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    ものみの塔 1974 | 11月1日
    • 「諸国民の者のような,また収税人のような者」と見なされる

      14 使徒パウロは排斥に関する自分の指示の根拠としてそれ以前のどんなものを有していましたか。

      14 排斥の問題についてコリント会衆に使徒としての助言を書き送った時,パウロは,自分の指示の根拠として,それ以前に与えられた霊感による情報を有していました。それはキリスト・イエスご自身が与えたものでした。マタイ 18章15-17節は,個人に対して犯された罪(単なる小さな罪過ではなく,真に重大な性質の罪)の扱い方に関するイエスの指示を記録しています。イエスは,罪を犯している者がなんら悔い改めを示さない場合に排斥という処置がありうることを述べました。その悪行を認めて悔い改めさせることによってその人を『得る』ための手順と努力について述べた後,イエスはこう言われました。「もし会衆の告げることにさえ聴かないなら,彼を,あなたにとって,諸国民の者のような,また収税人のような者としなさい」。

      15 (イ)マタイ 18章17節でイエスはどんな「会衆」のことを述べていましたか。(ロ)クリスチャンの会衆内にいるわたしたちがイエスのことばに関心を持つのはなぜですか。

      15 この時(西暦32年)クリスチャン会衆はまだ形成されていませんでしたから,イエスの言われた「会衆」とは,当時存在していたユダヤ人の取決めを指すものであったでしょう。それには,裁き人として奉仕し,土地ごとの会衆を代表する人々を含むそれぞれの長老団がありました。(エズラ 10:14。ルカ 7:3)しかし,明らかにイエスの指示は,後にできるクリスチャン会衆を導き,助けるための原則となるものでした。悔い改めない罪人が「諸国民の者のような,また収税人のような者」と見なされることにはどのような意味があるのですか。わたしたちに特に興味があるのはその点です。その点を知るために,そうした人々がユダヤ人の会衆から本来どのように見なされていたかを考慮することが必要です。それによってわたしたちは,クリスチャン会衆から排斥された人をどのように見るべきかについて,コリント第一 5章11-13節にある使徒の指示をよりよく理解できます。

      16 異邦人に対するユダヤ人の態度について,ユダヤ教律法学者の書物に全面的に頼れないのはなぜですか。必要な情報をどこに見いだせますか。

      16 諸国民の者に対するユダヤ人の態度を考えるにあたり,イエスが地上におられた時代より後にまとめられた律法学者の書物のみを導きとすることはできません。そうした書物の中には,極端な態度,つまり,諸国民である「異邦人」に対して事実上の憎しみや軽べつを表示するものがあります。律法学者のある書物は,異邦人が死の危険に直面しているのを見てもこれを救い出してはならない,とさえ述べています。(マイモニディーズの「ローゼアク」,iv,12;「マクリントクとストロングの百科事典」,第三巻,789ページ)むしろわたしたちは,一世紀のユダヤ人の態度について知るための手がかりとして,神の霊感による聖書の中に信頼できる情報を見いだすことができます。

      17 聖書は,「諸国民の者」に対する一世紀当時のユダヤ人の態度について何を示していますか。そうした態度が広まったのはなぜですか。

      17 カエサレアの異邦人コルネリオの家に遣わされた時,使徒ペテロはそこに集まっていた人々にこう語りました。「ユダヤ人にとって,別の人種の人といっしょになったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなたがたはよく知っています。でも神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました」。(使徒 10:27,28)ペテロが後にエルサレムに行った時,そこのクリスチャン会衆内で割礼を支持するグループの人々は彼と論じ合い,「彼が割礼を受けていない者たちの家にはいっていっしょに食事をした」と言いました。(使徒 11:2,3)ここに示されるとおり,異邦人を霊的に汚れたものと見なしてこれと親しく交わらないようにすることが,ユダヤ人の基本的な姿勢でした。異邦人がそのように見なされたのは,彼らが「イスラエルの国家から疎外され,約束にかかわる数々の契約に対してはよそ者で」あったためであり,そのゆえに彼らは,エホバ神の前でなんら意味ある立場も是認された関係も有していませんでした。(エフェソス 2:11,12)彼らと親しく交わり,その家に入って共に食事をするとすれば,それはそのユダヤ人に霊的な汚れをもたらすことになりました。―ヨハネ 18:28,ガラテア 2:11-14と比較。

