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    ものみの塔 1981 | 11月15日
    • なったでしょう。(ルカ 23:16と比較してください。そこではしばしば「懲らしめ」と訳される基本となるギリシャ語が用いられています。)これらの冒とく者たちがサタンの権威に渡され,サタンの影響力の下にある世の暗やみの中に投げ込まれるのはふさわしいことでした。―コリント第二 4:4。エフェソス 4:17-19。ヨハネ第一 5:19。使徒 26:18と比較してください。

      追放された人々を扱う方法

      7,8 追放された人に対してどう行動すべきか,どのように決められますか。

      7 しかし,以前のメンバーで排斥された人々をどのように扱うべきかについて,疑問も幾つか生じるでしょう。感謝すべきことに,神はそのみ言葉聖書の中に,完全で義にかない,公正であると確信できる答えと指示を与えてくださっています。―エレミヤ 17:10。申命 32:4。

      8 コリント会衆にいたある人は,一時期不道徳を行なっていました。そしてそのことを悔い改めていなかったようです。パウロはこの男を,『彼らの中から取り去るべきである』と書きました。その人は,固まり全体を発酵させ,あるいは腐敗させる可能性のある小さなパン種のようだったからです。(コリント第一 5:1,2,6)しかし,いったん追放された人は,クリスチャンが近所で,あるいは普段の生活で出会う,世の普通の人であるかのように扱われるべきでしたか。パウロの述べたことに注目してください。

      9 一般の不義の人々との接し方に関するパウロの助言はどんなものですか。

      9 「わたしは,……淫行の者と交わるのをやめるようにとあなたがたに書き送りましたが,それは,この世の淫行の者,あるいは貪欲な者やゆすり取る者,また偶像を礼拝する者たちと全く交わらないようにという意味ではありません。もしそうだとすると,あなたがたは実際には世から出なければならないことになります」。(コリント第一 5:9,10)パウロはこのように述べて,わたしたちが日常の営みの中で接触する人々の大部分が,神の道を全く知らず,それに従ってもいないという,現実に即した認識を示しました。彼らは淫行の者,ゆすり取る者,偶像を礼拝する者であるかもしれません。ですからクリスチャンがいつも親しく交わろうとする人々ではありません。それでもわたしたちはこの地上の人類の中で生活しており,そういう人々の近くにいなければならないかもしれず,職場で,学校で,隣り近所でそういう人々と話をしなければならないかもしれません。

      10,11 罪を犯して追放された人に対してクリスチャンが異なった行動を取るべきなのはなぜですか。

      10 次の節でパウロは,この状況と,クリスチャン「兄弟」だったにもかかわらず悪行ゆえに会衆から追放された人に対するクリスチャンの振る舞い方と対照させています。「しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる者で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように,と書いているのです」― コリント第一 5:11。

      11 追放された人は,神を知らず,敬虔な生き方を追い求めてもいない世の普通の人ではありません。その人は真理と義の道を知っていたのにその道を離れ,悔い改めないで追放されるところまで罪を追い求めたのです。ですからその人は異なった仕方で扱われるべきです。b ペテロはこうした元クリスチャンが,普通の“一般人”とどう違うかについて注解しています。同使徒はこう述べました。「主また救い主なるイエス・キリストについての正確な知識によって世の汚れから逃れたのち,再びその同じ事がらに巻き込まれて打ち負かされるなら,そうした者たちにとって,最終的な状態は最初より悪くなっているのです。……真実のことわざの述べる次のことが彼らの身に生じました。『犬は自分の吐いたものに戻り,豚は洗われてもまたどろの中で転げ回る』」― ペテロ第二 2:20-22。コリント第一 6:11。

      12 (イ)「排斥」という語はなぜ適切であると言えますか。(ロ)初期の時代,クリスチャンであると公言する人々が罪を犯した人をどう扱ったかに関し,歴史は何を示していますか。

