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人口問題に対する真の解決目ざめよ! 1974 | 9月8日
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でいて,平素土地の公園にしか行かない人で,時おり広々した田園地方や森林地帯にあこがれを感じない人がいるでしょうか。
聖書は,人口過剰に帰せられている今日の種々の不健全な状態そのものが,この利己的な事物の体制の,ただひとりの頭なるイエス・キリストのもとに置かれる世界政府によって取って代わられる日の非常に近いしるしであることを示しています。(詩 72:7,8。マタイ 24:3,7,8,14。ルカ 21:11,25-28。啓示 6:1-8)その政府のもとに事物の正しい状態を回復すべき時は熟しています。その支配のもとで,人間が地上の自然環境にいかに適合すべきかを示した創造者のことばがついに実現されます。そのことばは人類の最初の親に対して次のように語られました。「生めよ,ふえよ,地に満ちよ,地を従わせよ」。(創世 1:28,口)人類は,この任命のことばに意図されたとおりに地を『満たし』,地を「従わせ」てきましたか。
『地を満たす』
人間は明確な目的のもとに地を従わせてきたのではなく,むしろ地球の資源を賢明でない方法で用いてきました。そして,むしろ打ち壊す業を行なってきました。集中化した大工業とその生産方法とは地球の自然のサイクルを乱してきました。また依然乱しつづけています。工業汚染に加えて,貧弱な農業管理がこれまでまた今なお「地を破滅させて」おり,増大する人口を扶養する地の能力を危うくしています。―啓示 11:18。
地を満たすかわりに,幾百幾千万の人が巨大で不潔な大都市に寄り集まってきました。また,人類の分散が国によって不均衡であることも,『地を満たす』という趣旨に添っていないことを示しています。例えば,カナダではその広大な国土全体にわたり一平方マイル(約2.6平方㌔)当たり約六人の割で住んでいるのに対し,バングラデシュではその200倍を優に超える1,300人が住んでいます。しかし,『地を満たす』という創造者の意図がある程度の均一性を意味していたことはいうまでもありません。こうした点に関するエホバの見方は,西暦前15世紀にユダの地を手に入れた人々に対するエホバの命令に示されています。「あなたがたは……その地を分けて嗣業としなければならない。大きい部族には多くの嗣業を与え,小さい部族には少しの嗣業を与えなければならない」― 民数 33:54; 26:53-56,口。
山岳地帯や気候の厳しい所など,他に比べて多くの人口を扶養できない場所のあることは明らかです。しかしそれでも,人口全体について公平に『地を満たす』ことがなされていないことの主要な理由として,人間の築き上げた国家的な障壁があることは確かです。『天の神の立てる』政府が「他の民にわたされず」,むしろ,利己心によって分裂し合った世界の諸政府すべてを「打ち破って滅ぼす」のはそのためです。み子イエス・キリストに『支配権と光栄と王国』を与える神の意図は,「諸民,諸族,諸国語の者を」一致させて「彼に仕えさせ(る)」ことです。その意図が果たされる時,分裂のもとになる国家的な障壁はすべてなくなっています。キリストによる神の王国が,貪欲で飽くことを知らない地の汚染者たちの手で「滅びること」はありません。―ダニエル 2:44; 7:13,14。
地球がその人口を扶養できないとしてとがめられることはもはやなくなります。人間が自然の法則と循環にしたがって物事を行なうなら,地球は今日擁しているよりはるかに多くの人口を養うことができます。今日,食物生産のために耕作されているのは地球の陸地面積の十分の一強です。このほかに五分の一は牧場もしくは牧草地となっています。大英百科事典によると,「残り」つまり地表陸地面の三分の二強は「森林であるか,あるいは生産的な目的に使用されていない土地」です。
こうした土地の多くを産出的な所に変える可能性について考えてください。人類はイエス・キリストの指導のもとにこうした目的のために働きます。イエス・キリストは,地球の創造のさいに,「熟達した働き手」として神に用いられました。「熟達した働き手」として彼は「地[球]の肥えた土地」をとりわけ喜び,また人類を『好み』ました。(箴 8:22-31,新。コロサイ 1:16,17と比較)妥当な範囲で地を『満たす』べくイエスが愛をもって物事を制御する時,人類はイエスのその優しさを存分に感じるはずです。