      18 イエスが,異邦人に対して,ある律法学者の書物に記されるような極端な見方に従わなかったことについてどんな証拠がありますか。

      18 イエス・キリストは,諸国民の者たちと親しく交わらないというこの基本的な定めを堅く守りました。そして,伝道活動に関する弟子たちへの指示として,「諸国民[異邦人]の道に行ってはならず,またサマリア人の都市に入ってはなりません。そうではなく,いつもイスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と言われました。(マタイ 10:5,6)しかし,たとえそうではあっても,イエスは,律法学者の書物にある,すべての異邦人を事実上軽べつしてあしらうべき敵と見なすような極端な見方を承認したり,それに従ったりはされませんでした。サマリア人と接したさいにもそうした態度に支配されることはありませんでした。(ヨハネ 4:4-40)それどころか,イエスは,み父の預言的なことばを引いて,諸国の人々がやがてメシアを受け入れ,神殿があらゆる国民の祈りの家と呼ばれ,メシアが諸国民の光となることを示されました。(マタイ 12:18,21。マルコ 11:17。ルカ 2:27-32,使徒 13:47と比較)ユダヤ人に多大の親切さを示した異邦人の一士官が病気の奴隷をいやしてくださるようにと願った時,イエスはそれに応じました。(ルカ 7:2-10)こうしてイエスは,神の会衆に属していない人々(異邦人)と親しく交わることを非とするモーセの律法の訓戒に反することはありませんでしたが,それでも,平衡を欠いて極端になったり,過度に厳格になって異邦人に敵対的な態度を取ったりすることはありませんでした。イエスは神の指示の中に含まれる原則を賢明に見きわめ,それに従って行動されました。

      19 (イ)収税人はユダヤ人一般からどのように見なされていましたか。(ロ)イエスは収税人に対してどのように平衡の取れた態度を取りましたか。

      19 収税人についても同様です。収税人は普通,異邦人ではなくユダヤ人でした。収税人は不正直である場合が多かったため,仲間のユダヤ人からの評判は概して悪く,世に知られた罪人や娼婦と同類に扱われていました。(マタイ 9:10,11; 21:31,32)イエスは彼らの誤った歩みを容認したわけではありませんが,マタイ・レビやザアカイのように,義を求めていることを示す人々に対しては,助けの手を差し伸べることをためらいませんでした。イエスが「収税人や罪人らの友」という偽りの訴えを受けたのは,霊的な進歩を遂げるようそうした人々を助けたためでした。しかし,交友を持つことと,イエスが行なったように,霊的に病んでいる人々をいやして悔い改めに導き,義の道に至らせようと努力することには相違がありました。―マタイ 11:19。ルカ 5:27-36; 19:2-10。

      20 『諸国民の者や収税人』に対するユダヤ人の本来の見方に関するこの知識は,排斥に関する使徒の指示をより深く理解する上でどのように役だちますか。それはどんな結論を導きますか。

      20 こうして,イエス自身の手本は,人を『諸国民の者のように,また収税人のように』扱うことに関して,ある律法学者たちと同様の極端な見方を取らないようにわたしたちを保護するものとなります。またわたしたちは,これらの人々に対して取られた処置と,クリスチャン会衆から排斥された人々に関する使徒パウロの指示の中に述べられる処置,つまりそのような人々と「交わるのをやめ」,共に「食事をすることさえ」しないようにすることとの間に緊密な類似点を認めます。(コリント第一 5:11)悔い改めていない罪人を『諸国民の者また収税人のように』扱うということは,明らかに,そのような者と親しい交わりを持たないという意味です。しかしこれは,イエスの手本が示すとおり,そのような人を敵として扱うとか,普通の礼儀や配慮を示さないという意味ではありません。またそれは,誤った道を正し,神の恵みを得たいもしくは取り戻したいと願う人々に助けを差し伸べることを妨げるものでもありません。

      ヨハネ第二 9-11節の意味を知る

      21 使徒ヨハネはその第二の手紙の9から11節でどんな訓戒のことばを述べていますか。それはどんな疑問を起こしますか。

      21 使徒ヨハネはその第二の手紙の中で次の訓戒のことばを述べています。「先走って,キリストの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。[つまり,神と結ばれていず,神との交友を持っていません。ヨハネ第一 1:6と比較]一方この教えにとどまっている者は,父も子も持っているのです。この教えを携えないであなたがたのところにやって来る者がいれば,決して自分の家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。その者にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです」。(ヨハネ第二 9-11)使徒ヨハネのこのことばは,悪行のために会衆から出されたすべての人に必然的にあてはまりますか。また,排斥されている人に対して,悔い改めと,転向と,会衆への復帰を促す戒めや訓戒のことばを語ることをすべて非とするものですか。ヨハネのことばの前後関係を調べることによって,その訓戒の意味をより明確に理解できます。

      22 (イ)その文脈から見ると,そこでヨハネが述べているのはどんな人のことですか。(ロ)そうした人にあいさつのことばをかけるのはなぜ適当でありませんか。(ハ)ヨハネの描写する人々に対して取るように勧められている態度と,『諸国民の者や収税人』に対して本来示すべき態度には相違がありますか。

      22 第七節で,使徒ヨハネは,「欺く者が多く世に出(ました)。イエス・キリストが肉体で来られたことを告白しない者たちがです。それは欺く者,反キリストです」と述べています。その後でヨハネは,十分に警戒し,そうした人たちを自分の家に迎え入れないようにと警告しています。それらは,偽りの教えの活動的な宣伝者であり,誤った行動を欺瞞的な手段で唱道する人々だからです。彼らに対しては,いっそうの浸透を許すような足がかりを与えてはなりません。彼らにあいさつすることも避けるべきです。その邪悪な業にあずかる者とならないためです。使徒時代のユダヤ人の間の一般的なあいさつのことばには,「あなたに平安がありますように」という意味がありました。この点に注目するのがよいでしょう。クリスチャンは,欺く者でありかつ反キリストである者に平安を願う気持ちは持たないはずです。しかし,平衡の取れた聖書的な見方を持つユダヤ人が「諸国民の者」や収税人に対してあいさつを拒んだことを示すものはありません。『邪悪な者にも善良な者』にも過分の親切を示される神に見倣うことを説き勧めたさいに語られた,あいさつに関するイエスの助言も,そうした厳しい見方を非としているように思われます。―マタイ 5:45-48。

