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日曜学校はどうなっていますか?目ざめよ! 1970 | 12月22日
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日曜学校はどうなっていますか?
世界じゅうにある,多くの教会制度の設ける日曜学校に出席している人は大ぜいいます。
報告によると,アメリカだけでも,3歳から12歳までの少年少女約2,000万人が,223のプロテスタント諸派の日曜学校に出席しています。また,成人のための,年齢別日曜学校のクラスもあります。
日曜学校が益をもたらす可能性は高いと言わねばなりません。なぜなら,出席者が非常に多いと報じられているからです。それほど大ぜいの人が,老若を問わず,聖書の正しい原則を適切に教えられ,健全な家庭生活にその原則が生かされるなら,どんな国といえども,道義が高まることは当然なはずです。しかし,日曜学校はそうした良い実を結んでいますか。
諸問題
日曜学校が多くの問題をかかえていることは,僧職者も一般父兄もともに認めています。そしてまず第一に,日曜学校の成果がかんばしくない,という点を指摘しています。
成果,あるいは最終的な結果がかんばしくないという理由は,一つには,親が子どもを日曜学校に通わせる動機にあることがわかります。多くの親は,子どもに宗教教育を施す責任を,自分にかわって果たしてくれる,簡単でしかも一般に利用されている便利な手段として,日曜学校のことを考えています。
そうした動機より,社会的に認められたいという欲求のほうが強い親さえいる,と指摘する人もいます。レッドブック誌はこう述べています。「特に郊外地区に住む親は,一般社会の人々とうまくやってゆくために教会に加わり,子どもを日曜学校にやる傾向がある。そうした親は,何が,なぜ,また,だれによって教えられているかには全く関心がなく,まして,自分が加わる気など少しもない」。
青少年の霊的な福祉に対する関心がそれほど薄いものであるなら,最終的にどういう結果になるかは想像にかたくありません。日曜学校に籍を置く,幾百万に上る若者の間に見られる風紀は,日曜学校に一歩も足を踏み入れたことのない,同じ数に匹敵する,近隣の子どもたちの風紀と,たいして変わるところがないという事実が明らかにされています。
かんばしい成果が見られない,おもな原因として指摘されたのは,教会の施す訓練に子どもとともに参加して,クリスチャンの家庭にふさわしいふんい気を作り,子どもを援助してやるだけの気持ちが親に欠けているという事実です。したがって,親が教会の施す訓練に全く無関心である以上,自分たちが関心を示す必要があろうか,と若者たちはおそかれ早かれ考えるようになります。
だれが教えるのか
そうしたかんばしくない結果を生み出す問題の一つに,日曜学校で教える人の資格があげられます。アメリカ全国日曜学校協会のD・リーダーはこう語りました。「日曜学校に関し,いまだに解決されていない最大唯一の課題は,指導者と教師の訓練という問題である」。
五つの宗派を対象にして,アメリカの全国教会会議が行なった調査の結果,次の結論が得られました。すなわち,教会学校の“最大の弱点”は,自分の教会の教えに関する知識はもとより,それを十分学んで教えようとする意欲が,教師に欠けていることです。
したがって,指導要領が近代化され,指導要領の大要をしるした新しい教科書,それに,視覚教具まで備えられながら,日曜学校の組織は依然,流砂の土台の上に立っているという状態です。それは,教師に知識がなければ,強化できません。それに,たいていの教会は,日曜学校専門の教師を雇うことができないため,自発的にその役を買ってでる人,多くの場合,ほかのことですでに忙しい思いをしている父兄にたよらねばなりません。
そうした父兄は,宗教教育の厳格な階層の出ですから,知識があり,良い宗教教育を施す決意をいだいているものと期待されています。また,宗教教育のための研究を定期的に行ない,家庭では良い模範を示していると考えられています。
