-
歌によって感謝を表わすものみの塔 1975 | 4月1日
-
-
彼女は最初,全く自分ひとりで土地の王国会館を訪れ,二つの集会中とどまっていました。会衆が119番の賛美の歌,「報いをみつめよ」を歌った時,彼女はその歌詞と歌い方に非常に深い感銘を受けたので,その場所こそ自分が望んでいた所であることを知りました。集会後,一人の証人に近づき,聖書研究をしたいと申し出たこの婦人はよく進歩して,エホバのクリスチャン証人になりました。
それで,献身したエホバのクリスチャン証人は各自,王国会館で賛美の歌をうたうさい,エホバのすばらしい特質を正しく評価していることと,エホバが物質面でも霊的な面でも世話してくださったすべての事に対する感謝の気持ちを反映させるような仕方で,それぞれの分を果たすことにしましょう。『われらのうちなるものすべてをもってエホバをほめ』ましょう。
-
-
純粋の愛を味わい知る招きものみの塔 1975 | 4月1日
-
-
純粋の愛を味わい知る招き
フィリピンのある青年は次のような経験をしました。その青年の母親はエホバの証人になりましたが,彼自身は聖書に対して特別の関心を持ってはいませんでした。青年は次のように語っています。「わたしが実際には関心を持っていなかったにもかかわらず,母はわたしを王国会館に連れて行くのでした。王国会館では,若い証人たちの振舞いを見ましたがその若い証人たちは,親切で親しみ深く,偽善的なところは少しもなく,皆真のクリスチャンとして生活しようと努力していました。わたしは彼らと交わり始め,そのおかげでわたしは大きな変化を遂げることができました。わたしは自分で組織した無頼漢のグループを解散させ,またたばこを吸うのをやめました。やがて,母はわたしに一緒に王国会館へ行くよう勧める必要がなくなりました。わたしが自発的に行くようになったからです」。
それ以来経験してきたことについて,青年はこう述べています。「わたしは人生がいっそう意義深いものであることを知りました。現在もまた将来も,生きるに値する事柄が実にたくさんあります。以前は,自分の生活がざ折で満ちたものであることに気づきました。しかし,それは全くの徒労でした」。
もし,まだ一度も王国会館においでになったことがなければ,これをあなたへの招待の言葉とお考えになってはいかがですか。エホバのクリスチャン証人の間に純粋の愛が明らかに見られるかどうかをご自分で確かめてみてください。
-
-
読者からの質問ものみの塔 1975 | 4月1日
-
-
読者からの質問
● イザヤ書 21章11,12節の次のような預言はどのように適用されますか。『ドマに係るおもにの預言 いはく人あり セイルより我をよびていふ 斥候よ夜はなにのときぞ 斥候よ夜はなにの時ぞ ものみ答へていふ 朝きたり夜またきたる 汝もしとはんとおもはば問へ なんぢら帰りきたるべし』。
この預言は明らかにエドムに対する不利な宣言です。「ドマ」という言葉は,ドマと呼ばれるいずれかの都市あるいは場所を指してはいないようです。それがパレスチナとバビロニア南部との大体中間にあるイシマエル人のドマ(イシマエルの息子の一人にちなんで付けられた[創世 25:14])か,孤立した山地に位置していたユダヤのドマを指していたとはまず考えられません。(ヨシュア 15:52)この言葉のすぐあとでセイルのことが言及されている点も,この預言がエドムの地に対して述べられたものであることを示しています。セイルには最初ホリ人が住んでいましたが,エサウの子孫がホリ人を追い出したので,その地を指すのにエドムとセイルの両方の名が使われるようになりました。―創世 14:6。申命 2:12。
イザヤとエレミヤはともに,エホバとその民の敵であるエドム(セイル)の徹底的な荒廃を預言しました。(イザヤ 34:5,9-15。エレミヤ 49:7-22)「ドマ」は「沈黙」という意味で,詩篇 94篇17節と同 115篇17節ではそのような意味で訳出されています。エドムに関して「ドマ」という言葉が使われていることは,エドムが死の,もしくは何も存在しない沈黙の世界でもあるかのように沈黙しようとしていることを暗示しています。
幻によって,もしくは象徴的な方法で示される場合のように,この預言はエドムにいるある人がエドムの運命を気づかっているところを示しています。「斥候よ夜はなにの時ぞ」という問いは,病もしくは患難に苦しむ長い夜が終わるのを切望している人の質問のようで,その人は城壁の上にいるものみにこう呼びかけているのです。『夜はどれほどたちましたか』。『夜はどれほど過ぎましたか』。『朝はいつやって来るのですか』。この預言はまず最初に,アッシリア世界強国のもとでエドムが被った裁きの夜に言及しているようです。「朝きたり夜またきたる」という,そのものみの答えは,アッシリア帝国が倒れはしたものの,それに続いてバビロニア帝国がエレミヤの予告どおりエドムに対する裁きを執行したときに起きた事態のように,朝のかすかな光がさしても,たちまち夜のとばりが再びおりるであろうということを意味しているように思われます。(エレミヤ 25:17,21; 27:2-8)その後,ペルシャ,ギリシャそしてローマが支配権を執り,エドムを服従させました。
ローマの時代には,エドム人であったヘロデ王家の治世中,「朝」の光ともいえるかなり明るい微光がさしましたが,それもまた消え去って,また夜が訪れました。そして,ヘロデ王家の消滅は,エドム人の終わりをしるし付けるものと一般に考えられています。その住民は諸国民の歴史から姿を消し,エドムは「ドマ」,つまり沈黙の場所となりました。
なかには,『汝もし とはんとおもはば問へ なんぢら帰りきたるべし』と述べた,ものみのことばは,エドムの夜がいつ終わるのかは預言者イザヤには全然わかりませんでしたが,エドムの運命を正確に示す事柄がもっと啓示されたなら,質問をする人はあとで尋ねてもよいという意味であると考える注釈者もいます。他方,それはエドム人が神から何らかの好意的な答えを得るにはエホバとその民に対する邪悪な行為や反対をやめて身を転じ,悔い改めて帰って来なければならないということを意味していると見る人もいます。後日悔い改めた残りの者たちをエホバがバビロンで流刑の身であった状態からエルサレムへ復帰させる前に,イスラエルが行なうよう要求されたのと全く同様,エドム人もその邪悪な歩みをやめて帰り,神のおきてに従わねばなりませんでした。(イザヤ 55:7)そうしないのであれば,エドムの夜はいつ終わるとも知れず,結局のところ死のような静寂の訪れることが予想されていました。
-
-
聖書を一緒に読めば,幸福な結婚生活に寄与しますものみの塔 1975 | 4月1日
-
-
聖書を一緒に読めば,幸福な結婚生活に寄与します
わかりやすい現代日本語で訳された「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」は,一緒に読むのに適した優れた聖書です。それは良質の紙を用いて印刷されており,有益な欄外見出しや語句索引が付されています。
緑色の表紙に金文字で題名を付した,542ページのこの立派な聖書はわずか300円のご寄付でお求めになれます。108 東京都港区三田5丁目5番8号 ものみの塔聖書冊子協会(振替 東京 138022番)にお申し込みください。
-