      23 ヨハネ第二 9-11節は,どんな状況の下で,あるいはどの程度まで排斥された人に当てはまりますか。

      23 では,排斥されている人は皆,ヨハネ第二の手紙に描写されている人のようですか。排斥の処置を取らねばならなかった時点では,そうした人々は明らかに,その手紙に描写されている人々と同様の歩みをし,あるいは少なくとも,同様の感情を示していました。「王国を宣べ伝え,弟子を作るための組織」という出版物はその173ページでこう述べています。「バプテスマを受けながら,不道徳な行ないを故意に追い求める人は,実際には聖書の教えを退けているのです。それは,神の本性,贖いの備え,復活その他について聖書が述べる事がらに反することを他の人びとに教える人の場合と全く同様です。(テトス 3章10,11節; テモテ第二 2章16-19節と比較してください)」。そして,排斥された後に,他の人の前で自分の不道徳の正当化を試み,他の人を自分のゆがんだ考え方に傾かせようとするなら,明らかにその人は,使徒ヨハネの第二の手紙の中に描写されている人にあたります。

      24,25 (イ)排斥される人が皆ヨハネ第二 9-11節の描写に適合するわけではありませんが,どんな証拠がそのことを示していますか。(ロ)このことはわたしたちのうちにどんな反応を起こさせますか。わたしたちはどんな重要な点をさらに考えますか。

      24 しかしながら,排斥される人が皆,そのような『欺く者,また反キリスト』の道をその後に取るわけではありません。すべての者が,悪行を積極的に進める業に携わり,真理に逆らって他の人を欺き,自分を排斥に至らせた悪行に誘い込もうとするわけではありません。そのことは,悔い改めを示し,会衆の是認された成員としての復帰を求めてそれを得る人の数にも示されています。例えば,米国の場合(米国には,現在,50万人以上のエホバの証人がいる),1963年から1973年までの10年間に,さまざまな重大な悪行のゆえに合計3万6,671人が排斥されなければなりませんでした。しかし,その同じ期間に,1万4,508名が復帰し,その誠実な悔い改めのゆえに会衆に再び迎え入れられました。これは全体の四割近くにあたります。確かに,地上のわたしたちは,この事実を,エホバおよびその天の家族と共に喜ぶべきです。―ルカ 15:7。

      25 排斥されてはいても,ヨハネの述べる「反キリスト」の道を取っていない人々がさらに多く会衆に復帰するのを助けるために何かできるとすれば,どんな事ができるでしょうか。ここで取り上げた聖書の原則が実際面でどのように当てはまるかを次に調べましょう。

  • 排斥されている人たちに対して平衡の取れた見方をする
    ものみの塔 1974 | 11月1日
    • 排斥されている人たちに対して平衡の取れた見方をする

      1,2 (イ)クリスチャン会衆内で不道徳な影響を及ぼす者に対して会衆が処置を取るのはなぜ正しいことですか。この点で特別の責任を持っているのはだれですか。(ロ)そうした問題の処理にあたってはどんな危険も存在しますか。

      小さなパン種が練り粉の固まり全体を発酵させます。同じように,不道徳への影響は浸透して会衆全体を発酵させます。そうした影響から会衆を守ろうとするのは正しいことであり,会衆の長老たちは特に,この点に関心を持つべきです。―コリント第一 5:6。使徒 20:28-30。

      2 コリントの会衆は自分たちの中にいた悪行者に対して手ぬるい態度を取り,そうした「パン種」的影響を除き去るための処置を取りませんでしたが,このような問題に対してこうして手ぬるい態度を取るのはほんとうに危険なことです。しかし,これと並ぶ別の危険もあります。なんですか。反対の方向に進みすぎ,手ぬるさの逆に,厳しく厳格すぎる処置を取ってしまうことです。

      3,4 コリント第二 2章11節のパウロのことばにはどんな意味がありますか。

      3 わたしたちは,コリント人への第二の手紙の中の,使徒パウロの警告に注目できます。それは(文脈から見て)明らかに,最初の手紙の中で述べられている罪人,つまり,『彼らの中から除かれ』ねばならなかった人について述べたものです。(コリント第一 5:1-5,13)この場合,その悪行者は明らかに悔い改めていました。その人が会衆全体にもたらした悲しみに関して会衆がその人をゆるしたことについて述べたのち,パウロはさらにこう書きました。「それは,わたしたちがサタンに乗ぜられることのないためです。わたしたちはその謀りごとを知らないわけではないのです」。(コリント第二 2:5-11)パウロはここで何を意味していましたか。