しかしながら,教養のある,親密かつ敬けんな家族から,十分な教師の志願者があるはずだという考えは現実に反しています。事実,家庭における信仰生活の衰退が根本的な弱点となり,日曜学校の企画全体をぐらつかせているのです。日曜学校の教師を志願したある人が嘆いたとおり,「多くの若者は,いわゆる信心深い家庭の出ですが,家では,神や愛あるいは信仰などについて聞かされることは,めったにありません」。自分の子どもを正しく教える知識にさえ乏しく,まして人を教えることなどできない父兄の中から教師が雇われているのです。
これはプロテスタント諸教会だけの悩みではありません。ある調査によると,カトリックやユダヤ教徒の親も同様,「宗教教育が家庭での親の仕事とはみなし」たがりません。その結果,アメリカのカーネギー法人と連邦教育事務局との共同調査が明らかにしたように,カトリックの学校における宗教教育は,大多数の生徒にとって「全くむなしいもの」となっています。
何を教えるか
日曜学校が今日直面している,もう一つの深刻な問題は,若者に何を教えるべきかということです。一部のおとなは次のように尋ねます。「何が教えられているのか。聖書,宗派の教義,キリスト教の道徳・社会および政治倫理,それとも何かほかのことか」。
親や教育者の中には,シカゴ大学のM・バース教授のように,聖書を教えることを,「日曜学校のための最善,かつ信頼できる唯一の手段」として擁護する人たちがいます。
しかし,日曜学校の教科を企画する人は,聖書を教えることに関して深刻な問題をかかえています。聖書を教えると,教会の教理がそこなわれることに気づいているからです。別の問題は,教師の多く,いや,ほとんどが,聖書の用い方を実際には知っていないということです。それどころか,自分たちの教会の,聖書に対する説明さえ知らないありさまです。ゆえに,日曜学校で教える人は,申しわけに聖書を用いる程度です。
これは,宗教指導者が神のことばから離れたことを物語っています。聖書は彼らにとって閉ざされた本なのです。聖書を用いることをちゅうちょし,その真理を他の人に実際には教えることができず,その律法・原則・預言を現代生活に適用しえないでいるために,大混乱が生じています。
聖書の研究生はこの事態を見て,次のように叫んだ預言者イザヤの辛らつな皮肉を思い出します。「かゝるが故に すべての黙示はなんぢらには封じたる書のことばのごとくなり 文字しれる人にわたして請これを読といはんに 答へて封じたるがゆえによむこと能はずといはん」― イザヤ 29:11。
教会の教理を教えることに関しても,事態は行きづまっていると言えます。教理を教えるのは,“偏狭”で“分離主義”であると多くの人が考えており,他方,教会合同運動も教会の相違を排除するよう呼びかけています。そうした教え方が時代おくれであることを論じて,アメリカ,ミズリー州のエデン神学校のG・H・スラッサー神学教授はこう述べました。「一般の家庭では,ミリおばさんはクリスチャン・サイエンスの信者,ビル兄さんは大学に行ってから,不可知論者になった,というようなことが普通である。お父さんは口にこそ出して言わないが,“成金主義”を追求する,アメリカの自由企業心を宗教がわりにしている」。
したがって,“現代”日曜学校の教科を組む人々は,すべての人を喜ばし,だれの感情をも傷つけまいとして妥協します。しかし,ある父親はこう不満をもらしました。「7歳になるわたしのむすこは,神がどこにでもいると教えられています。ひどく混乱した考えをいろいろと頭に入れているようです」。
問題を提起する方法は,解決にはならない
“現代”日曜学校で盛んに用いられている方法に,“実生活で起こった問題”を生徒に提起するというやり方があります。しかし,それも問題の解決にはなっていません。
アメリカ・ルーテル教会で使用されている,「それはクリスチャンにふさわしいことですか」と題する教科書は,次のような問題を掲げています。「ある16歳の少年は,善悪の観念と,“不良仲間といっしょに遊びたい”という欲望を両立させようとします。親の命令どおり,学校でのダンスの終了後,夜の12時までに帰宅するかわりに,夜中の1時過ぎまで外にいて,それから,遅れた口実を設けて家に帰る方法はないものかと思案します」。
