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『すべての国の人々を弟子とする』ものみの塔 1970 | 9月15日
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の協力を得たわたしは,1か月の休暇開拓奉仕を行なえました。その期間に,ひとりの婦人との聖書研究が始まり,今では,その人と13歳になるむすこは御国会館の集会に出席しています」。家族全員が協力すれば,家族のひとりが休暇開拓をするのは,それほどむずかしいことではありません。
休暇開拓奉仕を励ますという点で,地域のしもべと巡回のしもべは,著しい働きを行なえます。ある巡回大会の,開拓奉仕に関心のある人々の集まりで,ある会衆の40人の伝道者のうち,7名が休暇開拓の申込書を提出し,もうひとりは正規開拓奉仕を申し込みました。
ひとりの巡回のしもべは,開拓奉仕を励ましてきたことについて次のように語りました。「過去6か月間に,九つの会衆で合計450名が休暇開拓奉仕をしました。110名の伝道者からなるある会衆を訪問したところ,89人が休暇開拓の申込用紙を求めました。したがって,今後,毎月15人ないし20人が休暇開拓奉仕に携わるでしょう。その会衆の公開講演に150名余の人々が出席しますが,休暇開拓者とその働きは,こうしたすぐれた出席者数に大きく貢献しています」。
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読者からの質問ものみの塔 1970 | 9月15日
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読者からの質問
● 忠実なクリスチャンは,直接の家族の範囲外の親族で,排斥された人に対して,どのようにふるまうべきですか。
この事態は,エホバに忠実であることを願いながらも,排斥された親族に自然の愛情をいだくクリスチャンにとって,一つの試練となります。神がご自分のみことばの中で,この問題全般を明確にしておられることに,わたしたちは感謝できます。
聖書は,エホバが進んで許しを与えられることを明らかにしています。人間はすべて罪深いものです。しかし,悔い改めて許しを求めるなら,キリストの犠牲に基づき,エホバはその罪を快く許してくださるのです。―ロマ 3:23。使行 26:20。
しかし,過去にそうした許しを求め,神に献身したしもべとなった人が,罪を犯す場合どうなりますか。エホバは人間の不完全さを知っておられ,罪人が自分の誤りを認め,悔い改めていることを行動で実証するなら,やはり許してくださいます。(ヨハネ第一 1:9)しかし,クリスチャンと唱えながら,罪を常習にし,かつ悔い改めることも,心を変えることもしない人に対するエホバの指示は,はっきりしています。それは,1世紀に起きた事態からわかります。コリント会衆に交わっていた,ひとりの男の人は不道徳な行ないを常習にしたのです。霊感の下に,同会衆に発せられた指令は次のとおりです。「かの悪しき者を汝らの中より退けよ」。つまり,彼を会衆から追い出すことでした。―コリント前 5:13。
その処置は重要でした。腐敗的な影響を及ぼすものは,それがなんであれ,神の組織内にとどまることは許されません。使徒パウロが書いたように,『少しのパン種が,粉のかたまりをみな膨れしむる』からです。問題の不道徳な人がとどまれば,会衆全体の良い霊的な思いがそこなわれるのです。―コリント前 5:5-7。ヨシュア 7:1-25。
コリントの忠実なクリスチャンは,その男の人をどう扱わねばなりませんでしたか。パウロは次のようにしるしています。「ただ兄弟と称ふる者の中に或は淫行のもの或は貪欲のもの或は偶像を拝む者,あるひはののしるもの或は酒に酔ふもの或は奪ふ者あらば,かゝる人と交ることなく,共に食する事だにすなとの意なり」。(コリント前 5:11)したがって,このように会衆から追い出すことを,排斥する,と呼ぶのは適切です。なぜなら,忠実なクリスチャンは,罪をならわしとする者との交わりを断つからです。しかし,断つといっても,どの程度までですか。
この点で助けとなるのは,使徒ヨハネのことばです。排斥された人は,背教者となって,聖書に反する教理を教えているかもしれません。また,不道徳な生活を送る者は事実上,人はクリスチャンでありながら,同時に姦淫や淫行を犯してもよい,と教えていることになります。そうであれば,イエスの正義の教えにとどまっていないことは明らかです。かつてクリスチャン兄弟あるいは姉妹であったにもかかわらず,そのような状態に陥った人々について,ヨハネはこう書きました。「凡そキリストの教に居らずして,これを越えゆく者は神を有たず,キリストの教にをる者は父と子とを有つなり。人もし此の教を有たずして汝らに来らば,これを家に入るな,安かれと言ふな」― ヨハネ第二 9,10。
次の節は,そうすることの重大性を強調しています。「これを安かれと言ふ者は,その悪しき行為にくみするなり」。(ヨハネ第二 11)これは,たとえば,盗みの行為で排斥された者と話をするクリスチャンが,必ずしも,彼自身盗人になるという意味ではありません。もっとも,それは容易に起こりうることです。しかし,神の助言を無視して,その者と話をする人の態度は,その盗人の行為を,あたかも問題に
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