      4 サタンの「謀りごと」は,神のしもべをだれでも可能なかぎりむさぼり食うことを目的としています。彼はそれを果たすために,「ほえるししのように」歩き回っています。(ペテロ第一 5:8)コリントの排斥されていた人は,会衆から除外され,サタンの支配する世に出されたという意味でサタンに『引き渡されて』いました。(コリント第一 5:5。使徒 26:18。ヨハネ第一 5:19)練り粉の「固まり全体」の中にある「少しのパン種」と同じように,この人は「肉」つまり会衆内の肉的な要素となっていました。そして,近親相姦の罪を持つその人を除き去ることによって,霊的な思いを持つ会衆そのものは,自分たちの中にあった「肉」を滅ぼすことができました。今,サタンの謀りごともしくはねらいは,そうしたえじきをしっかり捕え,やがてその人を全くのみほして,その人を霊的に滅ぼすことです。もし会衆が,全く正しい良心を保ちながらも,過度に警戒し,今では真に悔い改めている悪行者を再び迎え入れるのをためらい,その人の復帰を必要以上に遅らせるなら,それは敵対者の意図にかなう結果になります。(コリント第二 2:7と比較)コリント第二 2章11節の他の翻訳は次のとおりです。「サタンがわたしたちを打ち負かすことを許してはならないからです。わたしたちは彼のたくらみをあまりにもよく知っています」。(新英語聖書)「こうしてわたしたちがサタンに裏をかかれることはありません。わたしたちは彼の意図[彼の求めている事,グッドスピード]をよく知っているのです」― エルサレム聖書。

      5,6 (イ)排斥されている人に対して,クリスチャンの長老や会衆の成員はどんな誤った態度を避けるべきですか。(ロ)例を挙げて説明しなさい。

      5 したがって,会衆の長老,および会衆の個々の成員は,ユダヤ教のある律法学者たちがあおったような見方,つまり異邦人を事実上の敵と見なすような見方に近づかないように注意すべきです。排斥された人が犯した悪行を憎むのは正しいことですが,その人そのものを憎んだり,そうした人を無情に扱ったりするのは正しくありません。すでに述べたとおり,律法学者のある書物は,異邦人が死の危険に臨んでいる場合でもそれに助けの手を差し伸べてはならないとさえ述べていました。仮に,クリスチャン会衆の一員が湖でボートに乗っていて,排斥された人の乗る別のボートが転覆し,その排斥された人が水の中に投げ出されて必死にもがいているのを見たとしましょう。でき死の危険に臨んでいるのが排斥された人で,「諸国民の者」のように見なされるべきだということで,クリスチャンがその人の危険を見過ごし,その場をこぎ去ったとすれば,そのクリスチャンは神の前で有罪の意識を持たないでいられるでしょうか。そのようなはずはありません。それは残酷で無情なことです。キリスト・イエスがそのようにするとは想像できません。また,第一世紀のユダヤ人で,平衡の取れた見方をする人であれば,そうした窮状にある異邦人や収税人に対してやはりそうした態度は取らなかったはずです。

      6 しかし,これほど極端でない場合のことを考えてみましょう。排斥されている婦人が会衆の集会に出席しましたが,会館を出てみると,近くに止めておいた車はパンクしていました。会衆の男子の成員は,彼女の窮状を見ても彼女の援助を拒み,だれか世の人が来て彼女を助けるにまかせるべきでしょうか。これも必要以上に不親切で無情なことです。しかし,ちょうどそれと同じような事が実際に起きました。それは全く良心上の理由でなされたものと思われますが,それでも平衡の取れた見方が欠けていました。

      7 この点に関するエホバ神の手本から何を学べますか。

      7 わたしたちの天の父を見ると,エデンから排斥された後の最初の人間夫婦に対してもある程度の思いやりを働かせ,彼らに衣を与えたことが思い出されます。(創世 3:21)これはその二人に対する過分の親切でした。イエスが弟子たちに思い出させたとおり,エホバ神は「邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせて」おられます。(マタイ 5:45)使徒パウロは,異邦諸国民が神の道に反して独行的な歩みをしている中で,エホバが「ご自分[で]は善を行なって,[彼ら]に天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもって[彼ら]の心を存分に満た[し]……[こうして]ご自身を証しのないままにして[はおられない]」ことを示しています。(使徒 14:16,17)したがって,ある人と「交わるのをやめ」,その人を「諸国民の者」のように扱うということは,その人に対して,礼儀,親切さ,思いやり,人間愛などを働かせることを妨げるものではありません。

      霊的交友に含まれるもの

      8 (イ)使徒パウロがコリント第一 5章9,11節で「交わる」という意味で使っているギリシャ語にはどのような意味がありますか。(ロ)だれかと「交友」を持つとはどういうことですか。(ハ)悪行者に説き勧めて悔い改めを促すのはその人と交友を持つことですか。