      12 そうです,聖書はクリスチャンが,会衆から追放された人と交際したり交わりを持ったりしないように命じています。エホバの証人はこうした悔い改めない悪行者を追放し,その後その人を遠ざけることを適切にも「排斥」(英語の字義通りの意味は,交友を中止する)と呼んでいます。彼らが,霊的なレベルであれ親ぼくのレベルであれ,追放された人との交友を一切拒むのは,神の規準に対する忠節と,コリント第一 5章11,13節にある命令に対する従順を反映することです。この点,当時のユダヤ人が「諸国民の者」を見ていたその見方でそうした人を見るように,とのイエスの助言と一致します。使徒たちの死後しばらくは,クリスチャンであると公言する人々は聖書的な手順に従っていたようです。c しかし,現在どれほどの教会が,この点に関する神の明確な指示に従っているでしょうか。

      自ら交わりを絶つ人々

      13 弱くなり,不活発になった人の場合には何がなされるべきですか。

      13 神の言葉を定期的に勉強しないため,あるいは個人的な問題を抱えていたり迫害に遭ったりしてクリスチャンが霊的に弱ってしまうことがあります。(コリント第一 11:30。ローマ 14:1)こうした人はクリスチャンの集会に出席することをやめるかもしれません。何がなされるべきですか。思い起こしてください。イエスが逮捕された晩,使徒たちはイエスを見捨ててしまいました。それでもキリストはペテロに対し「ひとたび立ち直ったなら,[やはりイエスを見捨てた]兄弟たちを強めなさい」と勧められました。(ルカ 22:32)ですから,クリスチャンの長老や他の人々は,弱くなり不活発になった人を愛の気持ちから訪問し,援助を与えるでしょう。(テサロニケ第一 5:14。ローマ 15:1。ヘブライ 12:12,13)しかしながら,ある人がクリスチャンであることを否認し,自ら交わりを絶つなら,それはまた別問題です。

      14 人はどのように自ら交わりを絶つことがありますか。

      14 真のクリスチャンであった人が,私はもう自分をエホバの証人とは考えていない,あるいはエホバの証人として数えられることを望まないと言って,真理の道を放棄するかもしれません。こうしたことはまれにしかありませんが,この場合,その人はクリスチャンとしての自分の立場を放棄しているのであり,会衆との交わりを自ら故意に絶っているのです。使徒ヨハネはこのように書きました。「彼らはわたしたちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです」― ヨハネ第一 2:19。

      15,16 (イ)ほかにどんな方法で,交わりを絶つ人がいますか。(ロ)クリスチャンは交わりを絶った人をどのようにみなし,どのように扱うべきですか。

      15 また,聖書と相反する目的を持つゆえにエホバ神の裁きの下にある組織の一員となるなどの行為によって,クリスチャン会衆内の自分の立場を放棄する人もいます。(啓示 19:17-21; イザヤ 2:4と比較してください。)ですからクリスチャンであった人が,神から是認されていない人々に加わることを選ぶなら,会衆は,その人が自ら交わりを絶ち,もはやエホバの証人ではないことを簡単に発表し,そのことを認めるとよいでしょう。

      16 考えた上でエホバの証人の信仰と信条を退け,『わたしたちの仲間でなく』なる人々は,当然ながら悪行ゆえに排斥された人と同じようにみなされ,同じように扱われるべきです。

      会衆と協力する

      17,18 排斥に関して会衆と協力することにはどんな事柄が含まれますか。

      17 クリスチャンは,兄弟たちや関心を持つ人々と聖書について話し合い,聖書を学んで霊的な交友を持ちますが,罪を犯して追放された人(あるいはエホバの証人の信仰と信条を放棄して自ら交わりを絶った人)とはそのような交友を持ちたいと思いません。追放された人々は「罪を犯し」たゆえに「退け」られており,『自責の念を抱いています』。そして会衆内の人々も,神の裁きを受け入れ,それを擁護します。しかし,排斥には霊的な交友を中止する以上の意味があります。―テトス 3:10,11。

      18 パウロは,「交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように」と書きました。(コリント第一 5:11)食事はくつろぎと親ぼくの時です。ですから聖書のこの部分は,追放された人を加えてピクニックに行ったり,パーティーを開いたり,野球をしたり,海岸や劇場に出掛けたり,共に座って食事をしたりするような,親ぼくのための交友をも非としているのです。d (親族が排斥されるという特殊な問題については,次の記事で検討します。)

