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  • 排斥 ― それに対する見方
    ものみの塔 1981 | 11月15日
    • 敵を愛するようにとのイエスの助言を考え,この点に疑問を抱いた人もいます。―マタイ 5:43-47。

      22 神が,生じ得るあらゆる状況を取り上げようとされなかったことは,実際には神の知恵の表われです。わたしたちに必要なのは,排斥された人々の取り扱いについてエホバが述べておられる要点をつかむことです。そうすれば,神の見方を擁護するために力を尽くせます。神は使徒ヨハネを通して次のように説明しておられます。

      「先走って,キリストの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。……この教えを携えないであなたがたのところにやって来る者がいれば,決して自分の家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。その者にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです」― ヨハネ第二 9-11。

      23,24 追放された人と話すことを避けた方が賢明であるのはなぜですか。

      23 賢明なこの警告を与えた使徒はイエスと親しく,他の人へのあいさつについてキリストが言われたことをよく知っていました。この使徒はまた,当時の一般のあいさつが「平和」を意味することも知っていました。個人的な「敵」や,権威を持つ世の人でクリスチャンに敵対する人とは異なり,独自の背教的な考えを助長し,正当化しようとする人,あるいはその不敬虔な行動を続ける人は確かにわたしたちが「平和」を願うべき人ではありません。(テモテ第一 2:1,2)そして多年にわたる経験からわたしたちすべてが知っていることですが,「こんにちは」という簡単なあいさつがきっかけとなって会話に発展したり,場合によっては友情に発展したりすることがあるものです。わたしたちは排斥された人に対し,そのようなきっかけを作りたいと思うでしょうか。

      24 『でもその人が悔い改めているように見え,励ましを必要としている場合はどうでしょうか』と尋ねる人もいるでしょう。こうした状況に対処するための規定があります。会衆の監督は霊的な牧者,また羊の群れの保護者として仕えています。(ヘブライ 13:17。ペテロ第一 5:2)排斥された,あるいは交わりを絶った人の求めがあれば,またその人が神の恵みの下に帰りたいという願いを明確に示していれば,長老たちは当人と話すことができます。長老たちは,当人が行なう必要のあることを親切に説明し,適切な訓戒を与えることでしょう。長老たちは本人の過去の罪と本人の態度に関する事実に基づいて,その人を扱うことができます。会衆の他の人には,そうした情報が欠けています。ですから排斥された人,あるいは交わりを絶った人が「悔い改めている」と感じられても,それは正確な情報というより,単なる印象に基づいた判断ではないでしょうか。その人が悔い改めており,悔い改めの実eを生み出していると長老たちが確信するなら,その人は会衆に復帰することを許されるでしょう。それが許されてから会衆の他の人々は,コリントで復帰することを許された人に関してパウロがコリント人に勧めたように,集会でその人を温かく歓迎し,許しを示し,慰め,その人に対する愛を確証することができます。―コリント第二 2:5-8。

      邪悪な業にあずからない

      25,26 排斥された人に「あずかる」ことについて,神はどんな助言を与えておられますか。

      25 すべての忠実なクリスチャンは,神がヨハネに霊感を与えて書かせた次の重大な真理を心に銘記する必要があります。「[誤った教えを広め,不敬虔な行状をやめようとしない,罪を犯して追放された人]にあいさつの言葉をかける者は,その邪悪な業にあずかることになる(の)です」― ヨハネ第二 11。

      26 キリスト教世界の注釈者の多くは,ヨハネ第二 11節に異議を唱えます。彼らは,それが『我らの主の霊とは反対の,キリスト教らしからぬ助言である』とか,それは狭量を助長するとか主張します。しかしそのような意見は,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」という神の命令を適用しない宗教組織,だれもが知っている悪行者でさえも自分の教会から追放することなどまずしない組織から出ているのです。(コリント第一 5:13)彼らの“寛大さ”こそ聖書的ではなく,クリスチャンらしからぬものです。―マタイ 7:21-23; 25:24-30。ヨハネ 8:44。

      27 クリスチャンはどのようにして,その『あずかる者』となる可能性がありますか。それにはどんな結果が伴いますか。

      27 しかし,聖書の神,義と公正の神に忠節であるのは間違ったことではありません。神が『その聖なる山』に受け入れるのは,とがなく歩み,義を行ない,真実を語る人だけであると述べられています。(詩 15:1-5,新)しかし,神から退けられて排斥された人や自ら交わりを絶った人と進退を共にするつもりのクリスチャンは,『私も神の聖なる山の中に居場所など欲しくない』と言っているも同然です。排斥された人と定期的に交わりを持ち,そうした方向に歩んでいる人を見た長老たちは,親切にまた辛抱強く,その人が再び神の見方を得られるよう援助しようとします。(マタイ 18:18。ガラテア 6:1)その人を訓戒し,また必要であれば『彼を厳しく戒めます』。長老たちはその人が『神の聖なる山』にとどまれるよう助けることを願います。しかし本人が排斥された人との交友をやめないなら,その人は自ら『その邪悪な業に(それを支持したり行なったりして)あずかる者』となるのであって,会衆から除かれなければ,つまり追放されなければなりません。―テトス 1:13。ユダ 22,23。民数 16:26と比較してください。

      神の見方に対する忠節

      28 わたしたちはどのようにエホバの見方に忠節を示せますか。

      28 エホバ神とその規定に対する忠節は幸福の源です。エホバ神の道はすべて義であり,公正であり,善だからです。悔い改めない悪行者を排斥するという規定についても同じことが言えます。この取決めに協力の精神を示す時,わたしたちは「エホバがご自分の忠節な者を必ず見分けられることを知れ」というダビデの言葉を信じることができます。(詩 4:3,新)そうです,神と神の道に忠節な人々を神は取り分けられ,その人に誉れと導きを与えられるのです。そうした忠節を示すことによってわたしたちは数多くの祝福を得ますが,神から是認され,『その聖なる山』に迎え入れてくださる人々の中に数えられるという喜びもその一つです。―詩 84:10,11。

  • もしも親族が排斥されたら……
    ものみの塔 1981 | 11月15日
    • もしも親族が排斥されたら……

      1,2 (イ)家族の宗教について神は何を意図しておられましたか。(ロ)コラの時代に,幾つかの家族はどんな決定に直面しましたか。

      しばらく独りでいたアダムに,神は「人が独りのままでいるのは良くない」と言われました。それから神はエバを造られ,人間の結婚を創始されました。(創世 2:18,21,22,新)以来,地球の人口は増加することになりました。ですからどんな人も数多くの親族を持つことになります。子供など,家族の一部が近くに住んでいない

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