-
モーセはどこから情報を得たかものみの塔 1971 | 10月1日
-
-
一面を襲った」としています。こうした記録が信頼するに足りないものであることは明白です。
聖書年表によれば,全地に及んだノアの日の洪水が起きたのは西暦前2,370年です。考古学者は発掘した数多くの粘土板にそれよりも古い年代を付していますが,そうした粘土板は日付のしるされた文書ではありません。したがって,それら粘土板に付される年代は単なる憶測にすぎず,聖書の大洪水との時間的な関係を確立する確かな根拠を提供するものではありません。これまでに発掘された人工物件で大洪水前の年代のものであると確定された物件は一つもありません。種々の物件に大洪水前期の年代を付している考古学者は,せいぜいのところ,大規模な局地的洪水を裏づけるものとして単に解釈できるにすぎない調査結果に基づいてそうしているのです。
以上のようなわけで,モーセが大洪水前また大洪水後の記録から情報を得たということを確立する方法はありません。が,このことを否定するに足る根拠もありません。というのは,情報を伝達する手段として多年,文字が使用されてきたからです。とはいえ,モーセの情報源は必ずしも初期の記録文書でなければならないというわけではありません。人間の創造以前のできごとに関する情報をだれかが神の啓示によって入手しなければならなかったということは明らかです。したがって,モーセはそうした情報とともに他の残りの資料を神からの直接の啓示によって得たとも考えられます。しかし,もしモーセ以外のだれかに啓示されたとすれば,その情報および創世記の内容の残りの部分の基礎となる資料は口碑によってモーセに伝達されたとも考えられます。当時の人間の長い寿命からすれば,その情報は最初の人間アダムから,わずか5人の人,つまりメトセラ,セム,イサク,レビ,アムラムを経てモーセに伝えることもできたでしょう。もちろん,それには一連の口碑の最後の役割をはたすアムラムが創世記全体の資料をその脳裏に記憶していなければならないことになります。
現時点では,モーセが記録した情報の直接の出所に関して確定的な結論を下すことはできません。モーセはそうした情報を直接の啓示もしくは口碑または記録文書を通して得たのかもしれず,もしかすると,こうした三つの情報源すべてが関係していたのかもしれません。しかしながら,重要なのは直接の情報源ではなく,エホバ神がご自分の霊を用いて預言者モーセを導き,信頼できる記述を創世記の中に書き留めさせられたという事実です。この点を忘れてはなりません。
-
-
読者からの質問ものみの塔 1971 | 10月1日
-
-
読者からの質問
● クリスチャン会衆から排斥(放逐)された人のために祈るのは正しいことですか。―チェコスロバキアの読者より
聖書的に言って,忠実なクリスチャンが排斥された人のために祈るのは適切かつ正しいこととは考えられません。聖書は,神の憎まれる幾つかの嫌悪すべき事柄をあげていますが,その中には淫行・偶像崇拝・姦淫・同性愛・盗みなどが含まれています。(コリント前 6:9,10。ガラテヤ 5:19-21)エホバの律法は,そうした事柄をならわしにして,その種の行為に対し心からの悔い改めを示さない者を放逐するようクリスチャン会衆に命じています。会衆の忠実な成員たちはそうした者と霊的な交わりを持つべきではありません。―排斥の聖書的根拠を論じた資料としては,1963年10月1日号「ものみの塔」誌,597-600ページを参照のこと。
そうした人に対するさばきは,みことばに述べられているように神からのものである以上,そのような者のために祈るのは,悔い改めない者,もしくは悪行をならわしにする者の罪を大目に見る,または容認するよう神に願うようなものです。悔い改めて悪の道を離れ,エホバの許しを誠実に願い求める人のだれに対しても,神がキリストのあがないに基づいて喜んで差し伸べられるあわれみをそれら排斥された人々は,はねつけたのです。―ヨハネ第一 1:9; 2:1,2; 3:4-8。ヘブル 6:1-8; 10:26-31。
