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『すべての国の民への証言』ものみの塔 1968 | 12月15日
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を次のようにしたためています。「私は最初にこの学校のことを聞いた時からいつも出席することを考えていました。エホバは,私がりっぱな奉仕者になり,兄弟たちをよりよく援助できるようになることを望まれて,もう一度ご自分の深い善意といつくしみとを私に示されたように思います。しかし私はエホバのご配慮を受けるに値するほどの者ではありません」。同様のりっぱな心がまえは,この兄弟が奥さんと一緒に休暇開拓奉仕を行なったあとでも示されました,その手紙の続きはこうです。「私たちは長年一緒に休暇開拓をしたいと思っていましたが,家庭における聖書的な責務のために,昨年の4月までそれは不可能でした。しかしついに休暇開拓奉仕ができましたが,その奉仕から得た喜びを思いのままに言い表わすことはできません! エホバが私たちに望まれることを行なって得られるほどの満足は,どんな他の職業であっても得ることができません。皆さんも奥さんとともにこの奉仕をなさるならば,休暇開拓を行なう人だけが経験する満足と心の平安を確かに味わえるでしょう。私はできるかぎり近い将来,妻と一緒に再び休暇開拓をする計画です」。
休暇開拓を行なった一人の監督は,この活動にたずさわっている間に,会衆内の兄弟たちを大いに援助できることを知りました。そしてどのようにこのことを行なえたかについて,次のように説明しています。「私はこの4月,宣教活動で多くの兄弟を訓練し,実際的な方法で個人的に援助して,この面で監督としての奉仕を楽しみました。私が役にたつと思った方法は,一人の伝道者か休暇開拓者,あるいは,正規開拓者と午前中ずっと一緒に働くことです。街頭伝道や店から店,あるいは車から車を尋ねるいずれの伝道でも,まず早朝の雑誌活動で伝道を開始します。これはその日の良い出発となりました。それから私たちは奉仕の集合場所に行き,家から家の宣教に2時間ほど費やし,次いで午前中の残りの時間を再訪問や聖書研究のわざに用いました。私は奉仕の色々な面に参加し,また彼らの証言を実際に見聞きしたので,役にたついくつかの提案を述べることができました。また私も『良いたより』を伝える際の多くのすぐれた方法を学びました。すべてのしもべや監督が,皆さんの保護の下にある『羊の群れをかう』実際的な方法として,このような特別な月について考慮されることを私はお勧めします。
野外宣教で人々が耳をかさないように思える時,あなたは時々落胆しますか。またそれが無益だったと考えますか。私たちの宣教がかならず人の目に止まっていることは,一人の巡回のしもべが述べた次の経験によく示されています。彼の奉仕している地方の一地区で地震がありました。それは低く重々しい地鳴りを伴う地震だったとのことです。この地震は広範囲の地域を襲って多数の小さな町や村をゆすり,人々は恐れおののいて,家や職場から避難しました。こうした事態は,野外宣教にたずさわる奉仕者に対する人々の態度にどんな影響を及ぼしましたか。巡回のしもべは次のように述べています。「この激しい地震が終わってのち,この地域の人々は穏やかになり,音信の種を播く下ごしらえができていました。多くの人々はエホバの証人を求め始めたのです。聖書をたずさえた一婦人は,メソジスト教会の制服を着てある日の昼ごろ私の家に来ました。婦人は大そう真剣で,次のように述べました。「あなたはこの地震についてどのように考えておられるかどうぞ教えてください。エホバの証人の皆さんは,他のどんな宗派の人々よりも聖書をよく知っておられることを存じています』。それからとても充実した討議がなされました。私は『良いたより』の小冊子1冊を婦人に配布し,『終わりの日』のしるしを論じた個所から研究が始まりました。その日の午後,証言のわざのために伝道者が集まった時,すべての人々が同様の経験を述べました。ある伝道者のもとにその地震について尋ねたいという人々が一度に10人以上も押しかけました」。そうです,私たちのわざは人々の目にかならず止まっています。人々は問題に直面する場合,聖書から慰めを得るには誰に尋ねれば良いかを知っているのです。
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読者からの質問ものみの塔 1968 | 12月15日
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読者からの質問
● 私はエホバの証人になりたいと願っていますが,何年か前に離婚し,その後再婚しました。バプテスマを受けるには,どんな処置を講じなければなりませんか。―アメリカの一読者より。