      8 「交わる」という意味でパウロが使ったギリシャ語はスナナミグヌミという動詞で,それは本来,「混ぜる; 一緒に混ぜ合わせる」という意味です。もとになっている動詞(ミグヌミ)は,マタイ 27章34節で,ぶどう酒と胆汁を混ぜるという意味で,また,ルカ 13章1節では,ピラトが血と犠牲を混ぜたことに関して用いられています。したがって,ここには,本当に混ぜもしくは混合し,二つのものを合わせて一つの混合物もしくは結合体とすることが関係しています。わたしたちが他の人と「交わ」れば,そこには交友関係が出現します。英語の交友<フェローシップ>ということばには,「同志関係; 仲間関係; 親しさ」という意味があり,そこには,「関心や感情などの共同[もしくは,共に持ちそれを相互に分け合うこと]」があります。(ザ・ワールド・ブック辞典)したがって,他の人と交友を持つとは,他の人を,自分と同等の立場に立つ者として受け入れ,その人の見解に関心を示してそれを迎え入れ,開放的また友好的な態度でその見解を共にすることです。他の人と霊的な交友を持つことは,事実上,その人と共に霊的に『楽しむ』ことです。一方,ある人に説いて悔い改めを勧めるのであれば,それはその人と親和的な関係を結ぶことではありません。それは,その人の示した誤った態度や感情を共にすることではなく,ただ,矯正の必要な者としてその人を扱っているのです。

      9 (イ)会衆の長老が排斥されている人に出会った場合,その人に訓戒のことばを語るべきかどうかは何によって決まりますか。(ロ)排斥されていても,ヨハネ第二 7-11節に述べられるような歩みをしていない人がいれば,長老がその人に訓戒のことばを語るのはなぜ正しいことと言えますか。

      9 では,会衆の長老が,排斥されている人とどこかで出会ったとしましょう。その長老の日常の活動のさいに,道ばたで,世俗の仕事場で,あるいは他の同様の活動のおりにそうしたことがありえます。長老がその人に話しかけ,『身を転じて』天の父との和解を求めることを促したとすれば,それは会衆が取った排斥の処置に反する行動を取ったことになるでしょうか。これは状況によって決まるでしょう。もちろん,その排斥された人が,ヨハネ第二 7-11節に述べられる偽りの教師や宣伝者と同様の歩みをし,他の人に故意に影響を与えて偽りの教えや不道徳な習慣に引き入れようとしているのであれば,長老はそのような人とのかかわりをいっさい避けようとするでしょう。しかし,罪の道に落ち込む人がみな,「欺く者,反キリスト」となるわけではありません。したがって,その人がこうした部類の人でないなら,エホバ神ご自身の手本から見て,長老がその排斥された人に訓戒のことばを語り,神のみ前で正しい関係を取り戻すように促すことは許されるのではありませんか。長老は,そうした訓戒によって排斥の処置に逆らっているのではなく,むしろ実際には,その排斥の処置が正しく必要なものであったことを示して,それを支持していることになります。

      10-12 (イ)排斥されている人は皆,その人を「パン種」とならせた態度や特徴を引き続き示していますか。例を挙げなさい。(ロ)それで,排斥されている人に対する態度を決定するにあたりどんな状況を十分に考慮すべきですか。(ハ)放とう息子のたとえ話が問題に対するこうした理解を例示していることを述べなさい。

      10 また,コリント第一 5章11節で使徒が戒めているのは,淫行その他の重大な悪行を習わしにして『いる』人たちと交わることです。しかし,そうした理由で排斥されながら,その後早い時期に,あるいはしばらくたってから,そうした誤った習慣を断ち,それからずっと離れているという証拠を示している人の場合はどうでしょうか。その人は依然淫行者,もしくは会衆にとってその人を「パン種」とならせた他の種類の悪行を行なう者『である』と言えますか。

      11 例えば,淫行の理由で排斥された若い人がその後結婚して家族をもうけ,きちんとした生活を送っている場合があるかもしれません。あるいは,泥酔のために排斥された人がその習慣を捨て,今では,たとえお酒を飲む場合でも,しっかり節度を守っているという例もあるでしょう。そうした変化によって,それらの人は今,地域社会からの敬意を取り戻してもいるでしょう。そうした人はまだ,正式に近づいて来て会衆への復帰を求めていないかもしれません。しかし,そうした人々と,排斥に至らせた悪行をそのまま継続している人々との間には明白な相違があるのではありませんか。誤った習慣を捨て去った人たちはクリスチャンの真理に対するある程度の認識を示し,だれかが真のクリスチャン会衆を悪く言う場合には,それを弁護することさえあるでしょう。そうした状況は考慮に値し,わたしたちが会衆としてその人に取る態度にも影響を与えるのではありませんか。

      12 仮に,たとえ話の中の放とう息子が酒に酔った状態で家に帰り,娼婦の一人を引き連れてでもいたなら,父親の反応は異なっていたでしょう。しかし,父親には,息子が正しい動機で戻って来たと信ずるだけの理由がありました。こうして父親は,疑って最悪のことを予想したのではなく,むしろ,最善のものを望み見て,放浪の息子を迎えに出たのです。

      13 (イ)バプテストのヨハネや使徒パウロのことばに示されるとおり,悔い改めの証拠としてことばに勝るものはなんですか。(ロ)排斥されている人の場合にこの原則はどのように当てはまりますか。