生徒は冬,自分だったらどうするかについて,答えを考えるよう求められます。教科書には指示が与えられていません。その理由は,同ルーテル教会の教区教育委員会議長,W・K・ギルバートによると,次のとおりです。「宗教心のある人は,神の意志に最も近いと,みずから信ずる状況に答え応じるものであり,それは正しい,あるいはまちがっている,といった答えはない」。
神の意志が何かを,まずどのように生徒が学ぶかについては説明されていません。しかも,導きなしに,神の意志に関する自分の知識に基づいて,質問に答えるよう要求されているのです。それらの若者が,機械科の授業を受けているとして,次のような課題を出されたらどうなると思いますか。モーターの組み立て方を一度も説明したことがないのに,教師は,分解されたモーターを生徒に与えてこう言います。「では,これをもとどおりに組み立てて,なぜそのような方法で組み立てたかを説明しなさい」。
失敗
日曜学校担当者の多くは,その運営がすでに霊的に行き詰まっていると考えています。1967年7月,宗教教育をどうすべきか,という問題と取り組むために,カトリックおよびプロテスタントの教師と指導者が会議を催しました。現形態の教会学校を救うすべはない,というのがその結論でした。
ザ・クリスチャン・センチュリー誌によると,会議は,「キリスト教教育を宗派別に取りあげることは,もはや意味をなさないという点で同意を見たよう」です。その会議の席上,従来の日曜学校は,それを全く新しいものにするか,少なくとも合同学校で補うという提案がなされました。そうした学校は,該当する地域社会からの志願者が職員となってその運営に当たり,公立の学校制度を補うものにするというのです。
そうした事態は結局,教会が霊的な知識・教育・力の源として,みずからを信頼していないということを示すものです。教会は宗教教育の仕事を,地域社会に,つまり,日曜学校で教える意欲も能力もないことをすでに認めている人々にゆだねようとしているのです。
事態はそれほど悪化してはいない,と考えるかたもおられるでしょう。しかし,あなたや,あなたのお子さんが日曜学校に出席したことがあるなら,何を学んだだろうか,と自問するのは良いでしょう。では,問題のこの面をさらに深く調べることにしましょう。
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日曜学校では何が教えられていますか目ざめよ! 1970 | 12月22日
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日曜学校では何が教えられていますか
何百万人に上る日曜学校出席者の中に,あなたのお子さんもはいっていますか。成人のための日曜学校に,あなた自身出席しておられますか。何か月あるいは何年かかって,あなたの家族は何を学びましたか。
神とはどんなかたか,その目的や要求は何かについて学びましたか。人間はなぜ死ぬか,死者はどこにいるか,神はなぜ悪を許しておられるか,また,今日の恐ろしい状態をどのようにして地上から一掃されるか,などに関して教えられましたか。人間と地球の将来に対する神の定め,神を愛し,神に仕えることを願う人々に対する希望,また,神があなたに要求しておられる事柄について学びましたか。
教科課程
日曜学校の教科課程には,成人,子ども用を問わず,独自の宗派によって準備されたものや,諸宗派の教会のために,日曜学校の教科書を専門に出版しているところで用意されるものもあります。アメリカの日曜学校の多くは,国際日曜学校標準教科シリーズを使っており,1970年用国際教科年報には,まる1年の教科課程が載っています。
それにしても,あなたとお子さんは,そうした課程から神と神の目的についていったい何を学びましたか。その日曜学校「年報」を手にとって詳しく調べる人は,前に取り上げたように,多くの肝要な問題が十分に考慮されていないのを知って驚かれるかもしれません。しかし,聖書の正確な知識を与えることを目的とする課程なら,神と神の目的に関する教理を含むのが当然です。それらは,生死をも含め,あなたの永遠の将来にかかわる事柄なのです。
