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    ものみの塔 1978 | 6月1日
    • をも確信するに至りました。a もちろん,男性であれ,女性であれ,そうした問題に関する助言を求めて長老に近づこうと思うなら,それは一向に差し支えありません。その場合,長老は聖書の原則を当人と共に考慮し牧者として行動しますが,尋ねてきた人の結婚生活に関して事実上“警察”のように振る舞おうとはしません。

      こうした見解は人々がならわしにしている様々な性行為すべてを大目に見るものである,などと解するべきではありません。決してそうではないからです。これは,聖書の示すところに従い,十分な根拠がないと思われる場合に,独断的な態度を取らないようにする,鋭い責任感の表われにほかなりません。それはまた,すべての事柄を神に対するように行ない,すべての業において神のすばらしい特質を反映したい,というエホバの民全体の願いに対して確信を抱いていることの表われでもあります。また,夫婦間のそうした親密な問題に関する判断を神とそのみ子の手にゆだねたいという気持ちの表われです。神とそのみ子は,知恵,および正しい判断に必要とされるあらゆる状況に関する知識をお持ちです。「わたしたちはみな,神の裁きの座の前に立つことになる」,また「わたしたちはおのおの,神に対して自分の申し開きをすることになる」という言葉を覚えておくとよいでしょう。(ローマ 14:7-10,12)「わたしたちはみなキリストの裁きの座の前で明らかにされねばならないからです。そうして各人は,それが良いものであれ,いとうべきものであれ,自分が行なってきたことに応じ,その体で行なった事がらに対する自分の報いを得るのです」― コリント第二 5:10。

      また,使徒がコロサイ 3章5節と6節にある次の助言を書いたとき,独身者だけでなく,既婚者にも語りかけていたことを銘記しておくのは良いでしょう。「ですから,淫行,汚れ,性欲,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなたがたの肢体を死んだものとしなさい」。テサロニケ第一 4章3節から7節の中で,パウロはさらにこう諭しています。「あなたがたひとりひとりが,自分の器をいかに聖化と誉れのうちに所有すべきかを知り,神を知らない諸国民のように貪欲な性欲のままに歩まないことです。……神はわたしたちを,汚れを容認してではなく,聖化に関連して召してくださったのです」。

      ここで「性欲」に言及したこの使徒は,結婚関係内でふさわしい表現と発露を見る,性的な欲望を決して非としているのではありません。わたしたちには飲食に対する正常な欲求があり,それをふさわしい仕方で満たすことができます。しかし,放縦で,度を過ごした飲食によって,その人は大食家や大酒飲みになってしまいます。同じように,人は性に夢中になりすぎるため,性欲を満たすことが聖書の勧める愛に付随し,従属するものではなく,それ自体が最優先かつ主要な目的になってしまうこともあるのです。そうなると,その人は貪欲,「つまり偶像礼拝」の域に達します。その場合,偶像視されているのは性的欲望です。―エフェソス 5:3,5。フィリピ 3:19。コロサイ 3:5。

      では,既婚者,恐らくは妻が,会衆の長老に近づき,自分が不快で性欲倒錯として拒む性行為を,配偶者が彼女に強いると訴えるような場合にはどうすればよいでしょうか。その配偶者が話し合いに応じるなら,相談された長老は,できれば別の長老を伴い,聖書から助言を与えて,その夫婦が問題の解決を図れるよう助けを差し伸べることができます。

      もしある既婚者が,自分の配偶者の特定の性行為はマタイ 19章9節で使われているギリシャ語ポルネイア(新世界訳,「淫行」)の域に達するほどゆゆしいものであると唱える場合にはどうしたら良いでしょうか。前述のとおり聖書は,結婚関係内のある特定の性行為をポルネイアであるかないかをはっきり見定められるような明確な情報を提供していません。このギリシャ語の言葉は,「売る」とか,「ゆだねる,あるいはふける」という基本的な意味の言葉から派生しています。ですから,ポルネイアには,「肉欲やみだらな行為に自らを売り渡す,あるいはふける」という意味合いがあります。この語の動詞形(ポルネウオ)には,「堕落させる」という意味もあります。(リデルとスコットの希英辞典)もし既婚者が,たとえ夫婦以外の人はだれも関係していなくても,自分の配偶者の性行為がみだらな行為に身をゆだねること,あるいはみだらな行為で堕落することとはっきり言えるほどゆゆしいものであると考えるなら,それについて自分で判断し,自分で責任を負わねばなりません。

      そのような人が,その事態は聖書的な離婚の根拠になると主張することもあるでしょう。そのような場合,当人は自分の取ろうとしているいかなる離婚措置についても,神のみ前で全き責任を受け入れねばなりません。長老たちは,離婚の根拠がはっきりしないかぎり,その離婚を(聖書的に)承認するわけにはゆきません。同時に長老たちは,問題がどちらともつかないような場合,自分の良心を他の人に押し付ける権威を与えられてはいません。(ヤコブ 4:11,12)ふさわしいと思われる聖書的な助言を述べてから,長老たちは,当人に事態の重大性および離婚措置を取った場合に負わねばならない全面的な責任をはっきりと示すことができます。もし結婚のきずなを断つ口実を求めているにすぎないのであれば,そのような人は神の不興を買うだけです。配偶者に対するそのような背信行為について,「神は離婚を憎まれた」と述べられているからです。(マラキ 2:16,新)「神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれる」のですから,単に口実を設けて離婚し,それから再婚する人は,そうした裁きを免れることはできません。(ヘブライ 13:4)長老たちは,主がそのご予定の時に,「やみの隠れた事がらを明るみに出し,また心の図るところを明らかにされ」ることを確信できます。(コリント第一 4:4,5)欺まんや背信行為のうちにまいた者は,苦しみを刈り取ることから免れることはできません。『神は侮られるようなかたではない』からです。―ガラテア 6:7,8。

      聖書の中ではっきりと述べられていない問題に関して兄弟姉妹が自分の良心を働かせるのを会衆の長老たちが,認めるのと同じく,長老たちには,問題となるような行為にふける人に対する見方に関して自分の良心を働かせる権利があります。こうした問題に関して会衆の一成員の取る行動のゆえに,長老たちがその人を会衆内の模範的な立場での奉仕に推薦できないと良心的に感じるのなら,長老たちにはその良心に従って行動する権利があります。―テモテ第一 1:19; 3:2-12; 5:22。

  • スポーツはあなたの生活の中でどんな位置を占めるべきですか
    ものみの塔 1978 | 6月1日
    • スポーツはあなたの生活の中でどんな位置を占めるべきですか

      スポーツなどによる「身体の訓練」にはそれなりの役目がある,と聖書が述べていることをご存じでしたか。スポーツはわたしたちの益になります。しかしスポーツの益にあずかりながら,スポーツのもたらし得る害を避けるにはどうしたらよいでしょうか。

      「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」という192ページの本は,「スポーツと娯楽」という章の中で,この点を論じています。この本は「世の苦難からの人間の救いは近い」と題する本と共にわずか450円のご寄付でお求めになれます。郵送料は発行者が負担いたします。108 東京都港区三田5丁目5番8号 ものみの塔聖書冊子協会(振替 東京 5-138022番)にお申し込みください。

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