そのうえ,聖書は,会衆の任命された「年長の男子たち」もしくは監督たちに会衆の教理および道徳上の清さを維持する責任をゆだねて,会衆全体に神の不興が臨まないようにしていることをも忘れてはなりません。使徒パウロは,重大な罪が犯されながら,これをなおざりにしていたコリントの会衆に事態を正すようさしずをして,この点を明示しました。―コリント前 5:5-8,12,13。
会衆内の任命された「年長の男子たち」は,真実の悔い改めを示す証拠があれば,あわれみを差し伸べます。(マタイ 9:13。ヤコブ 3:17; 5:11)しかし彼らは同様の熱意をもって公正とエホバのみ前における会衆の立場を擁護するためにも努力しなければなりません。パウロは,コリントの兄弟たちがその罪悪と自分たちのただ中でもたらされていた神に対する恥辱とのゆゆしさを悟って表明した義憤のゆえに,それら兄弟たちをほめました。そうした悪行を許していた以前の誤った歩みを正して表わした兄弟たちの熱心さをほめたのです。―コリント後 7:8-11。
使徒ヨハネは次のように述べて,排斥された人のために祈るというこの問題にいっそうの解明の光を投げています。「人もし其の兄弟の死に至らぬ罪を犯すを見れば,神に求むべし。然らば彼に,死に至らぬ罪を犯す人々に生命を与へ給はん。死に至る罪あり,我これに就きて請ふべしと言はず」― ヨハネ第一 5:16。
とはいえ,わたしたち個人個人はある人が死に至る罪を犯したかどうかをどのようにして知ることができますか。明らかにヨハネは,死に至らない罪とは対照的な,それと知りながら犯す故意の罪に言及しています。それを知りながら犯す故意の罪であることを示す証拠がある場合,クリスチャンはそうした罪を犯す者のためには祈らないでしょう。(また,排斥するさいには,そうした証拠がなければなりません。)これは,『それとは知らずにあやまちに陥って』しまい,したがって依然としてわたしたちの祈りの中に加えうる人の場合とは異なります。(ガラテヤ 6:1,新。ヤコブ 5:19,20)もとより,罪を犯した人の心の態度を最終的にさばかれるのは神です。しかし,排斥された人の件では,クリスチャンは自分の祈りを無にする,もしくは神の不興を買うものにする危険をおかさないようにするのが賢明です。
しかし,もし会衆のある成員が,「年長の男子たち」の委員が過酷にもあるいは早まって排斥の処置を取ったと感ずる場合はどうですか。そうした判断をする特権は自分にはないということを銘記すべきです。事件を調査するにさいして会衆の委員はあらゆる証拠を集めます。訴えられた人の委員の前での態度はもとより,委員以外の人には知ることのできない多くの事実があるかもしれません。ですから,すべての証拠を得ることなしに委員の処置の是非を判断するのは不当なことといわねばなりません。(箴言 18:13)また,そうするのはまちがいです。なぜなら,第三者はそうした問題をさばくべく聖書に基づいて任命されてはいないからです。イエスでさえ,自分が審判者として任命されていない事柄に関しては審判者として行動することを拒まれました。(ルカ 12:13,14)もし,まちがいがあったり,不公正がなされたりするならば,会衆のかしら,またりっぱな牧者であられるイエス・キリストは,そうした過失はなんであれ,必ず正して,忠実な人たちにはだれに対しても害が続くことのないようにされます。―コロサイ 1:18。ヨハネ 10:14。黙示 3:19。
自分の親族あるいは親しい友人が排斥される場合もあるでしょう。そのうえ,排斥されて以来,当人は悔い改めの証拠を示しているように見えるかもしれません。そのような人のために祈るのは正しいことでしょうか。エホバとその取り決めに忠節を示すクリスチャンは,そうした人のために祈ることを慎むでしょう。同時に,エホバの言われた次のことばから慰めを得ることができるのです。「我悪人の死るを悦ばず悪人のその途を離れて生るを悦ぶなり」― エゼキエル 33:11。
エホバのこのことばと一致して,もし当人がほんとうに悔い改めているのであれば,神はご自分の予定の時にその人を起こし,当人に会衆との交わりを回復するよう取り計らわれることをわたしたちは確信できます。そして,会衆がその人を復帰させたとき,エホバの律法に忠実に堅くつき従い,かつ会衆の立場を擁護してきた人たちは,復帰した人に対し,命を救う真の援助を差し伸べることができるでしょう。―コリント後 2:5-8。
-