肝要な教理を説明する資料が豊富に収められていないなら,聖書中の66冊の本,欽定訳によると1,189章あるいは3万1,173節全部の代わりに,ほんの一部で十分なはずです。それとも,神より現代批評家のほうが,人間の必要について,よく知っているとでも言うのでしょうか。神のことば聖書の大半が無用なら,神は霊感を与えてそれを書かせたでしょうか。真実はこうです。「聖書はみな神の感動によるものにして教へといましめと矯正と義とを薫陶するとに益あり。これ神の人の全くなりて,諸般の善き業に備を全うせんためなり」― テモテ後 3:16,17。
前述の「年報」に触れられている教理は,微妙におそるおそる,しかも一部だけが扱われています。編集者が,どの宗派の感情も傷つけまいとして,細心の注意を払ったことは明らかですが,そうすることにより,聖書の力強い音信の内容を不明りょうにし,聖書の著者であられるエホバ神にさからっています。―イザヤ 29:13,14。
三位一体の教え
広く使用されているその「年報」の中には,神,イエス・キリスト,それに聖霊の関係にかかわる,教会の中心的な教えの一つが載っています。
神のことば聖書には,イエス・キリストは神の子であると,簡単明りょうに述べられています。イエスはご自分が神であると主張したことは一度もなく,神はイエスの父であると,いつも示されました。そして,聖霊は神の活動力である,と聖書は教えています。
イエスがヨルダン川でバプテスマを受けたとき,神は天からこう言われました。「これは我が愛しむ子,わが悦ぶ者なり」。(マタイ 3:17)イエスは,「我が〔意志〕を求めずして,我をつかはし給ひし者の〔意志〕を求める」と言われ(ヨハネ 5:30〔新〕),また,『父は我よりも大なり』とも語られました。(ヨハネ 14:28)使徒パウロは,「キリストの頭は神なり」と述べ(コリント前 11:3),使徒ペテロはイエスに,「なんぢはキリスト,活ける神の子なり」と語りました。(マタイ 16:16)使徒行伝 2章1-4節は,人々が「聖霊にて満され」た,と述べ,神の霊が位格ではなく,一種の力であることを示しています。三位一体論者が唱えるように,それが位格なら,どうして『注ぐ』ことや,他の者がそれによって「満され」ることがありうるでしょうか。あなたが『注がれたり』,他の人で「満された」りすることは不可能です。
しかし,マタイ伝 16章16節のペテロのことばに関して,「年報」はこう述べています。「今日,われわれがこのことばを用いる際,後日発展したもので,父・子・聖霊に関する,よく知られている三位一体の信条を,そこに読み取る傾向がある」。ところが,「年報」は次のように認めています。「実際,これは神学の立場から正しいとされよう。しかし,当時のクリスチャンの間で,『子』という称号は,三位一体の第二の位格ではなく,ユダヤ人のメシヤをさして用いられた」。
これは,イエスの教えた人々が,三位一体の教えとなんの関係もなかったことを明らかにするものです。その教えは,クリスチャンの信仰から逸脱した人々の力を得て,「後日発展したもの」です。「年報」は,それにもかかわらず,イエスは神ではなく,また,聖霊は力であって位格ではない,と教える聖書をあえて無視し,三位一体という偽りの教理を受け入れています。
悪魔サタン
聖書はまた,神に反逆した強力な霊者から悪が生じたことを明らかにしています。その霊者はサタン,そして悪魔と呼ばれています。(黙示 12:9)イエスは,サタンの存在を信じており,サタンに誘惑された時,こう答えました。「サタンよ,去れ!『あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであ(る)』……と書かれている」― マタイ 4:10,新。