      13 今日でも,わたしたちは,悔い改めの最善の証拠の一つは,形の上で正式に述べられた単なることばではなく,行動であるという点を理解したいと思います。(ヨハネ第一 3:18と比較)ある人々がバプテストのヨハネ(彼は罪のゆるしのための悔い改めの象徴としてのバプテスマを施していた)のところに来た時,ヨハネは,彼らの形の上での行動を,最重要の要素,もしくは,それだけで十分なものとは見なしませんでした。むしろ彼は,行って「悔い改めにふさわしい実を生み出(す)」ように告げ,そうした実もしくは良い業の例として,あわれみと寛大さを示すこと,不正や搾取をやめること,人を悩ましたり偽証をしたりすることから離れることを挙げました。(マタイ 3:7,8。ルカ 3:7-14)使徒パウロも,「悔い改め,かつ悔い改めにふさわしい業をして神に転ずる」ように人々に説き勧めました。(使徒 26:20)こうして,排斥された人が,「パン種」として会衆から除かれる原因となった誤った習慣をやめるなら,その変化は,その人が『身を転じ』,自分の以前の歩みを悔い改めていることのある程度のしるしと見なすことができます。―使徒 3:19。

      14 排斥されている人はほかにもどんな方法で「悔い改めにふさわしい実」を示すことがありますか。どんな状況のもとで,長老はそのような人に近づいてもよいと考えますか。

      14 排斥された人が,公開されているクリスチャンの集会に来ることによって「悔い改めにふさわしい実」をある程度示す場合もあります。しかしここでも,もしその人が,誤った歩みを弁護し,あるいはそれを正当化するために来るのであれば,そして,他の人々を非聖書的な見解に引き入れようとしているのなら,そうした人はヨハネ第二 7-11節の描写に該当します。しかし,そうした企てが少しもないのであれば,長老が(恐らくはその人が幾度か集会に出席しているのを認めた後に)近づいて,その人に訓戒のことば,つまり,霊的にいやして,会衆の是認された成員として完全に復帰させるためのことばを語るとしても,それは聖書の助言に反することではないでしょう。―ヤコブ 5:19,20。

      15 排斥されている人が,集会に出席したいという願いを持ちながら,それを実行する上で非常な悪条件にある場合,どんなことを行なうのも正しいことですか。

      15 排斥されている人は,クリスチャンの集会に出席したいとの願いを持ちながら,それを実行する点で現実の悪条件をかかえている場合もあります。集会の場所からかなり遠く,公の交通機関が利用できない場合もあります。あるいは,他の個人的もしくは身体的事情が,集会への出席を阻む大きな障害となっていることもあります。一例として,排斥されているある婦人は,一度の集会に来るために,タクシー代に八ドル(約2,400円)を費やしました。彼女は,出席を希望しているがそれだけの費用をかけて出席を続けることは経済的に難しい,ということを長老たちに伝えました。ある日曜日,彼女はその道のり全部を歩いて集会に出席し,その願いの純粋さを実証しました。その人が集会場所に行くためそれほど長い距離を歩いているところを,会衆の成員のだれかが見かけ,しかも自分の車に空席があるような場合,彼女に援助を差し伸べるのは人間的な愛のあることではありませんか。

      16 そうした取決めにあたって注意が必要なのはなぜですか。だれの助言を求めるのが賢明ですか。

      16 もちろん,「悔い改めにふさわしい実」の証拠がなく,その人が不道徳な歩みを続けていることが依然知られているなら,問題は違ってきます。そうした人に乗り物を提供し,あるいは他の同様な援助を定期的に差し伸べるなら,会衆に対して地域社会からの非難を招くことになります。それゆえ,排斥されていて,集会への出席のために援助が必要であり,しかもそれを望んでいることが明らかな人がいる場合,それに気付いた会衆の成員は,そうした援助を自分で取り決める以前に,会衆の長老たちの助言を求めるのがよいでしょう。―ペテロ第一 2:12; 3:16。

      家族のわくの中で

      17 排斥の処置が取られても,家族内ではどんな聖書的な務めと関係が存続しますか。

      17 会衆の排斥の処置によって血縁や結婚の関係が解消されるわけではありませんから,家族の関係の中では特別の配慮が求められます。婦人は,自分の夫が排斥されている場合でも,夫が持つ頭の権威に敬意を払うという聖書の要求からは解放されていません。そうした解放があるのは,死か,聖書に基づく離婚がなされた場合のみです。(ローマ 7:1-3。マルコ 10:11,12)一方,妻が排斥されるような場合でも,夫は,自分と「一つの肉体」をなすものとして妻を愛する務めから解かれてはいません。(マタイ 19:5,6。エフェソス 5:28-31)同様に,バプテスマを受けた未成年の息子や娘が排斥されている場合でも,親は依然として,「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって」子どもを育ててゆくという命令のもとにあります。(エフェソス 6:4)そして,親の一方もしくは双方が排斥される場合でも,息子や娘は,年齢にかかわりなく,「あなたの父と母を敬いなさい」という定めのもとにあります。(マタイ 15:4。エフェソス 6:2)聖書に従う場合,クリスチャンはこの世の政治上の職務に就いている人々をも敬うべきなのであり,その点を考えるなら,これは理解しにくいことではないはずです。―ローマ 13:1,7。

