」― 詩 83:18。イザヤ 12:2。
ところが,「新約」つまりクリスチャン・ギリシア語聖書を読んだ時には,一度も神の名前を目にしなかった,というかたがおられるでしょう。たいていの翻訳者は聖書のこの部分を翻訳するさい,神の名前を省いてきました。その一つの理由は,クリスチャン・ギリシア語聖書原本の古代の写本で,神の名前が完全な形で出てくるものが今まで一つも発見されていないからです。
とはいえ,神の名前は古代ギリシア語の写本およびその翻訳の両方に,省略形で確かに出ています。聖書を読むさい,黙示録 19章1,3,4,6節で「ハレルヤ」という表現に気づいたことがありますか。「ウエブスター新大学用辞書」によると,「ハレルヤ」とは「汝らヤハ(エホバ)を賛美せよ」という意味です。
神の名前が省略形で出てきているからには,初期クリスチャンの間ではその名前を用いることがすたれていなかったと言えます。では,ギリシア語聖書本文の現存する写本のどれにも,神の名前が完全な形で出てこないのはなぜですか。それらの古い写本に神の名前が見られないことは,イエスや彼の弟子
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