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  • 中共の刑務所でどうやって自分の信仰を守ったか
    ものみの塔 1963 | 10月15日
    • でしょう。

      香港の兄弟たちの愛は深く,実に親切に迎えられました。それゆえ香港を去るのはつらく感じられました。しかし6月1日,私は英国行きの飛行機に乗っていました。最初の着陸は日本でした。ここでもたくさんのエホバの証者がすでに私を待っていました。彼らは私の旅行の日取りについて前以って知らせを受けたわけではありません。新聞やラジオによる私の釈放のニュースの後を追い,私が乗っているのではないかと思われる飛行機を予想して飛行場に来ていたのです。

      ニューヨークの飛行場では,迎えに来ていたものみの塔協会会長のノア兄弟の両腕に真先に抱かれ,温い歓迎を受け,喜びの情に圧倒されるばかりでした。ブルックリンベテルも印刷工場も,1947年,私が中国に行く時に見たより大きな変化を遂げていました。しかしかつて見たのと同じもの,すなわち愛の精神がそこにあり,ただその規模が拡大していただけでした。

      ここでも兄弟たちは私の経験を聞くことを心待ちにしていました。私は喜んで自分の経験を話し,ここ4年と半の間に数々の出来事がありましたが,これまで全時間宣教奉仕を続けて来た25年間をふり返って,今日ほど信仰の高まりを覚えたことはありません,と強い確信を持って語りました。なぜですか。なぜなら銃も,壁も,刑務所の柵も,神の聖霊がその民に送られるのを妨げ得るものはなにもない,ということを知ったからです。もし私たちが神の言葉の研究に心を傾け,その教えを心の奥底にまで沈め込ませるなら,恐れるべきものはなにもありません。私たちは自分の力で立っているのではありません。神がその全能の御力を用いて,もっとも弱小な人間をさえささえられ,おおいかぶさる迫害にも勝利を得さしめたのです。

      ● あなたの信仰の強さはどれほどですか。この経験にあるような絶え間ない聴問を受けても,あるいは刑務所の中で数年間をたった一人でくらしても,決してひるまぬだけの気力がありますか。聖書の中に,「おほよそキリスト・イエスに在りて敬という言葉を過さんと欲する者は迫害を受くべし」,虔をもて一生があるのを思い出して下さい。(テモテ後 3:12)迫害がある以前に自分自身を強くしておかねばなりません。ではどうやって? 今の時間を有効に用い,エホバの民といつも交り,学んだ事柄を実際にエホバへの奉仕に活用することにより,神の言葉を知りその意味を深く考え,心の奥底に植え込む事によります。それによってあなたも「智力を練習して善悪をわきまふるおとな」の一人になれるでしょう。(ヘブル 5:14)反対に遭遇するときには,この善悪をわきまえる力が特に必要です。今エホバが準備されている霊的なかてを実際に利用し,エホバの力を信頼して歩むなら,危機に会ってもエホバからの力を得,エホバからの助力を得られるでしょう ― 発行者。

  • エホバへの崇拝を清く保つための家族の責任
    ものみの塔 1963 | 10月15日
    • エホバへの崇拝を清く保つための家族の責任

      エホバへの崇拝の清さを保つために,聖書は,『悪人をその中から除いてしまう』というつとめを,クリスチャンの会衆に課しています。(コリント前 5:13)神の地上の組織から切り断ち,排斥し,あるいは除名するというこの処置は,神への清い崇拝を守り,会衆全体に対する保護となり,さらには,非行者をして自分の悪行を悔い,たちかえって神と和解させるものともなります。―コリント後 7:10。

      「ものみの塔」,1963年10月1日号の中で,排斥または除名に関係ある聖書の諸原則を取り上げ,このような処置をとることの目的,排斥された者の身に及ぶ結果,クリスチャン会衆内の他の人々の取るべき態度などについて,神の言葉を中心にして調べました。排斥された者がクリスチャン会衆内の他の成員と親戚関係などを持たない場合の原則は明確であり,容易に理解できます。すなわち,排斥された者との交渉は一切絶たねばなりません。