しかし,日曜学校「年報」にはこう書かれています。「新約時代,サタンは,そのよこしまなわざを助成する悪霊の軍勢のかしらと考えられた」。ところが,イエスや1世紀のクリスチャンが個人的に信じ,かつ教えたこと,さらに神ご自身のことば聖書の述べることを信ずるかわりに,「年報」は次のように評しています。「イエスが,実体を備えたそのような者に誘惑されるということを考えるのは無理である。……霊的な経験を描写しようとする際,具体的な象徴を用いざるをえない場合は多々ある」。
つまり,サタンは単なる比喩的表現,実在しないものとされています。しかし,サタンが存在するかどうかを最もよく知っているのはだれですか。神はご存じではないでしょうか。イエスも知っておられたのではありませんか。聖書をけなそうとする今日の批評家よりも,神の霊感によることばのほうが,すぐれた説明を与えるのではありませんか。
滅びに定められた世の一部となる
1970年用国際日曜教科「年報」は,さらにこう述べています。「神は,教会や各信者のみならず,この世をもご自分に和解させておられる。……ひとりの神がおられ,全世界は神のものである,とわれわれは信ずる。……イエスは,世が本質的に良いものであるという確信から決して動くことなく,また,人が世から離れるようにと教えられたことは一度もない」。
しかし,この邪悪な世を改宗することではなく,滅ぼすことが神の目的であるならどうですか。そうであれば,日曜学校に出席している人々は,真理を教えられていないことになります。神ご自身によって滅びに定められた世の一部になることを,彼らは求められているのです。
神の意志を行なわない,現在の人類の世を支配しているのはだれですか。エホバ神ですか。いいえ,支配しているのは悪魔サタンです。使徒ヨハネの次の明白なことばを思い起こしてください。「全世界は悪しき者に属する」。(ヨハネ第一 5:19)イエスは,悪魔を「この世の支配者」と呼びました。―ヨハネ 14:30,新。
聖書は,神の王国,すなわち神の天の政府が,「この諸の国を打破りてこれを滅せん これは立ちて永遠にいたらん」と明確に述べています。(ダニエル 2:44)この世の国々が神のものであるなら,神がそれを滅ぼし,イエスがクリスチャンに祈るように教えた,神の天の王国にとって代わらせる必要がどこにありますか。―マタイ 6:9,10。
イエスは,ご自分と追随者たちに関して,「我の世のものならぬごとく,彼らも世のものならず」と言われました。(ヨハネ 17:16)したがって,イエスはこの邪悪な世を愛さず,世の事柄に巻き込まれないようにして,追随者たちのために模範を示されました。ある時など,かなりの人々が,イエスを政治支配者にしようと願いましたが,「イエス彼らが来りて己をとらへ,王となさんとするを知り,復ひとりにて山にのがれ」ました。―ヨハネ 6:15。
ゆえに滅びに定められたこの世の事柄に人々を介入させようとする,教会の試みや日曜学校の課程は,神の目から見れば,実際には背教にすぎません。
神がまもなく滅ぼされる世の一部となるようお子さんが教えられることを,あなたは望みますか。それとも,この地上に新秩序,楽園を設けるという神の目的について,家族が学ぶのを望まれますか。そこでは聖書の述べるとおり,神を恐れる人々が平和と幸福のうちに永遠に住み,病気,悲しみ,死さえ過去のものとなります。「神みずから人とともに在して,かれらの目の涙をことごとくぬぐひ去り給はん。今よりのち死もなく,悲しみも,苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり」― 黙示 21:3,4。
真理を見いだすことは可能か
この記事は,神のことばと真っ向から対立する,日曜学校の多くの教えの中から,三つの点を取りあげたにすぎません。聖書の他の重要な教えも混乱をきたしており,この記事の前の部分で扱ったような質問を日曜学校に行っている人々にしても,答えが得られず,彼らが聖書を使って自分たちの答えを裏づけることができなかったのはそのためです。
しかし,多くの人はこう言います。「教理を気にしたってしかたがないではないか。混乱するだけだ。教会の混乱をふるいにかけたところで,真理を見つけだせるはずがない」。