この種の質問は毎回のように寄せられています。そうした質問者が聖書の真理に心を動かされ,神に受け入れられる奉仕を行なうように,神の正義のご要求に一致した生活をしたいと願うのは喜ばしいことです。そのような人はほめられるべきです。
神に関する正確な知識を持つようになった人々の過去の境遇はそれぞれ大いに異なっています。結婚に関する神の御心と道徳上の要求を学ぶ前には,結婚し,その後離婚し,そして再婚した人々もいます。(また何回か繰り返した人もいます。)今ここでは個々の特定の状況を取り扱うのではなく,たいていの場合に当てはまる,一般的な説明を述べたいと思います。
結婚に関して,クリスチャンには二組の法に従う責務があります。第一のしかも一番大切なのは神の律法です。創造者で立法者であられるエホバ神は,その被造物である人間がどう振舞うべきかを指示する権利を持っておられるのは明らかなことです。(イザヤ 33:22)もう一つは自分の住む国の法律です。神の恵みを望む者は婚姻の登録にかんする法律上の要求に従うべきことが,聖書の中で直接または実例によって示されています。(マタイ 22:21。テトス 3:1。ルカ 2:1-5)クリスチャンはどちらの法も無視できません。
したがって,結婚する人は,単に神の前で責任を負っていることを認めるだけでなく,それ以上のことを行なわねばなりません。つまり自分の住んでいる土地の法律上の要求にも従わなければならないのです。クリスチャンの見地からすればそうするまでは,正式に結婚してはおらず,結婚に伴う特権にあずかる資格がありません。
さて問題を逆にして,離婚について考えましょう。前述の事を考慮しますと,離婚に関しては神と国家の両方の要求にかなっていなければならないのは明らかです。国の法律によれば離婚は多くの理由に基づいて成立するかもしれませんが,神の律法は,姦淫を唯一の理由として離婚を許しています。(マタイ 9:9)a もし,(姦淫の罪が犯されていないゆえに)姦淫以外の何らかの理由で離婚した場合,神の律法によれば,再婚の自由はありません。この問題をさらに押し進めると,もし合法的なしかし非聖書的な離婚をして,他の人と再婚する場合,それは神の律法を破る重大な罪を犯すことになります。つまり姦淫です。(他方,たとえ姦淫が犯された場合でも,離婚が法的に成立するまでは,無実の配偶者には別の配偶者を求める自由はありません。神と国家との両方の要求にかなわねばならないからです。)
それで,ある人が神の律法を知らずに,非聖書的な理由で合法的に離婚して,その後再婚した場合,国の法律の要求にはかなっていても,神の律法によれば,その人は再婚したことによって姦淫の罪を犯していると言えるでしょう。神の律法によれば,こうした姦淫により以前の結婚は解消されます。しかしエホバの律法をゆゆしくも破ることによって解消されたのです。こうした事態にある人は,どうすべきでしょうか。
大勢の人は神のご要求を学ぶ前に罪を犯しました。古代コリントのクリスチャン会衆の一部の人々は,クリスチャンになる以前,姦淫や淫行,同性愛を行なう者そして泥酔する者でした。しかし生活を改めました。献身してバプテスマを受けるまでには,道徳的な清い状態で生活していたのです。こうした人々の以前の罪はどうなりましたか。それらの罪は許されました。各人はイエス・キリストのあがないの犠牲に対する信仰によって,「洗ひ……潔められ」たのです。―コリント前 6:9-11。
したがって,今日ある人が神の律法を学んで,過去に姦淫という重大な罪を犯したことを悟るならば,祈りの中に神に近づき,イエス・キリストのあがないの犠牲に基づいて許しを求めるべきです。使徒ペテロが述べたように,「おほよそ彼[イエス]を信ずる者(は),その名によりて罪の赦を得」るのです。(使行 10:43。エペソ 1:7)それ以後は,自分の悔い改めの真実を証明しなければなりません。しかしどのように証明できますか。以前の配偶者の所に戻ることはできません。もはや法律的にも聖書的にも元の配偶者に対して何も要求する権利はなく,元にもどって再び以前の生活を営むこともできません。しかし今後は,聖書の律法と原則とに一致した生活を行なえます。結婚した者として現在負っている責任を果たして生活すれば,結婚の神聖さを今や悟っていることを示せます。さらに進んで,神の御心を学んで実行することにより示せるのです。―コロサイ 1:9,10
● イサクには自分を犠牲として自発的にささげる気持ちがあったにもかかわらず,なぜアブラハムは彼の手足を縛らねばならなかったのですか。―アメリカの一読者より。
アブラハムとイサクに関する聖書の記録は次のとおりです。「遂に神の彼に示したまへるところに到れり ここにおいてアブラハムかしこに壇を築き たきぎをならべ その子イサクを縛りて これを壇のたきぎ
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