      18 親は,会衆が取った排斥の処置に敬意を払いつつ,エホバの懲らしめと精神の規整のうちに子どもを育てるという務めをどのように果たしてゆくことができますか。

      18 家族の成員はこうした聖書的な務めを果たしつつも,家族の一員を排斥した会衆の処置に対する調和を示すことができます。これは,そのような人と霊的な交友を持たないようにすることによってなされます。しかし,子どもの一人が排斥されている場合,親は神のことばに従って自分の子どもたちをしつけてゆくという命令をどのように果たせるでしょうか。そうした場合でも,親は,神のことばや,聖書の教えを述べる他の出版物を用いてその息子や娘を訓練することができますが,ただしそれを,その子どもの矯正ということを目的として行ない,他の子どもたちとするように,霊的な“楽しみを持つ”という意味では行ないません。これをどのような方法で行なうかということは親の決めるべき問題です。これは不親切な態度を取ることを求めるものではありませんが,それでも親は,排斥されている息子や娘に対して,他の子どもたちに対して与えるのと同じ是認された霊的関係を認めません。排斥されている息子や娘に対しては,『エホバによる精神の規整』を受けさせる目的で,家族の聖書研究に出席することを勧めるべきです。

      19 自分の配偶者が排斥されているクリスチャンは,会衆が取った排斥の処置に反しない範囲でどのようにその配偶者の立ち直りを助けることができますか。

      19 同様に,結婚関係にある一方が排斥されている場合,他方の人は,その人と「一つの肉体」を成す者として,その排斥されている人を悔い改めと会衆への復帰に導くため,自分にできることを行なうべき立場にあります。霊的な交友を避けるべきであるとしても,それは聖書や,聖書を説明する出版物の使用を禁ずるものではありません。すでに見たとおり,交友とは,感情や見解の相互関係,同志的対等性を意味しているからです。良い立場にあるほうの者が,神のことばやそれに基づく出版物を,純粋に矯正や立ち直りを目的として使用するのであれば,それはそうした交友とはならないはずです。例えば,何か聖書的な読み物を読もうとしている夫は,排斥されている妻に対し,自分のする朗読を聴くように励ますこともできます。あるいは,排斥されている夫を持つ妻は,自分がそうした物を朗読する間夫がすすんでそれを聴いてくれるかどうか尋ねることもできます。もちろん,そうした朗読の結果として話し合いの起きることもあるでしょう。もしそうであれば,排斥されている人が示す誤った感情や態度にあずからないようにし,また,その人を排斥に至らせた悪行を受け入れたり容認したりする態度を全く取らないことによって,霊的な面での交友を避けていることができます。(「王国を宣べ伝え,弟子を作るための組織」という本の173,174ページをご覧ください。)

      20 (イ)会衆内で責任の地位にある父親が,排斥されている自分の未成年の息子や娘が家に帰ることを許すとすれば,自動的にその地位から外されることになりますか。そこには何が関係していますか。(ロ)その人がそうした責任の地位にとどまることの妥当性が疑問視されるのはどんな場合ですか。

      20 未成年の息子や娘がなんらかの不道徳行為のために排斥され,家を出て行く場合もあります。後に,そうした者は考え直し,家に戻る許しを求めるかもしれません。これを認めるかどうかは,親,特に父親が決定すべきです。その息子もしくは娘が,親が持つ頭の権威を敬う態度をすすんで示しているなら,父親はそうした帰宅を許し,その息子もしくは娘の立ち直りを促す機会としてそれを活用するでしょう。その父親が長老または奉仕のしもべであっても,その人が会衆からの敬意を保っているかぎり,上記のことのためにその立場を去ることが必ず求められるわけではありません。もちろん,その息子または娘が帰宅を望みながら,排斥の原因となった不道徳行為を続けている場合,それでも父親がそうした霊的汚染の元が家族内に戻ることを許すのであれば,家族の霊的な益を十分に顧みているとは言えません。そのために,その父親の会衆内での責任の立場に対する資格が疑われるとしても,それは当然です。―テモテ第一 3:4,5,12。

      21 別の家に住む排斥された親族との交わりの程度はだれが決定すべきですか。どんな場合にのみ会衆の長老はその問題に関係しますか。

      21 排斥されていても家の外に住んでいる(成人した)家族員がいる場合,そうした人とどの程度の交わりを持つかはそれぞれの家族が決定すべきです。これは会衆の長老たちが決定すべき事がらではありません。長老たちが関心を払っているのは,「パン種」として取り除かれねばならなかった人々との霊的な交友を通して会衆内にその「パン種」が再び持ち込まれることのないようにすることです。例えば,排斥されている親が自分の息子や娘を訪ね,あるいは孫に会いに行って,クリスチャンの家庭に入ることを許されるとしても,これは長老たちが関心を払う点ではありません。その人には,自分の血縁や子孫を訪ねる本来の権利があります。同様に,息子や娘が,親を大切にする気持ちから,排斥されている親を訪ね,体の状態はどうか,何か必要なものはないかと見舞うとしても,そうした行為そのものは霊的交友とはなりません。