      19 排斥の取決めを擁護し難く思える時があるのはなぜですか。しかしわたしたちが擁護するのはなぜ重要なことですか。

      19 あるクリスチャンが,聖書のこの助言を無視させようとするかなりの圧力を感ずる時があるかもしれません。自分自身の感情が原因で圧力が生じることもあれば,知人から圧力を加えられることもあります。例えば,ある兄弟は,排斥された二人の人の結婚式を執り行なうように圧力をかけられました。その務めは,単なる親切として正当化できるものでしょうか。そう考える人もいるでしょう。しかし,町長や他の結婚登録官ではなく,その人の務めが望まれたのはなぜですか。その人が神の奉仕者という立場にあり,結婚に関する助言を神の言葉聖書から与え得る能力があったからではないでしょうか。そのような圧力に屈するなら,自らの不敬虔な行状ゆえに会衆から追放されたその二人との交友に巻き込まれることになるでしょう。―コリント第一 5:13。

      20 仕事上の仲間が排斥された場合,わたしたちはどう反応すべきですか。

      20 仕事や雇用に関係して問題が生ずることもあります。会衆から追放された人に雇われていたとか,雇っていた人が追放された場合などはどうですか。そのあとはどうなるでしょうか。契約上,あるいは経済上の理由でしばらくは仕事上の関係を解消できないとき,あなたは排斥された人に対して,以前とは異なる態度を示すに違いありません。仕事上の事柄をその人と話すことや職業上の接触が必要となるかもしれませんが,霊的な事柄についての話し合いや,親ぼくのための交友はすでに過去のものとなります。そのようにして,神に対する従順を示すことができ,自分自身のためにも保護となる防壁を築くことができるのです。またこのことにより本人も,自分が罪を犯したために様々な面でいかに多くの代価を払うことになったかを痛感させられるでしょう。―コリント第二 6:14,17。

      排斥された人,あるいは交わりを絶った人と話す?

      21,22 排斥された人と話すことについて聖書にはどんな助言がありますか。

      21 神の義と排斥に関する神の取決めを擁護するということは,クリスチャンは追放された人とひと言も話してはならない,「こんにちは」というあいさつさえできないという意味でしょうか。『自分の兄弟たちだけにあいさつする』のではなく,敵を愛するようにとのイエスの助言を考え,この点に疑問を抱いた人もいます。―マタイ 5:43-47。

      22 神が,生じ得るあらゆる状況を取り上げようとされなかったことは,実際には神の知恵の表われです。わたしたちに必要なのは,排斥された人々の取り扱いについてエホバが述べておられる要点をつかむことです。そうすれば,神の見方を擁護するために力を尽くせます。神は使徒ヨハネを通して次のように説明しておられます。

      「先走って,キリストの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。……この教えを携えないであなたがたのところにやって来る者がいれば,決して自分の家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。その者にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです」― ヨハネ第二 9-11。

      23,24 追放された人と話すことを避けた方が賢明であるのはなぜですか。

      23 賢明なこの警告を与えた使徒はイエスと親しく,他の人へのあいさつについてキリストが言われたことをよく知っていました。この使徒はまた,当時の一般のあいさつが「平和」を意味することも知っていました。個人的な「敵」や,権威を持つ世の人でクリスチャンに敵対する人とは異なり,独自の背教的な考えを助長し,正当化しようとする人,あるいはその不敬虔な行動を続ける人は確かにわたしたちが「平和」を願うべき人ではありません。(テモテ第一 2:1,2)そして多年にわたる経験からわたしたちすべてが知っていることですが,「こんにちは」という簡単なあいさつがきっかけとなって会話に発展したり,場合によっては友情に発展したりすることがあるものです。わたしたちは排斥された人に対し,そのようなきっかけを作りたいと思うでしょうか。

      24 『でもその人が悔い改めているように見え,励ましを必要としている場合はどうでしょうか』と尋ねる人もいるでしょう。こうした状況に対処するための規定があります。会衆の監督は霊的な牧者,また羊の群れの保護者として仕えています。(ヘブライ 13:17。ペテロ第一 5:2)排斥された,あるいは交わりを絶った人の求めがあれば,またその人が神の恵みの下に帰りたいという願いを明確に示していれば,長老たちは当人と話すことができます。長老たちは,当人が行なう必要のあることを親切に説明し,適切な訓戒を与えることでしょう。長老たちは本人の過去の罪と本人の態度に関する事実に基づいて,その人を扱うことができます。会衆の他の人には,そうした情報が欠けています。ですから排斥された人,あるいは交わりを絶った人が「悔い改めている」と感じられても,それは正確な情報というより,単なる印象に基づいた判断ではないでしょうか。その人が悔い改めており,悔い改めの実eを生み出していると長老たちが確信するなら,その人は会衆に復帰することを許されるでしょう。それが許されてから会衆の他の人々は,コリントで復帰することを許された人に関してパウロがコリント人に勧めたように,集会でその人を温かく歓迎し,許しを示し,慰め,その人に対する愛を確証することができます。―コリント第二 2:5-8。