      しかし,切り絶たれた者と親族関係にある人はどうしたら良いでしょうか。その者と同じ家庭内に住む人,あるいは血族関係にある人はどんな態度を取るべきでしょうか。エホバへの崇拝を清く保つために親族の者が取るべき責任を分析すれば,それぞれ考慮すべき二つの場合に分けられます。一つは,会衆と正常の関係にある親族が,排斥された者と同じ家の中に住んでいない,すなわち,その親族が同じ家庭の者でない場合です。もう一つは,正常の関係にある人が排斥された者と同じ家の中に住む,すなわち,排斥された者が同じ家庭の成員である場合です。

      同じ家庭にいない親族の場合

      排斥されたからと言っても,生来の血縁関係が解消するわけではありません。しかし,排斥され,家庭内に共に住んでいない者と交渉するのは,家庭的な問題でどうしてもその必要がある場合にかぎる,という事をはっきり覚えておくのが良いでしょう。

      この場合の原則は,「ものみの塔」の10月1日号600頁で扱った例に似ています。そこで説明されたとおり,排斥された者と同じ職場で働くクリスチャンは仕事のために必要なこと以外にはその者と話しをしません。そして話しをする場合には,その仕事のことについてだけ話します。親族で排斥された者との接触も,同じ家庭内に住んでいないなら,どうしても必要な場合だけにかぎられます。同じ職場で働くのと同じように,この場合にも排斥された者とのまじわりは限定されており,できるなら完全に省略されます。

      注意すべき大切な点は,生来の結び付きがあり,そのゆえに時折り接触することがあるかも知れませんが,霊的な結び付きは完全に絶たれるということです。親戚の者でも,排斥された人とは,崇拝に関する事柄を一切話しません。

      神の会衆から切り絶たれた人が,献身した親戚の家に前ぶれもなくたずねて来たらばどうしますか。そんな場合にクリスチャンは何をすべきですか。もしその種の訪問が初めてのことなら,そして自分の良心が許すなら,献身したクリスチャンはその特別の場にふさわしく親族としての礼儀をはたせます。しかし,もし良心がそれを許さないなら,あえて良心にさからってもてなすべきつとめはありません。ていねいに扱う場合でも,クリスチャンは,いつでもそうするのではないという事をはっきりさせるべきです。もしそれが習慣になるなら,他の排斥された者とまじわるのと異なることなく,排斥を定めた聖霊を汚すことになります。除名された親族の者に対しては,神の前に正しく歩んでいた以前とは違って,今の彼の訪問は歓迎されないのだ,ということをはっきり悟らせるべきです。―ヨハネ第二 9-11。

      会衆につらなる献身したクリスチャンは,排斥された親戚の者に対し,彼が行なった行為を自分たち家族は是認しないのだ,ということをその実際の行動によって,はっきりさせることが大切です。家族の人たちは,しっかり立って正しい原則を守らねばなりません。排斥された者は,自分の立場が以前とは完全に変えられたのであり,クリスチャンとしての歩みを忠実に守る自分の親戚の人たちは,自分が行なった悪い行いを全く否認しており,交際をどうしても止むを得ぬことだけに制限することによって,その否認を表わしているのだ,と悟らねばなりません。

      同一の会衆の中に,互いに親戚関係にある数家族が共に交わるような,比較的に小さな地域社会においては,このことの大切さが良く理解されるでしょう。それ以前と全く同じように,除名された者と家族同志との交際が続けられるなら,どうして兄弟たちが,神の見える組織の清さを保つためにとられた排斥の処置に協力していると言えますか。それは実際には,排斥の行動を導いた聖霊をおかすことになります。その上,それは排斥された者に対し親切とはならず,実際にはむしろ害していることになります。