ですが,それと同じ態度を,知力や,崇拝の欲求を人間に付与された創造者が取られるでしょうか。そんなことは絶対にありません。創造者はこう語っておられます。「『さあ,あなたがた民よ,来なさい。そして,わたしたちの間で物事を正そうではないか』と,エホバは言われる」。(イザヤ 1:18,新)『事態を正す』ことが不可能なら,「汝はわが神なり われに聖旨をおこなふことををしへたまへ」と,なぜ詩篇作者は言うでしょうか。―詩 143:10。
それに,人が真理をはあくできないなら,『汝等は真理を知らん,しかして真理は汝らに自由を得さすべし』と,なぜイエスは語ったのでしょうか。(ヨハネ 8:32)イエスは真理を知っておられたし,その追随者も同様でした。神の是認を受けるかどうかは,神に関する真理の知識を取りいれるかどうかにかかっています。
神の名をもって教える人が,神のことばと矛盾する事柄を教えながら,神に喜ばれると思いますか。そうした事柄を,あなた自身学びたい,また,子どもにも学ばせたい,と願っておられますか。そうでないなら,どうして真理を学べるでしょうか。
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とこしえの命に導く真理を学ぶ目ざめよ! 1970 | 12月22日
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とこしえの命に導く真理を学ぶ
あなたは,日曜学校で,地上を楽園にするという,神のすばらしい御目的について学んだことがありますか。おそらく,そのような経験を持っておられないでしょう。なぜなら,日曜学校がそうした事柄を教えていないことの明白な証拠の一つとして,日曜学校の課程で聖書預言の研究に時間を当てることはほとんどないという事実があげられるからです。
しかし,聖書には将来に起こる事柄に関する預言が含まれています。そうした預言は神の民に対する導きとして書かれました。アモス書 3章7節ではこう述べられています。「それは主エホバはその隠れたる事をその僕なる預言者に伝えずしては何事をもなしたまはざるなり」。
教会制度の指導者が神の真のしもべであれば,将来起きる事柄や今日の恐ろしい状態を神がどのように解決されるかというようなことが日曜学校の教科書にもっと載せられていてもよいはずではありませんか。
あなたの通っておられる日曜学校の課程が,国際日曜学校教科シリーズに沿って組まれたものであるなら,前述の「年報」が聖書預言を研究し,また教えているエホバの証人のわざについてばく然と触れた箇所に目を通して,聖書の預言がどれほどあいまいに取り扱われているかに注目してください。こう書かれています。
「キリストの再臨は,新訳聖書の中で,一つの重要な主題をなしている。……わたしたちのうちで,『現存する万民は決して死することあらじ』というスローガンを見たことのない者がいるだろうか。それらの人々がこうした事を口にするのは,キリストがまもなく戻ってこられること,時代が終結すること,ま近かに最後の審判が下されることを信じているからである。……本書は,時代の終結の際,最終的な再臨があることを否定はしないが,神が人々の心中に送る聖霊により,イエスご自身は再び,その追随者の生命のうちに宿られる,という真理に重点を置いている。これもまた,一種の再来である」。―101ページ。
聖書は預言の本
日曜学校のこうした教えから,わたしたちが「終わりの日」に住んでいるかどうかをどうして知りえますか。(テモテ後 3:1,新)イエスご自身や,多くの聖書記述者たちは,現在の邪悪な体制の終わりを見る世代を,はっきりとしるしずける事柄について,相当詳しく述べています。そうした詳しい記述は聖書中の多くの章にわたっています。たとえば,聖書の次の箇所,マタイ伝 24章・マルコ伝 13章・ルカ伝 21章・テモテ後書 3章・黙示録 6章をごらんください。