今日でさえ,子どもを持とうとするクリスチャンも,「必要な物を備え」うる範囲という聖書的なわくの中に置かれています。(テモテ第一 5:8)同じように,その将来の時にも,地上の人口の増加は社会と田園生活の双方もしくはそのいずれかが環境に破滅をもたらさず,また子孫に飢えをきたさない範囲の中でなされるでしょう。
そのとき人は,住む人々のために必要な物を産出する大地の能力を余すところなく見るでしょう。現代のかんがいや耕作法によってところどころの荒れ地にどれほどのことがなされているかを思い起こしてください。そして,地球が創造者の祝福によって栄え輝く時にどれほどの産出力が付与されるかを考えてください。それを例示するものとしてイザヤのことばはこう述べています。『荒れ野とうるほひなき地とはたのしみ さばくはよろこびてさふらんの花のごとくに咲きかがやかん……そは荒れ野に水わきいでさばくに川ながるべければなり』― イザヤ 35:1-6。
その時には,ソロモン王の平和な治世と同じように,『地上では穀物が豊かになり,山々の頂にも満ちあふれる』ようになります。(詩 72:16,新。イザヤ 65:17,20-24; 25:6と比較)これこそただ一つの解決の道です。
今日地上には,まもなく実現するこの解決法に添って生活することを学んでいるクリスチャンが世界のあらゆる国に約200万人います。米国コロンビア大学で応用生物学を講ずるデイビッド・W・エレンフェルド教授は近著「地上生命の維持」の中でこう述べています。「今日のユダヤ教およびキリスト教系の諸宗教グループの中で,[生物界が損うことの許されない統一体であるという信念]をまとめ上げ,哲学と生活環境とを調和させたのはエホバの証人のほかにはまずないように思われる」。(「目ざめよ!」1971年10月8日号参照)エホバの証人は自分でそれを考え出したのではありません。それは聖書の中に見いだされるのです。証人たちは,あなたもそれを学ぶように喜んで助けます。―イザヤ 2:2-4。
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清いことば目ざめよ! 1974 | 9月8日
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清いことば
◆ 聖書を読む人々の中には,性的な問題について聖書の述べる事がらを責める人がいます。聖書は,結婚関係内で性が清くかつ方正な位置を占めていることに関する記述を含んでいます。また,不行跡に関する記述も幾つかありますが,それは創造者の目から見て何が正しくないかを聖書の読者に知らせるのに長い間役だってきました。この種の情報に関する率直さは,聖書をして不道徳でわいせつな書物とするでしょうか。
現代の“性の革命”について書いたさい,デイビッド・R・メース教授は次の点を指摘しました。「この問題を扱うさい,聖書の記述者たちは,今日の多くのキリスト教徒と異なり,押し黙ってはいなかった。開化された我々の時代においてさえ,公に読んだり公に論じたりするには全く適さないと見なされるような性行為についてたくさんの物語が記録されている。しかし,それらの物語に,不快なところは全くない。それらは単刀直入で地に着いた記録である。……性は人間生活の一部として正しく扱われている。当惑して隠しだてしているようなところはない。他方,欲望を起こさせるような暗示的なところもない。性に対する姿勢は正直で健全なものである。ルーテル派の神学者オットー・パイパーが言うように,『聖書の中のどこにおいても性がわいせつのレベルにまで落ちているところはない』」。
確かに,聖書はあるところではきわめて率直ですが,決して暗示的であったりわいせつ的であったりはしません。詩篇作者が述べる通りです。『エホバの法はまたくして たましいをいきかえらしめ……エホバの誡命はきよくして眼をあきらかならしむ エホバをかしこみおそるる道はきよくして世々にたゆることなし』― 詩 19:7-9。
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