      排斥された親戚の者と止むを得ぬ用事をするのは例外的な事と見なすべきです。聖書の原則は次の通りです。「あなたがたが学んだ教えにそむいて分裂を引き起し,つまずきを与える人々を警戒し,かつ彼らから遠ざかるがよい」。「兄弟と呼ばれる人で,不品行な者,貪欲な者,偶像礼拝をする者,人をそしる者,酒に酔う者略奪をする者があれば,そんな人と交際してはいけない,食事を共にしてもいけない」。「その悪人を,あなたがたの中から除いてしまいなさい」。―ロマ 16:17。コリント前 5:11,13,新口。

      この問題に対する基本的な原則はマタイ伝 12章47節から50節に見られます。ある人がイエスに,「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが,あなたに話そうと思って,外に立っておられます」,と言いました。それに対しイエスは答えて言いました。「わたしの母とは,だれのことか。わたしの兄弟とは,だれのことか。……天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも,わたしの兄弟,また姉妹,また母なのである」。

      聖書の原則は,同じ家庭に住まない親戚の者であっても,排斥された人と定期的に交際することを支持していません。私たちの主要な目的は,エホバに対する崇拝を清く保つことにあるべきです。エホバの組織から排斥された親戚の者にどの程度近づけるかということに心を用いるよりも,そのような者と「交際をしてはいけない」。

      同じ家庭の中で

      排斥された者が同じ家庭内に生活し,クリスチャンたちと同じ家族を構成するような場合には,考慮すべき原則がさらに加わります。考慮に入れるべき聖書の原則の例は次の通りです。(1)テモテ前書 5章8節,「もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであって,不信者以上にわるい」。(2)マタイ伝 22章21節,「カイザルのものはカイザルに,神のものは神に返しなさい」。(3)マタイ伝 19章5,6節,「『それゆえに,人は父母を離れ,その妻と結ばれ,ふたりの者は一体となるべきである』。……だから,神が合わせられたものを,人は離してはならない」。(4)コロサイ書 3章18,19節,「妻たる者よ,夫に仕えなさい。……夫たる者よ,妻を愛しなさい」。(5)エペソ書 6章1,2節,「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。……『あなたの父と母とを敬え』」。(いずれも新口)

      したがって,クリスチャンの家庭の頭である父親には,自分の家庭内に住む排斥された者に対して引き続き衣食住をそなえ,物質面のまじわりを続けてゆくことが要求されています。もし排斥された者がまだ子供であるなら,両親がその子供と離れることは出来ません。その子供は依然家族の一部です。神の律法は,両親の責任が果たされることを要求しています。カイザルの法律でさえ,成人しない子供が両親の扶養を受くべきことを規定しています。それゆえ,両親は依然として,その子供を教えこらしめよとの神の命令の下にあります。これは聖書の原則をあてはめつつ行なわれねばなりません。グループの討議そのものに参加することは許されませんが,両親はその子供が家族の研究に出席して聞くことを求めねばなりません。両親は本人が聖書を読み,「ものみの塔」,「目ざめよ!」その他の聖書研究手引など,聖書の教えを説明する書物を読むように強くすすめねばなりません。排斥された子供がなにか質問することがあるならば,両親のいずれかに2人だけのところでたずねさせ,その質問に対しては答の見つけ方あるいは答そのものが教えられるでしょう。しかしそれがすべてです。この事と,クリスチャンの集会にも出席することが,排斥された若者が立ち直るのを助けるでしょう。(ヤコブ 5:20)両親は子供の献身とバプテスマの大切さをはっきり認めるべきであり,また,エホバへの献身によってその子供はエホバの律法が破られた場合のために定められたエホバの矯正の取きめの下におかれたということをもはっきり悟るべきです。

      夫と妻との間柄なら,マタイ伝 19章5,6節に記されたイエスの言葉が守られねばなりません。なにびとも夫と妻とを離れさせることはできません。その一方が排斥されたといえどもこの原則はかわりません。もちろん唯一の例外は姦淫が行なわれた場合です。その場合にのみ,

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