      邪悪な業にあずからない

      25,26 排斥された人に「あずかる」ことについて,神はどんな助言を与えておられますか。

      25 すべての忠実なクリスチャンは,神がヨハネに霊感を与えて書かせた次の重大な真理を心に銘記する必要があります。「[誤った教えを広め,不敬虔な行状をやめようとしない,罪を犯して追放された人]にあいさつの言葉をかける者は,その邪悪な業にあずかることになる(の)です」― ヨハネ第二 11。

      26 キリスト教世界の注釈者の多くは,ヨハネ第二 11節に異議を唱えます。彼らは,それが『我らの主の霊とは反対の,キリスト教らしからぬ助言である』とか,それは狭量を助長するとか主張します。しかしそのような意見は,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」という神の命令を適用しない宗教組織,だれもが知っている悪行者でさえも自分の教会から追放することなどまずしない組織から出ているのです。(コリント第一 5:13)彼らの“寛大さ”こそ聖書的ではなく,クリスチャンらしからぬものです。―マタイ 7:21-23; 25:24-30。ヨハネ 8:44。

      27 クリスチャンはどのようにして,その『あずかる者』となる可能性がありますか。それにはどんな結果が伴いますか。

      27 しかし,聖書の神,義と公正の神に忠節であるのは間違ったことではありません。神が『その聖なる山』に受け入れるのは,とがなく歩み,義を行ない,真実を語る人だけであると述べられています。(詩 15:1-5,新)しかし,神から退けられて排斥された人や自ら交わりを絶った人と進退を共にするつもりのクリスチャンは,『私も神の聖なる山の中に居場所など欲しくない』と言っているも同然です。排斥された人と定期的に交わりを持ち,そうした方向に歩んでいる人を見た長老たちは,親切にまた辛抱強く,その人が再び神の見方を得られるよう援助しようとします。(マタイ 18:18。ガラテア 6:1)その人を訓戒し,また必要であれば『彼を厳しく戒めます』。長老たちはその人が『神の聖なる山』にとどまれるよう助けることを願います。しかし本人が排斥された人との交友をやめないなら,その人は自ら『その邪悪な業に(それを支持したり行なったりして)あずかる者』となるのであって,会衆から除かれなければ,つまり追放されなければなりません。―テトス 1:13。ユダ 22,23。民数 16:26と比較してください。

      神の見方に対する忠節

      28 わたしたちはどのようにエホバの見方に忠節を示せますか。

      28 エホバ神とその規定に対する忠節は幸福の源です。エホバ神の道はすべて義であり,公正であり,善だからです。悔い改めない悪行者を排斥するという規定についても同じことが言えます。この取決めに協力の精神を示す時,わたしたちは「エホバがご自分の忠節な者を必ず見分けられることを知れ」というダビデの言葉を信じることができます。(詩 4:3,新)そうです,神と神の道に忠節な人々を神は取り分けられ,その人に誉れと導きを与えられるのです。そうした忠節を示すことによってわたしたちは数多くの祝福を得ますが,神から是認され,『その聖なる山』に迎え入れてくださる人々の中に数えられるという喜びもその一つです。―詩 84:10,11。

  • もしも親族が排斥されたら……
    ものみの塔 1981 | 11月15日
    • もしも親族が排斥されたら……

      1,2 (イ)家族の宗教について神は何を意図しておられましたか。(ロ)コラの時代に,幾つかの家族はどんな決定に直面しましたか。

      しばらく独りでいたアダムに,神は「人が独りのままでいるのは良くない」と言われました。それから神はエバを造られ,人間の結婚を創始されました。(創世 2:18,21,22,新)以来,地球の人口は増加することになりました。ですからどんな人も数多くの親族を持つことになります。子供など,家族の一部が近くに住んでいない

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