聖書のそうした預言は,神の聖霊の霊感のもとに記録されました。「世のはじめから今に至るまでに起きたことがなく,また二度と起こらないような大かん難」の時が近づいていることを,クリスチャンが気づくよう,創造者はこの知らせをみことばの中に含められたのです。(マタイ 24:21,新)そうした時がわたしたちに近づいているとすれば,あなたは当然それについて知りたいと思われることでしょう。なぜですか。それは,地上に住むひとりびとりの生死を決する時となるからです。
ところが,現行の日曜学校では,このような聖書の知識は教えられていません。これはそうしたことを教えている人がだれもいないという意味ですか。そうではありません。今日,全世界にわたり,200以上の土地で,100万人を上回るエホバの証人たちが聖書の教育に携わりながら,現在の邪悪な事物の体制の終わりが,人類に確かに臨もうとしていることを,はっきりとしかも大胆に宣明しています。歴史上,最も広範な聖書教育のプログラムを通して,平和と幸福,およびとこしえの命のもたらされる神の新秩序が,神によってまもなく到来することに,正義を愛するすべての人々の注意を喚起しているのです。
エホバの証人は,数々の聖書預言の成就を学ぶことにより,やがて現実のものとなるそれらの事柄を理解しています。彼らは自分たちの時間を無料で提供し,世界じゅうの100万世帯を上回る人々とともに聖書を研究して,この知識を他の人々とわかち合っています。
このわざのために,エホバの証人が用いている聖書研究の手引きの一つは,「とこしえの命に導く真理」と題する192ページの本です。聖書研究のための,このすぐれた手引きは,次のような重要な質問に対する聖書の答えに注意を払う助けとなります。神とはだれですか。わたしたちはなぜ年老いて死ぬのですか。死んだ人はどこにいますか。神はなぜ今日まで悪を許してこられましたか。わたしたちが,現在の事物の体制の終わり近くに住んでいると,どうしてわかりますか。真の宗教をどのように見分けますか。今までに疑問に思われたに違いない,これらの事柄や他の数々の事柄に対する答えが,神のみことばから与えられています。
聖書の真理を学ぶ
あなたも,聖書の教えの内容を学ぶ機会を利用することができます。聖書から最大の益を得るにはどうしたらよいか実際に説明することを,エホバの証人は喜びとしています。1週間に約1時間,6か月にわたり,お宅に伺って,無料であなたを援助いたします。
あなたか,あなたのお子さんが日曜学校に行った経験を持っておられるなら,エホバの証人とともに聖書を学ぶことは,両者を比較するよい機会になるでしょう。日曜学校で教えられた事柄と,エホバの証人との家庭聖書研究で学ぶ事とを比較することができます。それから,神の御目的と御要求に関する真理をほんとうに教えているのは,どちらの方法かをご自分で判断することができます。
エホバの証人は,たぶん,あなたの住んでおられる地域に,御国会館,つまり崇拝のための集会所を持っているでしょう。そこでエホバの証人に会うことができますし,本誌の発行者あてにおたよりをくだされば,資格のある奉仕者がお宅に伺うよう取り計らえます。その奉仕者は,あなたがご自分の聖書から,神に関する正確な知識を得る方法を実際にご説明します。
神のみことばの正確な知識を得るかどうかは,あなたがお決めになることです。世界の問題が増大している今日,わたしたちは,詩篇 119篇142,144節(新)にあるような決定をなさるようお勧めします。そこで詩篇作者は神にこう述べています。「あなたの律法は真理です。…わたしが生きつづけられるように,わたしに理解させてください」。
イエスは,そうするのがぜひとも必要であることを認めておられました。このように言われたからです。「唯一のまことの神であられるあなたと,あなたのつかわされたイエス・キリストとの知識を取り入れること,これは永遠の命を意味します」― ヨハネ 17:3,新。
神と神の御子に関する真理を学び,それに一致して生活すれば,あなたは命を選ぶことになるでしょう。そうすることによって,現在の邪悪な事物の体制の終わった後でさえ,あなたと,あなたのお子さんは生きつづけられるのです。―申命 30:19。
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