      22 排斥されている成人した家族でも,どんな場合にはクリスチャン家庭の居住者として迎え入れられることがありますか。この決定はだれにかかっていますか。

      22 排斥されている親が老齢や病気のために世話を必要としており,息子や娘が,そうした親を家に連れて来て子としての本来の務めを果たしたほうがよいと感ずる場合もあります。また,排斥された息子または娘を持つ人で,その子がすでに成人ではあっても,健康上の大きな問題を持ち,あるいは事故のために無能力になったり,経済的に極度に困窮したりしているために,その子を再び家に迎え入れようと決定する場合があるかもしれません。これらは,人間的な情愛に基づく事がらとして個々のクリスチャン家族が決定すべき点であり,腐敗的な影響が会衆内に再び持ち込まれるという明確な証拠がないかぎり,会衆の長老たちはこの問題に立ち入りません。

      23 どんな状況のもとでは,たとえ家族であっても,クリスチャン家庭に入ることを許さないのが正しいことと言えますか。

      23 しかし,こうして親族の関係している場合でも,排斥されている人がその家族的な結び付きを利用してヨハネ第二 7-11節に述べられるような活動を推し進めようとするのであれば,その親族であるクリスチャンは,そうした人が自分の家に入ることを拒み,誤った考えや行為を押し広めることを目的としているかぎりその人の訪問は歓迎されない,と告げるのが当然です。―ユダ 3,4。申命 13:6-8と比較。

      24 肉的な関係がない場合,会衆の成員は,排斥されている人を立ち直らせることに関する問題をだれにゆだねるのが賢明ですか。

      24 肉的な結び付きが関係していない場合,会衆の成員は,排斥された人で,戻って来た放とう息子のようにある意味でまだ『かなり遠くに』いながら,正しい道を取りたいという願いを表示する人に説き勧めてその人の立ち直りを図る主要な責任を,群れの牧者である長老たちにゆだねておくべきことを認めるのがよいでしょう。長老たちは,その排斥されている人が最初に聖書の真理を知るのを助けた人など,だれか他の人がその人の立ち直りを助けることができると感じる場合もあるでしょう。

      平衡の取れた見方の益

      25 (イ)どうすれば,排斥された人に対して平衡の取れた見方を保つことができますか。(ロ)コリント第一 5章5節は,『人を肉の滅びのためにサタンに引き渡し,こうして霊が救われる』と述べていますが,これはどういうことですか。

      25 聖書の述べている事がらを過小に見ず,一方では述べていない事がらまで読み取るようなことを避け,聖書そのものにしっかり従うなら,排斥されている人に対して平衡の取れた見方を持つことができます。またわたしたちは排斥の目的を常に銘記していることになります。それは,会衆を神に是認された清い状態に保ち,腐敗的な影響力を取り除いておくことです。そうした「パン種」は「固まり」の全体である会衆を霊的な意味で「発酵」させます。こうして会衆は,悔い改めない悪行者をサタンの支配する外部の世界に締め出すことによって,その罪深い肉的な影響を事実上会衆の中から『滅ぼし』去ります。これは,会衆の「霊」,つまり,会衆における支配的な見方,感情,動向を保護し,救うために行なうのです。―コリント第一 5:5。

      26 (イ)平衡の取れた見方をすることによって会衆の成員は何を反映できますか。会衆に再び迎え入れられることを願う人にこれはどのように有益な影響を与え,また励みとなりますか。(ロ)長老は今,自分の会衆の区域内に住む排斥中の人に関してどんな事を行なうのがよいと感じるかもしれませんか。

      26 平衡の取れた見方を保つことは,わたしたちの天の父の特質を常に反映することにもなります。天の父は義を守るとともに,あわれみにも富んでおられます。したがって,排斥されている人で,誠実な心で復帰を願う人がいるなら,戻ろうとする自分の努力が受け入れられるだろうかと疑問に思ったりためらったりする必要は少しもありません。冷たい無関心な態度ではねつけられるのではないかと心配することもありません。むしろ,自分の状態が全く望みのないものではないことを知り,神の民の会衆の中で是認された立場を取り戻し,それに伴うすべての祝福を受けるために何を行なうべきかを,会衆の長老たちが示して助けを差し伸べてくれることを知るでしょう。排斥された人が自分の会衆の働く区域内にいて,こうした備えについて知らないでいることがはっきりわかるなら,長老たちはこのことをその人に知らせるのがよいと考える場合もあるでしょう。

      27 (イ)会衆内での是認された立場に戻るためには何が肝要ですか。(ロ)復帰を願う人はなぜそうした資質を示して必要な段階を踏み,天と地にいる神の家族全員に喜びをもたらすはずですか。

      27 会衆内で是認された立場を取り戻すためには,排斥された人が本当に謙遜な態度を表明することが必要です。(イザヤ 57:15。ヤコブ 4:8-10)しかし,命そのものがかかっており,神の善意と寛容による「受け入れることのできる時」が今や非常に短くなっているのですから,そうした人々は,誇りの気持ちに災いされるようなことを望まないはずです。天の父の側に身を転じ,父のみ前での良い立場を再び得,天の父の霊的な子またそうなる見込みを持つ人々の幸福な家族関係に全面的に戻ることを願うはずです。(コリント第二 6:1,2)そして,ゆるしと復帰のためにこのようにあわれみに富んだ備えを設けてくださった神に感謝し,『神の温情が自分を悔い改めに導こうとしている』ことを悟るでしょう。―ローマ 2:4。

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